短編小説|夜空の屋根裏を歩いて
夜に降る雨は嫌なものだけれど、秋の高い夜空から得体の知れない粉が降ってくるよりは、ずいぶんとマシである。
私の右手の甲へ落ちてきたその粉は、妖しく桃色に光っており、ちょっと温かく、キンモクセイに似た甘い香りだった。
「白井さんが僕なんかと古本市に行ってくれるわけ、ありますか? 白井さんはお花ですよ。高嶺の花!」
今朝、後ろ手に手を組みながら、笠原くんがアスファルトに散ったキンモクセイの花びらを見て放った言葉が思い出される。
笠原くんは、たい焼き屋「花鳥風月」でアルバイトをしている学生で、白熊文芸堂で働く私から見れば、お隣さんだ。
私がしょうもない男に振られて凹んでいたとき、貧乏なのに自腹で店のたい焼きを奢ってくれた良いやつだが、ヘタレでもある。弁当屋「水色亭」の白井ちゃんが好きなら、誘っちゃえばいいのに、なかなか誘わない。
「行ってくれるわけあるよ。もし断られたら、その提灯背負って、商店街を自転車で爆走してやってもいい」と、そのとき私は花鳥風月のデカい赤提灯を指した。
「また適当なこと言って」
「小学生の頃、ジャングルジムの女王と呼ばれた私が嘘をつくとでも?」
「それ、いま関係あります?」
「その代わり、成功したら君がその提灯背負ってチャリで爆走しなよ」
私が自転車を漕ぐジェスチャーをすると「受けて立ちましょう」と右手の拳を向けてきたので、「今晩、誘えよ」と私も右の拳を合わせたのだった。
右手の甲に載った光る粉は、夜風に乗ってさらりと消えた。夜空を見上げても、何もない。何だったんだ。私は白熊文芸堂の店先に出してあったマガジンラックを店内へしまう。閉店の時間だった。
今宵、笠原くんは白井ちゃんを、しっかり誘えるだろうか。
閉店後、白熊文芸堂でひとり整本や返本の作業をしながら、海瀬プチの新刊「タイで龍を釣る」をパラパラとめくる。
白井ちゃんは弁当屋と作家を兼業しており、筆名は「海瀬プチ」だ。
隣りに世田谷区と目黒区という閑静でステキな場所があるのに、間にある白熊区ばかりを舞台にして小説を書く。その地元愛が可愛らしく、もし私と彼女が町のコミュニティであるシロクマ文芸部の先輩と後輩という立場でなかったとしても、私は彼女のファンになっていたことだろう。
一通り書店の締めの作業を終え、私はバックヤードのチープなテーブルで焼鯖弁当を広げた。白井ちゃんの水色亭の名物である。帰ってから食べるつもりだったが、空腹の限界だった。
ふわふわの玉子焼きを割り箸でつつきながら、片手で「タイで龍を釣る」を開く。作中では実在の地名や店名が使われて、白熊文芸堂も登場する。
店長に取材したのか、バックヤードの隅にピンク色の小さな扉があることまで描写されていた。現実とフィクションが地続きに繋がっているようで、玉子焼きのようにふわふわとした不思議な気持ちになる。
ピンクの扉は、ずっとそこにある。
私が白熊文芸堂の正社員になる前、いや、アルバイトを始める前から存在していた。しかし、店長に聞いても、最古参の書店員に聞いても、何に使う扉か知らないという。白熊文芸堂は昭和三年から白氷駅の前にあったというから、無理はないか。
焼鯖弁当を食べ終える頃には、私はピンクの扉を開いてみたい気持ちでいっぱいになっていた。栄養満点のお弁当で元気もりもりになっていたこともあるけれど、「タイで龍を釣る」の物語の中で、主人公がピンクの扉を暴いて、めくるめく冒険に興じていたからである。
「学生に冒険するよう焚き付けた手前、大人が冒険しないわけにはいかん」
呟きながら、私はほっぺたのご飯粒をつまみ、お淑やかにいただいた。
「カリギュラ効果」をご存知だろうか。
簡単に言えば、人からやっちゃダメと言われたことほど、やってみたくなる人の性を指す言葉である。以前、シロクマ文芸部の夏の課題図書で読んだ心理学の本に書いてあった。
私の腰ほどの高さしかないピンクの扉には、達筆で「入ルベカラズ」と書かれた和紙が貼られている。何度も時間の経過で剥がれた形跡があり、そのたびに止め直したのだろう黄ばんだテープの跡が無数に残っている。
これはもう入っちゃうしかない。カリギュラ効果、どんとこい。
真鍮製の丸ノブはひんやりしている。ひねると、意外にも鍵はかかっていない。屈んで中に入ると、埃とカビの匂いに包まれた。電灯はない。
暗がりを数歩進むと、壁に突き当たった。
「なんだ、ただの物置か?」と手を伸ばすと、冷たく硬質な手触りがある。嗅いでみると鉄の臭いがした。壁付きの梯子らしい。たしかに、上方からわずかに風を感じる。私は暗闇の中、梯子を登りはじめた。
バックヤードは一階にある。白熊文芸堂は二階建てだけれど、二階では済まない高さを登っている実感がある。梯子は延々と続いていた。
幼い頃、ジャングルジムの女王と呼ばれた私でなければ、とっくに音を上げていただろう。焼鯖弁当で得た活力で、私はぐんぐん梯子を登る。
その途中、降ってきたのは、光る桃色の粉だった。
頭上の板戸をこじ開けると、広大な空間が開けた。
月明かりに照らされた板張りの床がどこまでも広がっており、それでいて床板は半透明で、遥か下方に薄い雲を透かして白氷の町の明かりがぽつぽつと小さく見える。
夜空に屋根裏部屋があったなら、こういう風景かもしれない。
秋の高い空の上を、私は歩く。
子どもの頃、ジャングルジムのてっぺんで、世界を掌握した気持ちになっていたときのことを思い出す。
十一月初旬の夜風が気持ちいい。風に乗って、桃色の光る粉が床板を撫でる。見れば、床には星みたいに点々と花が咲いていた。桃色の粉は、その花の花粉らしい。私の好きな秋桜に見た目は似ているけれど、キンモクセイのような甘い香りがする。
「白井さんが僕なんかと古本市に行ってくれるわけ、ありますか? 白井さんはお花ですよ。高嶺の花!」
ふいに笠原くんの言葉が思い出された。嶺より天高く秋の空に咲いているあの花こそ、高嶺の花なのではなかろうか。
靴を脱ぎ、しばらく私は裸足で夜空の屋根裏部屋を散歩してみた。歩くたび、ひんやりとした床板が軋み、板と板の隙間から、砂時計の砂のように桃色の花粉が町へ降る。女王というより、天女になった気分だ。
高嶺の花が群生しているそばに、私は腰を下ろす。甘い香りに包まれる。眺めがいい。
今度からここに座って焼鯖弁当を食べようと呑気に考えながら、白氷商店街を見下ろしていると、高嶺の花の花粉とも違う光がまたたくのが見える。
それは一点の小さな紅い光で、商店街の通りを滑るように動いていた。光の筋が赤い糸のようにも見える。
「やるな、笠原くん」
私は右の拳を突き出す。
大きな赤提灯を背負い、チャリで商店街を爆走する彼へ向けて。
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