パクチーのにおいはもうしないが
寸胴鍋を洗っている最中になぜかパクチーのにおいがした。
パクチーなんて調理には使っていないんだけどな〜なんでだろ。そんな疑問もそこそこに、クンと香るそのにおいは一瞬で懐かしさを帯びて、たった少し前の、しかしながらすっかりと忘れていた記憶を鮮やかに呼び起こした。
昨年の5月に子が生まれた。新緑が豊かに揺れる季節、瑞々しい身体と魂は僕たち二人が住んでいたワンルームに小さく小さく佇んでいた。
もうとにかく愛おしくて仕方がない。
子を前にした僕たちは、その存在を愛でて愛でて愛でるばかりだった。すべてが初めてのことで大変な場面も当然たくさんあったが、しかしそれでも、まだ慣れ切っていなかったあの時期ですら、毎日が幸福でしかなかった。
痛くないであろうギリギリの強さで抱き締めた。やわらかな頭をちょうど同じ輪郭で包むように撫でた。無垢の頬に脂の乗り切った自分の頬をすり寄せた。首元、胸元、頭、うなじ、お腹、手足、というか目に入ったぷっくりとした皮膚の、そのすべてのにおいをかいだ。
まだ生まれてから一ヶ月も経たないうちに、おもしろいことが分かった。それは子の口元の匂いをかいでいたときのこと。既視感ならぬ既嗅感が僕の鼻先をかすめて消え去った。
「パクチー」
クンと香ったそれは、独特のにおいでお馴染みのパクチー。ともすれば嫌いな人もいるだろう。僕も実はあまり得意ではなかった。しかしそのにおいが自分の子からしたとあればあら不思議。
パクチー!?
神秘的…!!(何が?)
子の口からパクチーのにおいがすると誰が予想できただろうか。そんなお口パクチーは一日限りの話でもなかったようで、翌日も翌々日も同じにおいがしたのだった。これがまた不思議と癖になる香りで、以降の僕は子に顔を寄せては口元に鼻をスライドさせるようになる。鼻腔の奥のほうで「パクチーじゃん」と笑ってしまう感じが何かよかった。
あるとき、そのパクチーのにおいがパッタリと消えてしまっていることに気が付いた。
あれ?と思った頃には遅かったようで、もう子の口元にパクチーを感じることはなくなってしまった。徐々になくなっていったのだろうか、もしくは急になくなってしまったのだろうか。いずれにせよ今は完全に失われてしまっており、ただただ呆気に取られるばかりだ。
思えば似たようなことはこれまでにたくさんあった。「えい!」という不発のくしゃみも、眠たいときに出していた「あーあーあーあーあー」という声も、寝ているときに急にビクッと両腕を上げるのも、両親が飲み物を飲むのに合わせて「アァ…!」と感嘆を表現してくれるのも、全部いつの間にかなくなっていた。つい最近では、子は支えなしでだいぶ歩けるようになってきたのだが、おそらく近いうちにハイハイもやらなくなるだろう。
成長に伴い失われていくものがある。その物寂しさが子と過ごす日々には付き物なのかもしれない。この一年間で身をもってそう感じたのだった。

子はこれから先も、乳児性や幼児性のようなものを一つ一つ手放しながら大きくなっていくのだろう。呆気に取られるほど、不意になくなってしまうものも多々あるに違いない。
だが「物寂しさ」と書いたそれが同時に「喜び」でもあるということは明らかだ。親として、彼のそのステップを大いに楽しみながら見守っていきたいと思う。
そしていつの間にか失われたもののことも、いつの日か妻と二人で振り返る事ができるといい。これからも彼の成長を書き残していこうと思う。パクチーのにおいはもうしないが、パクチーのにおいがしたあの日のことや感じた気持ちを愛おしく懐かしむ。そういうことのために。
