妄想少女だったわたしへ
妄想少女時代
おかっぱ頭の女の子は、
居間のこたつに座り、
頬杖をつきながらテレビをよく見ていた。
女の子は私。
頬杖をついたまま、
私はよく妄想をしていた。
妄想の世界は楽しい。
外ではおとなしいと言われていたけれど、頭の中ではいつもいろんなことを考えていた。
ある時私は、こんなことを思っていた。
「私は、テレビに出ているタモリさんの娘なんじゃないかな。」
子どもの私は、わりと本気で信じていた。
私の地域では「笑っていいとも!」が夕方に放送されていた。
学校が終わると走って帰り、
こたつに入りながらそれを見る時間が楽しみだった。
小学校六年生になると、私は毎日宿題の日記を書いていた。
学校から渡された、ごく普通の日記帳だった。
でも私にとって日記は宿題ではなかった。
ただの遊び。
思いついたことをそのまま書く。
漢字はめちゃくちゃ。字も汚い。
先生からはよく、
「テレビを見ながら書かないで、もっと真面目に日記を書こう」
とコメントされていた。
それでも私は好き勝手に書いた。
日記の端には漫画も描いた。
担任だった和彦先生を主人公にして、
「先生が女性だったら」
「先生がスナックのママだったら」
そんな妄想まで描いていた。
今思えば怒られてもおかしくない。
でも先生は怒らなかった。
「おーい!」
とツッコミを入れながら、ちゃんと付き合ってくれた。
ある日には、ビスケットを食べながら思いついた歌を日記に書いた。
「みんなで食べようこのビスケット!
私のおいしいビスケット、
チャッチャカチャー♪」
今思うとしょうもない。
でも先生は笑いながら言った。
「涼子ちゃんの日記、面白くてさ。お腹痛くなるくらい笑っちゃったよ」
教室では静かな子だった。
だから先生が、
「涼子ちゃんは面白い子だなあ」
と言ってくれた時、正直すごく嬉しかったのを覚えている。
私は、普通のことをそのまま受け取らない子だった。
例えば運動会の応援歌。
「もしも白組勝ったなら、お日様西から昇るだろう」
「もしも赤組勝ったなら、電信柱に花が咲く」
という歌詞を聞いて、私は本気で考えた。
本当にお日様が西から昇るんだろうか。
電信柱に花が咲くんだろうか。
引き分けだったらどうなるんだろう。
そんなことを日記に書いた。
和彦先生は、
「お日様が西から昇るのを見ている子、
そんな子は一人くらいいそうだな~」
と返してくれた。
たぶん、その一人は私だ。
六年生の頃の日記を読み返していると、こんな言葉も出てきた。
「普通っていうことはあまり好きじゃありません」
「みんなが一つのことを考えるのが普通なら、そう考えないような普通になりたい」
11歳の日記にはそう書かれていた。
今読み返すと、私は昔からずっと「普通」について考えていた。
小学校を卒業する時、和彦先生が私に書いてくれた言葉がある。
「地に足をつけて、中学でも頑張れよ」
私はその言葉を胸に、中学生になった。
中学では、運動神経はそれほど良くなかったのに、なぜかバスケ部へ入った。
小学生の頃から少女漫画が大好きな私は、
特に真柴ひろみさんの作品が好きで、コミックも全部読んでいた。
周りの友達は少しずつ変わっていく。
少女漫画を卒業し、大人っぽい小説や漫画を読むようになっていた。
それでも私は、相変わらず少女漫画を読んでいた。
「まだ読んでるの?」
友達にそう言われ傷つくこともあった。
それでも、好きなものは好きだった。
勉強もそれなりに頑張った。
最初の定期テストでは学年16番くらいだったと思う。
私はその成績表を母に見せた。
かなり褒めてもらえると思った。
だけど母は、あまり嬉しそうではなかった。
だから私はもっと頑張った。
次のテストでは学年3番になった。
今度こそ喜んでくれる。
そう思った。
だけど母が言ったのは、
「あと2番だね」
だった。
一瞬、意味が分からなかった。
ああ、1番じゃないと駄目なんだ。
私は初めて気づいた。
どれだけ頑張っても終わりはないのだと。
認めてもらいたくて頑張るほど、
ゴールは遠ざかっていく。
中学生の私は、そんな気持ちを抱えながら毎日を過ごしていた。
それでも救いはあった。
友達と話す時間だ。
友達のお母さんは夜働いていて、家にいないことが多かった。
私たちは一緒に空を眺めた。
そして真面目な顔で話した。
「あの森を抜けたらさ、トトロがおってさ会えるかな。」
もうトトロなんていないことは、なんとなく分かり始めていた。
それでも私たちは信じたかった。
現実が苦しかったから。
そんなふうに妄想しながら、中学時代を乗り切った。
高校は県内でも偏差値70の進学校へ行った。
本当に行きたかったのかと言われると、今でもよく分からない。
母の期待に応えたかった。
それが一番大きかったと思う。
高校へ入って、私は圧倒された。
周りの人たちは、まるで違う世界から来たように見えた。
勉強ができるのは当たり前。
私が努力してようやくできることを、当然のようにこなしている。
私は初めて大きな挫折を味わった。
課題は終わらない。
勉強しても思うような結果が出ない。
高校時代、私はいつも胃が痛かった。
太田胃散を飲みながら学校へ通っていた。
そんな毎日の中で、
ひとつだけ楽しみがあった。
数学の先生だった。
先生が黒板に数式を書く。
私はその時間が好きだった。
先生の指がきれい。
数式がきれい。
黒板にチョークが当たる音も好きだった。
ある時、数1のテストで
100点を取ったことがある。
数学の先生と廊下でばったり会った時、
「涼子さん、すごい。よく頑張ったね」
と褒めてくれた。
私は顔を真っ赤にして喜んだ。
母に認めてもらいたかった私にとって、
「頑張ったね」の一言は特別だった。
私は同級生の男子より、先生を好きになることが多かった。
数学の先生の他にも英語の先生、古典の先生。
恋というより、
憧れだったのかもしれない。
いや、妄想の続きをしていたのかもしれない。
妄想だけは、いつも私の味方だった。
誰かの期待に応えたくて
教師を目指す
大学は教員養成の学部へ進んだ。
小学校では和彦先生に救われた。
高校では数学の先生に励まされた。
勉強ができる子ではなく、生きづらさを抱えている子の力になりたい。
和彦先生が私にしてくれたように。
だけど現実は甘くなかった。
教育実習へ行くたびに、私は自分の向いてなさを感じる。
人を支えるということは、自分自身が元気でなければできない。
教師への憧れは少しずつ薄れていった。
大学卒業前の最後の教育実習。
私はその時にはもう、教師にはならないと決めていた。
やっと終わる。
やっと解放される。
だけど最後の日、子どもたちがお別れの歌を歌ってくれた。
泣くつもりなんてなかった。
だからハンカチも持っていかなかった。
それなのに涙が止まらなかった。
教師にはならないと決めていたのに。
どうしてあんなに泣いたのだろう。
今でもよく分からない。
ただ、一生懸命歌う子どもたちの姿が愛おしかった。
あの日の歌声だけは、ずっと心に残り続けた。
初めての恋愛
大学生の頃、私は初めて男性と付き合った。
「付き合ってほしい」と言われ、深く考えずに始まった恋だった。
けれど、好きでもない人との恋愛は正直、楽しくもなかった。
当たり前だけど少女漫画のようにはいかない。
途中苦しくなり、「別れてほしい」と切り出した。
すると彼は「別れたら死ぬ」と言った。
私は半ば強制的に関係を続けるしかなかった。
それは、当時の私には、苦痛で、恐怖だった。
傷ついた私は、友人が入っていた教会へ一緒に通うようになった。
信仰というより、シェルターのような場所だった。
そして、なんとかその人と別れることができた。
けれど、その出来事は私の人生にいつまでも暗い影を残した。
数年が経ち、大学3年生の時、新しい彼ができた。
最初の人とまったく違う人だった。
一緒にいるだけで安心できる。
穏やかな恋愛だった。
やがて私たちは、卒業したら結婚しようと約束する。
けれど卒業が近づくにつれ、避けていた問題が現実になる。
彼は教会へ通っていない。
通っていた教会には、「結婚するなら同じ信仰を持つ人と」という教えがあった。
教会は、傷ついた私を受け止め、救ってくれた場所だった。
だから離れることもできない。
でも彼を失うことも考えられなかった。
私は初めて、自分の人生を左右する選択を迫られた。
そして、最終的に、私は彼ではなく教会を選んだ。
彼は「教会には入れない」と静かに話した。
それは責められることではなく、ごく自然な答えだった。
私たちは別れた。
2年後。
社会人になった私は、ふと彼の声が聞きたくなり電話をかけた。
「涼子、俺は明日結婚式を挙げる」
言葉が出なかった。
私はまだ心のどこかで、彼との続きを信じていた。
でも彼は、もう新しい人生を歩いていた。
私は2年間、あの日のまま立ち止まっていたのだ。
あの時、違う道を選んでいたら。
今の私は幸せだっただろうか。
それでも、あれは私が選んだ人生だった。
選ばれなかったのではない。
私が手放したのだ。
選択の先には、代償がある。
教師になる
大学を卒業したのは2000年。
就職氷河期の真っただ中だった。
私は焦っていた。
英検2級、図書館司書、教員免許も取った。
それでも就職活動はうまくいかなかった。
正確には、一社だけ内定をもらっていた。
私はそこで働くつもりで、内定先でアルバイトまでしていた。
そのとき母が言った。
「あなた、大学まで出て、どうしてそんな小さな会社に就職するの?」
悪気のない一言だったのかもしれない。
それでも、その言葉は私を深く傷つけた。
やっと掴んだ内定だったのに。
私はまた、母の目を気にした。
教師になれば、母は喜ぶだろうか。
教師に向いてないことは大学時代に分かっていたのに。
就職氷河期。
母の期待。
そして教育実習で感じた、ほんのわずかな手応え。
その全部が重なって、私は結局、教師という道を選んだ。
非常勤講師として働くことになった私は、
担任の代わりに教室に入ることもあった。
けれど、教室に入ると子どもたちはなぜか騒ぎ始める。
静かにさせようとしても、うまくいかなかった。
子どもたちから見れば、私は先生というより、少し頼りない大人だったのかもしれない。
教室がまとまらず、
授業が崩れていくこともあった。
それでも、忘れられない場面がある。
給食の時間。
当時の学校には、給食を食べ終わるまで昼休みに出られないというルールがあった。
ある昼休み、教室にはいつも食べるのが遅い子どもと私だけが残っていた。
私は先生なのに、ご飯を食べるのが遅い。
私は言った。
「食べられないものは、食べられないよね」
その子は、少し安心した顔をした。
それから私たちは、どうすれば少しでも楽になるかを話し合った。
結局、「担任の先生には内緒ね」
そう言って、私は残った給食をそっと容器に戻した。
正しい対応ではなかったし、
その場しのぎでもあった。
でもそれが、
私に出来る精一杯の応援だった。
非常勤だった私は、やがて学校を離れることになる。
最後の日。
代表の子が泣きながら言ってくれた。
「涼子先生の算数の時間が一番楽しかったです」
授業がうまくいっていたとは、とても言えない。
騒がしくて、まとまらなくて、思うように進まない日ばかりだった。
それでも、その言葉は嬉しかった。
最後に子どもたちは「世界に一つだけの花」を歌ってくれた。
先生らしい先生にはなれなかった。
統率力もなかったし、理想の教師像からも遠かった。
それでも、あの子たちは私を先生と呼んだ。
先生らしくない、私なりの先生だった。
違和感のあった結婚
学校を離れたあとも、私は自分の居場所を見つけられずにいた。
派遣社員や臨時職員として働きながら、どこへ行っても「ここだ」と思える場所はなかった。
そんな私にとって、教会だけは特別だった。
初めての恋愛で傷ついた私を受け入れてくれた場所。
仲間がいて、初めて居場所があると思えた。
気がつけば二十代後半になっていた。
周囲の友人たちは結婚し、本当に好きだった人も別の人と結婚した。
私は焦っていく。
教会には、同じ信仰を持つ人と結婚するという考え方がある。
私もいつしか、それを盲目的に信じるようになっていた。
そんな頃、教会で、後に夫となる人と出会った。
最初から価値観の違いは感じていた。
付き合ってからも何度も別れては戻り、戻っては別れた。
それでも私は離れなかった。
彼を深く愛していたからというより、結婚したかったのだと思う。
子どもも欲しかった。
同じ信仰を持っているのだから、きっと上手くいく。
そう思い込もうとしていた。
そして私は結婚した。
けれど違和感は、結婚初日から姿を現した。
仕事を終えて帰宅した夫は、
「家に帰ったら電気がついていて、ご飯が用意されているのがしんどい」
と言った。
私は意味が分からなかった。
ご飯があることが、しんどい?
なぜ彼は結婚したんだろう。
結婚一日目の夜、私は友人に電話をかけた。
「もう無理かもしれない」
と口にしたことを今でも覚えている。
それでも数年は頑張った。
けれど違和感は消えなかった。
むしろ少しずつ大きくなっていく。
そして私は離婚を決意した。
このままでは、自分が自分でいられなくなる気がしたからだ。
ところが、その月、生理が来なかった。
検査薬は陽性だった。
離婚しようと思った矢先、私は母になることになった。
嬉しさよりも不安の方が大きかった。
どうしよう。
これからどうなるのだろう。
そんなことばかり考えていた。
けれど一つだけはっきりしていた。
私は、この子を産みたい。
もし離婚することになっても、一人で育てればいい。
本当にできるかなんて、分からなかった。
それでも、その時の私はそう信じていた。
母になる
妊娠初期、病院で初めて心音を聞いた。
ポコポコポコポコ。
小さな命が確かにそこにいた。
私はその音を聞きながら、この子を大切にしたいと思った。
陣痛は27時間続いた。
そしてようやく息子が生まれた。
小さな指。まあるい顔。ホカホカの温もり。
なんて可愛いんだろうと思った。
同時に将来への不安もあった。
それでも病院のベッドの横で眠る息子を見ながら、私は思った。
私が守らなければ。
退院後の生活は必死だった。
夜泣きで何度も起こされ、まとまった睡眠は取れない。
母親らしい自信なんてなかった。
ただ、その日その日を生きるのに精一杯だった。
夫婦関係は相変わらず上手くいかなかった。
むしろ少しずつ限界に近づいていた。
夫は仕事のストレスもあり、私に八つ当たりするようになった。
そしてある日夫は、
「誰か他の人と再婚して幸せになってくれ」と言った。
その瞬間、私は腹が立った。
誰かと幸せになってくれって何。
一緒に子どもを育てよう、じゃないの。
逃げるなよ。
あの日、
私はようやく目が覚めたのだと思う。
信仰が同じでも、価値観は違う。
そして、お互いを大切にしようとする気持ちがなければ、結婚生活は続かない。
私は初めて、教会を離れることを決めた。
目が覚めたのだ。
そして離婚も決めた。
もう十分だった。
どんな困難があっても、この人と一緒にいたいとは思えなかった。
離婚届を提出した日、窓口の人はただ
「お預かりします」
と言った。
婚姻届を出した日の「おめでとうございます」とは違った。
私は泣かなかった。
悲しくもなかった。
ほっとしていた。
やっと息子と二人で生きていける。
むしろ、清々しかった。
王子様を待っていた妄想少女は、自分の足で生きることを選んだ。
限界の先で
離婚した時、息子はまだ一歳だった。
私は息子を連れて実家へ戻った。
一人で育てていく覚悟はあった。
それでも心のどこかで期待していた。
しばらくは実家に置いてもらえるのではないか、と。
けれど現実は違った。
実家には兄がいた。
兄は私に言った。
「一度戸籍から抜けたお前は、もうこの家の人間じゃない」
「いつまで寝ているんだ、」
「皿を洗え」
離婚したばかりの私は、出産と育児の疲れがかなり残っていた。
夜もろくに眠れていない。
私は母に頼んだ。
兄に私の状況を説明してほしい。
優しくしてほしい、とまでは言わないけど
休ませてくれるように言ってほしいとお願いした。
けれど母は何も言わなかった。
「お兄ちゃんは男だから出産の大変さは分からないのよ」
その時、私は知った。
母にとって私は、一番ではないのだと。
ある日、近所の人に向かって母は言った。
「今、涼子はちょっと赤ちゃん連れて帰ってきてるだけだから」
私は黙って聞いていた。
私はよくベッドで泣いていた。
声を殺して。
ここにも居場所はない。
そう思った。
だから私は決めた。
息子を連れて家を出ようと。
小さなアパートでいい。
狭くてもいい。
私たち二人の居場所を作ろうと思った。
二人での生活
赤ちゃんを抱っこしたままアパートを探した。
結局選んだのは、築年数の古い2Kのアパートだった。
一階で駐車場が近く、公園もあった。
ここなら何とかやっていけるかもしれない。そう思った。
家具は少ない。
部屋も広くない。
それでも嬉しかった。
やっと私たちの居場所ができたと思った。
最初の頃は
よく息子を公園へ連れて行った。
電車が見える公園では、色当てゲームをした。
「次は何色かな」
黄色い電車。白い電車。
息子と一緒に電車を待つ時間が好きだった。
当時息子はアンパンマンの服がお気に入りだった。
日記にはこんな言葉も残っている。
「幼子はアンパンマンの服着たり元気100倍今日もいたずら」
俵万智さんに憧れて作った、短歌のようなものだ。
洗濯かごに入って遊ぶ息子を見て笑った。
あの頃の風景は今でもはっきり覚えている。
もちろん楽しいことばかりではなかった。
夜になると急に寂しくなった。
あんなに嫌だった元夫のことを思い出し、よりを戻したいとさえ思うこともあった。
それほど心細かったのだと思う。
息子が風邪をひけば病院へ連れて行った。
息子がいちごを食べた直後に真っ赤なものを吐いた時は、このまま死んでしまうのではないかと本気で怖くなった。
あとで、それがいちごだと分かった時は心底安心した。
一人で子どもを育てるということは、こういうことだった。
息子が1歳半になると、私は一日数時間のパートを始めた。
寂しい日もある。
笑う日もある。
不安もある。
けれど私は前だけを見ていた。
私たちの居場所を守ることに必死だった。
その頃の私は、まだ気づいていなかった。
心と体が少しずつ悲鳴を上げ始めていることに。
体の異変
ある夕方のことだった。
私はキッチンでカレーを作っていた。
じゃがいもか、人参か、包丁を動かしていた。
そのときだった。
突然、息ができなくなりそうになった。
このまま死ぬのではないかと思った。
それだけではない。
自分が自分でなくなってしまうような恐怖を感じた。
言葉にできない恐怖だった。
私はその場で、自分で自分の体を強く抱きしめた。
誰も私を抱きしめてくれる人はいない。
だから、自分で自分を抱きしめた。
「大丈夫」
「落ち着いて」
何度も、同じ言葉を繰り返した。
ただ、時間が過ぎるのを待っていた。
しばらくして、ようやく呼吸が戻ってきたとき、恐怖だけが残った。
今のはなんだったんだろう。
私は、おかしくなってしまったのかもしれない。
まず、内科で検査を受けたが「異常なし」だった。
どこも悪くないですよ、と言われた。
でも、不安と恐怖はいつもあった。
また、あれが起きたらどうしよう。
発作のようなものは、その後も実際に何度か起きた。
私は初めて、心療内科を探したが、どこも予約でいっぱいだった。
何週間も待たなければならないと言われた。
ようやく一つだけ予約が取れたクリニックがあった。
「よく話を聞いてくれる先生です」
その口コミだけを頼りに、私はそこへ行った。
診察の日。
私はこれまでのことを全部話した。
子どもの頃のこと。
結婚のこと。
宗教のこと。
離婚のこと。
息子との暮らし。
気がついたら、止まらなくなっていた。
先生は一度も遮らなかった。
ただ静かに聞いてくれた。
私は一時間近く話していたと思う。
話し終わったあと、部屋は静かだった。
その沈黙のあとで、先生はゆっくり言った。
「お疲れ病ですね」
その言葉を聞いた瞬間、
私は、少し笑った。
病名でもない。
診断でもない。
ただ「疲れている」という言葉。
その言葉に、安心したのを今でも覚えている。
そう言って、先生は漢方と安定剤を出してくれた。
「どうしても不安なときのお守りにしてください」
薬そのものもありがたかった。
でも、それ以上にありがたかったのは、
私の話を聞いて、理解してくれる人ができたことだった。
そして先生とは、その後も長い付き合いになる。
先生との出会いがなければ、
今の私はいなかったかもしれない。
わたしの人生はいつも、
先生に助けられてばかり。
もう一度生きる
「お疲れ病ですね」
その言葉のあと、休むことに罪悪感のあった私は、少しずつ“休む”ことを覚えた。
まずパートを辞めた。
金銭面は、元夫からの養育費、実家の父親からの援助。足りない分は、社会的支援を受けた。
診断書をもとに息子を保育園へ預け、日中は、ほぼ眠った。
午前に二時間、午後に二時間。
たくさん眠った。
よほど疲れていたんだと思う。
夜ご飯が作れない日は弁当を買った。
完璧な母親ではなかった。
それでも息子との時間だけは大切にしたかった。
体力はなくても、私には妄想力があった。
布団に横になったまま、息子が戦隊ヒーローの赤レンジャー、私がヒロインという設定で話を作る。
青レンジャー、緑レンジャーも登場し、
息子と私、一人で何役も担当して遊んだ。
それは、私にとって心からの楽しい時間だった。
気がつけばそのまま二人で眠ることもあった。
こたつの中で空想ばかりしていた少女は、
息子と一緒に物語を作って遊ぶようになった。
社会復帰
私は長い間休んでいた。
少し元気になってからも、
息子と遊び、家事をして、それだけで精一杯だった。
そしてある日、自然に思うようになった。
「もう一度働きたい。」
私はハローワークへ通い、履歴書を書いた。
そしてある日、本に関わる仕事の求人を見つけた。
「ここなら働けるかもしれない」
根拠はなかった。
ただ、その感覚だけは確かだった。
そして、無事に採用された。
6年ぶりの社会復帰だった。
不安もあったけれど、少しずつ働く時間を増やし、生活を立て直していった。
カウンセリングも続け、時間をかけてフルタイム勤務に戻った。
気がつけば、外に出ることさえ怖かった私が、同じ職場で十年働いている。
心療内科の先生は言った。
「十年も続いたなんて、すごいですね」
私もよく頑張ったなと思う。
もちろん、その間も大変なことはあった。
中学生になり反抗期を迎えた息子には
「お母さんなんか死んじまえ」
と言われたこともある。
さすがに言い争いになった。
あんなに必死で育ててきたのに。
けれど冷静になると、それは息子には関係のないことだ。
私がどれだけ苦労したかは、息子の知ったことではない。
そして私は思った。
ああ、この子はちゃんと成長しているんだな、と。
私は親に反抗できなかった。
だから私に反抗できる息子を見て、安心した。
息子はちゃんと私を信頼してくれ、自分の意思を持った人間に育っている。
離婚してからの私は、
生きることは義務のようだった。
でも今は違う。
ランチに行く。
カフェでのんびりする。
次は何を書こう。
どこに行こう。
妄想の続きをする。
そんな小さな楽しみが増えていった。
最終話 妄想少女だったわたしへ
涼子ちゃんへ。
こたつに入りながらテレビを見て、
「タモリさんがお父さんだったらいいのにな」
って妄想していたね。
あの頃の妄想は、本当に楽しかった。
現実が苦しかったから。
妄想の世界が涼子ちゃんの居場所だったんだね。
今なら分かるよ。
涼子ちゃんは、妄想は得意だったけど、生きるのが不器用だった。
人との違和感に悩み、
人の期待に応えようとして、
自分を後回しにしてしまう。
そんな毎日を、本当によく頑張って生きてきたね。
ひとつ、謝らなければいけないことがあります。
もっと、
自分の心と体を大切にすればよかった。
ごめんね。
たくさん傷つけてしまったね。
でも、これからは大丈夫。
これからは、ちゃんと涼子ちゃんの心の声を聞くから。
だから、一緒に生きていこう。
今の私はね、もうすぐ推しのコンサートに行く。
コール&レスポンスの動画を見つけて、
ここでこう叫ぶとか、ここでペンライトを振るとか、テレビの前で練習してる。
何やってるんだろう。
でも楽しいんだ。
だから、涼子ちゃん。安心して。
あなたは生き延びる。
居場所も自分で見つける。
そして、笑えるようになる。
あなたの妄想する力は、現実から逃げるだけのものじゃなかった。
苦しい日も、寂しい日も、
妄想する力が私をここまで連れてきてくれた。
あなたのその力は、わたしの人生を豊かにしてくれた。
人生は、
思いどおりにならないこともある。
遠回りも何度したか分からない。
それでもきっと、
これからも楽しいことはあるよ。
だから、ねえ。
今日も何、妄想して生きてく?
