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右が噴いてる!

もう半世紀近く前の話ですが、「恋人がサンタクロース」という歌謡曲がありました。この歌を聴くたび、それを地で行くようなお洒落で背の高い女性パイロットがいたのを思い出します。
自分より操縦がうまいと感じたエアマンは、今まで数えきれないほど沢山いますが、彼女の操縦は「自分にはとても敵わないレベル」でした。何せ飛行機を操縦しているというより、彼女の魔法でシップがサーっと「旋風を追い越して飛んでいく」という感じなのです。操縦桿は指3本で軽く押さえ、ガチャガチャ押したり捻ったりしません。まるでサンタがトントンと鞭で合図して、トナカイの橇で天空を駆けていくみたいな操縦なのです。もちろんフライト前の下準備は入念で、ディスパッチャーからのブリーフィングは確認程度。自分の予想でFlight Level等を組み立てていました。「目的地の30~40NM手前で前線がありますから、ちょっとだけダンク(階段式降下)で降りていきますけど…」と熟考の上でProactiveなフライトが持ち味でした。私生活も円満で、子宝にも恵まれ、途中休暇を挟んだものの、30代半ばで機長発令されるだろうなぁと、周囲も心待ちにしていました。彼女のような先輩キャプテンがいれば、後進女性の手本になると期待されていたのです。
ところがある時期、彼女の体調について心配な噂を耳にしました。Preflight Checkの後、Cockpitに戻ると苦悶状で、息が上がっているというのです。原則この作業は目視確認だけなので、力仕事ではありません。あるキャプテンからは、「瞬きではなく、数秒目をつむっているのを見た」とも聞きました。きっと何か心身に不調があるのではと思い、ある日さり気なく声をかけて話を聞いてみたのです。
この不調の原因は、機長昇格訓練の重圧でも、家庭生活の不和でもありませんでした。日常生活で息切れ、胸苦しさ、それに時折り突如として起こる眼前暗黒が近頃よくあるというのです。今までの航空身体検査で異常は指摘されておらず、この不調は腑に落ちませんでした。彼女は「大丈夫。頑張ります!」と言うものの、「これから機長として乗員乗客の命を預かるだけでなく、可愛い子供たちを健やかに育て上げる義務があるんだよ」伝えると、キラキラ光る瞳から大粒の涙がこぼれて、返答はありませんでした。
事を大げさにしたくはなかったので、一計を案じて甥っ子に連絡を取りました。彼は大学病院の救急部で働いていて、当時高価なポケットサイズの小型超音波エコーを持っていたのです。二人をさり気なく自宅へ呼び、うまいこと話を付けて、彼女の心血管エコーを行いました。その時、甥っ子が口にしたのが「右が噴いてる!」だったのです。
エコーで見ると、彼女の右心には血液が充満し、右心房と右心室をつなぐ三尖弁は完全に閉鎖しなくなって、大静脈から心臓へ戻ってきた血液がスムーズに肺へ流れ込まない不全状態でした。その行ったり戻ったりの乱流が、Doppler Echoでは接近:赤色、離遠:青色で表示されます。動画で見ると、彼女の右心はまさに火を噴いているみたいでした。そして、この原因は異常に太く膨らんだ肺動脈にあり、いわゆる肺高血圧症だったのです。
高血圧というと高齢者の病気とイメージしがちですが、肺高血圧は30~40代の女性にも多い病気です。全身の大循環で、高血圧とは140mmHgを超えるレベルですが、右心→肺→左心の小循環では、20mmHg以上が高血圧なのです。
彼女へ病況を説明し、自分の健康のために精密検査を受けてみようと提案しました。それは即ち、昇格訓練だけでなく、乗務から離れることを意味します。暫くして彼女は、襟元に付いていたウイングマークのバッチを外して現れました。「バッチは暫く預かって貰うだけ。今はしっかり検査を受けて治療しよう」と励ましたものです。
若年女性の肺高血圧症は、今日の医学でも分からないことだらけです。遺伝子変異による家族性も知られていますが全体の1~2割に過ぎず、半分ほどは特発性、即ち原因が特定できないとされています。彼女も画像検査、甲状腺検査、膠原病検査等など、色んな検査を受けても原因は突き止められませんでした。女性の肺動脈はエストローゲン(女性ホルモン)の作用で内膜が肥大して、内腔が狭窄化することが知られています。彼女はかつて望まない妊娠があったこともあり、低用量ピルの常用者でした。そのことを酷く悔やんでいましたが、それが原因とは断言できません。この病気の専門家に尋ねると、女性ホルモンは肺動脈の再拡張・修復にも寄与するらしく、病因でもあり、治療法にもなる矛盾した二面性があるようなのです。
結局、彼女はカテーテルで肺動脈の内膜を削り取って血管を拡張し、内服薬で肺動脈を拡張・維持させる治療で、当初の症状から脱却することが出来ました。けれども彼女の胸元で輝いていたバッチは、とうとう本人の襟に戻ることはありませんでした。他人事ながら何とも悔しく感じたものです。
後年、かつての同僚から「子供をママチャリに乗せて、毎日元気に幼稚園へ送迎している」と、その後の様子を聞きました。”The sky’s the limit”~天空を駆ける夢は途絶えても、彼女の人生は無限に広がって行くことを、颯爽と自転車をこぐ彼女を目に浮かべながら祈念しました。

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