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第二話 運べる命|黒鉄のリベリオン

寒い…。 
骨の奥まで水が染み込んだような、嫌な冷え。
身体の中にあった火を、誰かに根こそぎ掻き出されたみたいだった。

腹を切られた痛みより、まず最初に感じたのは寒さだった。
次に、匂い。
湿った布。血。泥。焦げた革。古い汗。傷口に擦り込まれた薬草の青臭さ。
誰かが俺の腹を触っている?
鈍い痛みがやってきた。
あぁそうだ、腹を切られたんだった。
まだ生きてたな…。
そう思って、ゆっくりと目を開ける。
薄暗い天幕の布が見えた。
破れた布の隙間から細く風が入り込んでいる。
布の向こうで風が鳴っていた。
遠くで誰かがうめいているような声がしたが、すぐに途切れた。
「……ロウル」
誰かの声がした。
テオだった。
泣き出しそうな顔で、こちらを覗き込んでいる。
「ロウル、分かる? 僕のこと、分かる?」
「…ああ」
喉がひどく乾いていた。
声がかすれる。
「情けない顔の……テオだろ」
テオの顔が、くしゃりと歪んだ。
「よかった……」
「よくはねぇだろ。俺、たぶん死にかけてるぞ」
「そういうこと言うなよ!」
テオが本気で怒鳴った。
「騒ぐな。傷が開く」
低い女の声がした。
俺は視線だけを動かす。
すぐそばに、見慣れない女が座っていた。
20代半ばくらいだろうか。乱れた髪を後ろで雑に結び、血の染みた袖を肘までまくっている。目つきは鋭く、疲れきっているのに、手だけは妙に落ち着いていた。
その女の手が、俺の腹に布を当てて押さえている。
「……誰だ」
「ベルカ」
女は短く答えた。
「慈救団だよ」
「慈救団……?」
「ああ。まあ、一番下の方だけどね」
慈救団、中央教皇庁公認の救護組織だ。
教義上、慈救団への攻撃は禁じられている。
ベルカは布を少しだけめくった。
腹の横に鈍い痛みが走る。
「っ……」
「動くな」
「動いてねぇよ」
「動こうとした」
「目ざといな」
「死にかけは、だいたい余計なことをする」
ベルカは淡々と言いながら、傷口を見た。
表情は変わらない。
だが、ほんのわずかに眉間へ皺が寄った。
「……この傷…妙なんだよ」
「妙?」
「普通なら、まだ血が止まってない。腹の横をあれだけ裂かれて、数刻も息があるだけでおかしい」
「じゃあ、俺は死んでるのか」
「死んでたら静かで助かったよ」
「ひどいことを言うな」
「口が動くなら、まだ死なない」
「口が動かなくなったら?」
「その時は本当に静かで助かる」
「はは……性格悪いな」
「性格が良けりゃ、あんたたちの世話なんてしてないよ」
ベルカはそう言って、薬草を塗った布を傷口に当て直した。
「肉が寄ってる。内側から無理やり塞がったみたいにね。内臓も、たぶんほとんど傷んでない」
「そりゃ、ありがたい」
「ありがたくない」
ベルカの声が低くなる。
「治ったわけじゃないよ。たぶん皮だけ先に張ったような感じ。無理に動けば、また開くかもしれない。開いたら、次は止まらないかもしれない」
「はは…なるほど」
俺は頭を少しだけ上げて、目だけで自分の腹を見る。
布が巻かれていた。少し血は染みているが、流れ続けているわけではない。
あれだけ斬られたのに。
腹に穴が空いたはずなのに。
生きている。
天幕の端に置かれた槍を見た。
泥と血にまみれた木の柄。その先についた、不格好な鉄の穂先。
昨日まで持っていた粗末な槍とは違う。
いや、昨日なのか。
数刻前か。
時間の感覚が曖昧だった。
ただ、覚えている。
紫電。
ゼノ・ヴォルティス。
泥に突っ込んだ手。
鉄の音。
そして、声。
――生きて。
俺は息を呑んだ。

「問題は傷より、あんた自身だ」
ベルカが言った。
「傷のわりに、弱りすぎてる。出血はもうほぼ止まっている。内臓もたぶん無事だ。だったら、普通はもう少し顔に血の気が戻るんじゃないのか」
ベルカの視線が、天幕の隅に置かれた槍へ向く。
黒みがかった、不格好な鉄の穂先。
「……あれは、どうやって作った?いや…作った時、何を使った?」
「泥と、鉄片と……たぶん、血」
「それだけじゃないね」
ベルカは肩をすくめて言う。
「何かを燃やしたんじゃないのか。あんたの中のなにか。」
俺は槍を見たまま、かすかに笑った。
「はは…便利な力じゃなさそうだな」
「便利な力っていうのは、それなりの代償が必要なんだろ」
そう言ってベルカは目をそらした。
ベルカの言う通り、俺の身体から何か持っていかれたような感覚だった。
今は身体に力が入らない。
腹が減った。
喉もカラカラだ。
「そういえば俺はどれくらい寝てた?追手は来てないのか?」
俺の問いにテオが答える。
「たぶん、二刻か三刻くらい。長くても四刻は経ってない」
「そうか」
そんな短い時間で、身体がここまで空っぽになるものなのか。
自分の指を動かしてみる。
動く。
だが、重い。
痛みで動けないのではない。
ひどい倦怠感。
中身が足りない。
そんな感覚だ。
ふと周囲に目をやるとベルカの横で、もう一人の女が黙って布を裂いていた。
若い。
テオとそう変わらないか、少し上くらいだろう。
髪はぼさぼさで、顔の半分を隠すように垂れている。頬から首筋、肩にかけて、引きつれた火傷の痕が覗いている。
その女は俺を見ない。
ただ黙って布を裂き、折り、ベルカに渡している。
手つきはとても丁寧だ。
「……そっちは」
俺が言うと、女の手が止まった。
ほんの一瞬だけ。
「カヤ」
ベルカが代わりに答えた。
「この子も慈救団だよ。布と革を直すのがうまい。あんたの腹に巻いてる布も、この子が作った」
「そうか」
俺はカヤに目をやって言う。
「助かった」
カヤは顔を上げなかった。
「……別に」
声は小さい。
「死なれたら、巻いた布が無駄になるから」
「はは……それは悪かったな」
「……」
カヤは無言で、また布を裂いた。
その声は冷たかった。
けれど、手は早い。

天幕の入り口で、誰かが低く咳払いをした。
ガーンだった。
片目に革の眼帯。泥と血で汚れた油紙の外套。いつもの渋い顔が、今はさらに渋くなっている。
「目ぇ覚ましたか、若造」
「ああ」
「なら、とっとと起きろ」
テオが振り返る。
「ガーン! ロウルはまだ!」
「知ってる」
ガーンは天幕の外を見た。
「だが、ぐずぐずしてる暇はねぇ。夜明けまでにここを出なきゃ、そいつが寝てようが起きてようが全員死ぬ。相手は確実に掃討にくる。貴族に傷をつけたんだ。追手もかかるかもしれねぇ」
テオが黙った。
俺は、ゆっくり息を吐いた。
「……どれくらい残ってる」
「兵か?」
「ああ」
ガーンは少しだけ目を細めた。
「ほとんど逃げた」
天幕の外は静かだった。
静かすぎた。
昨夜も静かだったが、あれとは違う。
あの時は、恐怖を押し殺した人間の気配があった。
今は、その気配が薄い。
生きていて、歩ける者の多くは、もういない。
「星付きが現れた時、動ける奴から逃げた」
ガーンが言った。
「はは…当然だな」
俺の声は掠れていた。
「俺も起きてたらそうした」
「嘘つけ」
ガーンが吐き捨てる。
「お前は余計なことを考えて、逃げ遅れる」
「俺のことをよく分かってるじゃないか」
「今回はそれを目の当たりにしたんだよ」
ガーンは天幕の奥に置かれた槍を顎で示した。
「それを見て逃げた奴もいる」
「……槍を?」
「何もないところからそれを作ったお前をだ」
ガーンの声は低かった。
「つまり、お前を怖がったんだよ」
槍を見た。
自分が作った。
そう言われれば、そうなのだろう。
だが、実感は薄い。
泥に手を突っ込んだこと。
鉄の匂い。
紫電の剣。
女性の声。
記憶はある。
けれどそれは、自分がやったことというより、夢の中で誰かが自分の身体を使ったような感覚だった。
「はは……まあ、怖いだろうな」
俺は呟いた。
ベルカが口を開く。
「外に残ってるのは、あんたに助けられた連中だけじゃない」
ベルカを見た。
ベルカは目を伏せながら続けた。
「長引く戦で傷を負って、安全地帯まで運ばれるのが遅れた者たちもいる」
ベルカは布を巻き直しながら言った。
「古い矢傷。膿んだ脚。熱を出した兵。槍を受けて歩けなくなった奴。昨日の星付きにやられた連中はそんなに多くない」
「……見捨てられてたのか」
「違う」
ベルカは短く言った。
「後回しにされてただけだよ」
その言葉は、見捨てられた、よりも冷たく聞こえた。
「慈救団は、本当なら傷ついた者を運ぶ。敵味方は問わない。そういう建前になってる」
ベルカは自嘲するように笑った。
「でも、慈救団にも階段がある。貴族や正規兵につく白環慈救団。神官付きの清潔な天幕。白い布。温かい寝台。そういう連中は守られる」
「ベルカたちは?」
テオが聞いた。
「私らは下の下」
ベルカは言った。
「奴隷兵に付く慈救団だ。慈救の名はある。でも、白環じゃない。守られるかどうかは、その時の相手の気分次第さ」
カヤは何も言わなかった。
ただ、布を裂く手だけが少し強くなった。
彼女は目を合わせない。
頬の火傷の痕も、隠しているようで、隠しきれていない。

「……なんで残った」
俺は、ベルカとカヤを見ながら聞いた。
ベルカは血のついた手を布で拭いていた。
「逃げたかったよ」
ベルカは言った。
「けど、あの小僧に見つかった」
「あの小僧?」
「テオだよ」
テオがうつむく。
ベルカは鼻を鳴らした。
「あんたが倒れたあと、こいつは逃げもせずにあんたのそばへ戻った。周りの連中が散っていく中でね」
テオは小さく言った。
「だって、ロウルが僕を逃がしてくれたから」
ベルカは続けた。
「それで、遠巻きに見てた私らを目ざとく見つけて、こう言ったんだ」
ベルカは少しだけ茶化すように声色を変えて、テオのマネをする。
「お願いだ、少しでいいから診てくれ。何でもする。だからロウルを助けてくれぇ、ってね」
テオの耳が赤くなる。
「……そんな言い方、したかな」
「してたよ」
カヤが布を裂きながら、小さく言った。
「泣きそうな顔で」
テオはさらにうつむいた。
カヤは目を合わせないまま続けた。
「馬鹿だと思った」
カヤの手が、一瞬だけ止まる。
「でも…そういう馬鹿を置いて逃げたら、後味が悪い」
カヤの口元が、ほんの少し緩んだように見えた。
ベルカは血のついた布を丸めた。
「慈救団の端くれとしてもね。息のある怪我人と、そいつを見捨てない馬鹿がいるなら、放っておくには寝覚めが悪い」
ぶっきらぼうに言い放ち、ベルカがさらに続けた。
「それにね…あの星付きが暴れてたら、ここにいた連中はもっと死んでた。あんたが止めた。理由は知らないけどね」
「止めたってほどじゃない。気づいたら目の前にいて、槍が偶然相手に刺さっただけだ」
「刺さっただけで十分だ」
ベルカは淡々と言った。
「私らみたいなのは、貴族に傷ひとつつけられずに死ぬ。そう決まってた。あんたはそれをひっくり返した」
俺は返事に困った。
その沈黙の横で、カヤが小さく言った。
「……どうせ、私たちだけじゃ生き延びられないし」
カヤを見る。
カヤは布を畳みながら、目を合わせない。
「行く当てもない。逃げても、追われる。捕まれば、戻されるか、売られるか、もっと悪い場所に回される」
乾いた声だった。
諦めに慣れた声。
「だったら、まだ息してる奴の面倒をみてた方がまし」
テオが何か言おうとして、黙った。
ガーンも黙っていた。
カヤの横顔を見た。
髪の隙間から、火傷のない側の目が少しだけ見える。
暗いが、鋭い目だった。
「……そうか」
俺は言った。
「じゃあ、助かった」
カヤの手が止まる。
「別に…あなたのためじゃない」
「はは…それでも助かったよ」
カヤは何も答えなかった。
ただ、布を握る指に少しだけ力が入った。

ガーンが短く息を吐いた。
「さて、楽しいおしゃべりはあとだ。とにかく逃げるぞ。立てるか?若造」
「ああ…」
俺は起き上がろうとした。
腹に痛みが走る。
だが、それより先に、視界が白く弾けた。
腕に力が入らない。
肩が震える。
自分の頭の重さすら支えきれない。
「……なんだ、これ」
ベルカがよろめいた俺の肩を押さえた。
「歩けるかい」
「歩ける」
「嘘だね」
「少しは歩ける」
ベルカはカヤへ目を向けた。
「腹を固定する布を」
「作ってる」
カヤはすでに動いていた。
乾いた天幕の端を切り取り、布を二重にしている。革紐と壊れた荷袋の金具を組み合わせ、腹を固定する帯と、肩に回す吊り紐を作っていく。
「完全な担架はいらない」
カヤが言った。
「歩けるなら、両側から支えた方が早いと思う。腹が揺れないように固定する…。転んだら終わり…」
「はは…不吉だな」
俺は苦々しく言ったが、変に気を使われるよりもよっぽど楽だ。
「事実」
カヤは短く返した。
「それに、担架は人手がいる。今は足の方が大事」
ガーンが片目を細める。
「お嬢ちゃん、分かってるじゃねぇか」
「慈救団だから」
カヤは言った。
「運べる命と、運べない命くらい、嫌でも覚える」
その言葉で、天幕の中が少しだけ静かになった。
外で、誰かがうめいた。
ベルカが俺を支えていた手を離して、テオに俺の肩を預けて言った。
「外を見る。息のある奴だけ数える」
「俺は物資をもう一度みてくる」
ガーンも動いた。
「水、食料、布、革紐、火種。持てるだけ持つ。金目の物はいらん」
俺の肩を支えながらテオが言う。
「僕は?」
「お前はロウルのそばにいろ」
ガーンが言った。
「余計なことをしようとしたら殴って止めろ。あと、そいつに何か食わせとけ」
「分かった」

テオが頷いた、その時だった。
天幕の外で、短い叫び声が上がった。
「火だ」
誰かが言った。
ガーンがすぐさま天幕から出て言う。
「どこだ」
「北の低い丘の向こう、遠い。だが、あれは火だ」
天幕の中の空気が、凍った。
俺はテオに支えられながら天幕を出た。
遠くの丘の向こうに、かすかに明かりが見える。
焚き火じゃない。
あれは、人を探す火だ。
逃げた奴を。
生き残った奴を。
まだ息をしている奴を。
ガーンが低く呟いた。
「掃討だな」
誰も声を出さなかった。
あたりを見渡す。
動ける者、動けない者。
ここに残っている者を、全員連れてはいけない。
俺たちは、運べる命と、運べない命を分けなければならない。
腹の傷よりも奥。
身体の芯に冷たいものが沈んだ。


第二話 あとがき

最後まで読んでいただきありがとうございます。

戦場に女性がいる。
なんてことはファンタジーにはあるあるかもしれませんが、実際に女性がいたら、それは結構大変なことだろうなと思うのです。なので、女性が戦場にいる理由を一生懸命考えました。
実際の史実を記した資料など、いろいろ調べたり、このインターネットの時代にわざわざ図書館に足を運んだりもしました。
結果、まぁなんとか自分なりに納得できるカタチで女性のキャラクターを二人登場させることができました。

第二話では動きがなくて、状況の描写ばかりになってしまいましたが、それでもかなり書きたいことを削ってこのようなカタチになりました…。

次回からは逃亡編となり、ロウル以外のキャラクターにも少しずつフォーカスしていくようになると思います。

週一ペースで更新できればと思って書いております。
次回も読んでいただければ嬉しいです。

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