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短編小説|湯上がりの牛乳こそが平和なり

 誕生日なのに、僕は追われている。
 逃げ込んだ先は「白の湯」という銭湯だった。
「見てないね」と番頭のマダム・イワサキは新聞を読みながら追っ手に嘘をつき、陰で尻を振り振り浴場へ逃れる僕に、親指を立ててウインクした。
 脱衣所には、年季の入った黄ばんだ和紙に「湯上がりの牛乳こそが平和なり」と筆書きされた額の書が飾ってある。
 果たして僕は、シロクマの被り物を被ったまま湯船に浸かったのである。

 そもそも、十一月の誕生日に頼まれごとを受けるべきではなかった。
 湯船の縁に頭を預けながら、僕は今日の愚行を思い返す。
 僕が住む町の白氷商店街にはマスコットキャラクターがいて、名を「シロクマ」と呼ぶ。ゆるキャラは「くまモン」や「せんとくん」など固有の名前があってしかるべきだが、「シロクマ」は「シロクマ」なのだ。
 商店街の会長のネーミングセンスはともあれ、白氷商店街がある白熊区からのストレートな連想で、シロクマは採用されたらしい。見た目もまったく素朴なホッキョクグマそのものであるシロクマは、不思議にも町内の子どもたちから異常なほどの人気を誇る。
「代役をお願いできませんか? 部長と連絡がつかないのです」
 眉をハの字にした白井さんに頼まれて「喜んで引き受けましょう」と僕が二つ返事で快諾したのは、十月下旬のことだった。
 いくら彼女の好感度を上げたいからといって、町おこしのイベントでシロクマの着ぐるみを着て商店街を練り歩く日取りを確認しなかったのは、あまりにも愚かだったと言わざるをえない。後になって僕は商店会の事務員から日付を聞かされたのだった。
 白井さんは商店街西口の水色亭で弁当屋を営んでいるから「部長」とは彼女の職場の上司ではない。もちろん、僕がアルバイトをしているたい焼き屋「花鳥風月」の店長を指しているわけでもない。それは「シロクマ文芸部」という怪しげな部活動の部長のことである。
 それは白熊区民の有志が集まって日夜活動している団体だ。部員は数百とも数千とも言われ、実態は湯気のように掴めない。その頂点に立つ部長の素顔を知るものはいない。いつでもシロクマの被り物をしているからである。
 なぜその彼をそのままマスコットキャラクターに据えたのかは、白氷商店街の会長のみぞ知るところだが、どうにも部長との闇の繋がりを感じる。
 そんなあやしい組織に、健全な区民たる僕としては関わりたくもないのだが、白井さんがシロクマ文芸部員であり、部長が行方知らずで困っているのであれば、手を差し伸べないわけにはいかなかった。
「ありがとうございます、これオマケです!」と焼鯖弁当に僕の愛する玉子焼きをひとつ追加してくれた白井さんの朗らかな笑みに、あの日の僕は舞い上がっていた。
 まさか当日にここまで後悔するとは思ってもみなかったからである。

 肩まで湯に浸かり、僕は満身創痍の身体を休める。
 午前十一時という半端な時間だからか、こぢんまりとした「白の湯」には僕と、誰かが忘れていったアヒルの玩具しかいない。
 なぜシロクマ文芸部の部長が行方をくらませたのか、僕には分かった。
 ただただ、しんどいからである。
 「シロクマ」は町の子どもたちから、あまりに愛されすぎている。「部長」に代わり、僕は着ぐるみを着て商店街を歩いたが、常に十人以上の少年少女に囲まれており、臨時のバイトであろう誘導係の方は、僕を守ろうという気概に乏しかった。
 両腕に抱きつく少女たちや、四方八方から飛び蹴りを食らわせてくる少年たち。隙あらば転ばせようと足をかけてくる悪ガキや、被り物を剥ぎ取ろうとしてくる小童ども。「やさしくさわろうねー」と小声で呟きながら、スマホの画面を見ながら隣りを歩く誘導係。
 まとわりつく子どもたちを振り払い、僕が商店街をダッシュしはじめるまでに、そう時間はかからなかった。
 水色亭がある西口商店街から白氷駅を抜け、東口商店街を走りに走る。
 白熊文芸堂の横を抜け、隣りにある花鳥風月が店先に提げている大きな赤提灯を軸に華麗なターンを決めて道を曲がった。路地にある室外機の陰で僕は子どもたちをやり過ごす。
 問題だったのは、シロクマの被り物が脱げないことだ。
 子どもたちに引っ張られまくって布がねじれたのだろう。内側のファスナーが布に噛んで外れなくなってしまったのである。
「今日、誕生日だぞ!」と思わず漏れた声に追っ手は敏感に反応した。再び僕は子どもの群れに追われるはめになった。
 東奔西走した僕が、最後に逃げ込んだ場所こそが「白の湯」だった。
 湯にぷかぷか浮かぶアヒルと目が合う。白い野獣の姿から戻れなくなった哀れな僕を慰めてくれているのかもしれない。
 今日が僕の誕生日だと白井さんが恐らく覚えていなかっただろうことも、今になって気になる。湯気の向こうが、少し滲んで見えた。覚えていたとしたら、あの優しい白井さんが、当日に頼み事をするわけがない。
 覚えていなくても無理はない。水色亭の焼鯖弁当を買いながら「今日、じつは誕生日なんですよねえ」とさりげなさを装って僕が白井さんにヘラヘラと話したのは去年の今日のことで、そのときも玉子焼きをひとつオマケこそしてくれたものの、彼女にとってまだ僕は大勢いる客のひとりに過ぎないのだ。まだ、ね。
 被り物の下で、ちょっと泣く。今日で僕、二十三歳なのに。
 湯気の奥からゆっくりと丸く白い影が現れたのは、そのときだった。
「いやあ、ご苦労さま!」
 浴場にもう一匹のシロクマが登場したのである。

 「部長」と肩を並べると、描かれた赤富士を背景に、シロクマの顔がふたつ湯船に浮かんでいるかたちとなった。
「君をシロクマ文芸部の副部長に任ぜよう。一緒に文芸活動を楽しもうではないか。ようこそ、たった一文が人生を変える世界へ」と部長はアヒルの玩具のプリティなおしりをつつく。初対面だというのに、馴れ馴れしい。
「願い下げです。もう二度とこんな目に遭いたくない」
「苦労と文学が男を磨く。いや、今の御時世、女もそうだ。また他の性別もそうであり、つまるところ人間を磨く。あるいは、シロクマまで磨く」
「ご自分が磨かれればよろしい。僕を巻き込んでくれるな」
「巻き込んだのは私ではない。白井くんだろう」
「あなたが逃げたからでしょう」
「私は逃げも隠れもしない。ちょっとばかり、白熊文芸堂にある秘密の部屋で読書をしながら、白氷の町の様子を眺めていただけだ」
 のらりくらりとわけのわからない話ばかりする。埒が明かない。「もういいです」と僕は湯船から出た。入ったばかりなのに、部長も風呂を出る。「まあ、待ちたまえ」
 無視をして脱衣所へ移る。身体を拭いてから、被り物を取ろうと洗面台に向かっていると、後頭部に衝撃が走った。どうやら部長が僕にチョップしたらしい。下も隠さず、何をしているんだこの人は。
 「これがコツさ」と部長は僕の被り物の内に手を入れ、魔法のようにファスナーを開いた。湯に濡れて重くなったシロクマの頭部が、板張りの床に転がった。空気が新鮮だ。
「なに、礼には及ばんよ」とトラブルの原因たる人物に何と言うべきか考えあぐねていた僕を制し、部長が肩を叩いてくる。
 彼は裸のまま、ふたつの意味でブラブラと脱衣所を歩く。そのようすを番台から見ていたマダム・イワサキが、なぜか僕に向かって親指を立てて、ウインクをした。
 部長は自動販売機で瓶の牛乳を二本買い、一本を僕に寄越した。
「白井くんからの贈り物だと思ってくれ」
 籐製の長椅子に腰掛け、部長も僕に親指を立てた。聞けば、白井さんは僕の誕生日を覚えてくれていたものの、町おこしのイベントの日付を一週間間違えており、今日になって誤りに気づいたらしい。
「鬼電とはあのことだ」と部長は白井さんからの猛烈な連絡を振り返る。今日という日の過ちを正すべく、彼女は執念で部長を捕まえたようだ。部長は彼女に大いに説教されて遣わされ、いまここにいるという。
 にわかに僕は、すべてを許せる心を獲得した。
 湯船にたゆたうアヒルのように、安らかな気持ちだ。
 牛乳瓶を受け取り、部長と一緒に蓋を開ける。
 腰に手を当て、牛乳をあおる。白い冷たさが喉から身体の奥へ染み渡る。町中を駆けて失われていた水分が、ほのかな甘味ととともに補われた。今、新しく生まれた気さえする。銭湯に牛乳を置くのは、世紀の大発明だ。
「ぷはーっ!」
 手の甲で口元を拭う。
 僕は脱衣所の壁に掛けられた額装を改めて眺めた。
「ようこそ、たった一文が人生を変える世界へ」と勝手なことを抜かした部長には腹が立ったし、シロクマ文芸部とやらに入るつもりはさらさらないけれど、そこに書かれていた一文は、なるほど文学的に僕の胸へ沁み入った。
「湯上がりの牛乳こそが平和なり」






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小牧幸助|小説・エッセイ 牛乳を買って金曜よるに一杯やります。