赤ちゃん連れで乗ったバスが、世界を広げてくれた
赤ちゃんと二人きりの部屋から一歩外へ出て、誰かと触れ合う。
「私はこの街の一員なんだ」
そう思えたことで、張り詰めていた心がすっと穏やかになった、
そんな私のとある子育て経験談を書いてみます。
都会で暮らしていた頃のこと。
お腹に待望の赤ちゃんを授かり、区役所で母子手帳を受け取ったとき、
一枚のチケットを手渡された。
「子どもが1歳になるまで使える、コミュニティバスの無料乗車券」。
路線バスではなく、100円で街を巡る小さなバスのチケットだった。
この一枚をきっかけに、私は気軽にバスを利用するようになった。
それまでの私は、平日は朝と夜しかこの街にいない会社員だった。
けれど産休に入り、平日の昼間にバスに乗ってみて、少し驚いた。
――この街にはこんなにおじいちゃん、おばあちゃんがいたんだ。
――子連れのお母さんも、こんなにたくさん。
毎日の通勤の往復だけでは決して見えなかった、
街の「昼の顔」を初めて知った。
子どもが生まれてからは、抱っこ紐やベビーカーを携えての乗車になった。
最初は、本当に勇気がいった。
妊婦のときとは大違いだ。
ベビーカーはどう畳めばいいのか、車内で泣き出したらどうしよう、
大荷物を抱えてスムーズに乗り降りできるだろうか……。
不安を抱えながら、新米ママの小さな挑戦だった。
ドキドキしながらバス停に立つ。
しばらくして、お目当ての小さなバスが速度を落として近づいてきた。
抱っこ紐の中の我が子に、「バスが来たよ〜」と声をかける。
それは、自分自身の緊張をほぐすための言葉でもあった。
チケットを手に、一段ずつステップを上がる。
「あ、ゆっくり乗れた」
急かす人は誰もいない。
バス内には、ベビーカーの赤ちゃん連れで乗っている先輩ママの姿もあった。その自然な日常の光景に背中を押されるようにして、
私の中の緊張が、すうっと安堵へと変わっていった。
そうして赤ちゃんとバスに乗るようになると、
不思議と誰かが声をかけてくれることに気づいた。
「あら、かわいいわね。今、何か月?」
後ろの席のおばちゃんと、ちょっとした会話が始まる。
「私の孫もね、、、」と続くおばちゃんの屈託のない話を聞きながら、
胸の奥がじんわりと潤っていくのを感じた。
日中、言葉の通じない赤ちゃんとだけ向き合っていた私にとって、
それは社会とつながれた、たまらなく嬉しい瞬間だった。
「迷惑をかけないように」と張り詰めていた心の糸が、ほどけていった。
ある日の帰りのバスで、抱っこ紐のなかの赤ちゃんが激しく泣き出してしまったことがある。
おろおろと焦る私に、周りのおばあちゃんたちが次々に声をかけてくれた。
「お腹がすいちゃったのかしら」
「ちょっと暑いのかもね」
「ほら、よしよし。いないいないばあ!」
そうやって、あの手この手で泣いている赤ちゃんをあやしてくれたり、泣いている理由を探してくれた。
そんな温かい「お節介」に胸が熱くなり、今度は私が泣きそうになってしまった。
またある日は、隣に座った小学生に真剣な顔で尋ねられた。
「男性ですか? 女性ですか?」
赤ちゃんに向けられた、あまりに丁寧な表現に、思わずクスッと笑いがこぼれた。
乗るときにベビーカーを持ち上げてくれる人。
サッと席を譲ってくれる人。
言葉はなくても、赤ちゃんにニコッと微笑んでくれる人。
降りる間際に、さりげなく手を振ってくれる人。
家にいれば、子どもと二人きりの閉ざされた世界。
けれど一歩バスに乗れば、
そこに居合わせた人たちとささやかに関わることができる。
それだけで、「私はこの街とつながっている」と思えた。
この街の人たちに、子育てを見守ってもらっているような安心感。
一人で背負い込んでいた育児の重圧が、
少しずつ軽くなっていくのを感じた。
いつしか、バスに乗ること自体が楽しみに変わっていった。
「今日は一つ先の停留所の児童館まで行ってみよう」
それは、私たち親子の小さな冒険だった。
無料チケットのおかげで、「歩こうと思ったけれど、ちょうどバスが来たから三つ先まで乗っちゃおう」という気軽さも、
とても心地よかった。
◇
その後、地方へ移住した私は車社会の住人になった。
手に入れたのは、誰にも気兼ねせず、泣き声で人の目を気にすることのない軽自動車のハンドル。
たしかに快適だけれど、あのバスの中で感じた「誰かに見守られている安心感」が、ときどき恋しくなる。
今のこの街では、赤ちゃん連れでバスに乗っている人を見かけることはほぼない。
けれど、たまにあえてバスに乗ってみると、それだけでおもしろい。
先日は、紫色の鮮やかな髪をした大学生たちと同じ空間に揺られた。
普段はすれ違うことさえ少ない世代。
そんな彼らと席を並べるだけで、狭くなっていた視野がふっと広がる気がした。
もしこの街のバスでも、赤ちゃん連れをときどき見かけるようになったら――。 今度は私が、あの時のおばあちゃんたちのように話しかけてみたいな、なんてぼんやり妄想している。
私にとって赤ちゃん連れでのバス移動は、
外の世界とゆるやかにつながる窓口だった。
たまには車でもなく自転車でもなく、バスに乗ってみる。
ただいろんな世代の人と同じ空間に居合わせるだけで、
地方の車社会でも、ささやかな「街とのつながり」が
生まれるのかもしれない。
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