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第一話 泥の中の鉄|黒鉄のリベリオン

夜の戦場は、思っていたより静かだった。
いや、静かすぎる。
風の音と、湿った薪が爆ぜる音だけが耳につく。遠くで誰かが咳き込んで、そのあとすぐに黙った。
300人ほどの小さな野営地。俺は焚き火のそばに座り、支給された槍の柄を石刀で削っていた。
刃じゃない。柄だ。
穂先なんて、どうせ大した代物じゃない。俺たちみたいな末端の奴隷兵に、まともな剣や鎧が回ってくるはずもない。
削り出しの木の柄に、申し訳程度の鉄をくくりつけた槍。
鉄といっても、すぐにひん曲がって使い物にならなくなるような錬鉄だ。
もちろんこいつは戦場でもすぐに曲がる。
突いては曲がり、足で踏みつけてまっすぐに直して、再び突く。
そんな頼りない鉄、そして分厚い布を重ねただけの鎧。ひび割れた革の胸当て。それが俺たちの命綱だった。

「……なあ、ロウル」
向かいに座っていたテオが、小さな声で呼んだ。
まだ十代の、顔に幼さの残る青年だ。膝の上に置いた槍を、両手で握りしめている。
「なんだ。怖くなったのか?」
深刻そうな顔のテオに向けて、俺は笑って言葉をかけてやった。
「そりゃ怖いよ」
テオは変わらず深刻な顔で答えた。
「僕、まだ死にたくないし」
消え入りそうな声でそう続けた。
「安心しろよ。死んだら怖くなくなるさ」
俺は事もなげに返した。そう、死んだら怖くない。死んだら何もないんだ。「死ぬ」なんて選択はありえない。
「ぜんぜん安心できないんだけど」
「そうか? 俺なりの励ましだったんだが」
テオが呆れたように息を吐く。
その横で、何人かが少しだけ笑った。
よし。まだ笑える。なら、まだ壊れてはいない。
焚き火の向こうで、古い油紙の外套を羽織った男が鼻を鳴らした。
ガーンだ。
片目に革の眼帯。無精髭。いつも渋い顔をしている、四十過ぎの古参兵。
「お前の励ましは、だいたい人を不安にさせるんだよ、若造」
「不安に慣れさせてるんだよ。優しさだろ」
「その優しさ、どぶに捨ててこい」
「はは、どぶが迷惑するだろ」
今度は、さっきよりはっきり笑いが起きた。
ガーンは不機嫌そうに焚き火へ小枝を放ったが、口元だけはわずかに緩んでいた。
こういうとき、ガーンがいると助かる。
こいつは戦いは強くない。たぶん真正面から殴り合ったら、若い兵にも負ける。
でも、人が崩れる気配だけは誰より早く嗅ぎ取る。
空腹、不満、恐怖、欲。
そういうものの流れを読むのが、やたらうまい。

「……なあ」
別の兵が、焚き火を見つめたまま言った。
「本当に、第三隊は全滅したのか?」
笑いが消えた。
嫌な沈黙だった。
誰も答えない。
答えた瞬間、それは噂じゃなくなる。
ガーンが片目だけでそいつを見た。仕方がないとばかりにガーンが重い口を開く。
「昼に荷車が戻ってきただろ」
「……ああ」
力のない返事だ。補給でも移動でもないのに、荷車が動くなんてことはそう多くない。
ガーンは続けて口を開く。
「布をかぶせた荷が九つ。第三隊は三十人いた。戻ってきた生き残りは二人」
「じゃあ、残りは……」
「知らん」
ガーンは短く言った。
「知らんが、数は合わねぇ」
誰かが唾を飲む音がした。
俺は槍の柄を削る手を止めずに言った。
「算術が苦手なやつには朗報だな。今夜でさらに簡単になる」
「ロウル」
テオが咎めるように俺を見る。
「冗談だよ」
「笑えない」
「俺もだ」
「じゃあ言うなよ!」
テオが本気で怒った顔をしたので、俺は思わず笑った。
こいつはいい。
真っ直ぐすぎて、戦場には向いていない。
だからこそ、生き残ってほしいと思う。
俺みたいなのより、ずっと。
俺だってこわい。柄を削る手を止めれば、手が震えているのがバレる。
そのとき、隣にいた兵が声を潜めた。
「……指揮官が逃げたって話、本当か?」
空気が、また変わった。
さっきとは違う。
恐怖に、別の匂いが混じった。
混乱。
それと、ほんの少しの希望。
俺は手を止めた。
「誰から聞いた?」
「補給係のやつが言ってた。夜になる前、馬が一頭消えたって。指揮官の天幕も空だったらしい」
「へぇ、立派なご判断だな。俺も見習いたい」
俺は軽口を叩きながら、笑ってみせた。
「笑いごとじゃねぇだろ」
隣の兵は声を荒げた。絶望、焦燥、不安、あらゆる負の感情を抑えられないのだろう。
「笑っとけ。怒っても泣いても指揮官は戻らねぇし、馬もいねぇ」
ガーンが低く言った。つづけて
「命令系統が死んだな」
「ああ」
俺は頷いた。
「だったら、俺たちも賢くならないとな」
そう言いながら俺は立ち上がった。
何人かが俺を見た。
期待する目。
すがる目。
嫌な目だ。
俺は偉いやつじゃない。隊長でもない。奴隷生活が長いだけの、ただの奴隷兵だ。
けれど、ここで黙れば全員が潰れる。
だから俺は笑った。
「はは…逃げるぞ」
テオが目を丸くした。
「逃げるって……脱走?」
「言い方が悪いな。戦略的に生存を選択するんだ」
「それ、脱走だよ」
「じゃあ脱走でいい、選べ。放棄された戦場に残って殺されるか、生きのびる可能性に賭けて逃げるか。」
ざわめきが広がる。
俺は手を上げて、それを止めた。
「いいか、この選択は普段なら無理な選択だ。いつもなら見張りはいる。上官はいる。逃げたら吊るされる」
俺は一人ひとりの顔を見た。
「でも今は違う。指揮官が逃げた。第三隊は潰れた。補給も来ない。明日、命令通りに槍を構えたら、たぶん死ぬ」
誰も何も言わない。
「だったら、今夜だな」
ガーンが目を細めた。
「どこへ行く」
「はは…決まってるだろ、生きられそうな方へ」
「ざっくりしすぎだ」
「そうか?じゃあ南」
「最初からそう言え」
ガーンが舌打ちする。
そのやり取りで、少しだけ空気が戻る。
南に行けば何があるかわからない、北西で敵と対峙してるんだ、なんとなく南を選んだというだけだった。
テオはまだ迷っている顔をしていた。
「でも、逃げたら……」
「死ぬかもしれない」
俺は言った。
「でも、ここにいても死ぬ。なら、生き残る可能性が高そうな方を選ぼうぜって話だろ」
テオは押し黙り、またもや深刻そうな顔でうつむいている。本当に真面目なやつだ。

俺は槍を拾い上げる。
そのときだった。
遠くで、紫がかった白い光が走った。
夜の地平線が、一瞬だけ昼みたいに染まる。
遅れて、鈍い音。
雷じゃない。
爆発でもない。
もっと乾いた、空気そのものを裂くような音だった。
全員が黙った。
ガーンが焚き火を踏み消す。
「……敵襲か?」
誰かが震えた声で言う。
俺は首を振った。
「違う」
夜営地を丸ごと襲うなら、こんな静かなはずがない。
太鼓もない。軍靴もない。鬨の声もない。
あるのは、光だけ。
白くて、美しくて、目がくらむほど澄んだ光。
テオがかすれた声で言った。
「星付き……?」
また光が走った。
今度は近い。
悲鳴が聞こえた。
一つ。
二つ。
それから、笑い声。
高く、楽しそうな笑い声だった。
俺は奥歯を噛んだ。
来たのは軍じゃない。
狩りだ。
俺たちを敵兵として見ているんじゃない。
逃げ惑う獲物として見ている。
「……やっぱり、賢くなる時間はなさそうだな」
俺は槍を握り直した。
手のひらが汗で滑る。
怖くないわけがない。
でも、ここで震えたら、後ろの連中は終わる。
だから俺は笑った。
「はは…お前ら、喜べ」
みんなが俺を見る。
「貴族様がわざわざ遊びに来てくれたぞ、一緒に遊ぼってな」
誰も笑わなかった。
まあ、そりゃそうだ。
俺だって、笑いたくて笑ってるわけじゃない。
紫がかった白い光が、また夜を裂いた。
今度は、はっきり見えた。
遠くの低い丘の上に、人影が一つ。
銀色の鎧。
片手に、光の剣。
白い外套には雷冠の紋。星付きの魔法騎士。
そいつは、こちらを見下ろしていた。
まるで、次にどの虫を踏み潰すか選んでいるみたいに。
俺は息を吐いた。
「はは……最悪だな」
テオが震える声で聞いてきた。
「どうするの、ロウル」
俺は槍を肩に担いだ。
「決まってるだろ」
そう言って、笑った。
「まずは、死なないこと」


丘の上の人影は、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
銀の鎧。
白い外套。
その手に握られた、細身の剣。
夜の中で、その剣だけが紫色に光っていた。
雷みたいに。
いや、雷よりずっと嫌な光だった。
綺麗で、冷たくて、人を殺すためだけに磨かれた光。
「……星付きだ」
誰かが言った。
星付き。貴族。魔法を使う連中。
俺たち奴隷兵が百人束になっても、正面からじゃ勝てない相手。
テオの喉が鳴る。
「ロウル……」
「黙ってろ」
俺は短く言った。
自分でも驚くくらい、声が低かった。
冗談を言う余裕が、なかったわけじゃない。
言ったところで、効かないと思っただけだ。
丘の上の貴族が、剣を軽く振った。
ただ、それだけだった。
紫の光が、横に走る。
次の瞬間、少し離れた場所にいた見張りの二人が、声もなく倒れた。
いや。
倒れた、というより。
上と下に、ずれた。
「……は?」
誰かが間の抜けた声を出す。
俺も同じことを思った。
なんだ、今の。
剣は届いていない。
距離はある。
なのに、斬れた。
見張りの槍が地面に落ちる。
その音が、やけに遅れて聞こえた。
貴族が、高笑う。
そして貴族が高らかに叫ぶ。
「走れ!」
若い男の声だった。
よく通る、品のある声。
腹が立つほど綺麗な声だった。
「獲物は、逃げている時が一番美しいのだよ」
その一言で、夜営地が壊れた。
誰かが叫ぶ。
誰かが槍を捨てる。
誰かが転ぶ。
逃げようとする者、腰を抜かす者、何も分からずその場に立ち尽くす者。
最悪だった。
でも、当然だった。
誰だってそうなる。
あんなものを見せられて、まともでいられるわけがない。
「散れ!」
俺は叫んだ。
「固まるな! 線に並ぶな!」
意味が通じたかは分からない。
だけど、言わないよりはマシだ。
紫の光がまた走る。
今度は斜め。
逃げ遅れた三人が、まとめて切断された。
血が噴き上がる。
布鎧も、革の胸当ても、何の意味もなかった。
人間が薪を割るよりも簡単に鋭く切断されていた。
「テオ!」
俺は振り返った。
テオが動けずにいた。
両手で槍を握ったまま、目を見開いている。
その視線の先で、貴族がまた剣を振り上げた。
まずい。
「伏せろ!」
俺はテオに飛びついた。
地面に押し倒す。
背中の上を、紫の光が通り過ぎた。
熱い。
遅れて、髪の焦げる匂い。
俺の肩口が裂けていた。
「っ……!」
「ロウル!」
「叫ぶな、うるせぇ!耳が痛ぇ!」
「血が!」
「飾りだ」
「そんな飾りある!?」
テオが泣きそうな顔で言う。
その顔を見て、少しだけ息が戻った。
まだ生きてる。
まだ冗談が通じる。
なら、まだ終わってない。
俺はテオの襟を掴んで引き起こした。
「走れ。ガーンを探せ。あいつがいる方に行け」
「でも、ロウルは」
「俺はあの馬鹿に道でも聞いてくる」
「馬鹿って……星付きだよ!?」
「夜更けに一人で遊びに来るやつが賢いわけあるか。だから馬鹿なんだよ。」
テオが何か言おうとしていたが、俺は貴族を視線の先に捕らえながらテオの背中をつきとばした。
「行け!」
テオは歯を食いしばり、走った。
よし。
足は動いてる。
あいつはまだ生きる気がある。
俺は槍を握り直した。
手が震えていた。
指先が冷たい。
怖い。
死を間近に感じる。
怖い。
俺はテオに生きてほしいと思ったのか。
反射的にテオを助けてしまったことで逃げ遅れてしまった。
テオを助けるという選択をしたのは俺だ。仕方がない。
あいつがこっちを見ている。
丘から降りてきた貴族は、もうすぐそこまで来ていた。
年は俺より少し上か。
整った顔。
短い金髪。
青の瞳。
鎧には傷ひとつなく、白い外套にも泥ひとつついていない。
戦場で一番汚れていないやつが、一番多く殺している。
そういう世界だ。
「君…」
貴族が俺を見た。
「今のは、なかなか良かった」
「はは…そりゃどうも」
俺は槍を構えた。足の震えに加えて、手も震えだした。
「採点してくれるなら、もう少し優しめで頼むよ」
軽口をたたく俺を見る貴族は目を細めた。
「口を利ける余裕があるのか」
「一応ね。読み書きは怪しいけど」
「奴隷にしては、余裕がある」
「よくみろよ。どう見たってやせ我慢だろ」
震えながら精一杯の虚勢を張る俺をみて、貴族が笑った。本当に楽しそうに。
「あっはっはっはっは…君、名は?」
「名前?人に名前を聞くときは、まず自分からって習わなかったのか?」
「ふふん…奴隷に名乗る礼儀は教わっていない」
笑みを保ったまま、貴族は言った。
「ああ、なるほど」
俺は頷いた。そしてつづけた。
「育ちが悪いんだな」
空気が、ぴたりと止まった。
周りで逃げていた兵たちの気配が、遠くなる。
貴族の笑みが、少しだけ深くなった。
「面白い」
剣に紫電が走る。
「僕はゼノ・ヴォルティス。この名を魂に刻み、来世でも怯えて暮らせ」
「悪いな」
俺は槍を握る手に力を込めた。
「死んだら忘れちまうよ」
次の瞬間、ゼノの右腕が消えたように見えた。
いや、違う。
速すぎて、見えなかった。
紫の斜線が目の前に現れる。ゼノは自然に下ろしていた右腕を振り上げていた。
俺は反射で槍を差し出していた。
穂先が飛んだ。
柄が割れる。
手の中に残ったのは、ただの棒だった。
「っぶねぇ!」
俺は横に転がる。
頬の横を、紫電が掠めた。
皮膚が焼ける。
痛い。
熱い。
でも、まだ繋がってる。
「すぐには殺さないぞ。精一杯避けろ!」
ゼノは楽しそうだった。
「では、これはどうだ?」
剣が振られる。
紫電が地面を裂いた。
一直線に、俺へ向かってくる。
避ける。
転がる。
泥に顔を突っ込む。
背中を光が焼く。
息が詰まる。
立つ。
走る。
考えろ。
線だ。
あいつの攻撃は線で来る。
振った軌道の先を斬る。
右腕の動きに注意すれば——
そう思った瞬間、ゼノが剣を突き出した。
紫電が一点に収束する。
線じゃない。
刺突。
俺の腹の横を光が抜けた。
「あ……?」
膝から力が抜ける。
熱い。
腹が熱い。
触ると、手が濡れた。
血だ。
笑えない量だった。
「ロウル!」
遠くでテオの声がした。
あの馬鹿。
逃げろって言ったのになんで…。
俺は振り返れなかった。
ゼノがゆっくり歩いてくる。
俺は折れた槍を支えに、どうにか立とうとした。
立てない。
足が言うことを聞かない。
泥が膝に絡みつく。
湿った土の匂いがした。
昔から嫌いじゃない匂いだった。
雨上がりの工房の匂いに似ている。
父さんが木を削る音。
母さんが笑う声。
そんなものが、なぜか頭をよぎった。
「残念だ」
ゼノが言った。
「君はもう少し遊べると思った」
「はは……そりゃ、悪かったな」
声が掠れる。
「次は……予約してくれ。たぶん予定、パンパンだからよ」
「その軽口は嫌いではないよ」
ゼノが剣を上げる。
紫電が刃を包む。
「終わりだ」
終わり。
そうだな。
終わりかもしれない。
思ったより、あっけない。
もっと怒ると思っていた。
もっと叫ぶと思っていた。
父さんを殺した貴族どもに。
母さんを奪った教会に。
この世界そのものに。
でも、いざ終わるとなると、出てきたのはそんな大層なものじゃなかった。
腹が減ったな、とか。
テオ、逃げ切れよ、とか。
ガーンのやつ、俺の分の飯まで数に入れてねぇかな、とか。
そんなくだらないことばかりだった。
剣が振り下ろされる。
紫の光が、俺の視界を埋めた。
その瞬間。

声がした。

――ロウル。


冷たい石壁と、鎖の音。
そして、炉の赤い光。
その日、地下の最奥区画からは、すべての人間が遠ざけられていた。
そこには鎖に繋がれた女と一人の異端審問官。
女の、かつては美しかった長い髪は色を失い、指先はひび割れ、唇には血の気がない。
それでも、その瞳だけはまだ死んでいなかった。
黄金の瞳。
セラフィンは、その瞳を見るたびに息を忘れた。
異端審問官にのみ着用が許される月の女神の加護が施されたローブに身を包み、セラフィンは女と対峙した。
「……ロウルは」
女がかすれた声で言った。
何度も聞いた名だった。
この十年、彼女が唯一手放さなかった名。
セラフィンは沈黙した。
答えれば、おそらく戻れない。
答えなければ、彼女はまだ鎖に繋がれ続ける。
やがて、彼は口を開いた。
「前線に送られた…東部の境界。小さな鉱山の採掘権を巡る戦いで…ユピテリオンの貴族が動いている」
「……生きて…いるのですか」
セラフィンは目を伏せた。
「今は…おそらく。しかし…貴族が直接戦場に出れば…」
そう言って、セラフィンは押し黙る。
個人で圧倒的な戦力を誇る貴族の魔法騎士。
彼らが戦線に出れば、奴隷兵であるロウルの生存など、もはや推し量るべくもなかった。
女は静かに息を吸った。
鎖が、かすかに鳴る。
炉の奥で、赤い光が揺れた。
「ありがとう」
女の謝辞をうけて、セラフィンは眉を寄せた。
「私は、あなたに感謝される資格などない」
女は微笑んだ。
痛ましいほど、穏やかに。
「あなたは、あの子のことを教えてくれた」
「私は……」
セラフィンの口からは言葉が続かなかった。
女はゆっくりと目を閉じる。
「お願いがあります」
セラフィンは、その先を聞きたくなかった。
分かっていたからだ。
彼女が何を望んでいるのか。
「私を、終わらせてください」
「できない」
即答だった。
任務なら、できる。
命令なら、できる。
異端を裁くためなら、手は汚せる。
だが、これは違う。
彼女は罪人として死ぬのではない。
母として、死のうとしている。
女は目を開いた。
黄金の瞳が、セラフィンを見た。
「この身体は、もう限界です。けれど、私はまだ大地に還れる」
セラフィンには、その意味のすべては分からなかった。
だが、分かってしまったこともある。
彼女は死を望んでいるのではない。
息子を生かすために、死を選んでいる。
「……私に、それをしろと」
「はい」
「私は、あなたをこの十年ずっと見殺しにしてきた」
「それでも」
「私は、教会の犬だ」
「それでも」
女は微笑んだ。
「あなたは今、迷っている」
その言葉が、セラフィンの胸を裂いた。
迷い。
異端審問官にあってはならないもの。
だが、それは確かにそこにあった。
「……あなたは、残酷だ」
セラフィンは呟いた。
女は少しだけ目を伏せた。
「そうかもしれません」
そして、弱りきった声で続ける。
「けれど、あの子が生きられるなら……私は、自分にも、あなたにも、残酷になれます」
鎖が、静かに鳴った。
「あの子が泣いても、憎んでも、私を許さなくてもいい」
女は、セラフィンを見た。
「それでも、生きていてほしいのです」
セラフィンは言葉を失った。
それは祈りではなかった。
命令でもなかった。
ただ、母の願いだった。
「……あなたは、強すぎる」
「いいえ」
女はかすかに笑った。
「弱いから、こうするしかないのです」
セラフィンは剣を抜いた。
刃は震えていた。
「最後に」
女が言った。
「あの子に、伝えてください」
「何を」
「生きて…と」
セラフィンは目を閉じた。
次に目を開いた時、彼は異端審問官ではなかった。
ただ、一人の人間だった。
刃が、女の胸を貫く。
鎖が鳴った。
炉の火が、一瞬だけ大きく燃え上がる。
女は苦痛に顔を歪めなかった。
ただ、安堵したように息を吐いた。
「ロウル……」
その名を最後に、彼女の身体から力が抜けた。
次の瞬間。
地下の石床が、低く鳴った。
遠い地鳴り。
大地そのものが、目を覚ますような、そんな錯覚を覚えさせるような音だった。


――ロウル。

女性の声が聞こえた気がした。
聞いたことのあるような声。
はっきり思い出せないが、今はそれどころではない。
紫の光が、俺の視界を埋めていた。
ゼノの剣が振り下ろされる。
その刃にまとわりついた紫電が、俺の首を斬る。
そのはずだった。
なのに。
時間が、伸びた。
刹那が、薄く引き延ばされる。
紫電の火花が、空中で止まって見えた。
飛び散った泥の粒が、ひとつひとつ見えた。
誰かの叫び声が、遠い水底から聞こえるみたいに歪んでいる。
ゼノの剣は、確かに俺へ迫っている。
けれど、その一瞬だけ、世界は俺を待っているようだった。
俺は、泥の上に倒れていた。
腹が熱い。
血が流れている。
息をするたびに、体の奥が軋んでいた。
それでも、身体にまとわりつく泥の冷たさは、妙にはっきり感じられた。
泥の中に、砂がある。
砂の奥に、鉄がある。
折れた槍の穂先。
こぼれた血。
砕けたくず鉄の欠片。
全部が、俺の手の届く場所にある。
地面から何かの気配を感じる気がする。
意味が分からない。
でも、分かる。
大地が、息をしている。
俺の下で。
俺の中で。
そう感じられた。
また声が聞こえる。女性の声。

――生きて。

目の奥が熱くなった。
痛い。
焼けるみたいに熱い。
視界の端が黄金に染まる。
身体にまとわりついた泥。
血が混じる。
鉄の匂いがする。
心臓が、ひとつ鳴った。
その音に合わせて、地面が鳴った。
どくん、と。
泥が震える。
俺の手の中で。
形を変える。
冷たいはずの泥が、熱を持つ。
柔らかかった土が、重く、硬く、鋭くなっていく。
ゼノの剣が、振り下ろされる。
俺は、考える間もなく、反射的に右腕で首を守ろうとしていた。
握り潰した泥が形を変えていた。
次の瞬間。
俺の手の中で、泥が鉄の音を立てた。


紫電の剣が、俺の腕に叩きつけられた。
死んだ。
そう思った。
首が飛ぶ。
腕ごと体を裂かれる。
それで終わり。
そのはずだった。
けれど、響いたのは肉を断つ音じゃなかった。
甲高い、硬い音。
ぎん、と。
夜の戦場に、場違いなほど澄んだ金属音が鳴った。
「……っ!」
衝撃で、俺の体が地面を滑る。
肩が軋む。
肘が外れそうになる。
けれど、斬れていない。
俺の腕は、まだ繋がっていた。
「は……?」
声が漏れた。
俺の声か、ゼノの声か、一瞬分からなかった。
視線を落とす。
右腕を、何かが覆っていた。
鉄だ。
いや、鉄の板、か。
ガントレットなんて立派なものじゃない。
手の甲から前腕までを、雑に包んだだけの鉄の殻。
縁は不揃いで、表面も荒い。鍛冶屋が見たら鼻で笑うような出来だ。
だが、その鉄は夜の中で鈍く光っていた。
泥から生まれたとは思えないほど、濁りのない色をしていた。
「何だ、それは」
ゼノの声が低くなる。
さっきまでの笑みは消えていた。
俺は息を切らしながら、自分の腕を見た。
「……知らねぇよ」
本当に、知らない。
何が起きたのか分からない。
ただ、分かることが一つだけあった。
防げた。
あの紫の剣を。
俺の腕で。
ゼノの眉がわずかに動く。
「もう一度だ」
剣が振られた。
紫電が走る。
横薙ぎ。
俺は考えるより先に腕を上げていた。
また金属音。
火花。
腕が痺れる。
骨まで響く。
それでも、斬れない。
「はは……なんでだよ」
今度は俺が呟いた。
分からない。
怖い。
怖いのに、体の奥が熱い。
腹の傷の痛みが遠のいている。
手足が軽い。
さっきまで泥に沈んでいた体が、嘘みたいに動く。
ゼノの剣が三度走った。
一撃目を腕で受ける。
二撃目を半歩引いてかわす。
三撃目を、屈んで潜る。
できた。
できてしまった。
俺は地面を蹴った。
速い。
自分の体じゃないみたいだった。
泥が跳ねる。
ゼノとの距離を取る。
ゼノの目が、わずかに見開かれた。
笑っていない。
さっきまで俺たちを虫でも見るような蔑んだ目が、今は俺の腕の鉄の板を凝視している。
ゆっくりとゼノとの距離を保ちながら、俺は折れた槍の柄を拾った。
さっき切られた、ただの木の棒。
穂先は飛んだ。
武器としては、もう死んでいる。
そのはずだった。
なのに。
俺の手が、勝手に動いた。
折れた柄の先端を地面に押しつける。
できる気がした。
この木の棒を武器にできる、そんな気がした。
折れた柄の先の地面が、ざわりと震えた。
折れた穂先。
散った鎧の欠片。
誰かの壊れた短剣。
それらが、泥の中を這うように集まる。
熱が走った。
木の柄の先で、鉄が形を成していく。
不格好な槍。
けれど、さっきまでの安物とは違う。
穂先は太く、長く、黒みがかった銀色をしていた。
俺はそれを握る。
重いはずだった。
これだけの鉄が先端につけば、まともに振れるはずがない。
なのに、軽い。
いや、軽く感じる。
手に吸いつく。
まるで、俺の体の一部みたいに。
「……なるほど」
俺は息を吐いた。
「なんだそれは!?なんなんだ!?」
ゼノの表情が歪んだ。
怒りか。
困惑か。
たぶん両方だ。
「ちっ…奴隷が…何をした」
初めて、声に棘が混じった。
「だから、知らねぇって」
俺は槍を構えなおした。
震えはとまっている。不思議と恐怖心はなくなっていた。
「ただ、まあ…」
右腕の鉄板が、紫電の残り火を弾いている。
その光を見ながら、俺は笑った。
「お前の剣、思ったより安物かもな」
ゼノが消えた。
紫電が一直線に伸びる。
さっきなら見えなかった。
今も、速い。
馬鹿みたいに速い。
だけど。
追える。はっきりと視界に捉えることができる。
俺は槍を斜めに入れた。
紫電の軌道に、鉄の穂先を合わせる。
衝突。
火花が爆ぜる。
槍の柄が悲鳴を上げる。
それでも、折れない。
俺は踏み込んだ。
ゼノの剣を外へ流し、肩からぶつかる。
「ぐっ……!」
ゼノの体が初めて揺れた。
軽い。
いや、俺の力が強いのか。
そのまま槍を袈裟に振り抜く。
ゼノは身を反らしてかわした。
銀の鎧に、細い傷が走った。
ゼノが後ろへ跳ぶ。
距離を取った。
さっきまで、距離を詰めていたのは向こうだった。
今、下がったのはゼノだ。
それを見た瞬間、俺の口から笑いが漏れた。
「はは…」
ゼノの顔から、完全に笑みが消えた。
屈辱か、ゼノの表情は怒りに歪んでいる。
ゼノは剣を構え直した。
紫電が膨れ上がる。
夜の空気が焦げる。
「調子に乗るなよ、奴隷風情が」
「はは…奴隷を前に貴族様が後ずさったんだぞ。今日は記念日だ。調子にも乗るってもんだろ」
ゼノが踏み込む。
今度は真正面。
紫電の剣が、何本にも増えたように見えた。
連撃。
一撃でもまともにくらえば致命傷になりかねない気配だ。
全部は捌けない、かわせない、無理だ。
肩が裂ける。
頬が焼ける。
脇腹の傷が開く。
それでも、直撃はない。致命傷じゃない。
右腕の鉄板が受け止めるたび、紫の火花が散った。
槍の穂先が剣を弾くたび、ゼノの顔が歪む。
そして、隙ができた。
ほんの一瞬。
ゼノの踏み込みが深すぎた。
俺は考えるより先に動いていた。
槍を短く持つ。
体ごと、穂先を押し込む。
「っ!」
穂先が、ゼノの肩を貫いた。
肉を裂く感触。
骨に当たる鈍い抵抗。
ゼノの口から、初めて悲鳴が漏れた。
「ぐ、あああっ!」
紫電が乱れる。
剣の光が、不安定に跳ねた。
俺はさらに押し込もうとした。
だが、その瞬間、視界が揺れた。
腹の傷。
血を流しすぎている。
足が滑る。
ゼノがその隙を逃さなかった。
ゼノの前蹴りが俺のみぞおちにふかくめり込む。
泥の上を転がる。
息が詰まる。
立て。
立て。
まだ終わってない。
俺は槍を杖にして、どうにか膝をつく。
ゼノは肩を押さえていた。
白い外套が赤く染まっている。
青の瞳が、俺を睨んでいた。
そこにあったのは、怒りだけじゃない。
警戒。
ゼノ・ヴォルティスの目が、俺を測っていた。
獲物ではなく、危険な何かとして。
「……なんなんだ君は…その力は一体…」
恨めしそうに俺を睨みながら言った。
「はは…貴族様でも知らねぇことを俺が知ってるわけねぇだろ」
そう言うと、ゼノの背後に、紫電が渦巻いた。
光が、ゼノの体を包んでいく。
俺は槍を握り直した。
けれど、足が動かない。
体が限界だった。
次が来れば、確実に捌けない。
それでも、生きるためには槍を構えるしかない。
ゼノは血が流れる肩を抑えながら、俺を睨んだ。
「名は」
「……あ?」
「君の名前だ」
こいつは何を言っているんだ。命のやりとりをしているこの状況で、名前なんて…。
そんなことを考えているとゼノが続けた。
「僕は名乗ったぞ。ゼノ・ヴォルティスだ。」
ゼノの目が細くなる。
貴族にとって、名乗りというのは大事なことらしい。
「ロウルだ」
声が、かすれていた。俺達、奴隷には家名を表す名はない。
「奴隷兵のロウル」
俺はそう言い直して、槍を持つ手に力を込めた。
「ロウル」
ゼノはその名を噛むように繰り返した。
「覚えたぞ」
「はは…悪いな」
俺は血を拭った。
「俺はお前のこと、もう忘れそうだ」
ゼノの顔が歪む。
紫電が一気に強くなり、次の瞬間、彼の姿は夜の中から消えた。

残ったのは、焼け焦げた泥と、血の跡だけ。
俺は大きく息を吐いて、その場にへたり込み、尻もちをついた。
自分の呼吸の音が大きい。
遠くで誰かが泣いている。
誰かが呻いている。
誰かが、俺の名を呼んでいる。
「ロウル!」
テオの声だった。
俺は振り返ろうとした。
でも、体が言うことを聞かなかった。
右腕の鉄板が、ぼろりと音を立てる。
形を保っていた鉄が、少しだけ崩れた。
完全に消えたわけじゃない。
泥に戻ったわけでもない。
ただ、俺の力が抜けるのに合わせて、縁が欠け、熱を失っていく。
槍の穂先も同じだった。
そこに残っている。
けれど、さっきまでの生き物みたいな感触は消えていた。
俺はそれを見て、ぼんやりと思った。
何なんだよ、これ。
その答えを考える前に、全身の力が抜けた。
仰向けに倒れ、テオが駆け寄ってくるのが見えた。
ガーンの怒鳴り声も聞こえる。
「馬鹿野郎! 生きてんのか、若造!」
俺は返事をしようとした。
軽口の一つでも返そうと思った。
けれど、声が出ない。
ああ、喉がカラカラだ。

女性の声がまだ耳の奥に残っていた。
――生きて。

ああ。
生きてるよ。
たぶん。
そう思ったところで、俺の意識は泥の中へ沈んだ。


テオは、ロウルの傍らにある、泥の中に残った槍を見た。
奴隷兵の手には、ありえない重さの鉄。
黒みがかった鈍い銀色の鉄の穂先。
それは、確かにそこにあった。


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