涙パレット|3/4
オニオンガレットの香ばしい匂いが、カフェ・パレットに漂います。
正午の夏の日が窓から差す店内には、海老名さんと吹野さんと私しかいません。定休日でした。かつて大きな夕焼けの絵画が掛けられていた壁面が目に入らないカフェの席に、私はつきます。海老名さんは私のとなりに座り、吹野さんはガレットの載ったマイセンの大皿をテーブルに置いて、向かいのソファ席に腰を下ろしました。
「いただきます」と三人は手を合わせます。
銀のナイフとフォークでガレットをいただくと、ほのかにオリーブオイルが香り、焼き色のついたタマネギのやさしい甘みを感じました。さすがの海老名さんも、ドロップスを舐めてはいません。
「いただいた絵画はリビングの暖炉の上の壁に飾っています」と吹野さんはピーコックグリーンのハンカチで整った口もとを拭きました。なるほど、あの城みたいな大きなおうちなら、たしかに暖炉のひとつもありそうだと私はひそかに納得します。
「気に入ってもらえたなら、なによりで」と海老名さんはガレットを大きく切り、ほっぺたいっぱいに頬張りました。これは照れていますね。
「そういえば、吹野さんがいる場で聞くのも変かもしれませんが、絵画はどうやって値をつけるものなのでしょうか?」と私はなんでもないふうを装って海老名さんに尋ねます。もし学生でも買える値段なら、この機会に私も絵を描いてもらおうと考えていました。吹野さんがいる場でなら、海老名さんに涙を渡すのも恥ずかしくない気がしたのです。
「いや、知らん」
「知らんわけないでしょう」
「いや、知らん」とガレットに満ちた口で繰り返す海老名さんを、私はにらみます。
「ドロップスの缶ひとつですよ」と吹野さんは口もとを白い手のひらで隠しながら笑います。海老名さんと同じ大人とは思えない品が吹野さんにはあります。
「どういうことでしょう?」と私はガレットを切り分ける手を止めました。
「お金は受け取られていないそうです。あらかじめ伺っていた通り、代わりにドロップスを買って差し上げました」
「冷房をかけていても暑いな」と海老名さんは、アロハシャツの襟もとを摘んで風を送りながらとぼけます。
このようすだと、おそらくこれまで依頼されたどなたからもお金を受け取っていないのでしょう。ホテル・レインミラーの雨宮さんにたびたび絵画を渡しても、どおりでその「代金」では借金が減らなかったわけです。
朝風町に住むみなさんが海老名さんの絵画を求めるわけが、いまさらながら分かった気がしました。お金をとらないからではなく、彼の人柄に惹かれているのでしょう。アルバイトの面接を受けに来たあの日に、心のままパンチをお見舞いしなくてよかったです。
「あの、じつはお願いが」
意を決して私が言いかけたとき、穏やかなカフェ・パレットに、電子音が鳴り響きました。私のスマホの着信音です。今日にかぎって、マナーモードにしておくことを忘れていました。急いで鞄から取り出します。
外で鳴いていたセミの声が遠のいて聞こえました。冷房の乾いた風に冷えた汗は、私の額を滑ってまつ毛の端にかかります。
真っ黒な画面には、「ミカ」と表示されていました。
◯
カフェ・パレットは、休業に追い込まれました。
私が休業に追い込んだというべきかもしれません。
きっかけとなったのは、海老名さんと吹野さんと私の三人でオニオンガレットを囲んだあの日の夕暮れどきのことです。
吹野さんにお礼を言ってパレットを後にし、私は家に帰って部屋着に着替えると、ベッドで横になりながらスマホを手にとりました。昼食中だから折り返して電話するとミカに伝えていたのです。ふだんはあまり使わない電話のアプリを開き、私は高校の親友の番号に繋ぎました。
大学へ入学するまでは毎日のように連絡を取り合っていたけれど、新生活が始まると少しずつ、その数が減りました。ミカと私は別々の大学に進学したのです。一人暮らしを始めたり、講義の時間割を組んだり、アルバイトに勤しんだりしているうちに、お互いに相手も忙しいだろうと遠慮して、連絡を控えるようになりました。
トークアプリの履歴を見ると、最後に会話したのは六月上旬でした。七月下旬となって大学が夏休みに入ったので、ミカは久々に連絡をくれたのでしょう。
「おつかれ! ノラとクルツと結希は元気かね?」というミカらしい元気な声に懐かしさを覚えます。猫たちと自分の名前を並べられても、嫌ではありません。高校に通っていたときも、いつも同じような調子でした。
数か月まえまで毎日会っていたので、懐かしいというと大げさでしょうか。初めてのことばかり起こる新しい日々を過ごしていたため、高校生活がはるか昔のようでした。
同時に、さびしさも感じます。高校生のときは、あいさつ代わりに「おつかれ」と言うクラスメイトはいなかったからです。高校を卒業して、アルバイトがより身近になったからでしょうか。大学では、そうあいさつする学生のほうが多いくらいです。
いつのまにか、ノラが私の頭に乗っていました。そのもふもふとしたグレーの尻尾に、クルツが食らわせる猫パンチを避けながら、私はミカと会話を重ねました。
ミカがショート動画アプリを日記代わりに使いはじめたこと。私が大学の禅サークルから熱い勧誘を受けたこと。ミカの初彼氏がいわゆる「世直し系」の動画を公開しており、他人の不正を面白おかしく告発しているのが嫌で、別れるつもりだという話。第二外国語として学んでいるスペイン語の講義で、私がもっともよく使う言葉は「ノロセ(分かりません)」であるという話。
他愛もない話がつづいたあと、アルバイトの話題になりました。
「でも、ほんとうに世話が焼けるのは子どもじゃないの。大人なんだ。子どもたちは発車まえに私がお約束する三つのことをちゃんと守ってくれるんだけどね、親は無視。柵から乗り出して写真撮るのは危ないからやめろって何回も言ってんのにさ。子どものほうが、よっぽど素直」
ミカは玩具の電車の大きなイベントのスタッフとして短期アルバイトをしていて、会場に敷かれた線路を小さな電車が走るアトラクションを担当しているそうです。
「でも、ミカ似合うね」
「はーい、みんなきいて。おやくそくがみっつあります! ひとつ、はしっているときはたちあがらないでね。ふたつ、まえにあるハンドルにしっかりつかまってね。みっつ、でんしゃからおりないでね。しゅっぱつ、しんこーう! ってなもんよ」
「いいもんだね」
「いいもんだよ、子どもはね。大人がなあ。あと時給も安い。結希はすごい時給がいいバイト見つけたって言ってなかった?」
「アンティークショップの店員。時給目当てだったけど、けっこう楽しくなってきて」
猫パンチに飽きたクルツはまんまるの前脚でベッドをふみふみしています。ノラが乗っている頭が暑くなってきました。
「クールな結希にお似合いじゃんか。あたしも凛とした女になりたいわ。卒業式で、あたしは鼻水どばどば垂らして泣いちゃったけど、結希はぜんぜん平気そうだったもんなあ」
クルツを撫でる私の手が止まります。
居心地が悪くなったのか、ふいにノラは頭から床へ跳びました。
ミカの言葉に他意がないことは分かります。私がつまらないことを気にしすぎていることも分かっているつもりです。けれど、心の大切な何かが欠けているわけではないと私は親友に、あるいは自分自身に示したくなったのかもしれません。
「それで私ね、じつは不思議な配達も任されていて」
クルツが鳴きました。ノラは遠くからじっと私を見ています。
店主が人から受けとった涙で絵を描いていること、仕上がった絵で多くの人が癒やされているということを、私はミカに話してしまいました。
その物語には、今日のミカのショート動画に日記としてアップロードされるだけの十分な魅力があったことでしょう。しかし同時にそれは、私がカフェ・パレットでアルバイトをはじめるときに海老名さんと「秘密」にすると決めたお話にほかなりませんでした。
クルツは鳴くのをやめて、ひとり私を残してベッドから去ります。ノラはもう私を見てくれません。
私は海老名さんとの大切な約束を破ったのです。
◯
詐欺師。ペテン師。犯罪者。
会ったことも見たこともないのに、もしくは会ったことも見たこともないからこそ、人は平気で他人にそうしたレッテルを貼るのだと、私は初めて知りました。
「カフェ・パレットの店主は人を騙して金を巻き上げている」
八月に入るとSNSでそのような根も葉もない噂が、さも事実であるかのように何百、何千と繰り返し発信されました。
ミカのせいではありません。彼女はただ私が話したことを日記代わりにショート動画へアップロードしただけです。たしかに七月末にミカと別れた元カレは、ミカの日記から着想を得たのか「告発」と題してネットに上げた動画のなかで、パレットの秘密に嘘を加えて拡散しました。けれど、ミカのせいでも、元彼のせいでもありません。
ミカはわざわざ私の家まで来て、卒業式の日のように大粒の涙を流しながら、繰り返し謝ってくれました。ノラとクルツは心配そうにミカの膝に寄り添っていました。しかし、ちがいます。ちがうのです。
すべては私のせいです。
私が海老名さんとの約束を破りさえしなければ、パレットへ日に何度も誹謗中傷の電話がかかってくることはありませんでした。あるいは、私が海老名さんとの約束を守っていさえすれば、古い洋館にも似たパレットの外壁に、スプレー塗料で暴言を書かれることもありませんでした。もちろん、こうしてパレットが休業に追い込まれることも。
「人は自分のことさえ知らないのに、他人のことを知った気になりたがるからな」
かつて海老名さんはそう言いました。
私は大バカ者です。
◯
ターコイズブルーの大きな扉に「休業中」とたいへん下手な字で書かれた張り紙が小さく貼られています。
カフェ・パレットから、働いているほかの方々が肩を落として帰られたあと、私は海老名さんにお話があると伝えました。「使用不可」の張り紙が黒電話に貼られています。電話線は抜かれていました。
二階へ上がる途中、壁に掛けられた無数の絵画に私は目を向けることができませんでした。その一枚、一枚が、パレットの歩んできた月日そのものに思えたのです。海老名さんは裸足で階段を一段ずつ上りました。アルバイトを始めて数か月しか経っていない私に、パレットから何を奪う権利があるというのでしょうか。
二階のカフェでテーブルを挟み、私たちはクイーンアンチェアに座ります。
「言っとくが」
海老名さんは、すべてを伝えて謝ろうとしていた私が口を開くまえに言いました。
「西条くんのせいじゃないよ」
お客さんがいないカフェの静けさに重みを感じます。私は唇を噛みました。どうして何も話していないのに、海老名さんは分かってしまうのでしょうか。
「分かるよ。ずっとそんな顔してりゃあ」と海老名さんは胸ポケットから缶を取りだし、手のひらにドロップスを出します。「あ、ハッカ味だ。頼む」
私は受けとった飴でほっぺを膨らませながら、言おうと決めていた言葉を口にします。
「クビにしてください」
「なぜ?」
「すべて私のせいだからです。すみません、コーヒーをいただきます 少し頭痛がして」
「無理です」と海老名さんは口を尖らせます。私の真似をしているつもりでしょうか。
「コーヒーが?」
「いや、クビが」と海老名さんはドロップスで左のほっぺを膨らませます。
「なぜですか?」
「西条くんは、それでいいのか?」と海老名さんにそう問われたのは、これで二度目です。
私は言葉が詰まります。良いも悪いもなく、私は選べる立場にありません。パレットでもっとも大きな夕焼けの絵が飾られていた壁面は、やはり寂しく見えました。
朝早く起きてこのカフェでひとりコーヒーを飲む時間が好きです。私が生まれるずっとまえから海の遥か向こうで人の暮らしを支えていた家具たちが好きです。壁という壁に飾られている優しい夕焼けの絵画が好きです。人知れず悩みを抱えてこの店を尋ねてくるお客さんたちも、ドロップスを舐めながらそれを迎え入れる風変わりな店主も。
カフェ・パレットが私は大好きでした。
私は海老名さんに深く頭を下げます。
「短い間でしたが、今までほんとうにお世話になりました」
◯
古いエレベーターは四階を過ぎてRF階を目指します。
汗で額に張りついていた前髪を私は指で梳かしました。エレベーターが静かに停まります。扉が開くと八月中旬の西日が目に刺さりました。ルーフトップバルコニーには誰もいません。青いボタンダウンのソファも片づけられていました。
ホテル・レインミラーの屋上は宿泊者でなくとも入ることができますが、あまり知られていません。オーナーの雨宮さんに教えてもらって以来、私はお散歩するときに、たびたび立ち寄っていました。レインミラーは朝風町通りの「夕坂」を下りきった先に建っているため、折り返して帰るまえの休憩にちょうどよいのです。
レインミラーは八階建てです。そこまで高層というわけではありませんが、朝風町は建設する建物の高さの上限が定められているそうで、とても眺めがよいです。
広い空に茜雲が流れていました。遠くで電車の走る音がします。夏の生ぬるい風は、汗を乾かしてはくれません。
その気になれば、ぴょんと飛び越えられそうな柵から下を覗くと、斜陽に染まる朝風町通りにライトを灯して走る高級車がミニカーみたいに見えます。
でも、どうしても泣けませんでした。
カフェ・パレットが休業して、もう二週間ほど経ちます。
今ごろ、海老名さんはひとりでお店にいることでしょう。事が起きるまえに吹野さんの注文していたアンティークが、今日パレットに届く予定だったからです。一九三十年代のウォールナット材のフレームの楕円形の鏡と聞いていました。検品して、梱包し直し、領収書を切り、配送に出す。それは私の仕事だったはずでした。
いつの日か、海老名さんはアンティークの魅力を私に語ってくれました。「古物は自分を知ってる。新品で売り出されたときは、そうじゃなかっただろう。初めは、造り手や売り手から聞かされた家具としての自分のウリみたいなものを信じ込んでいる。だが、売り場から世に出て、働き、長い月日が経つと、ほんとうの自分を知るのさ。だからうちの家具たちは、どっしり構えている。えらい」
吹野さんは役者としてずっと何かを演じている気がしていたと仰っていました。雨宮さんはホテルを経営するのがご自身の夢ではなかったと話されていました。松野さんは人見知りなのにタクシー運転手として毎日接客をしていて心が疲れたと語っていました。海老名さんを訪ねてきた方々は、自分の涙が出ない理由をよく分かっていらっしゃいました。
では、私は?
夏の長い日が落ちてきました。藍色を帯びた空に月が薄く見えます。
「事故物件にしないでちょうだいね」
振り向くと銀色のショートヘアを夕風になびかせた雨宮さんが立っていました。もう暗くなってきているのに、サングラスを掛けています。
「いえ、まさか。あの、こんばんは」
「辞めたなら、うちに来なさいよ」
「そのことで、以前はご迷惑をおかけしました」
「まさか海老名くんがあの絵よりあなたを選ぶとはね。でも、何でも自分のせいにするのはよしなさい。ああ……なるほど。だから、あなたいま飛び降りようとしていたの?」
「明日も美容室を予約しています。あの絵のことで、そこまで思い詰めては」
「違うわ。海老名くんが休業した話よ。何が起きたか知らないけれど、そのようすだと、あなた自分を責めているでしょう?」
汗がこめかみから顎まで流れます。蒸し暑いのに、雨宮さんは汗ひとつかかず澄ました顔をしていました。天気予報によれば、今宵は十年に一度の熱帯夜になるそうです。
「若い子は自分の手の長さを見誤るものなのかしら。覚えておきなさい。世の中には自らの手で動かせるものと、動かせないものがある。今と未来は前者、過去が後者よ。動かせないものについて、くよくよ考えるのは無駄」
雨宮さんは優しい方だと思いました。私を慰めてくれているのでしょう。
「人の顔を見て笑うのは失礼」と雨宮さんは厳しい口調で、きれいに揃った前髪をかき上げました。照れ隠しですね。
「そうだ、良いことを思いついた。まだあなたが海老名くんに、なにか悪いと思っているなら、ちょうどいいわ。彼の残り半分の借金も帳消しにしてあげる。代わりに、どちらかを選んで」と雨宮さんは、ようやくサングラスを外します。
「あの大きな夕焼けの絵を持って帰るか、あなたがうちで働くか」
「要らないんですか?」
「大きすぎて、邪魔だったわ」
いくら絵が大きくてもホテル・レインミラーなら飾る場所はいくらでもあるでしょう。海老名さんがあの絵画を大切にしていたことを雨宮さんは知っていました。つまり、あの絵を手土産に海老名さんのところへ謝りに行け、と彼女はそう言いたいのです。
先日の涙で洗われた雨宮さんの瞳は、月明かりに澄んで見えました。
「ありがとうございます」
その言葉につづけて、私は今度こそ迷わず前者を選びました。
いいなと思ったら応援しよう!
牛乳を買って金曜よるに一杯やります。