「幸せ」の正体について
誰もが「幸せになりたい」と願うのは当然のことであり、人生の永遠のテーマだといってもいいくらいだろう。
そんな私も、生まれてこの方ずっと心の奥で「幸せであること」を求め続けてきた。いまでもそう願う瞬間がないわけでは決してない。
幸せの正体について私の体感を話してみたいと思う。
幸せを求めて努力し続けた日々
子供の頃は、親から褒められたい、一身に愛情を受けていたいと願って、いい子であろうと努力する。独立して社会に出てからも、漠然とした不足感から、今の自分ではない理想の自分を目指してひたすら頑張っていた気がする。自己啓発本や世の中に溢れるサクセスストーリーに幸せ像を重ねて、より高みを目指すことが美徳であると信じてきた。
しかし、そうした努力は必ずしも報われるわけではない。むしろ報われないことのほうが多かったように思う。その度に、深い失望と無力感を味わってきた。たとえ一時的に欲求が満たされたとしても、新たな不足感がむくむくと湧き上がってきて藻掻き続ける日々に終わりはない。まるで無限地獄のようなものである。
といっても、そうした努力がまったく無駄で否定されるべきものでもないと感じる。なぜなら、その結果得られるものがあったのもまた事実だからである。目指す理想像ではなかったとしても、周囲からの承認、日々の生活の安定、大切な人とのつながりなど有形無形の豊かさもそれなりには享受できたと思う。
幸せの「在りか」に気づいた瞬間
なのになぜ、もっともっと幸せになりたいと願うのか?
繰り返す不足感の無限ループの日々のなかで、あるときふと気が付いた。
まずは私が私自身を認めてあげればいいのではないか。
ずっと自分の外側にあると考えていた幸せの理想像が、自分が創り出した幻想であり、探し求めるまでもなくほんとうは自分の内側に初めから「あった」んだという事に。
そう気がついた瞬間に、焦りや不安、不足感といったネガティブな思考がどこかに行ってしまった。あー、これでよかったんだ。この感覚こそが「幸せ」なんだ。そんな体感を味わった瞬間だった。
自分と外側の境界線が溶けていく
といっても目の前の現実が変わったわけでもなく、いわゆる日常の不都合な問題は何も変わらない。仕事上のトラブル、煩わしい人間関係、家族の問題、混沌とした社会情勢。ただ、それらがさほど重たくは感じないのである。外側にあると感じていたそれらもまた、愛すべき私の一部なんだという感覚が立ち上がってくる。善悪、正邪、幸不幸、あるいは自他といった概念を超えた感覚といってもいい。そうすると不思議なことに、ちっぽけな自尊心や執着心が薄れ、これまで身に着けていた心の鎧が剥がれ落ち、自分だけでなく他人のあるがままもまた認められる瞬間が増えてきた。これまでよりも自然体で生きられるようになった。
ほんとうの自分に気づく事で得られる普遍的な幸せ
幸せの正体に気づくきっかけとなったのは、忘れかけていた本来の自分自身を取り戻した体感だったといえる。つまり、それまでの私は、自分の外側に創り出した幸せを求める(=現在の自分自身を否定する)ことで、自分の内面にもともとあった幸せを見逃がしてしまっていたのである。ほんとうの自分に気づく=ありのままの自分を受け入れることで得られたのは、外側の環境に左右されない普遍的な幸福感であった。
幸せの正体は外側に求めて得られるものではなく、自分自身の内面の価値に気づく事なのかもしれない。
