吉田さん
「『なるほど』っていう言葉はな、もともと上の立場の人が下の立場の人に対して使う言葉やねん。岩本くんはよく僕に『なるほど』って言うけど、ほんまは使うたらあかんのよ。」
仕事終わりの帰り道に先輩はこう僕に話した。僕が「へぇ〜そうなんですね。なるほど…」と言うと、先輩は「お前また『なるほど』言うてるやん!』とすかさず突っ込んでくる。どうでもいいことのように思えたのだが、先輩にとっては僕が思うほどどうでもいいことではないようだった。
先輩はいろんなことに対してうるさい人だった。うるさいと言うと語弊があるかもしれないからあえてとても前向きな言い方をするならば、こだわりの強い人だった。言葉遣いに、時間を守ることに、仕事に。そして、そのこだわりの強さ(うるささ)は僕にとって決して悪い意味ではなく、先輩を好きな理由の一つであることは間違いなかった。
いつもみたいに今日の仕事の話をしながら自転車をこぐ。駅の駐輪場の手前にある先輩のアパート付近まで来たら、そのコーナーでいつもみたいにそっけなく「おつかれ〜」と言われて、いつもみたいに僕は角を左に曲がり、いつもみたいに電車で帰っていくのだった。その先輩の名前は、吉田さんといった。
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吉田さん、と小さな声で口に出してみた。それは「声をかけた」のではなく、ただぼそりと「口に出した」に過ぎなかった。同じ電車の中、近くに立っている男性の横顔が、吉田さんにそっくりだったのだ。でも、吉田さんなのかどうか確信が持てない。もし彼が "吉田さん" であれば、どんなに小さな声であっても聞き逃さないだろう。そう思ってのこの呟きだった。
実のところ、──これは本当のことなのだが、その日たまたま吉田さんのことを思い出していた。それとなく、どうしているかな〜と気になって、いろいろなことを反芻した。仕事を辞めてからも何度か一緒に飲んだことがあったのだが、携帯電話を替えたタイミングでLINEの連絡先が消えてしまい、それっきりだった。電話番号は知らなかった。つまるところ吉田さんとの連絡手段が絶たれて以降のことは、何も知らなかった。
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吉田さんは僕にとって一番最初の仕事の先輩だった。新卒で入った大阪の小さな会社に吉田さんはいた。歳は一つ上で、僕に仕事の基本的な部分を教えてくれた。
先輩はとても器用なタイプの人だった。自分では「器用貧乏っていうんかな。どれも中途半端やねん。」と言っていたが、僕はそうは思わなかった。少なくとも、不器用で何事にも時間がかかってしまう僕には羨ましくなるような仕事ぶりだった。
僕は吉田さんによく怒られたし、それで悔しい思いもたくさんしたけれど、吉田さんに言われたたくさんのことの中に「理不尽なこと」は一度もなかった。すべてに説得力があった。だから僕は素直に言うことを聞けたし、そのおかげで、少しずつだけれど、いろんな仕事をしっかりと覚えることができた。
会社は、コーヒーの焙煎を事業としていた。大学時代コーヒーが好きになったことでこの会社の門を叩いた僕とは異なり、吉田さんは広く食品関係を志望しての入社だったとのことだ。
僕がほんのわずかかじった程度のコーヒーの知識を自慢げに言うだけで、吉田さんは「岩本くんはほんまよう知ってるなぁ〜。」と感心するように言うのだった。あるとき僕が、自家焙煎のカフェを開くことが夢だと言ったとき、嬉しそうに「おれ絶対行くから、ちゃんと開いてな!」と言ってくれた。
それ以降、僕が仕事でミスして落ち込んでいるときにも、これからのことに不安を見せても、吉田さんは「岩本くんは大丈夫や、きっと美味しいコーヒー作るよ。」と声をかけてくれた。それはとても強い魔法だった。おこがましいけれど、いつか自分が作った美味いコーヒーを飲んでほしい、と思った。そう思うことで頑張ることができた時期が確かにあった。
吉田さんは、僕より先に仕事を辞めた。寂しい気持ちはもちろんあったけれど、それよりも、自分のあとに入った後輩に対してしっかりと背中を見せていこうと強く思った。それは紛れもなく吉田さんが僕に見せてくれたものだった。先輩が去ったあとの職場で、僕はそれを必死でやった。吉田さんのようにできていたかは分からないけれど、これまでの人生の中ではよくやった方だと自分で言える程度にはよくやったと思う。
吉田さんが辞めた約一年半後には僕も仕事を辞めてしまったけれど、吉田さんが見せてくれた背中とかけてくれた言葉は、まだありありと僕の中で生きている。
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暗くなってきた外を眺めていた。吉田さんと思わしき男性も同じように外を眺めている。鬱陶しいくらい長い髪の毛も僕より少しだけ低い背丈も記憶の中の吉田さんと大体同じだが、マスクをしていることもあってかどうしても確信が持てないでいる。
もう一度、吉田さん、と呟いてみる。ふっと2年前のことを思い出した今日、ここで彼が本当に吉田さんであれば何と劇的だろうかと思ったが、反応がないところを見るとどうやら吉田さんではないらしい。揺れていたワンマン車両が停止した。男性は、僕が降りる一つ前のこの駅で先に降りていった。吉田さんであることも吉田さんではないことも確認できなかった僕は、結局その男性に声をかけることなく、ただ背中を見送るだけだった。
開いたドアから車内の空気が抜けていく。物語のようには上手くはいかないシーンはほんの少しだけ僕を残念な気持ちにさせて、次のシーンに流れた。また外の方を見た。物語のようには上手くはいかない。でも何だか、いつか本当にどこかでばったり会えるようなそんな予感も新しく生まれていたのだった。
もし会えたら、きっとすぐに飲みに行こう。そして吉田さんの話に「なるほど。」なんて相槌を打って、「お前また…!」なんて口うるさく突っ込まれるんだ。
不確かな未来を、確かにあった過去でつくった。少しだけ視界が明るくなった。

