【小説】透明度の高い春
熱いアスファルトに後頭部を打ちつけた。彼を轢いた車は、止まることなく彼方に去っていった。今彼の目の前に広がる夏空は、あまりにも青々としていた。薄れていく意識の中で、彼は自分の人生を呪った。大切にすべき人を大切にできなかった。自分の気持ちを口にしたことは、ついぞなかった。
目の前が赤黒く染まっていく。夏が、彼の人生が、終わろうとしていた。
1
物が勝手に動くのは、車の走行や電気モーターによる常時微動によるものだし、心霊写真や壁に見える人の顔はシミュラクラ現象であると言われている。すべての心霊現象と呼ばれるものには本質があり、それを解明すれば、夜中に一人でトイレに行くことだって屁の河童なのである。
だから、そこの電信柱の陰でじっとこちらを見つめている髪の長い裸足のお姉さんも、きっと物理学的に解明できるなにかなのだろう。いや、そもそもただの酔っ払いかもしれない。図書館で借りた粒子物理学の本を片手に、八神千(やがみち)隼(はや)は俯きながら足早にその女性の横を通り過ぎて帰路を急いだ。すれ違うときに耳元でなにかを言われた気がしたが、気にせず進んだ。
駅に着くと人の多さにほっと胸を撫でおろした。これだけ人がいたら、いくらこの中に幽霊がいようと気にならない。電車の時間まではまだ少し時間がある。千隼はホームのベンチに腰を下ろした。
「あの、その本、なんですか?」
持っていた本を開いた途端、すでにベンチに座っていた女が覗き込んできた。
「え、あ、物理粒子学の本、ですけど」
千隼が訝しげに答えると、女は目を丸くして千隼を見つめてきた。「わたしのことが見えるの?」
しまった。この人は関わってはいけない種類の人間かもしれない。今から無視をして間に合うだろうか。千隼は本の内容に集中しようと、思い切り息を吐き出した。
「わたしの声が聞こえる人に初めて出会えたよ」
千隼の心情などお構いなしに、女は話し続けた。「霊感あるんだね」
「霊感なんてないです」無視しようと思っていたのに、思わず答えてしまった。千隼は本のページを繰りながら、ぶっきらぼうに言った。「というか、幽霊なんていないです」
童謡『オバケなんてないさ』を作った人には、これ以上ない方謝の念を表したい。そう、この世には幽霊などというものはいないと千隼は頑なに信じていた。
小さい頃から、母に叱られるたびに「オバケが来るよ」と言われてきた。嫌いな食べ物とにらめっこしているとき、夜なかなか眠れないとき、おもちゃを片付けなかったときなど、お決まりのセリフを言われたタイミングを挙げればキリがない。そんなときはいつも、母の背後や窓の外、棚の横に、すうっと見知らぬ誰かが恨めしそうな顔でこちらをじっとりと覗き込んでいた。母に、あの人は誰なのか何度も聞いてみたが、母は気味悪がった顔をするなり、「きっとオバケが食べに来たのかもしれないね」などと吐き捨てて家事に取り掛かるのだった。当時はその見知らぬ誰かを幽霊だとは思わなかったし、今でもそれが幽霊だったとは認めたくない。なぜなら、単純に怖いからだ。
「オバケが来るよ」と母に脅されながら勉強をしていくうちに、千隼はどんどん知識を身につけていった。その結果、幽霊という概念は科学的に証明できるのではないかと思うようになった。
ホームにアナウンスが響いた。そろそろ電車が来る。千隼は本を閉じ、カバンにしまった。
「あのね、君にしか頼めないお願いがあるの。一生のお願い! あ、わたし死んでるんだっけ」
ホームに電車が滑り込んできた。ふわっと一陣の風がホームに吹き込んできた。
千隼はベンチに座ったまま、動けなかった。女の寒いギャグで金縛りにあったわけではない。
君にしか頼めない。
なにを根拠に女は言ったのだろうか。千隼が逡巡しているうちに、電車のドアが開いた。ホームに列をなしていた人たちが、どっと車内に吸い込まれていった。
「君しかいないんだよ」女はもう一度言った。
「なんで」なんで俺なのだろう。千隼は目線だけ女の方を向いた。小顔でウルフヘアがよく似合っている。色白の肌に、吊り上がった涼しげな目とすっと通った鼻筋が、彼女のクールさを際立たせているが、ぽってりと厚い唇がそこにほんの少しの甘さを加えていた。まるで袴のようなワイドパンツに柄シャツをインしている。
女は千隼と目が合うと、寂しそうに微笑んだ。「わたしの声が聞こえるのは、君だけだから」
幽霊なんているはずがない。この人は俺のことをおちょくっているんだ。千隼はそう自分に言い聞かせ、立ち上がってカバンを背負った。
「幽霊の存在は信じなくていいから! わたしのことは、なにかの物理現象だと思ってもらって構わないから!」
発車ベルが響いている。すでに電車のドアが閉まろうとしていた。
「例えば」女は続けた。「わたしの頼みを聞いてくれたら、もしかしたらわたしの声が君にしか聞こえない現象を解明できるかもしれないよね」
千隼は顔を顰めた。この女の頼みごとと、この女の声が自分にしか聞こえない現象の解明にはなんの繋がりもない。そもそも、この女の幽霊が有害でないとどうして言えるだろう。しかし、千隼の関心は抑えきれないものになっていた。幽霊の正体を解明できる可能性があるなら、この話に乗ってみたい。千隼は再びベンチに座った。どちらにせよ、次の電車が来るまでまだ時間はある。
「聞くだけ聞きます」千隼はため息をついた。
女はにっと笑って、体ごと千隼に向き直った。
「その前に、自己紹介しておくね。わたしの名前は浅桜紺(あさくらこん)。多分この駅で電車に轢かれて死んだんだと思う」
「死んだんだと思う?」
「基本的に生前のことは、なにも憶えてないの」
なにも憶えていないと言った紺と名乗るその女の顔は、妙にあっけらかんとしていた。
「それなのにどうして自分の名前は憶えてるんだって顔してるね。それはね、わたしの死体が身につけていた財布に身分証明書が入ってたんだけど、そこに書いてあったからわかったんだよ」
「どうやって自分の財布の中身を見たんですか? まさか霊視だなんてくだらないこと言わないですよね」千隼は肩を竦めた。
「わたしの死体が線路から引き揚げられたときに、警察がわたしの体をまさぐって手に入れた財布を覗き見た」
「それが自分の体だってなんでわかるんですか」
「そりゃあ、わかるでしょう。だって、それまで自分の魂が結びついていたんだよ?」
千隼はぐうの音も出なかった。そういったスピリチュアルなことになると、なにも反論できない。生身の体でそんな体験をすることは不可能だ。
「それでね、財布には他にもいろいろ入ってたんだけど、その中にホストの名刺が一枚入ってたんだ」
「お姉さん、ホストに行ってたんですか」
「意外?」
正直意外だった。ホストに通っている人は、もっと地雷系の人だったりフェミニンな服を着ている人ばかりだと思っていたが、紺はいわゆる中性的なビジュアルだ。男に興味がなさそうと言えば聞こえは悪いが、他人に、しかも水商売をしている男に依存するような人には見えなかった。
「八神千隼くん、っていうんだね。いい名だ。へえ、高二なんだ」ふーんと言いながら、紺は悪戯っぽく笑った。
「なんでわかったんですか」思わず千隼はのけぞった。
にやりとして紺は言った。「簡単だよ。千隼くんが読んでいた本についている貸出用のバーコードに学校名が書いてあったから、君が高校生だというのは最初からわかってた。千隼くんの学ランの襟もとについてるⅡBってバッジ、それってクラス章だよね。二年B組なのかな? それと、さっき君が本をカバンにしまおうとしたときにノートが見えたんだ。そこに名前が書いてあったから、君の名前なのかなと思って」
千隼の体からどっと力が抜けた。一種の霊能力かもしれないと、一瞬でも思ってしまった自分を恥ずかしく思った。
「それで千隼くん、改めて君に頼みがあるんだ」真面目な顔で紺は言った。「ホストを探してほしいの」
2
日が暮れた繁華街は、派手な格好をした男女で溢れていた。道路の両側には客引きのホストやコンカフェ嬢が立ち並び、道行く人に声を掛けていた。通行人も若い男女が多く、白やベージュ、ピンクでフリルのついたフェミニンな格好をした女の子や、全身をブランド品で着飾った男、中には観光で来ているのかスーツケースを転がす外国人の姿が目についた。この街でなにかが起こることを期待しているかのような面持ちで彼らは歩いていく。
千隼は内心怯えながらその中を歩いた。金と酒で関係を築く、自分とは住む世界の違う人たちが呼吸する街。千隼は俯きながら早足で目的の店へと急いだ。
学ランのままだったせいか、キャッチに声を掛けられることもなく目当ての店先までたどり着いた。
CLUB(クラブ) vita(ヴィータ)。紺が探しているホストが所属していた店だ。
「ホストを探してほしいの」
駅のホームで言われた言葉に、千隼は目を剥いた。ホストの名刺の話が出たときにまさかとは思ったが、そのまさかだった。
「なんでそのホストに会いたいんですか」千隼は呆れた色も隠さずに紺に聞いた。
「いやあ、なんでだろうねえ」頭を掻きながら、紺は冗談っぽく言った。
千隼の眉間に自然と皺が寄った。会いたい理由もないのに会いたいだなんて不毛だ。
「でもさ、わたしって自分で言うのもなんだけど、ホストに行きそうなキャラではないじゃない? それにホストの名刺が入ってたにしても、一枚しか入ってないのって不自然な気がするんだよね」
「不自然?」
男子高校生がホストクラブの常識など、知るはずもない。なにが自然でなにが不自然なのだろうか。
「普通初めてホストに行ったらさ、何人かのホストが自分の席に着いてくれて、着いてくれたホストは名刺をくれるんだよ。それなのに、わたしの財布には一枚しか入ってなかった。どういうことなんだろうね」
「自分の名前も憶えてないのに、ホストの仕組みは憶えてるんですね」
「いいから」
千隼はあからさまに不満の吐息を吐き出した。「他の人の名刺は家に置いてきたんじゃないですか? それか、その名刺のホストに会うためにホストクラブに行ったとか」
「なるほどねえ」紺は深く頷いた。「でも、他の人の名刺は違うところに保管して、特定のホストの名刺だけ持ち歩くってことは、その人はわたしにとって特別な人だったってことじゃない? 名刺のホストに会いに行くためにホストクラブに行ったっていうのも同じ理由。その特別な理由を、わたしは知りたいんだ」
「自分で行けばいいじゃないですか」千隼は今度こそ立ち上がろうとした。
ちょうど次の電車がホームに滑り込んできた。
「できないんだよ」紺の寂しげな声が、電車の音に紛れた。
「え?」
楽しそうだった紺の表情に、少し影が差したように見えた。
「ほら、なんていうか、駅から出られないというか、縛られてるというか、地縛というか……ここから動けないんだ」
さっきまでなにも考えていないような、どこか他人事のように飄々と話していた紺の声が震えていた。きっと自分で探せるなら探していたのだろう。動けなくて、会いにも行けず、なぜ彼のことが気になるのか理由もわからないまま、この場に縛られていたのか。
「……そのホストさんの名前とお店の名前、教えてください」
「おお!」紺は目を輝かせた。「ありがとう!」
千隼はカバンからノートを引っ張り出した。
「そのホストの名前は、ハル。CLUB vitaってお店で働いてるみたい」
ホームに停車している電車は、先ほどの電車よりも乗客の数が少なかった。千隼はホストの名前と店名、その店の住所をノートに書き写し、おもむろに立ち上がった。
繁華街に向かう電車は反対側のホームから乗るしかない。そうして千隼は、普段は絶対に近づかない繁華街に向かうこととなったのだった。
「ここか」
千隼は看板を見上げた。独特な源氏名とともに、端麗な容姿の男性の写真が大々的に、煌びやかに貼りだされている。しかしどの写真にも、ハルというホストは見当たらない。
千隼が重厚で無機質な扉のドアノブに手をかけると、ひんやりとした冷たさが手のひらを伝ってくる。ゆっくりとドアノブを押すと、扉の向こうが見えた。赤い絨毯が敷き詰められた細い階段が下に向かって伸びている。
千隼が息を呑んで一段ずつ階段を下りていくと、受付と思われるカウンターが見えてきた。カウンターの中にいる背広の男は、忙しそうに手元の端末を操作していたが、千隼を見るなり、表情を凍りつかせた。その表情を見た千隼もぎょっとしたが、考えてみれば自分は制服のままホストに乗り込んでいる。そしてなにより、男の自分がホストに入店するのもそもそもおかしいのかもしれない。
千隼がその場で固まっていると、背広の男がこわばった営業スマイルを顔に貼りつけた。
「こんばんは。どうしましたか?」
はっとして千隼は足早にカウンターに近づいた。一刻も早く、この場違いな空間から立ち去りたい。「あ、えっと、探してる人がいまして」
背広の男は、首を傾げながら困ったように頭を掻いた。そしてすぐに、ちょっと待っていてください、と店の奥に姿を消した。
千隼は店内に目を向けた。薄暗い店内にはいくつもの豪華絢爛なシャンデリアが飾られており、革張りのソファがそこかしこに置かれていた。まさに高級感が前面に押し出された装飾に、千隼は圧倒された。
ほどなくして、背広の男がもう一人男性を連れて戻ってきた。ブランドものらしいタートルネックのニットを着て、髪もナチュラルにセットされている。
「こんばんは。代表の瀬那(せな)です」瀬那は透明感のある涼やかな笑顔を千隼に向けた。「誰に用があるって?」
良かった。優しそうな人が出てきてくれた。千隼はほっと息をついて、瀬那に聞いた。「えっと、ハルさんはいらっしゃいますか?」
「うーん」瀬那は困惑した目つきのまま腕を組んで、愛想笑いを浮かべた。「ごめんね。うちにはハルって名前のホストはいないんだ」
こういうこともあるだろうとは思っていた。紺が死んでから、どれくらい時間が経ったのかわからない。そうなると、そのホストが未だ在籍しているかどうかなどわからない。でもここまで来たんだ、やれることをやっておきたい。千隼は勇気を奮い立たせた。
「以前、このお店で働いていたみたいなんです。いつまでここで働いていたか、それと、わかれば彼が次に就いた職場を調べてもらうことはできませんか」
瀬那の眉がぴくりと動いた。一瞬、顔から表情が消えたように見えたが、再び美しい顔に笑みが戻った。
「ごめんね。在籍していないホストについて、ボランティアで調べるほど僕たちは暇じゃない」瀬那の声には鋭さが増していた、「ちなみに、君とハルはどういう関係?」
直接的な関係は一切ない。それどころか、顔も本名も知らない。でも、そんなことを言ったら余計不審がられるだろう。千隼はカバンを背負い直して、浅く息を吸った。
「僕の姉が、ハルさんと知り合いだから……」
瀬那は千隼の言葉に被せるように、嘆息を漏らした。
「じゃあなおさら個人情報は教えられないよ。わざわざ来てくれたみたいだけど、力になれなくてごめんね」
取り付く島はなかった。瀬名の笑顔の裏には、もうなにも言わせまいという圧が伺えた。なにも情報を得られなかった。しかしまるでハルの個人情報を知っているような瀬那の口ぶりからして、ハルは間違いなくここで働いていたのだろう。
「瀬那さんに見つからないように、他のホストから話を聞くか」
千隼が考えを巡らせながら店を出ると、ドアのすぐ向こうに女が立っていた。危うく千隼はその女にぶつかりそうになった。「わっ、すみません!」
女の髪は肩の長さで散切りにされ、不揃いな髪で顔を覆っていた。白いワイシャツは皺だらけで、その中の身躯の細さが露骨に強調されていた。そしてなにより彼女が裸足だったのが、千隼を不快な気持ちにさせた。繁華街ではよくある光景なのかもしれないが、実際に酔っ払いに絡まれるのはいい気がしない。
千隼がじっと女を睨みつけていても、女は一言も発さないどころか、その場から一歩も動かない。千隼は不気味に感じ、女の横を通り過ぎようとした。
「ハルのこと、知ってるの?」
女のかすれた声が千隼の耳にかろうじて届いた。思わず千隼は振り返った。「はい?」
女も千隼の方を向いていた。髪の隙間から覗く女の形相に千隼は凍りついた。まるで幽霊のような青白い顔に埋もれた目が、千隼をじっと見つめていた。
「あんた、ハルのこと知ってんのかって、聞いてんの」
今度ははっきりと聞き取れた。鬼気迫ったその声に、千隼はさらに身を強張らせた。急に周辺の温度が下がったように思われた。
「知らないです」やっとのことで絞り出した千隼の声は、少し裏返っていた。
千隼の足は恐怖で竦んで動かない。自分の意志とは裏腹に、体が言うことを聞かない。女の射貫くような目から視線を逸らすことができない。まるで金縛りにあっているかのようだ。
「ハルは、今、どこに、いるの」
女が一歩ずつ、ゆらゆらと千隼に近づいてくる。その間も彼女はなにかぶつぶつと呟いている。
呼吸が浅くなる。まるで幽霊のような女の顔が千隼の目の前に迫った。この女はハルを知っている。ならばこの女にハルのことを聞けば、なにかしらの情報は得られるかもしれない。しかし、この女に関わったら大変なことになると千隼の本能が告げていた。
女が千隼の首に向かって手を伸ばしてきた。千隼は観念して思い切り目を瞑った。その瞬間、尻尾を踏まれた猫のような叫び声が響いた。
千隼がゆっくりと片目だけ開けると、そこに女の姿はなかった。千隼は脱兎のごとくその場から駆け出した。さっきまで一歩も動かなかった足が、今では自分の限界を超えた走りを見せている。
一体あの女はなんだったんだ。執拗にハルのことを聞いてきた。それにあの殺意はどうして俺に向けられていたのだろう。千隼は考えがまとまらないまま急いで駅に戻り、ちょうど来ていた電車に飛び乗った。
学校の最寄り駅に戻ると、紺は同じベンチに座ってぼんやりとしている。千隼が隣に座ると、彼女は「おっ」と声を漏らした。
「で、どうだった?」千隼からの報告を待ちきれない様子で、紺は目を輝かせた。
「確かにハルってホストは、CLUB vitaに在籍していたみたいです。でもそれ以上はわかりませんでした」
「あ、え、それはどうもすみませんでした」紺が急に千隼に体ごと向き直り、深々と頭を下げた。
「え?」
なにか謝られるようなこと言ったか? いや、そもそもこんな面倒事に巻き込まれている時点で謝られて当然なのかな。千隼が不思議に思っていると、紺が頭を上げた。眉根を下げて、下唇を突き出している。「今日さ、変な女に絡まれたんでしょ」
「どうしてそれを……」まだなにも話していないのに。千隼が考えていることを悟ってか、紺は申し訳なさそうに微笑んだ。
「君のおじいさんにめちゃくちゃ怒られちゃったよ。孫を危ない目に遭わせるな、ってね。おじいさんによるとね、その変な女は、どうやらハルってホストにやけに執着した生き霊だったらしいよ。つまり、わたしや君のおじいさんとは少し違った存在。ハルが所属していたお店に縛られていた、というか、自ら進んでその場に憑いていたみたい。そしたら、君がハルという名を口にしたもんだから、君を帰す前になんとかして居場所を聞き出そうとしたんだろうね」
幽霊みたいだとは思っていたが、まさか本当に幽霊だったとは。いや、幽霊なんてものはいないんだ。生き霊と呼ばれる概念だって、きっと科学的に証明することができる。生きている人の心は目に見えないのに、それが可視化される現象を必ず解明する。千隼が習いたての物理の公式を生き霊の存在証明に当てはめようと脳みそを回転させようとしたとき、ふと紺の発言が脳裏をよぎった。
「紺さん、俺のじいちゃんと話したんですか?」
紺は瞬きを何度かして千隼を見つめた。「話したもなにも、おじいさんは君の隣でずっと君のこと守ってくれてるよ」
3
家に帰ると、すでに千隼以外の家族は夕飯を済ませたようで、千隼の分だけがダイニングテーブルの上に置いてあった。夕飯を電子レンジで温めながら、千隼はぼんやりと考えた。幽霊の存在は否定したい。しかし、死んだ祖父が守ってくれているというのは信じたかった。
幼い頃の千隼は、母に怒られるたびに祖父の家へと家出した。といっても、彼の家は二世帯住宅だったため、家出といえるほどの距離ではなかったが、それでもそんなとき千隼は母から少しでも離れたかったし、なにより祖父の温かい笑顔が大好きだった。
祖父の膝にしがみつきながら、千隼はたどたどしい言葉で母の叱責がいかに理不尽だったのかを祖父に一生懸命訴えていた。千隼はいつも「ちはや、いいこ?」と祖父に尋ねた。
「ああ、千隼はいい子だから、おじいちゃんが守ってやる。だから、いつでもちゃんといい子でいるんだぞ」
半べそをかく千隼に、祖父はいつも決まってそう囁いたのだった。
電子レンジが調理完了の合図を鳴らした。温かいカレーライスを口に運びながら、千隼は祖父に想いを馳せた。「守ってくれてたんだ」
自室に戻り、千隼は勉強机に置かれたノートパソコンを開いた。インターネットの検索窓に「ホスト ハル Club vita」と入力してエンターキーを押す。すると、検索結果の上位にホストに関する掲示板のサイトが表示される。一番上のサイトをクリックすると、Club vitaのことが書かれた掲示板が開かれた。スクロールしてスレッドを遡ってみるも、そこにハルの名前はなく、最新のホストに関する罵詈雑言が匿名で書き込まれている。タクトって女いんの? ショウヤの細客被りがウザい。ノエルくん、この前ブスと歩いてたんだけどあれなに?
見るに堪えない言葉の羅列に、思わず千隼は顔を顰めた。千隼が眉間に皺を寄せている間にも、掲示板はどんどん更新されていく。
知りたいのは今のClub vitaじゃない。過去の、まだハルがいた頃のClub vitaだ。どうして紺が死してなお固執しているのか。どうして店の前にいた女が生きたまま彼に拘泥しているのか。女たちを執着させるハルという男は、どのような人間だったのか。
半年前のスレッドにはまだハルの名前は見つからない。千隼はさらに遡った。一年前の掲示板にも、まだ見つからない。膨大な量の書き込みを遡り、二年前のスレッドにやっとハルの名前を見つけた。
ハルくん、店やめるらしいよ。
その書き込みは今からちょうど二年前のものだった。「本カノと結婚するんじゃね?」とか「売掛飛ばれたんでしょ」とか、辞める理由と思われる書き込みがいくつかあったが、そのどれにも信憑性はなかった。さらに遡ると、どうやらハルというホストは、どの客にも愛想を振りまいていたようだった。そういう営業のやり方なのか、それとも天然なのかはわからないが、変に期待した客たちからは恨まれることが多かったらしい。
「その気にさせるだけさせてお金を使わせるなんて、さすがホストだな」
呆れながらも千隼は引き続き掲示板に目を走らせた。匿名による好き勝手な書き込みは、際限なくインターネットの深海に広がっていた。
次の日、千隼は学校に行く前にどうしても紺と話したかった。電車から降り、まっすぐ紺の座るベンチへと向かう。千隼を見つけた紺は、大きく手を振っていたが、次の瞬間にはびくっと肩を震わせて気まずそうに会釈した。隣にいるという祖父を怖がっているのだろう。
「お、おはよう、千隼くん。あ、おじいさんも、おはようございます」紺は気まずそうに千隼から目を逸らしている。しかし次の瞬間には目を輝かせて千隼に向いた。「そうだ! わたしね、昨晩名案を思いついたんだよ。あ、大丈夫! 全然危なくないから! 千隼くんが危険な目に遭うことは多分ないから大丈夫! あれ、目が開いてないけど、千隼くん、寝不足?」
祖父がいると思われる方をちらちらと気にする紺を横目に、ふわわとあくびをしながら、千隼は紺の隣にどかりと座る。その様子を見て、紺が小さく笑った。「なるほど、さては徹夜で生き霊を科学的に証明しようとしていたね? だめだよ、成長期なんだからちゃんと夜寝ないと」
「違いますよ」むっとしながら千隼は答えた。あんたのために寝不足なんだとは言えない。それに途中からは夢中になって誹謗中傷の書き込みを読み耽っていた。
「あの、ハルってホスト、あまりいい人ではないみたいですよ。というか、めちゃくちゃクソ野郎だと思います」
電車がホームに滑り込んできた。開いたドアから続々と千隼と同じ学校の制服がホームにあふれ出してきた。閑散としていたホームは一瞬で喧騒に包まれていた。
「どうしてそう思ったの?」濁流のように横を通り過ぎる生徒たちを眺めながら紺は言った。
千隼は眠い目を擦りながら、ポケットからスマホを取り出した。昨晩パソコンから掲示板のURLをスマホに転送しておいた。そのURLを開くと、ハルに関する書き込みが随所に散っているスレッドが開かれる。
「ここに、ハルってホストについてたくさん書き込まれてます。どれもあまりいいことは書かれてない。というか、悪口ばっかりだ」
なるほどねえ、と紺は千隼のスマホを覗き込みながら小さく呟いた。そして、赤ちゃんを覗き込むような穏やかな笑みを浮かべた。「若いねえ」
「は?」思わず千隼は紺を睨んだ。
「掲示板は匿名で書かれてるよね」紺は気にせず話し始める。
それは昨晩掲示板を見始めたときからわかっていたことだった。「はい」
「匿名は人を強気にさせるんだよ」いつの間にか喧騒が過ぎ去ったホームに、紺の声が漂った。「だから、掲示板では悪口が横行する。わざわざ匿名で人を褒めたりしないのが掲示板なんだよ。わざわざ誰かを褒めようもんなら、関係者のやらせかなにかだと思われるのがオチ。つまり、掲示板はただの憂さ晴らしの場なの。そこに真実を求めたらだめってこと」
千隼は掲示板に書かれたハルの評判について、改めて見返した。確かにハルを擁護しようとしている人はもれなく不特定多数の返り討ちに遭っている。
「別にハルって人を庇うわけじゃないけどさ、そこに書かれていることを丸ごと信じるのは、論理的に幽霊の正体を証明しようとしている千隼くんにしてみたら、褒められたことじゃないよね」
千隼はスマホをポケットにしまった。もうすぐ始業のチャイムが鳴る。今から早足で向かえばホームルームには間に合うだろう。「そろそろ行かなきゃ」
紺が慌てた様子で千隼を止めた。
「あ、ちょっと待って。あのね、千隼くん、わたしいいことを思いついたんだってば」
千隼はベンチから腰を上げ、カバンを背負いながら紺の話の続きを待った。
「どんな理由なのかはわからないけれど、ハルというホストを生前のわたしは追いかけてた。だったら、その痕跡がわたしの持ち物の中に残されてると思うの」紺は千隼のポケットを指さした。「例えばスマホ。彼とのメッセージのやりとりだったり、写真だったりが残ってるはず」
それが一番確実で効率の良いアプローチの仕方だというのは十分に納得できた。むしろ、最初からそのアプローチをしていれば早かったのではないかと千隼は肩を竦めた。
「だけど、紺さんのスマホはどこにあるんですか? 紺さんがもう死んでしまったというなら、スマホも下手したら処分されてるかも」
「それがですねえ」紺が得意げに言った。「わたしがここで電車に轢かれたとき、わたしの持ち物はすべて警察が持っていったんだよ」
「警察が?」
事故にしろ事件にしろ、電車に轢かれて亡くなった人の持ち物は一旦警察に持ち込まれるらしい。身元を確認するためだそうだ。身元が判明すれば、その持ち物は遺族に返される。
「もう警察も紺さんの持ち物、ご遺族に返しちゃったんじゃないですか?」
「それでも」紺は笑顔のまま、人差し指を立てた。「警察かわたしの実家に、情報があることが確定してるってことだよね」
4
始業のチャイムとともに千隼は教室に入った。柄にもなく汗を流しながら教室に駆け込んだせいで、クラス中から注目を浴びてしまった。千隼が自席について一息ついたところで、担任が教室に入ってきた。
それにしても、掲示板に書かれていたハルの評判は一概に一蹴できるようなものではない気がした。火のないところになんとやら、だ。しかし紺の言う通り、すべてを鵜呑みにするのは危険な気がした。個人の短所だけに言及するのはあまりにも不平等だ。どれが本当で、どれが嘘なのか。なにが真実でなにが虚偽なのか。それとも果たして人の気持ちに真実は必要なのか。
あれこれ考えているうちに時間はあっという間に過ぎていた。昼休みを告げるチャイムが鳴った瞬間、千隼の思考もリセットされた。
昼休みの教室はたくさんの生徒が入り乱れて情報量が多い。昨日のテレビ番組の話や好きな芸能人の話、どこかのクラスの誰かの噂などが一気に流れ込んでくる。千隼は教室から抜け出して、屋上に続く薄暗い階段で昼食を食べることにした。
屋上はそもそも鍵がかかっているので入ることはできない。だから屋上に続く階段に近づこうとする者は誰もいない。考え事をするとき、千隼はよくこの階段に座り込んで頭の中を整理した。
千隼が薄暗い階段を上っていくと、すでに先客がいた。少し癖毛の黒髪が耳までかかり、黒縁メガネが鼻まで下がった、小柄な男子生徒が背中を丸めて座っている。初めて見る顔だ。一年生か。先客がいるなら仕方がない。千隼は身を翻して階段を下ろうとした。
「待ってよ」
鈴を転がしたような、男子にしては高めの声が暗い階段に響いた。思わず千隼は立ち止まり、振り返って再び男子生徒を見た。
「一緒にお昼ご飯食べようよ」
一人になりたくてわざわざ人の来ない場所を選んだのに、なぜ、それも男子と二人で昼食を食べなくてはならないのか。それでも、なぜかその男子生徒のどこか諦めたような表情を見ていると、放っては置けないような気持ちになった。千隼は渋々男子生徒の隣に座った。彼のクラス章には「ⅠA」と書かれている。やはり一年生だったらしい。一緒に昼食を食べようと言ってきたわりに、彼はなにも持っていない。
「昼飯は?」千隼は不思議に思い、男子生徒に尋ねた。
男子生徒はなにも答えずに隣でにこにこと笑っている。埃っぽい階段の下方からは、昼休みを謳歌した生徒たちの声が、全部混ざり合っているようだった。混ざり合った話し声からは、なんの情報も聞き取れない。
「あのさ、実は僕、死んでるんだけどね」唐突に男子生徒が口を開いた。
昨日の今日で、立て続けに幽霊と言葉を交わすなんてことは今までなかった。そこで、この男子生徒の「死んでる」というのはある種の暗喩なのかもしれない、と千隼は納得することにした。
「へえ、どうして?」サンドイッチに齧りつきながら千隼は聞いた。
「根も葉もない噂を立てられたんだ」男子生徒が急に立ちあがった。「ねえ、せっかく晴れてるんだし、屋上に出ようよ」
屋上が施錠されていることは、初めてここに来たときに確認している。今日に限ってたまたま鍵が開いているなんてことはないだろう。しかし、その男子生徒の顔には、まるで屋上に続くドアが当然開くと思っているような自信が伺えた。男子生徒はドアの前に立って、じっとしている。
千隼は男子生徒に続いてドアの前に立った。施錠されたドアのわずかな隙間から風が入ってくる。男子生徒を横目に見ると、先ほどまでの笑顔はすでになく、無表情で屋上のドアをすり抜けていった。
「え?」千隼は目の前で起きたことが理解できずに、声を漏らすことしかできなかった。
今まで習った物理の法則も、目の前で起きたことを説明することはできなそうだ。説明できない現象に、千隼は驚きと恐怖を同時に感じていた。
金属のドアがかちゃりと軽い音を立てた。どうやら鍵が開いたらしい。ドアを開けると、男子生徒が感情のない笑顔で立っている。千隼はドアの手前で男子生徒を睨んだ。手品師のごとく、なにかタネや仕掛けがあるのかもしれない。
「こっち来なよ」二の足を踏んでいる千隼に、表情のない声で男子高校生が言った。
千隼はゆっくりと屋上に足を踏み入れた。高校に入学して二年経つが、屋上に入ったのは初めてだった。国旗と校旗が掲げられ、風にはためいている。柵の向こうには、小さくなった街並みが遠くまで見渡せた。心なしか、空も近く見える。
男子高校生が歩き出したので、千隼も後に続いた。柵にもたれて下を見下ろす男子生徒の隣に立つと、校庭ではしゃぐ生徒たちの脳天が眼下でちょこまかと動き回っているのが見える。
千隼は下を見下ろしながら、疑問に思ったことを口にした。「さっきドアをすり抜けて、向こう側から鍵を開けただろ? あれはどういうトリックなんだ?」
男子生徒は、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、先ほどとは打って変わって楽しそうに言った。
「幽霊になるとね、ふわっと体が大きく広がって、まるで雲みたいになったり、逆にぎゅっと凝縮されて、まるで生きた人間みたいな形になったりできるんだ。だから、隙間がある壁やドアはふわっと広がって通り抜けることができるし、人間の形になって触ったり掴んだりすることができる。生きているときよりも、ずっと自由なんだ」
千隼は感心した。なんて物理学的なんだ。まるで水が水蒸気になって空気中に拡散されたり、氷になって触れることができたりするのと同じだ。
「それにね」男子生徒はふわっと宙に浮かぶと、千隼に向かって手を差し伸べた。「一緒に空を飛ぶこともできるんだよ。ほら」
男子生徒は屈託のない笑顔で千隼を見下ろしている。その笑顔に、千隼は不思議と見入ってしまった。背景の青空がぐっと迫ってきたような気がした。
取り憑かれたように千隼がその手を掴むと、体が宙に持ち上がった。浮き上がった千隼の体は柵を越え、サッカーに勤しむ生徒たちの頭上を浮遊した。夢でも見ているかのような心地だった。悩みも喜びも、すべてが地上に置き去りにされたのかとすら思うほどだ。気持ちの高ぶりも、とてつもない不安も、次第に薄れていった。なるほど、幽霊も悪くないかもしれない。
急に額を叩かれるような衝撃があった。「いてっ」
その瞬間、薄れていた不安が一気に千隼の体内に戻ってきた。
「君の能力は十分わかったよ。ありがとう、もう屋上に戻してくれないかな」
男子生徒はその場で止まった。必然的に、千隼も空中で止まった。サッカーをしている生徒たちのちょうど真上だ。手を引く男子生徒に目を向けると、彼は表情のない顔で千隼をじっと見つめていた。
「お、おい、どうしたんだよ」千隼は背中に冷や汗が伝うのを感じた。
「さっきも言ったけど、僕は根も葉もない噂を立てられた」男子生徒は眼下を見下ろした。「くだらなすぎて、どんな噂だったのか憶えてないけど」
足下の生徒たちは、ボールを蹴っては仲間同士でパスを送り合っている。楽しそうな声が空まで響いてきた。
「クラスの奴らだけじゃない。学年中がその噂を信じた。誰も僕の話なんて聞いてくれなかったんだ」
その中には、本気で噂を信じた者もいれば、面白がって噂を広めた者もいただろう。もしくは、嘘だとわかっていてもなにも言えずにいた者もいたに違いない。しかし、今はそんなことを考えている余裕はない。早く地に足をつけたい。
「先生も、親友だと思っていた奴も、誰も助けてくれなかった。だから、居場所を失った僕は、屋上から飛び降りた」
彼の口元に、自嘲気味に小さく笑みが零れているのが見えた。そしてそれと同時に、彼は目を細めて千隼を睨みつけた。
「ねえ、あんたもそうなんじゃないの」
そう、とはなにを表しているのだろうか。俺が一体なにをしたというのだろう。
「あんただって、噂を信じて僕の話を聞こうともしなかっただろう?」
一年生でそのようないじめがあったなどという噂は聞いたことがない。もしそのような噂が流れていれば、一年生と関わりのある生徒が、同様に自分たちの学年でも噂を広めるだろう。そもそも、俺は彼の名前を知らない。
しかし、もし自分の学年でそのような噂が流れていたとして、噂の中心になっている人物を助けるような行動を、俺はするのだろうか。
触らぬ神に祟りなし。きっと、俺も他の人たちと同様に動かない。嘘だとわかっていても、きっとなにもしない。それなら、この男子生徒の言っていることも、あながち間違いではない。どうせ、俺もそう、なんだ。いじめを見て見ぬふりをする、傍観者だ。千隼は自分に絶望した。
「だから僕は、あんたを許さない」
その瞬間、視線の先の男子生徒の姿は霧散した。千隼の体は重力のままに落下した。
5
まだ千隼の祖父が生きていた頃、千隼はやんちゃを絵に描いたような毎日を過ごしていた。高い所からジャンプして怪我をするのは日常茶飯事だった。祖父は千隼が高いところから飛び降りるたびに、ふわっと抱きとめて「おっと、また大きくなったなあ、千隼」と言うのだった。
また大きくなったなあ、千隼。
遠くからぼんやりと祖父の声が聞こえた気がした。俺は今、空から落ちたはず。それなのに、まったく痛みを感じない。そうか、即死だったか。ぎゅっと閉じた目をゆっくり開けると、千隼は目一杯広げられた横断幕の中心に横たわっていた。周りには横断幕を張って握っている先生たちと、サッカーボールを小脇に抱えた生徒が、おびえた眼差しで千隼を見つめていた。俺は生きているのか。
そのまま千隼は先生たちに、車椅子に乗せられて保健室に連れていかれた。そこに向かうまでの廊下では、千隼を好奇の目で見つめながらなにかを囁き合う生徒たちでごった返していた。
保健室に入ると、顔面蒼白の養護教諭と担任、学年主任が落ち着きなく室内を歩き回っていた。千隼に気がついた養護教諭が強張った笑顔を向け、千隼をベッドへ案内した。担任と学年主任は、ベッドの横にパイプ椅子を出し、重々しく腰を下ろした。車椅子を押していた先生たちはそそくさと保健室から出ていった。保健室の外から、ざわざわと気色の悪い話し声が室内に漏れてくる。
チャイムが響いた。昼休みが終わったのだろうか。生徒を教室へ促す先生たちの声が聞こえる。その声が聞こえて程なく、気色悪い話し声は散り散りに、小さくなっていった。五時間目始業のチャイムが鳴った頃には誰の声もしなくなっていた。
不意に担任が静寂を破った。「なにかあったのか」
千隼はその言葉の意味をすぐに理解した。今自分は、屋上から飛び降りた自殺志願者だと思われているのだろう。まさか、幽霊に殺されかけましたとは言えない。それこそ精神に異常があると思われてしまう。千隼は無意識に口をつぐんだ。
「鈴木先生、今はまだそんな話しなくていいじゃないですか。救急車が来るまで休ませてあげましょう」養護教諭は、眉間に皺を寄せた担任を静かにたしなめた。
もうすぐ救急車が来るのか。救急車が来る前に先生たちに聞いておきたいことがある。千隼は声を潜めて言った。
「あの、この学校で、ある噂が原因で自殺した男子生徒がいませんでしたか?」
三人の大人たちが表情を強張らせた。
「その生徒が自殺したのって、いつの話なんですか?」
担任が口を開こうとしたのと同時に、外から救急車のサイレンが聞こえてきた。廊下が慌ただしくなってきた。救急車のサイレンは止まり、それと同時に数人の救急隊員が保健室になだれ込んできた。無傷の千隼は救急隊員たちの丁寧な補助により、速やかに救急車に乗せられた。担任は幽霊でも見ているかのような表情をしたまま救急車に同乗した。
病院に着くと、千隼は頭からつま先まで綿密に検査を受けた。検査結果が知らされるまでの間、病室のベッドに寝かされた。ベッドの横に座った担任が、うなだれたまま口を開いた。
「なんで、自殺した生徒のことを知ってたんだ」
むしろ、なぜ彼のことを知っていることがこれほどまでに驚かれるのか、千隼は不思議に思った。
「噂に聞いたことがあって」千隼は逡巡してから、無難なことを言った。
「まだ噂は続いていたのか」聞こえるか聞こえないかの声で呟くと、担任は顔をあげて千隼に目を向けた。「その男子生徒とお前が飛び降りたこと、なにか関係があるのか?」
大ありだ。千隼は俯いた。
「そもそも、なんで屋上に入れたんだ? 屋上の鍵は職員室にあったはずだぞ」
「開いてましたよ」嘘も方便だ。
おかしいなあと小言をぼやきながら、担任は頭を掻いた。
「屋上からの景色に感動してたら、気を失っちゃって」千隼は嘘を重ねた。
少し疲れた様子で千隼を見据えた。「ということは、自殺しようと思っていたわけじゃないんだな?」
千隼は困った顔で頷いた。「心配かけてごめんなさい」
病室の外から、荒々しく駆けてくる足音が聞こえてきた。病室のドアが思い切り開かれ、汗だくで涙まみれの千隼の母が姿を現した。
「千隼!」母の声は震えていた。
担任が急いで立ち上がり、母に駆け寄った。「お母さん、千隼くんは無事ですので、どうか落ち着いてください」
「落ち着いていられるわけがないでしょう! なにがあったの、千隼!」
千隼に代わり、担任がそのときの状況をゆっくり丁寧に母に話した。校庭でサッカーをしていた生徒たちが、千隼が屋上の柵を越えようとしているのを目撃したこと。彼らが急いで近くにいた先生を呼び止めたところ、その先生がたまたま陸上部の横断幕を持っていたこと。男性職員たちが呼び出され、横断幕を広げて、落ちてきた千隼を受け止めようとしたこと。
母は呼吸を乱しながら必死に担任の言葉に耳を傾けていた。そして今度は鬼のような形相を千隼に向けた。
「なんで、なんで、屋上から飛び降りようとしたの!」溢れた涙がとめどなく母の目から流れ落ちた。
「飛び降りるつもりはまったくなかったんだ。屋上の柵にもたれた瞬間、なぜか気を失ったんだよ」千隼は母にも嘘をついた。心は痛んだが、幽霊に悪さされたなどと言おうものなら、母は自分の教育が間違っていたことを悟ってしまうだろう。いつも叱るときにオバケが来ると言っていたことが、この結果を招いたのだと。
母はあまり納得いっていないようだったが、それ以上追及しようとはしなかった。医者が検査結果を持って病室に入ってきてからも、母の涙は止まらなかった。検査結果は、すべてにおいて異常なしだった。
6
それから数日間、千隼を心配した母が車で学校に送迎した。千隼が学校に着くと、校内は異様な空気に包まれた。千隼が廊下を歩くたび、廊下にいた生徒たちは静まり返った。千隼が通り過ぎると、こそこそと声を潜めて囁き合っている声が背後で聞こえた。あの人だよ、屋上から飛び降りたって噂の人。屋上から飛び降りたのに無傷ってやばくない? なに、いじめ? あいつ友達いないっぽいもんな。それにしてもよく飛び降りた次の日に普通に学校に来れるよな。続々と千隼の噂が廊下を占めた。
ああ、こういうことか。あの男子生徒とは、噂の規模は違えど常に好奇な目で見られるというのはあまりにも疲れる。それに、噂の内情は基本的にネガティブなものが多い。俺を庇うような意見はほぼない。「掲示板と同じじゃないか」
それにしても、幽霊が粒子物理学で証明できるかもしれないという発見は、千隼にとって大きな収穫だった。まるで水蒸気のように空気中に拡散されることもあれば、それが凝縮されて物質化することもできる。しかも水蒸気とは違って、思考することもできるとなると、確かにあの男子生徒が言うように、幽霊というものは生きているときよりも自由度が高いのかもしれない。
千隼が屋上から飛び降りたことで、かつて同じように屋上から飛び降りて死亡した男子生徒の噂も、瞬時に校内に広がった。
六年前、その生徒はひどいいじめを受けていた。成績が優秀というわけでもなく人付き合いも得意ではない彼は、昼休みになると必ず教室から姿を消した。ある日の昼休み、クラスの一人が彼の後をつけると、彼は屋上に続く薄暗い階段で一人昼食を食べていた。それを面白く思った生徒が、まったくのでたらめをクラス中の生徒に吹聴した。
あいつ、女子トイレの個室で弁当食べてるらしいよ。
クラスの全員がその話を信じた。なぜなら、そのでたらめを吹聴したのは彼のクラスの委員長だったからだ。優秀で人望の厚い委員長を信じない生徒はいなかった。教師たちですら委員長の言葉を信じた。彼の口から出るでたらめはエスカレートしていった。さすがにそれが嘘だと気づく生徒も出てきたが、委員長に逆らう勇気は誰にもなかった。
彼らの担任は、ついにいじめを受けていた男子生徒の家に電話を掛けた。電話に出たのは生徒の母親だった。担任は恭しく噂の内容を彼の母親に告げた。
その噂を母親は信じた。そして息子を問い詰めた。程なくして、いじめを受けていた男子生徒は、学校の屋上から飛び降りた。でたらめな噂を流した委員長にお咎めはなく、むしろ総代として華々しくこの学校を卒業した。
千隼が入学したときにはすでにこの学校で自殺した生徒の怨霊が屋上に出るのだという噂は、学校の怪談として囁かれていた。そして今、千隼は屋上でその怨霊に取り憑かれたのだと新たな噂が生み出されてしまった。
「その噂はあながち間違っちゃいないんですけどね」諦めたように笑いながら千隼は紺に話した。
「どうりで最近千隼くんを見かけなかったわけだ」気の毒そうに紺は言った。「おじいさんは千隼くんの体の成長を感じられて嬉しかったって言ってるけど」
駅は下校する生徒たちでにぎわっていた。ちらちらと千隼を見ては友人と小声で話す生徒こそたくさんいたが、千隼は特になんとも思わなかった。
「そういえば、紺さんのスマホを探さなきゃいけなかったんですよね」
数日前に紺に頼まれたことを、千隼はうっすらと思い出した。ハルの情報がきっと含まれているであろう、紺のスマホ。今どこにあるのだろう。警察か、紺の実家か。
「そうそう。ひとまず駅員さんに聞いてみようか」
紺がすっと立ち上がった。釣られて千隼も立ち上がると、紺は楽しそうに改札に向かった。有人の改札に行くと、若い女性駅員がカウンターに立っていた。「どうされました?」
「先日、ここで浅桜紺って人が電車に轢かれたと思うんですけど」
「あ」女性駅員が声を漏らした。「少々お待ちください」
女性駅員は急いでバックヤードに入っていった。
「なんかこの感じ、ホストに行ったときと似てる」
「そうなの?」紺は興味がなさそうに答えた。
すぐに女性駅員とともに、品格のある五十代くらいの男性職員が現れた。
「こんにちは。駅長の鷹端(たかはし)と申します。浅桜紺さんについてお話しがあるとのことですか?」
鷹端の声は荘厳でありながら温かみがあり、はっきりと明瞭だった。感情ではなく論理的に会話をしてくれそうだと千隼は感じた。
「浅桜紺さんの荷物を確認したいのですが、どちらにありますか?」何気ない風を装って、千隼は言った。
「失礼ですが、どういった用件で浅桜さんのお荷物が必要なのですか?」鷹端は優しく質問を返してきた。そういった質問をされるであろうことは、すでに想定済みだ。
「あ、えっと、僕は紺お姉ちゃんの身内の者なんですが、紺お姉ちゃんに貸してた本があって、その、お姉ちゃんの家にもなかったから、ここかなと思って」
千隼は不本意ながら頭の悪そうな少年を演じた。それが功を奏したのか、鷹端は同情の色を浮かべた。隣で紺が苦笑いを浮かべていたのを、千隼は見ないふりした。
「実はここにはなくてね、全部警察が持っていっちゃったんだよ」眉尻を下げ、鷹端は申し訳なさそうに言った。
紺と顔を見合わせたいのを我慢して、千隼はとても残念そうな色を浮かべた。「そうですか」
「警察署の葛樹(かつらぎ)さんって人が担当だったから聞いてみるといいよ」
丁寧にお礼を言ってから、千隼と紺は再びホームのベンチに戻った。ホームに生徒の姿はすでになく、閑散としていた。
「警察署ですって」千隼は興奮と戸惑いがないまぜになった感情を持て余しながら言った。「どうするんですか」
「どうするって?」紺は相変わらず楽しそうだ。「行くしかないでしょ」
鷹端にはなんとか嘘が通じたが、警察相手となると、そう簡単に情報をくれるとは思えない。
「でも、まあいいんじゃない? 行ってみるだけ行ってみようよ」明るい声で紺が言った。
「行くのは俺なんですけどね」
まだ暗くなるまで時間がある。千隼は渋々警察署まで向かうことにした。大通りに面した警察署からは、物々しい雰囲気が漂っていた。それは汚れた白壁や無機質な外観だけのせいではないだろう。警察署に行くのは初めてだ。一般市民が軽々と入っていいものなのかもわからない。学校の知り合いにでも見られたらどうしようかとも思ったが、すでに千隼に関する重い噂が蔓延っているのだから、警察署に入るのを見られたところで今更といった感がある。
警察署の入口前の小さい階段に、少年が座っていた。まだ小学校にあがっていないくらいの年頃に見える。一人で退屈そうに雲を眺めている。近くに保護者がいる気配もない。迷子だろうか。警察署に用のある保護者がここで彼を待たせているのか。下手に小さい子どもに声を掛けたら不審者扱いされるこのご時世、声を掛けるのは憚られる。警察署前なのだから安心だろうとも思ったが、署から出てくる警察官は誰も彼に声を掛けようとしない。
制服を着ていれば、少なくとも不審者扱いはされないだろう。千隼は少年に近寄った。空を見上げていた少年は、隣に座った千隼に驚いたらしく、目をまん丸にして体を強張らせた。「だれ?」
「八神千隼っていうんだ。君は?」千隼は不器用な笑顔を作った。
「さかもとゆう」少年は目を丸くしたまま答えた。
「ゆうくんか。ここで一人でなにしてるの?」
努めて優しく千隼が質問をすると、ゆうは大きい声で一気に話し始めた。
「あのね、ゆうね、ママまってるの。まっててってママがいってたから、ゆう、ひとりでここでまってるの。そしたらね、おそらにおっきいぞうがいたからね、どこいくんだろうなーっておもってみてた」ゆうは小さい指で一番大きい雲をさした。確かに象に見えなくもない。
「どれくらい待ってるの?」
ゆうは雲から目を離さずに、んー、と少し考えてから「いっぱい」と答えた。
「お母さんと一緒にここに来たの?」
ゆうは雲から目を逸らし、つま先をもじもじさせた。そして歯切れ悪く話し始めた。
「えっとお、ほんとはおうちでまっててっていわれたんだけど、ママがえんえんってしながら、おうちからはしってどっかいっちゃって、なんでないちゃったのかなーっておもって、ついてきたら、ここにきたの。でも、なかにはいれないから、ここでまってる」
ゆうの母親が泣きながら家を飛び出したということなのだろう。しかし、なぜゆうの母親は泣きながら警察署に駆け込んだのだろうか。
「ママがおうちから出ていく前に、ゆうくんはママとなにをしていたの?」
ゆうは困った顔で、必死に思い出そうとしているのか、両手をばたばたと動かしてなにかを伝えようとしていた。
「んと、えっと、ママが、ゆうのくびをぎゅーってしてた」
首を、絞めていた?
「それで、くるしいよーってなったんだけど、ママがすぐいくからまっててーっていってた」
母親はゆうと心中しようとしたのか。しかし、ゆうを殺そうしたところで自分は死ぬ勇気が出ず、自首をしに警察署に来たということなのだろう。ゆうがここで母親を待っているということは、まだ母親はこの中で取り調べを受けているのかもしれない。
「あれ、俺もしかして、また幽霊と話してる?」千隼はゆうに向きながら呟いた。
「ゆーれーってなに?」ゆうは目を輝かせながら千隼に体を寄りかからせてきた。
よく考えたら、走って出ていった母親に、これほどまでに幼い子どもが走って追いつけるはずはない。警察署に出入りする人たちがしきりに千隼に不審な目を向けてきていたが、もしかしたらそれは子どもに声を掛けていることに対してではなく、傍から見たら一人で話していると思われているからなのだろう。
「それよりゆうくん」慌てて千隼はゆうの頭を撫でた。「きっとママはまたゆうくんに会いに来てくれるからね。俺が保証する」
千隼は立ち上がって、ゆうの「ほしょーってなに?」という声を背に警察署の入口の自動ドアをくぐった。
警察署は、平日の夕方ということもあってか、たくさんの人でごった返していた。自動車免許の住所変更を行う人、落し物や行方不明者の捜索について相談する人、その他警察官に対してむやみに苦情を叫ぶ人がいたりと、思いがけない盛り上がりを見せていた。
千隼はひとまず総合受付に向かうことにした。そこには女性警察官が凜とした表情でロビーの一人ひとりに目を配っていた。
「すみません」千隼は女性警察官に声を掛けた。「葛樹さんっていらっしゃいますか?」
女性警察官は千隼の制服を上から下までじっくりと見た。「どのようなご用件ですか」
大丈夫、その質問なら脳内で何度もシミュレーションしてきた。
「浅桜紺さんの持ち物について、ご相談がありまして」千隼は堂々と笑顔で言った。
眉を顰めながら、女性警察官は受話器を手に取った。「少々お待ちください」
問題はここからだ。担当の警察官というからには、紺の身内については細かく調べているだろうから、鷹端のときのように紺の身内という体で話すのは無理がある。
千隼が眉間に皺を寄せて考え込んでいると、背後から威圧感のある声が降ってきた。
「君か、浅桜さんの持ち物について話したいという少年は。悪いが忙しいので手短に頼む」
千隼が振り返ると、千隼より頭一つ分背の高い男が千隼を見下ろしていた。日頃から鍛えられているのであろう筋肉のせいで、制服がはちきれんばかりに伸びきっている。葛樹は何通かの封筒を携えており、仕事の途中で抜け出してきたのだろうことが伺えた。高圧的な物言いと厳つい顔の葛樹に、千隼は思わず物怖じしそうになった。嘘をついたら殺されるのではないかと思うほどだ。しかし、ここまで来てなにもしないのももったいない。ホストに出向いたときと同様に勇気を振り絞って、千隼は震える口を開いた。
「浅桜紺さんのスマホを見せてもらいたいんですけど」勇気を振り絞ったつもりだったが、千隼の声は自然と小さくなっていた。
葛樹は大声で畳みかけた。「失礼だが、君は浅桜さんとはどういった関係で?」
そらきた。ここで間違えた解答をすれば、せっかくのハルについての手がかりが失われるどころか、俺自身がこの場で逮捕されてしまうかもしれない。紺の関係者という線は危険だ。ということは……
「僕は、浅桜さんが会っていたホストの、弟、です」
思わず千隼は葛樹から目を逸らしてしまった。
「ホストの弟だと? おう、その浅桜さんが会っていたというホストの名前はなんていうんだ?」葛樹は封筒を握りしめながら腕組みをした。
「ハル、です」千隼は口ごもった。生徒指導の先生にも、こんなに威圧的な人はいない。
葛樹はしばらく千隼を睨みつけてから、迫力のある低い声で、ゆっくりと言葉を発した。
「それで、お前の兄は、今なにをしている?」
まるでテストの一問一答だ。じりじりと厳つい顔が千隼ににじり寄ってきた。それに合わせて千隼も後ずさった。どんどんと葛樹の存在が大きくなっていき、千隼に覆いかぶさってくるように思われた。
「おにいちゃん、なにしてんのー」
声のする方に振り向くと、そこにはゆうがきょとんとした顔で立ち尽くしていた。
「ゆうくん!? ここには入れないんじゃないの!?」
千隼が驚嘆の声を上げると、葛樹は怯んだのか、その場で固まった。「お前、急に誰に向かって喋ってるんだ」
「あ、ちょっとすみません」千隼は葛樹に断りを入れてから、ゆうに駆け寄り、彼の正面にしゃがんだ。
「おにいちゃんのおじいちゃんが、おいでっていってくれたから、ゆう、こっちにこれたんだ!」
「じいちゃんが?」なぜこの子を署内に引き入れたのだろうか。でもこちら側に入ることができたなら、いずれ彼は母親に会うことができるかもしれない。
「おにいちゃん、このこわいかおのおじさんに、いじめられてるのー?」ゆうは、眉間に皺を寄せたままこちらをじっと見ている葛樹に近寄った。「せいぎのヒーローゆうくん!」
ゆうはそう叫ぶと、けらけらと笑いながら葛樹の持っていた封筒を叩き落とした。「やったー! てきのあいてむを、おとしたぞー!」
葛樹は呆然と両手を上に挙げて散らばった封筒を見下ろしている。落ちた封筒から勢いよく中身が雪崩出ていた。その上を、ゆうは無邪気に走り回り、飛び跳ねた。彼のことが見えない葛樹は、威厳のある顔つきから一変して仰天した色を隠そうともせずに立ち尽くしている。
それからゆうは、近くに置かれていたチラシラックから、手の届くチラシを手に取り、宙に放り投げ始めた。「おにいちゃん、いってらっしゃい!」
千隼ははっとした。葛樹は目の前の出来事を理解しようと頭を抱えて唸っている。今しかない。
「ゆうくん、ありがとう!」千隼は駆けだした。どこに向かえばいいのかわからないが、とりあえず二階に向かった。背後から「一体どういうことなんだ!」という叫び声が聞こえた。
二階には生活安全課と警務課、会計課という釣り看板が等間隔に下げられており、それぞれ受付とその奥にたくさんの事務机が並んでいた。誰もが忙しそうで、千隼の存在には気づいていない。
どうしたものかと千隼が周囲を見回していると、前方から山のように書類を抱えた女性の警察官が歩いてきた。制服はぱりっとして皺がほとんどない。新人警官なのだろう。
「どうしたの?」千隼に気付いた女性警察官は、まるで子どもをあやすような口調で千隼の顔を覗き込んできた。
俺の方が身長高いのに、と千隼は苦笑いを浮かべた。「実は、浅桜紺さんのスマホを見せてもらいに来たんですけど」
「ああ、それなら葛樹巡査が担当ね。呼んでくるからちょっと待ってて」
女性警察官が踵を返そうとしたので、千隼は急いで呼び止めた。「あ、葛樹さんなら一階で忙しそうにしてました。先に行っててくれって言われたんですけど、どこに行けばいいのかわからなくて」
葛樹は今頃、一階で幽霊と格闘中だ。女性警察官はじっと千隼を見つめた。そして眉間に皺を寄せた。周りをきょろきょろと見回すも、誰もが忙しそうに立ち回っている。
「ついてきて」
女性警官は誰かに相談するのを諦めたのか、今来た道を戻り始めた。千隼が慌ててその後をついていくと、パーティションで区切られた廊下の奥に向かっているのがわかった。一歩足を廊下に踏み入れると、重力が倍に感じられるほど空気が重く感じられた。窓がないせいかどんよりと暗く、自然と千隼の足取りも重くなった。
女性警察官が一番奥の部屋の前で足を止めた。書類を顎で抑えながら、器用にポケットから鍵を取り出してドアを開けると、暗く狭い部屋の中央に一台の長机が置かれていた。その上には段ボールが一箱、無造作に置かれている。
「その段ボールの中に、浅桜さんの荷物が入ってる。わたしはここで待ってるから、好きに見ていいよ」女性警察官はドアの前に立てかけてあったパイプ椅子の横に書類を丁寧に置き、静かに座った。
女性警察官の鋭い視線を感じながら、千隼は早速段ボールを開けた。そこには、血に染まった肩掛けカバンや、カーディガン、そして小物類がしまわれていた。その中に千隼はスマートフォンを見つけた。
千隼はすかさずスマホを取り出した。ネイビーでシンプルなスマホカバーだ。警察がすでにロックを解除した設定にしたのか、それとも元々紺がロックをかけていなかったのか、電源ボタンを押すとすぐにホーム画面が開いた。
いろいろなアプリがホーム画面に並ぶ中、通知件数が異様に多いメッセージアプリに目がいった。そのアプリを開くと紺の交友関係が透けて見えてきた。
同性の友人たちのアカウントや企業の公式メッセージがほとんどで異性と思われるアカウントは見当たらない。しかし、その中で唯一といっていいほど、頻繁に連絡を取り合っている男性らしきアカウントを見つけた。
ハンドルネームは「iori」。アイコンは友人と撮ったのか、青空を背景に男二人が並んでピースをしている写真だった。トーク画面を開くと、紺とのやり取りは互いに短文だった。
千隼は設定画面を開き、二人のトーク履歴を自分のスマホに転送した。念のため、ioriのアイコンの写真も撮った。そして改めて彼らのやり取りに目を通そうとしたとき、ドアの向こうから、乱暴な足音がこちらに近づいてきていることに気がついた。
7
千隼がドアに振り返ったのと同時にドアが勢いよく開かれた。そこには般若の形相をした葛樹が肩を怒らせて立っていた。髪と呼吸はひどく乱れている。額の血管はわかりやすく浮き出ており、食いしばった歯は今にも砕けそうだ。
「貴様」地獄から這い上がってきたかのような、うめき声にも似た声が部屋に響いた。「なにを勝手にこの部屋に入ってきてるんだ」
「葛樹巡査! お疲れ様です!」ドアの横に座っていた女性警察官が勢いよく立ち上がり、敬礼した。その目はあからさまに宙を泳いでいる。
葛樹はこれ以上になく見開かれた目で女性警察官を睨みつけた。葛樹に睨まれた女性警察官は、まさに蛇に睨まれた蛙のごとく、背筋を思い切り逸らせて凍りついた。
「あの、そちらの少年が、葛樹巡査の許可を取ったと言っていたものですから、その、私がこの部屋に通しました!」
葛樹は、もはや涙目で宙を睨む女性警察官に顔を向けた。「お前は、俺に、直接、確認を取ったのか?」
女性警察官の顔には脂汗の玉が浮かんでいる。目の焦点も合わなくなってきており、失神寸前だ。
「と、ととと、取っていません」裏返る声で女性警察官は言った。
「貴様は、直接許可も取らずに、一般市民を、重要証拠のあるこの部屋に、勝手に招き入れたのか」
一歩、また一歩、葛樹は女性警察官に詰め寄った。女性警察官は、餌を求める鯉のごとく口をぱくぱくさせ、すでに再起不能と見えた。
すると、葛樹は千隼に向き直り、千隼の手に握られているスマホに目を向けた。
「それはなんだ」
「えっと、スマートフォン、ですね」千隼は思わず紺のスマホの画面を見た。トーク画面が開かれたままになっている。男と思われるアカウントと紺とのメッセージのやり取りはすでに自分のスマホに転送しているが、それがハルとのものなのかはわからない。それを確認したかった。
「葛樹さん、さっき書類が勝手に動き回った原因はわかったんですか?」話を逸らそうと、千隼は声高に言った。
「ああ、よくわからんが、大声で怒鳴ったら止んだ。きっと風かなにかのせいだったんだろうな。それとも、お前が俺を攪乱するために起こしたいたずらか?」
冷ややかな、それでいて燃えるような目つきで睨まれた千隼は、それ以上なにも言えなかった。
「そして、俺の記憶が正しかったら、お前が手にしているものは浅桜さんのスマホだと思うのだが」葛樹は、再起不能の女性警察官のもとから足早に千隼の方に向かってきた。「まさか中身、いじってねえよなあ」
千隼は急いでホームボタンを押した。その瞬間、葛樹が荒々しく千隼の手から紺のスマホをひったくった。
「これでなにをしようとしていた」葛樹の怒気を含んだ目が、千隼を捉えて離さない。
「ハル……いえ、お兄ちゃんとどんなやり取りをしていたのか、知りたくて」
「なぜ」問い詰める葛樹の語気が強くなる。
「それは」ハルと紺がどんな関係性だったのかを探るためだ。
「その制服、あそこの高校の生徒だな」
千隼は制服で来たことを後悔した。制服の方がなにかと説得力があるかと思ったのだが、裏目に出てしまったようだ。
葛樹が千隼の首元に顔を寄せてきた。「ほう、二年B組か」
ああ、また担任と個別面談か。なんて言い訳をしよう。千隼は顔を歪ませながら思いを巡らせていた。
そのときだった。千隼たちのいる部屋のドアが大きな音を立てて勢いよく開いた。葛樹は肩を震わせ、ドアに振り返った。
そこにいたのは、虚ろな目をした髪の長い女だった。警察の制服を着ていないということは、この人も一般市民なのだろう。長い髪は下ろされ、濡れているのか、わずかにしっとりと顔を覆っている。髪の間からわずかに見える目の下のくまはひどく、まるで泣き明かしたかと思わせるほど赤くかぶれていた。オーバーサイズのスウェットを着て、足元は裸足だった。骨の浮き出た足の甲が、頼りなく地面を踏みしめている。
「なんで勝手に開いたんだ」葛樹の声は怒鳴り声をあげたが、その顔は驚きに目を見開いている。
勝手にもなにも、この女の人が開けたのだろう。
葛樹が呆気にとられている間に、女は乱暴にドアを閉めた。
「勝手に閉まったぞ」鬼のように大きく思えた葛樹が肩をびくつかせている。
勝手にもなにも、この女の人がドアを閉めているところを千隼は見ていた。ああ、この人も幽霊の類なのか。女の口から漏れた、葉の擦れるような細い声が部屋の空気を震わせた。
「お前……よくも私の息子を泣かせたな。あんなふうに怒鳴らなくてもよかったじゃない。……許せない」女の長い髪がにわかに逆立った。「許さない」
ただでさえ肌寒かった室内が、一気に凍えるほどの寒さへと変わった気がした。
「許さない」ひたひたと女は一歩ずつ葛樹に向かっていく。
葛樹は両腕で自分を抱きながら、目を泳がせている。「空調壊れてんのか」
女は葛樹の正面で止まった。それに気がつかない葛樹は相変わらず不安そうな面持ちで落ち着かない。女性警察官はいつの間にかドアの前で気絶していた。
葛樹を捉えていた女の目が、突如千隼に向けられた。女の泣き腫らした目は、千隼のさらにその向こう側を見ているようだ。千隼は一瞬身じろぎしたが、女から目を逸らせなくなった。金縛りにあっているかのように、全身が言うことを聞いてくれない。
「君は、息子と遊んでくれた子だね」女はぎこちなく顔を綻ばせた。妖怪のようにただれていた顔に、生前の人間らしい美しさが垣間見えた気がした。しかし、その目は未だ虚ろだ。
女が言う息子という言葉が千隼には引っかかった。息子とは誰なのか、おおよそ見当はついた。葛樹が怒鳴って収めたという心理現象はゆうの仕業だった。そして、俺が遊んだ息子とやらも、きっとゆうのことなのだろう。だとしたら、この女はゆうと心中しようとしたゆうの母親なのだろう。
しかしゆうの話では、母親は泣きながら警察署に駆け込んだとのことだった。警察署に駆け込んだ時点で、ゆうの母親は生きていたはずだ。しかし目の前にいる女は、およそ生きている人間とは思えない。現に葛樹には見えていない。
千隼は思い切り息を吸い込んで、体中に空気を巡らせた。少しだけ体が緩んだように思えた。これなら動けそうだ。
「ゆうくんは」女に向かって発したつもりだったが、葛樹が「ああ?」と混乱した目で千隼を睨みつけてきた。
千隼は軽く咳払いして続けた。「ゆうくんは、あなたのことをずっと警察署の前で待っていました」
まっすぐ千隼に見据えられた女は、寂しそうな表情を浮かべた。「会いに行けるわけ、ないじゃない」
階段に座って雲を眺めているゆうを思い出した。彼は象に似た雲を探していたわけじゃない。ゆうは、母親を待っていた。そしてきっと母親のことを想っていたはずだ。お互いを想っているはずなのに、どうしてこの人はゆうと会えないなんて言うのだろう。
女は再び葛樹に視線を戻した。その瞬間、葛樹が目を見開いて、肩を竦ませた。
「だって、私は、あの子を殺した」
女の手が、葛樹の首に伸びる。「それなのに、私は生きながらえてしまった」
女に首を掴まれた葛樹がうめき声を漏らしている。
「そんな自分を憎んで、私は私を殺した」
なにが起こっているのかわからない様子で、葛樹は千隼に顔を向けた。
「罪悪感で押しつぶされそうだったから、留置所であの子を想って自殺したの」
葛樹ほどのガタイのいい男が、骨ばった、それも実体を持たない女に力負けしている。声にならない葛樹の叫び声が室内を震わせた。脱力した葛樹の手から紺のスマホが滑り落ちた。
「なんであの子を殺したのか、全然わからない」
女の手の力が強まっているのか、葛樹の叫び声はどんどん掠れていく。
「でも仕方なかった。食べるものもなくなって、ガスも水道も止められて、元夫の借金も払いきれなくて、ねえ、私たちはどうすればよかったの? 死ぬ以外に方法はあったの?」
女の目から涙が溢れてくる。一介の高校生の自分に偉そうなことを言う資格なんてない。だけど、ゆうの気持ちは少しだけわかった気がした。どんなことを言われても、どんなことをされても、いい意味でも悪い意味でも、母親の存在は絶対だ。それ以外の大人を知らない幼少期ならなおさらだ。親から言われることがすべてなのだから、ゆうが母親に首を絞められても、それでも母親に会いたいというのは当然のことだろう。
「さっきから、あなたが言っていることは、あなたの都合じゃないですか」千隼の震えた声が、冷え切った部屋に響いた。「ゆうくんの気持ちはどうなるんですか」
女が息を呑む音が聞こえた。葛樹が思い切り酸素を吸い込む音が部屋中に響いた。
「ゆうくんが唯一頼りにできるのは、母親であるあなたしかいないんじゃないですか」
逆立っていた女の髪が、邪気を払ったようにふわりと重力に従って下りた。女のすすり泣く声から、後悔の念が痛いほど伝わってきた。女の手から解放され床にへたり込む葛樹の間抜けな顔が、ゆうの母親の想いの切実さを際立たせていた。
結局偉そうなことを口走ってしまった。気まずさに耐えられなくなった千隼は、そっと部屋のドアに向かって歩き出した。紺のスマホの中身はひとまずもういい。今ならスマホの中身を確認することができるだろうが、腰を抜かしているとはいえ、プライドの高そうな刑事の横で堂々と紺のスマホを操作するほど、デリカシーがないわけではない。
「待って」ドアの取っ手に手を掛けたところで、女が千隼を呼び止めた。
千隼が振り返ると、おぞましい姿をしていたはずの女は、すでに柔らかな笑顔でこちらを優しく見つめていた。
「由宇(ゆう)と遊んでくれて、ありがとう」
先ほど同じことを言われたときには虚ろに見えていた表情が、今や穏やかになっていた。そこに自己嫌悪の色は見えず、息子を想う愛情が溢れていた。軽く会釈をし、千隼は早々に廊下に飛び出した。
実は結構怖かった。あんなに負の感情をむき出しにした幽霊なんて、まさにオカルト番組で面白おかしく取り上げられる幽霊のイメージそのものだった。葛樹の圧も怖かったが、やはり怨霊が一番怖い。あんなものをどうやって物理的に証明すればいいのか、千隼は頭を抱えた。
でも、そんなおぞましい怨霊も、人の心を取り戻すことができるのかもしれない。去り際に見せた彼女の顔は、まさに子を想う母だった。怨霊にも、怨霊になりうる要因がきっとあって、それを明らかにすれば怨霊化した霊を落ち着かせられるのだろう。
頭を悩ませながら、千隼は警察署の出入り口へと向かった。階段を下りると、一階で起こっていた心霊現象の混乱はすでに収まりつつあった。警察署から出ると、由宇が階段に座って丸くなっている。
「どうしたの」千隼は由宇の隣にゆっくりと座った。
眉をハの字にして口をへの字にした由宇が千隼に振り返った。たくさん泣いたのだろう、目は真っ赤で、涙と鼻水で顔中がぐしょぐしょだった。
「こわいおじさんに、おっきいこえで、おこられたあ。こわかったあ」
再び泣き出しそうな由宇を見て、千隼は思わず笑った。「大丈夫だよ。由宇くんのお母さんが、その怖いおじさんをやっつけてくれたから」
由宇がわかりやすく目をまん丸にした。涙があふれていた目が、急にきらきらと輝き出した。「ママとあったの!?」
ころころと変わる由宇の表情が千隼にはかわいく思えて仕方なかった。「会ったよ。由宇くんのこと、すごく心配してた」
「ぼくもママにあいたい!」突然由宇がすくっと立ち上がった。そして、勢いよく署内に向かって走り出した。自動ドアをすり抜けて署内に駆けていき、そしてそのまま由宇の姿は見えなくなった。
会えるといいな。千隼はその場から腰を上げ、駅へと向かった。すでに空には星が瞬いていた。
紺のいる駅に向かいながら、千隼は自分のスマホに転送されたトーク履歴を開いた。ioriという名前。男性と思われるアイコン。紺のメッセージアプリ内唯一の男性アカウント。紺に対して少し申し訳ない気がしながらも、彼らのトーク履歴をざっと目で追った。メッセージをやりとりしていたのは二年前だ。
iori『おはよ。今日仕事?』
紺『今日は休みだよー』
iori『え! じゃあお店遊びに来てよ! 紺さんと話したい!』
紺『そんなに頻繁にホスト行けないよ……ハルくん人気なんだからわたしが行かなくても十分稼げてるでしょ』
iori『いつもえるくんって呼んでくれるのに、嫌味?笑』
ioriがハルで間違いなさそうだ。さらに千隼は前のトークを遡った。どうやらハルがホストで働き始める前は、ボーイズバーのキャストをしていたらしい。そのときは、ホストとは違う源氏名で出勤していたのか、紺はしきりに彼のことを「えるくん」と呼んでいた。二人のメッセージのやりとりはその後約一年続いた。
メッセージを読んでいく限り、二人が初めて出会ったのは夏のようだ。紺は友人と初めてボーイズバーというところに足を運んでいる。きっとそこで互いの連絡先を交換したのだろう。そこから断続的にメッセージのやりとりが続いた。ほとんどがハルからの「お店に来てほしい」という営業メッセージだった。紺は行けるときにはお店に足を運んでいた。耳に心地よい言葉もたくさんハルから投げかけられており、そのたびに紺はまんざらでもないような反応を示していた。傍目から見ても、ハルが紺を手玉に取り、紺がハルに恋心を抱いているであろうことは明白だ。
紺はハルにとっていい客、つまりいいカモだったのかもしれない。こんな事実を紺に知らせてもいいものなのか。いっそ知らないままの方がいいのかもしれない。そんなことを考えていると、いつの間にか駅に着いていた。改札を抜けホームに向かうと、いつものベンチに紺が座っていた。ホームを行き交う人々を楽しそうに見ている。
千隼は紺から少し離れたところで歩みを止めた。話すべきか、話さないべきか、未だ脳内を堂々巡りしている。しかしそれを俺が判断する筋合いはない。真実を知ってどうするのかは、彼女自身だ。
千隼は重い足取りで紺のもとに足を向けた。紺は千隼の存在に気づくとにこにこしながら千隼に手を振った。「どうだった?」
「もう大変でしたよ」大げさにため息を吐きながら、千隼は紺の隣に座った。
それでも紺はにこにこしながら話の続きを待っている。
千隼はもう一度、今度は無意識にため息をついて、ポケットからスマホを取り出した。千隼は、紺とハルと思われる男とのトーク履歴を画面に映し、紺に差し出した。
紺はそれを受け取ろうとせず、代わりに思い切り顔を近づけて覗き込んだ。千隼は仕方なく紺の視線に合わせてスマホの画面をスクロールした。
「へえ。まんまとわたし、カモられてるね」けらけらと笑い声をあげながら、紺の目線は画面に釘付けだった。「でもさあ」
千隼はスクロールの手を止めた。紺の声が震えているように思えたからだ。だからといって紺の顔を見るのは憚られた。それこそデリカシーに欠ける。
「なんか、幸せそうだよね、わたし。この人のこと、ちゃんと好きだったんだろうなあ」膝に置いていた紺の手に、涙が落ちた。千隼はなにも言わずに、再びゆっくりと画面をスクロールしていった。
紺はたびたび笑い声を漏らした。そのたび、手の甲に落ちる涙の数も増えていった。「最初はえるくんで、その次がハルくんで、本名は伊(い)織(おり)くんっていうんだね。わたし、基本はえるくんって呼んでるのに、茶化すときだけハルくんって呼ぶの、なんか妙にリアルで面白いなあ」
自分のことなのにまるで第三者のやりとりを見ているかのような紺の反応に、千隼は切なさを覚えていた。
「わたし幽霊だからさ、心なんてあるはずないのに、存在しない心が少し痺れた気がするんだよね。なんだかすごく、息が苦しいの」いっそう紺の声が震えた。「えるくんはどんな声で、どんな風に話して、どんな風に笑ったんだろう。全然、思い出せないや」
二人のやりとりは簡単に目を通しただけだったが、掲示板で見た情報を合わせて考えても、なぜ泣くほどまで紺がこのろくでもない男に惚れているのかわからなかった。
「あ、そういえば」千隼はスマホの画面をいじって、ioriのアイコンの写真を紺に見せた。「これがioriって人のアイコンでした」
「すごく加工してるね」紺は苦笑いしながら、きらきらしたioriのアイコンを見つめた。「えるくんの着てるこの服、『kitchen(キッチン) North(ノース) Book(ブック)』って書いてある?」
8
人を眺めるのが好きだった。
死んでからというもの、このホームに縛られて、できることといえばこの駅を使う人の流れをただ眺めているだけだった。このホームに縛られてからどれくらいの時間が経ったのかわからない。
なぜわたしは成仏できないのだろう。なぜわたしの時間は止まっているのに、行き交う人々の物語は進んでいくのだろう。そう思ってしまうことは何度もあった。だけど人々の物語を想像するのが紺は好きだった。幸せそうな顔をした人、絶望を絵に描いたような人、しきりにスマホを気にしている人、思い出し笑いをしてしまって気まずそうにしている人……。
生前はわたしも心動くようなことをしていた気がする。しかし、それがなんだったのか、紺は思い出せずにいた。それが、財布に入っていた名刺のホストの存在なのか、そうでないのかすらもわからない。それでもそのホストの存在がどこかずっと心に引っかかっていた。
そんなときに現れたのが千隼だった。彼は幽霊である紺を認識した。言葉を交わすことができた。今までそんなことができる人は他にいなかった。話せる人ができただけで、紺は心が躍るような気分だった。退屈さを見て見ぬ振りした毎日に、楽しみができた。幽霊には心なんてないと思っていたから不思議な感覚だった。
千隼はとても素直で賢い高校生だった。幽霊の存在を認識しつつも、その存在に疑問を感じていたからだ。この子だったら、きっとわたしの物語を動かしてくれるに違いない。
そしてそれは紺の思った通りだった。むしろ千隼は紺の思った以上の動きをしてくれていた。わたしがたどったであろう思い出の地を歩いてくれるだけで十分だったのに、彼は動けないわたしの足となってくれている。わたしが失った物語が、また動き出した気がした。止まったままの物語が進み出した。
ハルについて、紺には少しだけ覚えていることがあった。初めてであったときからずっとえるくんと呼んでいたから、ホストになってもずっと「えるくん」と呼んでいたこと、社員旅行でお土産を買ってきてくれたこと、予算以上の額を使わせてきたことがきっかけで喧嘩してしまったこと。仲直りしたこと。落ち込んでいたら話を聞いてくれて、頑張って励ましてくれたこと。たった一年で、よくこれほどまで仲を深めたなと、自分でも感心するほどだった。
あの頃の心の動きをもう一度味わいたかった。彼に会えずとも、彼と過ごした日々をまた実感したかった。千隼が探し出してくれたあの頃の記憶のかけらは、まさに朧げだった思い出を鮮明にしてくれた。
えるくんのことが大好きだった。
でもえるくんはきっとわたしのことを金払いのいい客としか思っていなかっただろう。それでも、わたしを頼ってくれていたことが嬉しかった。久しく恋なんてしていなかったのに、あっという間にえるくんに恋をした。気づけばえるくんのことばかり考えてしまう。えるくんの言葉に舞い上がって、えるくんのことを想って涙した。叶わない恋だとわかっているのに、どうしても想わずにはいられない。この人との未来はないとわかっているのに、声が聴きたくてたまらない。
客として呼び出されていたことはわかっていた。会いに行くたびにシャンパンを煽られた。それでもわたしのことを特別扱いしてくれたり、耳に心地よい言葉をくれたりするから、えるくんから離れられなかった。嫌いになる瞬間なんて、いくらでもあった。それなのに拒絶できない自分の弱さに嫌気がさして、また泣いた。
千隼が見せてくれたトーク履歴を見て、少しだけあの頃の苦しさが蘇った。あのとき忘れたいと願っていたことを、心が震えるほどに思い出してしまった。もう二度と彼には会えないというのに。
これでいい。あの頃のわたしの気持ちは、わたしの体と一緒に成仏させる。
ここに留まれるタイムリミットは、きっとあと少しだ。
9
次の日の放課後、千隼はまた紺の隣に座っていた。週末ということもあるためか、ホームを行き交う人々は浮足立っているように見えた。夕方五時の空はまだ明るい。
千隼は紺の隣で、紺の見つめる先を目で追った。彼女は行き交う人を楽しそうに眺めている。しかし、その目はなんだか切なく見える。
「人が歩いてるのを見て、楽しいですか?」千隼は早足に目の前を通り過ぎていく人々の動きに目を回した。
紺は千隼が隣にいることに気づいていなかったのか、虚を突かれたようにはっとして、それから寂しそうに声を出して笑った。「そうだね、楽しいよ。いろんな人がいるんだもの。ここには、ここにいる人たちの分だけ人生が動いてるんだよ」
ここにいる人たちの人生は動いている。紺の人生はすでに終わっている。止まったまま。だとしたら、こんなにたくさんの人が往来するこの場所は、紺にとって残酷な場所だ。
「幽霊がいないことを証明しようとしている千隼くんに聞きたいことがあるんだけど」紺は遠くを見つめたままだ。「幽霊に心ってあると思う?」
千隼も遠くを見つめた。目の前をたくさんの人が横切る。一秒の間に、五人、十人。顔もわからないうちに、彼ら彼女らは視界から消えていく。
「そもそも幽霊なんて、いないんですよ」
そう思い続けて勉強してきたつもりだった。それなのに、紺と出会ってからというもの、それまで積み上げてきた仮説の類は水泡と帰していた。今となっては幽霊と人間の見分けすらつかなくなってしまっている。
千隼の心を見透かしたかのように、紺は続けた。「幽霊と人間の違いってなんだろうね」
ホームに滑り込んできた電車から、たくさんの人が降りてきて、たくさんの人が乗り込んだ。
「体があるかどうか?」
「わたしにだって体はあるよ」紺が両手を広げた。
「実体がない」
「確かにね。他には?」
「他の人に見えるかどうか?」
「わたしは千隼くんに見えてるよ」紺が千隼の顔を覗き込んできた。「それに、まるで誰からも見えてないような、空気みたいな人間っていないのかな」
紺は再びホームの群衆に目を向けた。そこには、お互いの存在を見ようとせず、ひたすらスマホに目を向けている人々がいた。
「じゃあ、ご飯を食べるかどうか?」
「実体がないんだから、そりゃあ幽霊はご飯を食べないね」
電車が発車した。それに伴って生じた突風は、千隼の思考を最初に戻した。
「心ってなんですかね」
うーんと唸って、紺が腕を組んで背を丸めた。「感動したり、恐怖したり、楽しかったりを感じる源?」
感動や楽しさはよくわからない。みんなが泣いている映画を観ても、泣く理由がピンとこなかったし、みんなが楽しいと言っていたゲームもその良さがわからなかった。「お前には心がない」と言われ続け、そういうものだと思ってきた。だけど、幽霊と遭遇したら、やっぱり怖い。怖いと感じるのは、心があるからなのか。
それに「心が動く」とか「心が震える」という言葉をよく耳にする。しかし、千隼にそんな経験はなかった。確かに驚いて心臓が跳ね上がるようなことはあるが、それを「心が動いた」と言ってもいいものなのか。
「紺さんは生前、心が動いたり震えたりしたことってありました?」
「そうだねえ……」
それきり、紺は黙ってしまった。すでに日は落ちていて、辺りは真っ暗だった。
10
学生にとって貴重な休日がやってきた。
駅から緩やかな坂を三十分ほど上った比較的閑静な場所にkitchen North Bookはあった。小さな門にはミモザと呼ばれる植物がふわふわと花を揺らしている。門をくぐると、レンガ造りの建物がそっと建っていた。
「この木はね、ミモザではないのよ」
いつの間にか千隼の横に、白髪をきれいにまとめた淑女が立っていた。
「あなたも幽霊ですか」息を吐きながら、千隼は目を細めた。もう驚かない。
淑女は上品に笑った。「あなたは面白いことを言うのね」
間違えた。千隼は慌てて深々と頭を何度も下げた。「すみません! 失礼しました!」
「いいのよ、もう死んでいるみたいなものだから」淑女は微笑みながら静かに店の扉へ歩み寄った。
千隼は淑女の後に続いた。淑女が千隼に振り返った。「ご一緒してもいいかしら」
「もちろんです」千隼は淑女の一歩前に進み出て重厚な木製の扉をゆっくりと開けた。
店の中はナチュラルな調度品で統一されていた。四人掛けのテーブル席が全部で四つ、カウンター席が八席、テーブルも椅子もすべて木でできていた。店内に客はまばらで、それぞれが静かに会話を楽しんでいた。白い漆喰の壁に反射している間接照明の明かりが、店内に温かさをもたらしていた。店内は食器のぶつかる音が心地よく響いている。
「いらっしゃいませ。お一人様でよろしいですか?」
綿の白シャツに、腰からベージュのエプロンを下げた女性店員が千隼と淑女のもとに小走りに寄ってきた。
「一人?」千隼は目を丸くして女性店員を見た。
女性店員は焦りながら、千隼をテーブル席に案内した。「失礼しました。ごゆっくりどうぞ」
千隼が首を傾げながら淑女を見ると、彼女はいたずらっぽい笑顔を千隼に向けながら千隼の向かいに静かに腰を下ろした。女性店員が水とメニューを静かにいた。メニューは手作りで、温かみのある手書きの字が並んでいた。その中から、千隼はハンバーグを注文した。
「孫がね、ここで働いているの」淑女が口を開いた。
千隼は水に口をつけながら、話の続きを待った。
「おばあちゃん食べに来てーなんて言うから、本当は孫の作った料理を食べに来たかったのだけれど難しそうだからね。死ぬ前に、孫が頑張っている姿を一目だけでも見ようと思ったのよ」
それから淑女は孫のことを話し始めた。千隼に話しかけているというよりも、孫との思い出を懐かしんでいるように千隼には思えた。
「孫はね、母子家庭で育ったの。下には妹もいて、お母さんにも妹にも気を遣える、いい子だった。でもそれは気の毒でもあったわ。自分のやりたいことは後回しにしていたのだから。一日中働きに出ている母親の代わりに、いつも妹の世話をしてあげていたわ。それだけじゃなくて、あの子は誰にでも優しかった。知り合いだろうと、知らない人だろうと、困っている人には進んで手を差し伸べていたわ。高校に入学したら、なにやらアルバイトを始めたんだけど、どんな仕事をしていたのか、一切教えてくれなくて、でもたくさんのお金を持って帰ってきていたから、とても心配だった」
千隼の注文したハンバーグが運ばれてきた。鉄板に載ったハンバーグは香ばしい煙を立ち昇らせながら、弾ける音を立てていた。千隼の口内に唾液が溢れた。
「無事に高校を卒業してから、繁華街で仕事を見つけたと教えてくれたわ。しばらくして、ホストクラブで働いているってこっそり教えてくれてね。私、ホストクラブなんて知らないからとっても心配で、たくさん問い詰めちゃった。そのたびに、大丈夫だよって言ってたけど、少し干渉しすぎちゃったみたいで、申し訳なかったと今では反省しているの」
懺悔のような淑女の話を聞いて、千隼はハンバーグを切る手を止めた。元ホスト。そして現在ここで働いている。そんな稀有な職歴を持つ人はなかなかいない。ハル以外には。
淑女がおもむろに立ち上がり、ゆっくりとキッチンの方に歩いていった。千隼の席からではキッチンの全貌は見えないが、シェフが忙しそうに立ち回っているのは見えた。
千隼はハンバーグを口に運んだ。肉の旨みが口いっぱいに広がった。その瞬間、心が解れたように思えた。
淑女は少し離れたところからキッチンを覗いていた。その横顔は誇らしげでもあり、寂しそうでもあった。彼女はキッチンに向かってなにかを話しかけようとしたようだが、すぐにその口をつぐんだ。そして、しばらくその場に立ち尽くしてから、また千隼の正面に戻ってきた。
「ハンバーグ、美味しい?」淑女が首を傾げた。
「今まで食べたハンバーグの中で、一番美味しいです」
千隼がそう言うと、淑女は満足したような顔で小さく頷いた。そして、消えた。
目の前で人が消えるのを見たのは初めてだった。やはりあの淑女も幽霊だったのだろう。成仏したということは、未練がなくなったということなのだろうか。それにしては、淑女は寂しそうだった。
彼女は、孫のことを心配しすぎて反省していると言っていた。そして、千隼がハンバーグの感想を言うと満足そうにしていた。それが、彼女にとってすべてだったのだろう。孫に対する心配は尽きない。かけたい言葉はいくらでもあったはずだ。でも彼女はその言葉を飲み込んだ。キッチンに向けても、千隼に向けても、愚痴の一つも言わなかった。それが彼女にとって最後のあり方だったのかもしれない。
千隼はぺろりとハンバーグを食べきった。「ごちそうさまでした」
本当はハルに文句の一つでも言おうと思ってここに来た。しかし淑女の話を聞いたとき、千隼の視点が切り替わった気がした。
今までは、都合のいいときに女を呼び出して女心を弄ぶ最低な男だと思っていたが、もともと根が優しい性格で、誰にでも気を遣える人だったようだ。家庭環境から、彼は夜の世界に足を踏み入れた。それが得意だったのかどうかはわからないが、高校入学とともにその道に進んだのは母と妹のためだったのかもしれない。
千隼は伝票を持ってレジへと進んだ。ちょうど昼時のためか、にわかに店内が混み始めてきた。女性店員は忙しそうに店内を駆け回っている。ホールに出ているのは彼女だけだ。
千隼がしばらくレジ前で店内の喧騒を眺めていると、厨房からエプロン姿の若い男性が慌ててレジに駆けつけた。千隼が会計を支払おうとしたとき、ふと思いつきでこの若いシェフにハルのことを聞いてみようと思った。淑女の話からも、間違いなくこの店でハルは働いている。
「すみません。あの、ここに伊織さんという方は働かれてますか?」
その言葉に若いシェフは戸惑いを隠さなかった。
「あ、僕が伊織ですが……」
まさか、今まで探していた人間に、こんなにもあっさりと出会えてしまうとは考えてもみなかった。千隼が言葉を失っている間にも、伊織は不審な目で会計を待っているのかじっと立っている。「あの、なんで僕のこと……?」
千隼は木製トレイに千円札を載せた。「浅桜紺さんに、あなたのことを伺って、会ってみたいなって」
息を呑む音が聞こえた。トレイに置かれた千円札は、横を人が通るたびにひらひらと、まるで風を待つ蝶のように揺らめいた。
「紺さんは」震える声で、伊織が呟いた。「今、なにをしているんですか?」
千隼は千円札をじっと見つめながら、なにも言えずにいた。
「あなたは、紺さんの、彼氏さん?」
思わぬ質問に、千隼の目は点になった。そしてその意味を理解したとき、思わず失笑してしまった。
「違いますよ。俺、高校生ですよ」笑いながら伊織の方を向くと、彼は明らかに脱力した様子だった。「紺さんは、ただの知り合いです」
伊織は少し自嘲気味な笑みを浮かべた。「あのさ」
千隼は木製トレイの上に置かれた千円札から、伊織に目を移した。伊織はまっすぐに千隼を見つめていた。
「紺さんのこと、聞かせてくれないかな」
11
Kitchen North Bookから少し離れたカフェは、駅からさらに離れているためか、すいていた。店内にはゆったりとしたジャズが流れている。
千隼は注文したアールグレイを飲みながら、自分のスマホに保存した紺と伊織のやりとりを見返していた。さっき食べたハンバーグのおかげで、未だお腹はいっぱいだ。
伊織が紺に「お店に来て」と送っていたのは、本当に営業のためだったのか。いや、これに関しては間違いなく営業だろう。彼は早くから夜職で働いていた。それほど金が必要だったということだ。営業でなかったとしても、本気で恋心を抱いていた紺は、やはりいいカモだ。
しかし、そうなると淑女が言っていた彼の性質と合わない。
誰にでも優しかった。
ホストのハルが紺にしていたことは、間違いなく営業のはずだ。しかし、それで紺の気持ちを弄んでいたのだとしたら、それはもしかして彼らしくないということになるのではないか。
「お待たせ」
千隼の前に、伊織が座った。カジュアルなのに、どこか上品な装いは、元ホストの面影を少しも残していなかった。千隼はすかさずスマホの画面を隠した。「いえ、お仕事お疲れ様です」
「なに見てたの?」伊織が柔らかく微笑みながら千隼の手元に目線を送った。その笑顔は、同性の千隼が見てもどこか落ち着く雰囲気を纏っており、惹かれるものがあった。窓から射す太陽の光が、彼の栗色の髪をより一層艶やかに照らし出し、色白のこともあってか、まるで天使のように見えた。
伊織が不思議そうに千隼の目を覗き込んできた。その瞳すら光を反射して美しく見えた。
「いや、なんでもないです」
千隼は、伊織が口を開く前に話し始めた。
「伊織さんのおばあさんって、どんな人なんですか」
「ばあちゃん?」まるで想定外の質問だったのか、伊織は驚きの色を覗かせていた。「なんでばあちゃんのことを聞くの?」
「なんとなく」まさか幽霊になったあなたのおばあさんに会いましたなんて言えるはずもない。
千隼の言葉に納得したわけではなさそうだったが、伊織は目を細めながら、思い出を一つずつ掬い上げるかのように、ゆっくりと話し出した。
「僕のばあちゃんはね、すごく優しい人だった。こんな僕のことを、ずっと応援してくれてたんだ」
伊織が口をつぐんだ。一瞬の静寂に、店内のBGMが二人の間に割り込んできた。
「呼吸障害で今は植物状態、人工的に生かされてる状態なんだよ」
千隼は目を見張った。あのとき淑女はまだ生きていたのか。植物状態でなお、孫の心配をしていたのだろう。
「伊織さんって、ホストだったんですよね。紺さんは、伊織さんのお客さんだったんですか?」
伊織は少し困った顔をして頭を掻いた。「んー、まあ、そうだね」
答えを聞いて、千隼はちくりと胸が痛んだ。やはり紺は客だった。恋心を抱いていたのは、紺だけだった。
「でも、特別な人だったよ」
千隼はアールグレイを一口飲んだ。まだ温かいアールグレイを飲んで心がほっとした。どうやら眉間に皺が寄っていたようだ。
「だけど、もう連絡をくれなくなった」ぽそりと呟いた伊織の声は、店内のBGMにかき消されそうなほど、小さかった。「紺さんが今なにをしているのか、聞いてもいいかな」
窓の外は昼と夜のグラデーションになっていた。
「紺さんは、亡くなりました」
アールグレイを飲んだばかりだというのに、口の中が一気に乾いた。第三者の自分が、彼らの物語を大きく動かす役割を持つことになろうとは。
「嘘だろ!?」
急に発せられた大声に、千隼は肩を震わせた。そして慌てて伊織に顔を近づけて人差し指を口に当てた。「静かにしてください!」
店内にいた客は驚いた顔を向けていた。千隼は頭を何度も下げ、小声で何度も謝った。
「そんな……紺さんが、死んだ? なんで?」
千隼は声を落としていった。「駅のホームから落ちて、電車に轢かれたそうです」
「……なんで君がそんなこと知ってるの」伊織は不審な目で千隼を睨みつけた。
確かに自分は紺との関係性をただの知り合いだと説明した。だからといって、幽霊の紺と話したなんて言っても信じてもらえないだろう。
ただの目撃者とでも言うか? しかしそれではなぜ伊織とのつながりを知っているのかの説明がつかない。それにただの目撃者にしては知り過ぎている。
では、生前の紺の知り合いと言うか? しかし、それにしたって紺と繋がる共通点が一つもない。紺の趣味も生前の活動も、なにも知らないのだ。でもだからといって、「幽霊が見える」なんて荒唐無稽なことは言えない。また、嘘をつくしかない。
「俺、紺さんの、親戚なんです」最近最もついた嘘。それをためらいもなくつけていることに、千隼は少しだけ嫌な気持ちになった。
伊織は申し訳なさそうに眉を下げ、「ご愁傷様」と言って目を伏せた。「紺さんは、君に僕の話もしてたの?」
千隼は紺と伊織のメッセージのやりとりを紺から聞いたということにして、たまに自分の客観的な意見を交えながら話をした。
「そっか、紺さん、そんな風に僕のこと憶えててくれてたんだ」伊織は照れたような笑みを浮かべていた。そして思い出したようにすぐに沈んだ面持ちになった。「もっと早く会いに行けばよかった」
「え?」
伊織は寂しそうに微笑んだ。「紺さんとはね、僕がボーイズバーで働き始めたときに出会ったんだ。ホストになってからも会いに来てくれた唯一のお客さんだった」
千隼は再びアールグレイを口に含んだ。アールグレイは、すでに冷めていた。
街路灯に明かりが灯り始めた。本格的に夜が街を包み始めていた。
「最初は友達と来てくれたんだ。自分は乗り気じゃないみたいな顔してたのに、一緒に話し始めたらどんどん盛り上がっちゃって、次からは一人で店に来てくれるようになった。礼儀正しいし、楽しそうに話しを聞いてくれるし、他のスタッフにも優しいし、スタッフはみんな紺さんのことが大好きだった。僕がバーを辞めることになったとき、高いシャンパンを頼んでくれて、嬉しい言葉もくれて、ああ、僕はこの人と離れたくないなって思ったんだ。だから、本当はいけないんだけど、個人的に連絡先も交換した。ホストで働くってなったときに連絡したら、嫌な顔されると思ってたけど『よかったね』って言ってくれたんだよ」
「確かに、常連客は一人でも多い方がいいですもんね」知らず知らずのうちに、千隼の口調は鋭くなっていた。
紺は、自分がハルを特別に思う理由を知りたいと言っていた。紺と伊織のメッセージのやりとりでは、紺が伊織に特別な感情を抱いていることが手に取るようにわかった。だから、今の伊織の話に出てきた紺の行動は、伊織のことが好き故のものだったのだろう。それを、この男は都合よく利用し、他の人よりも羽振りがいいからと特別扱いをした。所詮、淑女が話していた心の優しい少年は、夜の世界で変わってしまったのだろう。
「んー、というより」伊織は少し困った顔をした。「純粋にもっと一緒にいたかったんだ」
この男はなにを言っているんだ。完全に無自覚で、彼女に貢がせていたのか。
「じゃあ、なぜ店以外で会おうとしなかったんですか?」
伊織はきょとんとした顔で千隼を見つめた。「全然同伴とかアフターとか店外とかしてたけど」
「そういうことじゃない!」
再び店内が騒然とした。思っていた以上に声を張り上げてしまっていたらしい。店中の冷たい視線が千隼を刺した。
千隼は何度か深呼吸をした。そして、声を落とした。「それって営業の一環でしょ? 個人的にやりとりしてたって言うんだったら、友人として出かけたりしなかったのかってことです」
「ああ、そういうことか。それは、なんというか」伊織はばつが悪そうに頭を掻いた。「どうやって誘えばいいのか、わからなかったんだ」
呆れた。まるで思春期の中学生のような言い訳だ。「だからいつも店にばっかり誘ってたんですか」
「だって、高校のときからずっと夜職してたから、普通にデートに誘う方法なんて知らなかったんだ。会うにはお店に来てもらうしかないと思ってて」
伊織の家庭環境や誘い文句の根底にある考え方について、紺がどれほど知っていたのかはわからない。伊織に振り回されている紺も、普通のデートの誘い方を知らなかった伊織も、千隼は気の毒で仕方がなかった。
「伊織さんは、紺さんのこと、どう思ってたんですか?」
伊織は遠く窓の外に目を向けた。釣られて千隼も外を見た。紺色の夜空が夏を透過していた。
「好きだったよ」
アールグレイの香りはすでに沈み切っていて、千隼のもとには届いてこなかった。
12
駅には休日を満喫し終えたカップルや家族、くたびれたスーツを着た利用客が殺伐と入り乱れていた。紺は相変わらず、そんな余裕のない人たちを楽しそうに眺めている。
「こんばんは」千隼は紺の隣に座った。
紺は驚いて千隼を振り向いた。「あれ、今日学校休みじゃないの?」
「今日は日曜だから、学校は休みですよ」千隼は得意げな顔をした。「実は出かけてきたんです」
紺は楽しそうに頷いた。「休みの日に出かけるのはいいことだね」
「ハルさんに会ってきました」
「ん!?」紺が勢いよく立ち上がった。「なにその急展開! 聞いてないよ!」
口元を緩めながら千隼は足を伸ばした。「kitchen North Bookでシェフをしてましたよ」
「そっかあ」電車にすし詰めになっている人々を見ながら、紺は楽しそうに言った。
「紺さんのこと、好きだったって言ってました」
すし詰めになっている乗客たちは、思い思いの嫌な表情を顔に惜しげもなく貼りつけ、ままならない体勢のまま電車とともに流れていった。
「よかったですね、両想い。これで無事に成仏できるんじゃないですか」
やっと解放される。紺の無茶なお願い事からも、幽霊と関わってしまった毎日からも。ただ、ここ数日間の冒険譚は、今まで経験したことのないことを経験することができた。それに、紺とここで話す時間は、なんだか心落ち着く時間でもあった。それが、もうすぐ失われてしまう。幽霊を科学で証明することに徹した、なんの変哲もない日常に戻ってしまう。
千隼がふと隣を見ると、紺が顔を手で覆って震えていた。指の隙間からは、わずかに涙が滲んでいた。
両想いだったのになぜ泣いているのだろう。嬉し泣きってやつだろうか。こういうときって、なんて声を掛ければいいのだろう。
「なんで」紺の弱々しい声が漏れた。「なんでもっと早く会いに行かなかったんだろう」
伊織も同じことを言っていたことを千隼は思い出した。会いに行くことそれ自体は難しいことではないはずなのに、恋愛となると会いに行くことは億劫になってしまうものなのだろうか。
涙を拭きながら、紺は笑った。「幽霊なのに、涙が出るなんて変だね」
その声からは、強がりが全面に表れていた。
「幽霊にも心があるってこと、証明できたかもしれないですね」慰めになっているのかわからないが、千隼は平静を装った。
紺は笑いながら、涙を流していた。「会いたいって言葉を伝えるのは、すごく勇気がいるんだよね。だけど、言わなかったらこのざま。死ぬ時なんて急に来るのに、そんなことわかってたのに、先延ばしにした結果、本当に死んじゃうなんて、馬鹿みたいだよね」
人生が有限だなんて、みんなわかっているはずだ。それでも行動しないのは、本当に馬鹿みたいだ。でも、やっぱり俺達には、勇気がない。
「あーあ、本当はハルくんに一目でも会いたかったなー。でも、ここに縛られてる以上、そんなことはできないし、なにより千隼くんにたくさんお世話になっておきながら、そんな贅沢は言えないよね」紺が大きく伸びをした。
「成仏すれば、なんか、いい感じにハルさんの近くに転生できたりするんじゃないですか」
「あはは、なにそれ。今流行りの転生もの? それはそれで夢があるねえ」
「今流行り?」
「道行く高校生がよくそんな小説読んでたから、流行ってるのかなって」紺は笑った。
「でも紺さんがいなくなっちゃうのは、寂しいです。なんだかんだ楽しかったし」
「そう言ってくれて嬉しいよ。千隼くんにはたくさん迷惑かけちゃったなーって思ってたから。ありがとね」
「いえいえ。あ、そうだ、紺さんに相談があるんですけど」
千隼が隣に目を向けると、そこに紺の姿はなかった。
13
粒子物理学で証明できることは限られている。さらに風俗学も考慮するとなるとなおさらだ。幽霊を科学で証明することは、そう簡単ではない。でも、幽霊についてわかったことはいくらでもあった。
深く大きい感情による生き霊は、存在する。幽霊は、水蒸気のように霧散することもできるし、それが集合して物理的に力を加えることもできる。幽霊にも感情はある。つまり、心がある。幽霊は、急にいなくなる。
別に紺がいなくなって悲しいわけではない。たった数日間の関係というだけだ。紺に関して知っていることは数限られていたし、むしろ彼女からのお願い事を疎ましいとすら思っていた。しかし、紺と出会った数日間の経験は、千隼にたくさんの気づきを与えてくれた。なにより楽しかった。心が震えるほどに。
千隼は放課後の図書室で、ここ数日間で感じたことをノートにまとめていた。図書室の自習スペースには、課題を進めているのであろう数人の生徒が静かに自身のテリトリー内で黙々と教科書と向き合っていた。
千隼はノートの片隅に、「なぜ紺さんや他の幽霊は見えるのに、じいちゃんのことは見えないのだろう」と書き記した。
「紺さんに、相談したかったな」千隼が小さくこぼすと、図書室のドアが激しく開かれる音が響いた。教科書に向き合っていた生徒たちはいっせいに顔を上げ、迷惑そうな目をドアに向けた。
ドアの先に立っていたのは、千隼の担任だった。目を皿にして、図書室中を見回している。そして千隼と目が合った瞬間に「いた」と声を漏らした。迷惑そうな目を担任に向けていた生徒たちが、今度は一斉に好奇の目を千隼に向けた。
「八神、ちょっと」担任が手招きした。その顔には緊張の色が浮かんでいる。
千隼はノートを閉じ、席を立った。その間も生徒たちの視線は千隼に注がれたままだった。
担任に手招かれて図書室の外に出ると、担任が声を潜めた。「お前、またなにかやらかしたのか?」
また、というのはきっと、学校中で話題になった自殺未遂のことを言っているのだろう。しかし、その後なにか問題を起こしたという自覚は、千隼にはなかった。
「今警察から電話があった」
千隼は顎に手を当てた。警察に関わるようなことなんてした覚えは……一つだけあった。
「葛樹という人から、お前宛に伝言をもらった。近々署の方に来るように、とのことだった。……お前、今度はなにしたんだよ」
千隼はなにも言えなかった。警察を出し抜いて重要証拠を漁った記憶が脳裏をよぎった。そういえばあのとき葛樹は俺の制服を見て、学校を特定していた。
「葛樹さんいわく、全然大したことじゃないそうだが、俺はそれを信じていいんだろうな」担任の目が鋭くなった。
それはもう全然大したことでないわけがない。葛樹の血管の浮き出た怒り顔を思い出した。ああ、今度こそ半殺しにされる……。千隼は全身から血の気が引いていくのを実感した。
担任は終始心配そうにいくつもの質問を千隼に投げかけたが、千隼は構わずに急いで学校を後にした。
警察署は前回来たときと同じくらい混雑していたが、その手前の階段に少年は座っていなかった。総合受付に行き、千隼が葛樹の名を口にすると、ものの数秒で葛樹が現れた。
「よう、久しぶりだなあ、小僧」
再会の喜びなど微塵も感じていないのが、葛樹の眉間から読み取れた。千隼は目を泳がせながら答えた。「あ、えっと、その節はどうもお世話になりました……」
「立ち話もなんだ、場所を変えよう」
葛樹が踵を返し、歩き出した。千隼は慌ててその後ろに続いた。千隼が案内されたのは、革張りのソファが置かれた小さな応接室だった。暗く寒い部屋で尋問されるものだと思っていた千隼は拍子抜けした。
「なんだ、尋問でもされるかと思ったか」葛樹はソファの向かいに置かれたスツールに荒々しく座った。
「いえ」浅くなりつつある呼吸を必死に抑えつつ、千隼はソファに静かに腰掛けた。
「本題に入る」葛樹はため息をついた。「お前さん、浅桜さんのこと心配してたみたいだからな、一つだけ教えてやろうと思って。決して心霊現象から助けてもらったお礼とかでは断じてない。勘違いするなよ」
葛樹はまるで忌まわしいものでも見るような目つきをしたが、すぐにまた冷徹な顔つきに戻った。「浅桜さんがホームから落ちたのは、自殺のためじゃない。第三者によるもの、つまり殺人未遂だ」
「殺人未遂?」千隼は不審に思った。紺は死んだ。それなら未遂とは言わないだろう。
葛樹はこれ見よがしに大きなため息をついた。まるで千隼の察しの悪さを責めるようだった。「浅桜さんは、生きてる」
「離してよ! あたしじゃないってば!」廊下で女の金切り声が響いた。「あたしは悪くない! ハルが悪いのよ!」
その声には聞き覚えがあった。千隼がホストに行ったとき、店の前で千隼を待ち受けていた、あの女の声だった。
「浅桜さんをホームから落とした加害者は、浅桜さんと同じホストに通う客だった。そして、担当のホストも浅桜さんと同じだった。自分の担当が浅桜さんを特別扱いしているように感じた加害者は、担当ホストではなく、浅桜さんに嫉妬の目を向けた。そして、浅桜さんの後をつけ、電車を待つ浅桜さんの背中を押した」
千隼は口もきけず、膝に置いた自分の手を眺めた。紺には生前の記憶がなかった。背中を押されたときの記憶だって、もちろんなかったはずだ。だからこそ、彼女は誰のことも恨まなかった。憎まなかった。千隼はそれが納得できなかった。
当初はなにも疑問に思わなかった。記憶がなかったとはいえ、なぜ自分が死んだ理由ではなく、ホストを探せと言ったのか。まさか自殺だと信じていたわけでもあるまい。
「浅桜さん、この前の日曜日に意識を取り戻したそうだ」
14
瞑った瞼の向こう側が眩しい。そっと目を開くと、そこには見知らぬ天井が広がっていた。目だけ右に向けると、見慣れた背中。
「お、かあ、さん」発した言葉は酸素マスクに遮られてくぐもった。
異変に気づいたのか、母は一度動きを止めた後、勢いよく振り返った。その目にみるみるうちに涙がたまり始めた。
こうして紺は、二年間の眠りから覚めた。
入院生活は大変だった。まさに浦島太郎といった具合で、世の中の動きは、わたしが眠っていた間に急激に変化していた。
二年前、紺は教員として毎日忙しく働いていた。朝は早くから、夜は遅くまで働き、心身ともにすり減っていた。
そんなとき、大学で仲が良かった友人と遊ぶことになった。その友人とは大学時代に無茶なことをしてたくさん遊んだ。鈍行のみで日本を縦断したり、牛丼チェーン店をはしごしてみたり、川沿いの土手を延々と歩いて下ったりと、若い力をいかんなく発揮した遊びに耽っていた。
そんな友人から「一緒にボーイズバーに行ってみよう」と誘いがあった。教員のわたしがボーイズバーに行くなんて、発想すら起こらなかった。しかし彼女の誘いで、大学時代の熱情が再燃したのは必然だったのだろう。
友人と初めて行ったボーイズバーは、紺が勤務していた学校からわりと離れた繁華街にあった。道の両脇に立つキャッチの男の子や女の子の間をすり抜け、友人に続いて通りに面したビルに入った。エレベーターで三階まで行くと、無骨なドアが目前に現れた。友人が恐る恐るドアに手を掛けると、暗い店内は思いのほか狭く、落ち着いた雰囲気が漂っていた。
「ようこそ!」
バーカウンターの向こうで談笑していた二人のキャストが同時にこちらを向いた。促されるままに席に着くと、メニューやお店のシステムを説明された。セット料金や時間料金など、あまりよくわからなかったが、キャストの男の子たちは懇切丁寧に説明してくれた。そのキャストの子たちがタイプだったのか、友人はとても楽しそうにキャストたちと声をあげて話している。紺のことも話に入れようと、男の子たちは頑張って話を振ってくれていたが、どうにも紺はその頭の悪そうな雰囲気には馴染むことできず、酒だけが進んでいった。
「すみません、電車が遅れてて」
先に帰ろうと紺が席を立った矢先、遅れて出勤してきたキャストがカウンターに慌てて入ってきた。それが、伊織だった。「どうも、えるって言います」
伊織は席を立とうとした紺を見て小首をかしげた。「帰っちゃうんですか?」
どうせここにいてもなにもすることがない。生産性のない時間だけが過ぎていく。紺の帰るという意志は確固たるものだった。
「もしかして、退屈、させちゃいましたか?」自分が悪いわけではないのに申し訳なさそうな顔をした伊織を見て、紺は苛立ちを覚えた。
そうやって、さも自分が悪いみたいな顔をすれば許されるとでも思っているのだろうか。そしてきっとそうやって許されてきたのだろう。
「違いますよ。ちょっと夜風に当たろうとしていただけですから」ぶっきらぼうに言って紺は席を立った。さすがに退屈だから帰るなどとは言えなかった。
夜の風が、酔った紺の頬を優しく撫でた。初夏の空気は、なんとも言えず好きだった。
わたしはなにをしているんだろうと思った。仲の良い友人と一緒とはいえ、わたしは教員だ、教育者がこんなところで飲んでいるのは問題がある。やはり帰ろう。
「この季節の夜って、なんだかいいですよね」
気がついたら、紺の隣に伊織が立っていた。
「そうだね。なんだか爽やかな気分になる」遠く夜空に光る星をぼんやり眺めながら紺が言うと、伊織は楽しそうに頷いていた。
それからぽつりぽつりと、お互いのことを話した。心を許したわけではなかったけれど、わたしのことを知らない彼になら誰にも言えないようなことでも話せた。今日この瞬間だけの関係だ。なにを言ったって構わない。そう思っていた。
伊織は興味があるのかないのか、あいまいな相槌を打ちながら紺の愚痴を聞いていた。
「へえ。そうなんだ。大変だったんだね」
話を聞いて欲しかったわけではなかったから、紺は気にせず話し続けた。相槌こそ気の抜けたものだったけれど、伊織はずっと隣で紺の話を聞いていてくれた。
顔は別にタイプじゃなかったし、声だって話し方だって、好きなタイプではなかった。最初はあざといように思えた伊織の言動も、それが彼にとって自然なものだとわかると、可笑しさすら覚えた。まさに小悪魔だ。気がついたら、彼のことばかり考えていることに紺は気がついた。
それから紺は伊織に会いに、月に二、三度バーに足を運んだ。会いに行くたびに、伊織は柔らかい笑顔で紺を出迎えてくれた。「落ち着くから」と、いつも壁側の席を開けておいてくれていた。お酒を煽るでもなく、ただただ紺の独り言に付き合ってくれた。
「僕には居場所といえる場所なんて今までなかったけど、ここで紺さんと話してると落ち着くんです。多分、僕の居場所はここなんだなって実感できるんです」
そんなことを言ってくれたときもあった。でもカウンター越しで話すのは、外で二人で話したときよりも、やっぱり距離を感じて、少しだけ寂しかった。
伊織がバーを辞めると教えてくれたのは、彼のもとに通い始めてから一か月が経ったときのことだった。理由は教えてくれなかったが、紺は自分が原因であるのはなんとなくわかっていた。初回に二人きりで店の外で話し込んでいたり、単価が安いわりに長居ばかりしたりと、なにかと他のキャストからいい目で見られていないことは察していた。だからこそ、伊織がバーを辞めることへの罪悪感は、並ではなかった。
もう会えないかもしれないと思うと、まさに心に穴が開いたように感じ、呼吸が苦しくなった。これ以上迷惑をかけてはいけないとわかっていたけれど、紺は伊織に連絡先を聞いた。優しい彼は、二つ返事で連絡先を教えてくれた。そして彼から連絡は来なかった。
彼とは大した話をしたつもりはなかったし、胸が跳ね上がるような甘い出来事もなかった。ただの店員と客の関係だと言われればそれまでだが、彼は紺の心からいなくなってはくれなかった。連絡が来ない間も、気づけば彼と過ごした日々を思い出しては寂しい気持ちになってしまう。過ぎ行く日々は充実していたが、しかし埋まらない虚無感が心の奥底にあることを、紺は実感していた。
伊織に会いたくて仕方がなかった。そもそも生きているかどうかすらわからない。生きていてくれさえすればいい、と頭の中で何度も唱えた。だけどやっぱりわたしを覗き込む彼に会いたい。無邪気に笑った声が聴きたい。楽しそうに笑う彼の横顔が見たい。紺の中の伊織の存在は増すばかりだった。
『お久しぶりです。お元気ですか?』
伊織を思い出に昇華し始めた矢先、彼から連絡が来た。授業と授業の合間、職員室で教材研究をしている最中だった。頭の中で組み立てていた授業計画が、崩れた。だめ。今は仕事中。そう思って、スマホをカバンの中に突っ込んだ。紺は自分の心臓が早鐘を打っていることに気がついた。目頭がどんどん熱くなるのがわかる。彼は、生きていた。それだけなのに、とても嬉しかった。
放課後、仕事がひと段落してから紺は伊織に返信した。
『久しぶり。わたしは元気だよ。えるくんは元気にしてた?』
返信はすぐに来た。
『元気ですよ。実は僕、ハルという源氏名でホストを始めることにしました』
ホスト。まさか彼の口からホストという言葉が出るとは思わなかった。確かに気遣いもできるし、聞き上手だし、ホストとしての素質はあるかもしれない。だけど、伊織にホストを名乗れるほどの華やかさがあるとも思えなかった。
そうは言っても、また会える場所ができたことは単純に嬉しかった。そしてなにより、伊織に新しい居場所ができたのもまた嬉しかった。
ホストに行くのはもちろん初めてだったし、教員がホストに通っていると発覚したら、それはボーイズバーに通っていたときよりの比ではないくらい大問題になるだろう。それでも紺は伊織に会いにいった。
ホストに行くんじゃなくて、えるくんの就職祝いとして行くだけだから。
重厚で無機質な店のドアをゆっくりと開けた。ボーイズバーに初めて行ったときは友人が一緒だった。だけど、今回は一人。恐怖でなかなか初めの一歩が踏み出せない。意を決して店内に足を踏み入れると、赤い絨毯が敷き詰められた細い階段が下に向かって伸びていた。
この先にえるくんがいる。そう信じて、紺は大きく息を吸った。そして、覚悟を決めて階段を下りた。受付と思われるカウンターで免許証を提示して、ハルに会いに来た旨を伝えた。
案内された席で、身を固くして待っていると、聞き馴染みのある声が降ってきた。
「紺さん、お久しぶりです」
伊織はチェック柄のセットアップのスーツを着ていた。そんな服装、初めて見た。
「あ、えと、久しぶり、だね」
「緊張してる?」隣に座りながら、伊織は見慣れた無邪気な笑顔で微笑みかけてくれた。
華やかな世界にいる伊織は、まるで別人のように感じられた。暗い店内、かっこいいホストの人たち、可愛く着飾って幸せそうな表情の女の子たち。その中にいるわたしは、まるで場違いだ。委縮している紺の隣で、伊織はアイスペールからグラスに氷を入れている。からからと涼しげな音が響いた。
伊織はそのまま静かに話し始めた。バーを辞めてからの一か月のこと。家は相変わらず貧しいこと。ボーイズバーでの思い出。
どの話も、きっと他人からしたら、わたしへの同情を買おうとしているだとか、わたしのことを頼りにしようとしているだとか言うだろう。そうだとしても、紺は嬉しかった。伊織から頼られるのは悪い気がしなかったし、なにより伊織に嫌われたくなかった。
店内の薄暗さは、少しだけ自分の気持ちを隠すにはちょうど良かった。本当は伊織に会えずにいた時間はとても寂しかったが、そんなことは一言も言わなかった。紺はただ「おかえり」とだけ伝えた。すると、伊織は穏やかに微笑んで「ただいま」と言った。
紺は、時間と貯金が許す限り伊織のもとに通った。多いときは週に二回、少なくとも月に一回は伊織に会いに行った。ほとんどは伊織から営業をかけられただけだったのだが、それすら紺は自分が頼りにされていると勘違いしてしまいそうになった。でも、どうせ自分以外にもお客さんはいるんだ。そう思うと、どうしても自分から行きたいというのは憚られた。
またあのバーに行かない?
一緒にボーイズバーに行った友人から、久々に連絡が来た。すでに伊織は辞めてしまっていたため、特段行きたいとは思わなかったが、久々にその友人と飲みに行くのは楽しみだったし、伊織と話していたあの空間は間違いなく楽しかったから、また行ってもいいかもしれない。紺は少し考えて、かつて伊織が働いていたボーイズバーに赴くことにした。
駅で友人と待ち合わせをして、治安の悪そうな繁華街を歩いていくと、バーのあるビルはあのときのままそこに立っていた。気まずさを胸に抱えながら、友人の後ろに隠れて店に入った。
「香澄(かすみ)じゃん。いらっしゃい」
すでにあの頃とは違う、新しいキャストが増えていた。友人のお気に入りの子はオーナーに昇格したようで、新人キャストとは違う制服を着ている。そしてその姿は誰よりも貫禄が出てきたように見えた。
「あれ? 紺ちゃんだ。久しぶりだね」
半年ぶりの来店なのに名前を憶えていてくれたことが、嬉しいような気まずいような、複雑な気持ちを抱かせた。紺は伊織が辞めてからずっと聞きたかったことを、思い切ってオーナーに聞いた。
「あの、えるくんって……」
伊織の当時の源氏名を出した瞬間に、オーナーの顔が強張った。「ああ、える、ね」
わたしのせいで辞めちゃったんですよね。紺がそう言おうとした瞬間に、オーナーが口を開いた。「あいつ、泥棒だよ」
「え?」紺は耳を疑った。誰が泥棒ですって?
「あいつが辞めた理由って知ってる?」オーナーが酒の入ったグラスを紺の目の前に置いた。
紺は出されたグラスに目を落としながら首を振った。どうせ自分のせいだろう。耳を塞ぎたかった。
「あいつが辞めたのは、借りた金を返さないから。お客さんからも金借りてたし」
「え?」
オーナーの言葉を皮切りに、友人が顔を顰めた。「紺には言ってなかったけど、紺がいないとき、あたしもえるくんにお金貸してたんだよね」
「俺にも借金してたんだよ、あいつ」
「未だにお金返してくれないんだけど」
「俺も。だから給料から天引きしようとしたんだけど、そしたらあいつに逆ギレされたんだよ。『それは違うだろ』だって。なにが違うんだよな」
えるくんがそんな人のはずはない。紺の腹に、黒いなにかがぞわぞわとしたものが増殖していった。わたしが知ってるえるくんは、そんな人じゃない。わたしのことをたくさん考えてくれた。たくさん大切にしてくれた。それは客としてだったのだろうけれど、でもわたしのことを考えてくれていたことは事実だ。それに、一度としてわたしに金を無心してきたことはなかった。
しかし、自分が見ていた優しい伊織と、この二人が話す伊織には大きな差がある。きっと二人が言っていることも事実なのだろう。紺は混乱した。
「え、あの、わたし……」
「紺さ、まだえるくんのこと追いかけてるんでしょ」
紺は驚きを隠せなかった。なんで知ってるの?
「だってあんた、わりと依存体質だからきっとまだあいつのこと好きなんだろうなって」友人は苦笑いしていた。
「わたしって依存体質なの?」
「知らなかった?」今度は友人が驚きを隠さなかった。「毎日同じもの食べてても気にしない。気に入った音楽は何回も何回もリピートして聴く。常に人の顔色を窺ってる。完全に依存体質の人の特徴だよね」
確かに伊織から連絡が来なくなるだけで、紺の胸は痛くなった。呼吸が浅くなって、なにも考えられなくなる。伊織から離れられないだろうとは、なんとなくわかっていた。
「だから紺には言いたくなかったんだけど、あんたのつらそうな顔見てるのも嫌だった」
「わたしつらそうな顔してた?」
「してたよ。久々に会ったっていうのに、何回もスマホ確認しちゃって、どうせえるくんからの連絡待ってたんじゃないの?」
図星だった。伊織に執着している自分を見破られた気がして、紺は恥ずかしかった。
「あのね、紺。えるくんはあんたのそういうところを都合よく思ってるんだよ。絶対に紺は自分から離れないと思ってる。だからあんたを食い物にしてる。追いかけるのがだめだとは言わないけど、ちゃんと自制しなきゃだめだよ」
「ありがとう」
紺は少し酒を嗜み、友人を置いて先に帰った。酒の味なんてわからなかったし、なにより一人で考えたかった。自分の知らない伊織の話、しかもそれがネガティブな内容というのは、思った以上に応える。少しのアルコールが、最大限脳内に巡って、考えがまとまらない。紺はスマホを手にした。繁華街から駅に向かっているたくさんの人の中で、紺は伊織にメッセージを送った。
『ごめん、しばらくお店に行くのやめるね』
送った瞬間に、涙が溢れてきた、なんでこんなことを送ってしまったのか、自分でもわからなかった。もう取り消すことはできない。
すぐに伊織から返信が来た。
『どうしたの?』
なにも考えられなかった。紺がその場に立ち止まると、駅に向かう人々が迷惑そうな目で紺を睨みながら追い越していく。紺はしばらくスマホの画面をじっと見ていた。画面に涙が落ちていく。スマホが震え出した。伊織からの着信だった。出たくない。でもここで出ないと、伊織との関係がすべて終わってしまいそうな気がした。
紺は通話ボタンを押した。スマホからぼそぼそと伊織の声が聞こえてくる。紺はゆっくりとスマホを耳にあてた。
「もしもし? 紺さん、どうしたの? 大丈夫?」
伊織の焦る声に紺は少しだけ安心した。わたしの知ってるえるくんだ。
「えるくん……」
「うん、どうした?」
紺は息を呑んだ。今にも声が震えてしまいそうだった。「前働いてたバーで、オーナーさんと香澄ちゃんにお金借りてたって本当?」
終電が近くなるにつれ、駅に向かう人が増えていく。赤ら顔の陽気な人たちは、紺の脇を楽しそうに通り過ぎていく。時折紺の顔を覗き込み、「お姉さん、大丈夫?」と笑いながら声を掛けて去っていく人もいた。
「本当だよ」伊織の声が、喧騒を破った。「でも、そのお金はちゃんと返してる」
あの二人は、まだ返されていないと言っていた。
「僕の家さ、親がいないも同然だって話はしたよね」
「……うん」
ホストで何度も聞いた話だった。伊織の家は母子家庭で、なかなか家に帰ってこれない母親の代わりに、妹を養っていると言っていた。
「で、頑張って働いてても、やっぱり追いつかないことが何度かあって、そんな話をしてたらさ、いろんなお客さんが高いお酒入れてくれて、そのおかげで店でも売り上げ上位になれたんだ。でも、それって人から同情されてるわけじゃん。人の良心につけこんでるというか。それを、店のやつらは良しとしなかった。まあ、そりゃそうだよね。だからお客さんとグルになって、僕のことを辞めさせたんだ。まあ、全部僕が悪いからしょうがないんだけどね」伊織は自嘲した。「ごめんね」
「なにが?」紺の涙は、一向に止まらなかった。
「紺さんを、だましてたみたいな感じになっちゃったから」
「そんなことない!」
道行く人は目を丸くして紺に振り返った。紺は気にせず続けた。
「そんなことないよ。わたしの知ってるえるくんは、いつもわたしのことを考えてくれてたし、いつも優しかった。そんなのホストとして当たり前なのかもしれないけど、それでもえるくんと一緒にいると安心できたのは事実だよ」
「ありがとう」スマホの向こうで、伊織がほっと息をついたのがわかった。「いつでもお店で待ってるから」
「うん」
えるくんの言葉で、えるくんの話を聞けてよかった。それが本当か嘘かはわからないけれど、少なくともわたしは友人のこともえるくんのことも信じたい。そう思っていた。
翌日、伊織は死んだ。
15
意識を取り戻してからも、紺は伊織の死を受け入れられずにいた。
伊織の在籍していたホストクラブから連絡が入ったとき、紺はまだ勤務中だった。こっそりと学校の裏庭で電話を取ると、告げられたのは彼の死だった。車に轢かれたらしい。お客さんや他のホストからの恨みとかではなく、単純に信号無視してきた車にはねられたのだということだった。あれからもう、二年。
紺が病室でぼんやりしていると、病室に刑事が二名、恭しく入ってきた。「浅桜紺さん、ですね」
紺は彼らに目を向けた。ゆっくり頷くと、刑事は申し訳なさそうに、そしてぶっきらぼうに紺のベッドの横に立った。
「目を覚まされたようで安心しました。我々はこういう者です」
紺が提示された警察手帳に投げやりに目を移すと、そこには刑事の名前が書かれていた。葛樹将(しょう)平(へい)。隣の女性の名前も見ようとしたが、名前を見る前にすぐに手帳はしまわれてしまった。刑事たちの後ろに立つ医者は心配そうな面持ちでこちらを見つめている。
「浅桜さん、ホームから落ちたときのこと、憶えていますか?」
紺はゆっくりと首を振った。
「そうですか。まあ、二年も前のことですからね。あなたは端(はし)本(もと)由(ゆ)依(い)という女に背中を押され、線路に落ちました。端本由依をご存知ですか?」
紺はゆっくりと首を振った。
「端本はClub vitaに通っていました。担当ホストはあなたと同じ、ハルというホストでした」
ハル。えるくん。思いがけずその名前を耳にし、無意識に紺の目に涙が溢れてきた。葛樹はぎょっとして一歩後ずさった。医者が紺の前に立ちはだかり、葛樹たちを病室の外に連れ出そうとした。葛樹は慌てて紺に目を向けた。
「あ、あの、あと、今日は浅桜さんに会わせたい人がいまして!」
紺は涙を拭いて葛樹に向き直った。
「おい、早く入れ」
葛樹の声は、さっきまでの業務的な声とは打って変わって、冷たく荒々しかった。その声を合図に、病室に一人の男の子がおずおずと気まずそうに入ってきた。紺が訝しげにその子をじっと見ていると、葛樹が面倒くさそうに口を開いた。
「彼は八神千隼くん。ハルってホストの弟……だったよなあ?」
えるくんの弟? 彼に妹がいたとは聞いていたが、弟がいたとは初耳だった。千隼はびくびくと肩を震わせながら葛樹を警戒しているようだったが、紺を見るなり安心したように肩を撫でおろした。
「紺さん! やっと会えた! まったく、この前相談しようとしたらいきなり消えちゃうんだもの、びっくりしましたよ」
彼の言っていることが紺にはよくわからなかった。そもそも彼とは初対面だ。八神千隼という名前も初めて聞いた。紺が言葉を失ったまま千隼を見つめていると、彼は戸惑ったように紺を見返してきた。「あれ、紺さん?」
「あ、えっと、八神千隼くん、だっけ。ごめんね、どこで会ったんだっけ?」
千隼は驚愕の面持ちを浮かべてから、寂しそうに微笑んだ。「憶えてないんですね」
ひとつ、紺には腑に落ちないことがあり葛樹に向き直った。「そもそもハルくんに、弟なんていましたっけ?」
葛樹が千隼を睨みながら満足そうに大きく頷いた。「いや、いないはずです」
千隼はその鋭い視線に委縮しながら「すみません」と呟いた。
「貴様、なんで嘘をついた」
有無を言わさぬ葛樹の物言いに、病室が一気に静まり返った。医者もあたふたと慌てた様子だが、口出しできずにいるようだ。千隼は口をもごもごさせたあと、意を決したように思い切って口を開いた。
「紺さんの、スマホの中身を、見たかったから、です」
その言葉に葛樹がさらに冷たい声を発した。「なぜ」
千隼が紺に目を向けた。「紺さんに、ハルさんの居場所を知りたいと頼まれたので」
わたしが? 初対面の男の子にそんなことを頼むはずがない。しかも、彼は死んでしまっているのに。この世界にはもういないのに。
「彼に頼んだ憶えは?」葛樹が紺に向き直った。
「えっと、ごめんなさい……」
明らかに千隼は悲しそうな顔をしたが、どこか腑に落ちたような顔をしているように紺には見えた。
「お前が話したのは、本当に浅桜さんなのか?」葛樹は千隼に詰め寄った。
千隼は少し肩を竦めた。「俺が話してたのは、信じられないかもしれないけど、紺さんの幽霊でした。でも、本当に紺さんとはたくさん話したんです。でなきゃ警察に嘘までついて乗り込むような無茶はしません」
葛樹は千隼の様子をじっと見てからため息をついた。「……信じる。お前が署に乗り込んできたとき、嫌というほど体験しちまった。というか、お前があの災難を連れてきたんじゃないかと思うほどだ」
「そんなつもりじゃなかったんですけど……すみません……」
「しかし、俺はお前を被疑者だと疑っていた。お前がハルさん、つまり辰巳伊織さんの弟だと嘘をつくもんだから」
「被疑者? なんの?」千隼は恐る恐る葛樹を見ている。
紺は思わず掛布団を握った。葛樹はそれに気づかずに続けた。
「あの件に浅桜さんは関与していない。だから君が浅桜さんのスマホをどうしようと、あの件には関係ないと踏んだわけだが」
「あの件ってなんですか?」千隼の声が大きくなった。
「辰巳さんが亡くなった原因は、交通事故ではない」葛樹が言った。
千隼はわかりやすくうろたえていた。「伊織さんが亡くなっている? そんなわけ……」
「そして彼を車で轢いた犯人は、未だ捕まっていない」
医者はしびれを切らしたようで、一歩踏み出した。紺が咳払いをすると、全員が紺に注目した。
「すみません、八神くんと二人にしてもらえますか」
静かな病室で、紺は千隼と二人になった。千隼は緊張しているのか、紺と目を合わせようとしない。紺はベッドの横を指さした。「座りなよ」
千隼は会釈して、ベッドの横にパイプ椅子を置いて座った。
「なんか、いつも紺さんとは隣り合わせで座ってたから、こうやって紺さんに向いて座るのは、なんだか緊張します」
紺は微笑んだ。高校生といえど、千隼はとても素直な性格のようだ。年頃の男の子って、もっとぶっきらぼうなものだと思っていた。
「八神くん、久しぶり……なんだよね」紺は千隼の顔を見た。彼についてはなにも憶えてないけれど、なんだか少し懐かしい気持ちがした。「憶えてなくてごめんね」
「いえ」千隼の声は小さかった。千隼は膝に置いた自分の手をじっと見ている。「あと、千隼って呼んでください」
「わかった。千隼くん、ね」紺は努めて明るく言った。「わたしたちは、いつもどんなことを話してたの?」
千隼は相変わらず手元をじっと見ているが口元は少し緩んでいるに見えた。
「紺さんが、ハルってホストに会いたい、どんな人なのか知りたいって言うもんだから、俺が走り回ってハルさんのことを調べては紺さんに報告して、調べては報告してっていうのを繰り返してたんですよ」
「わたし、えるくんのこと忘れちゃってたんだ……。というか、千隼くんにえるくんのこと調べさせてたの? わたしは自分で動こうとはしなかったの!?」
千隼は笑った。「紺さんは地縛霊だったから、動き回れなかったんですよ」
「だからって、千隼くんを使うなんて……死んでたときのわたしって随分図々しかったんだね」
「楽しかったからいいんですよ。紺さんのおかげで、絶対に自分だけではできなかった体験ができましたから」楽しそうに話していた千隼の顔に影が差した。「でも、まさか伊織さんが亡くなってたなんて……」
「え? えるくんのこと調べてたんじゃないの?」紺は驚きを隠せなかった。伊織のことを調べていたら、嫌でも彼が亡くなったことを知るはずだ。
「そうなんですけど、俺、伊織さんと面と向かって話したんですよ」
わたしが昏睡状態に陥る前に、えるくんは死んだ。だから、彼は話したえるくんは、きっと幽霊だったのだろう。紺は窓の外に広がる青空をぼんやりと眺めた。「わたしも……えるくんと話したいな……」
16
一時外出を認められて訪れたそのカフェは、閑散としていた。正面に座る千隼は、手元のアイスティーに目を落としている。たまにちらちらと誰も座っていない隣の席を見ては、なにかを呟いて鼻で笑っている。
「伊織さんって、亡くなってたんですね。ってことは、以前話したとき、俺、周りの人から一人で喋ってる変なやつだと思われてたわけだ。まったく、勘弁してくださいよ。っていうか、伊織さんって地縛霊じゃないんですね。レストランとか、ここのカフェとか、場所には縛られてないんだ」
紺は千隼の独り言のような言葉を聞きながら困惑していた。千隼の所作から、彼が私をからかっているわけではないとはわかったが、どうにも斜向かいの空席に伊織がいるとは思えない。じっと目を凝らしても、伊織の影も形もなにも見えない。
千隼が目だけを紺に向けた。「あの、紺さん」
「え?」紺は慌てて千隼に向いた。
「伊織さんが、そんなに見つめられたら照れるって言ってます」そういう千隼の口元はにやついている。
「はっ、ご、ごめん!」紺は、自分の顔が一気に熱くなったように見えた。
「あー……いや、俺だって紺さんが生きてるとは思ってなかったんですよ! これは嘘じゃないです!」千隼が無人の隣の席に訴えかけている。
「どうしたの?」
千隼が慌てた様子でアイスティーの入ったカップに手を掛けた。「以前伊織さんと話したとき、俺、紺さんは亡くなったって伊織さんに伝えちゃって……嬉しそうに『話が違う』って言われちゃいました。いてっ」
自分の頭を防御する形で、千隼ははしゃぎながら見えない伊織と談笑しているようだ。
「で」千隼が咳ばらいをして、真面目な顔で紺を見据えた。「伊織さんに伝えたいことはないんですか?」
紺はテーブルの上のコーヒーカップをじっと見た。コーヒーはすでにぬるくなっているのか、もう湯気は上がっていない。紺は思い切って、千隼の隣の空席を睨んだ。
「あ、あのね、えるくん。あの日、えるくんと最後に電話で話した日、意地悪言って、ごめん」
しばしの沈黙があった。あの日、しばらくお店には行かないなんて言ってしまったことが、まるで呪いのようにずっと紺の心に刺さったままだった。
「……僕こそ、紺さんをだますようなことをしていて、ごめん」
紺は息を呑んだ。今千隼が言ったことは、わたしとえるくんしか知らない内容だ。やはり千隼にはえるくんが見えている。だからといって、ここで伊織に気持ちを伝えるのはずるいように思えた。見えないことをいいことに好きだと伝えるのは、二年前の自分に失礼だ。あんなにもちゃんと想っていた日々を、こんな手軽に終わらせてはいけない気がした。
紺はぎゅっと目を瞑ってから心を整えた。そして、ゆっくりと目を開くと、笑顔で千隼を見た。「事故のことについて、聞いてみよっか」
千隼は不意を突かれたように目を見開いた。そして戸惑いながら頷くと、隣の席に体を向けた。「伊織さんが事故に遭ったとき、伊織さんを轢いた車に乗っていた人はどんな人だったのか、憶えてますか?」
紺は冷めたコーヒーを啜った。今伊織は、どんな顔で座っているのだろう。どんな声で話しているのだろう。もう、彼の顔も声も、はっきりと思い出せない。それがとても悲しくて、今にも涙が溢れてきそうだった。千隼の声が紺の思考を遮った。
「運転席に乗っていたのは扇(おうぎ)龍(りょう)馬(ま)っていう、新人のホストだったそうです。伊織さんは、轢かれる直前、その扇って人と完全に目が合ったみたいですよ。扇ってホストは意志を持って伊織さんを殺そうとしていたみたいです」
紺はコーヒーから目を上げた。千隼に向かって聞いた。「なにかハルくんがその子の恨みを買うようなことをしたのかな」
千隼はアイスティーに目を落としながら、伊織の声に耳を澄ましているようだった。
「そんなことはしていないそうです。むしろチームが違ったから、ろくに話したこともないって」
「チーム?」
「CLUB vitaはチーム制で、チームごとに店内の掃除の当番が決まっていたり、連帯責任を負っていたりするそうです。扇さんのチームリーダーは……え?」
急に千隼が口をつぐんだ。
「どうしたの?」
千隼は明らかに動揺している。そして、慎重に口を開いた。「扇さんのチームのリーダーは、瀬那さんだったそうです」
紺の背筋に冷たいものが伝った。瀬那って確か……。
「現在の代表、ですね」千隼の顔は強張っていた。
17
CLUB vitaは、記憶通りの場所で派手な看板を掲げていた。独特な源氏名とともに、端麗な容姿の男性たちの写真が、大々的に煌びやかに掲示されている。紺が通っていたときは、売上ナンバー一のところに瀬那の写真、ナンバー二のところにハルの写真が貼られていた。しかし、今は知らないホストの写真が貼られている。
重厚で無機質な扉のドアノブに手をかけると、ひんやりとした冷たさが手のひらを伝ってくる。ゆっくりとドアノブを押すと、ドアの向こうが見えた。赤い絨毯が敷き詰められた細い階段が、下に向かって伸びている。
息を呑んで、ゆっくりと階段を下りていくと、受付カウンターが見えてきた。カウンターの中にいる内勤の男は、忙しそうに手元の端末を操作していたが、紺の顔を見て目を丸くした。「あれ? 前にいらっしゃってましたよね?」
紺がぎこちない笑顔で会釈すると、内勤の男は嬉しそうに端末を操作しながら紺の名前を聞いてきた。紺が名前を伝えると、内勤の男の端末を触る手が止まった。その顔は一瞬引きつったものの、すぐに笑顔を貼りつけて紺に向いた。ハルを指名していたことが判明したのだろう。
「今日は誰を指名しますか?」
紺は声が震えないように堂々と言った。「瀬那さんを、お願いします」
内勤の男は無言で紺を席まで案内した。革張りのソファは一見硬そうに見えるが、優しく紺の体を包み込んでくれた。えるくんに会いに来ていたときは、毎度舞い上がっていたからソファの感触なんてわからなかった。店内の独特な匂いが鼻につく。当時の楽しかった記憶が蘇ってきた。
紺が感慨に耽っていると、耳に心地よい声が紺の耳に届いた。「お待たせしました」
小さいテーブルの向かいに、瀬那が上品に座った。瀬名は当時とはあまり変わらない柔らかい笑顔で紺を見つめていた。
「紺ちゃん……だったよね。前の担当は確か、ハルだったかな。俺、何回かヘルプに着いたことあったんだけど、憶えてる?」
忘れるはずもなかった。瀬那がヘルプについてくれたとき、伊織はとても楽しそうに酒を飲んでいた。その隣にいた瀬那も、他の卓についていたときよりも自然体に見えた。
「わたしが前にここに通ってたとき、瀬那さんは確かナンバー一でしたよね」
「あはは。よく憶えててくれてたね」瀬那はグラスに氷を入れながら言った。しかし、その手はわずかに震えているように見えた。
「それが今となっては代表。すごい躍進ですね」紺は入れられる氷の音に耳を澄ませながら、瀬那の出方を伺った。
「ありがたいことにね。でも、まだ紺ちゃんが通ってくれてた頃は、いつハルにナンバー一取られるかと冷や冷やしてたよ」焼酎がグラスに注がれる。「確かジャスミン茶割りだったよね」
紺は静かに頷いた。さすが店のトップホストだ。かつてのわたしの飲み方を覚えていてくれているとは思わなかった。紺は酒の注がれたグラスを受け取った。氷は表面に薄く水分を纏ってきらきらと光っている。冷たいグラスに体温を奪われて、紺自身も心まで冷たくなったように感じた。
「だから、ハルくんを殺したんですか」
自分の酒を作っていた瀬那の手が止まった。「なんだって?」
「ああ、違いましたね。扇くんにハルくんを殺させたんでした」
「なにを言ってるのか、さっぱりわからない」言いながら瀬那の手はさっきよりも大きく震えている。貼りつけた笑顔もぎこちない。紺が受付に目をやると、内勤の男が心配そうにこちらに目を配っている。インカムに向かってなにかを話している。
瀬那が紺の隣に座ってきた。異様に距離が近い。
「なんですか」
「紺ちゃん、いくらハルが死んじゃったからって、俺に当たらないでよ。特別にシャンパン一本開けてくれたらアフターするからさ、ハルとの思い出について語ろうよ」
冗談じゃない。紺は汗のかいたグラスを手に取った。シャンパン一本開ける時間なんて、あるはずがない。
店内がにわかにざわつき始めた。紺はグラスに口をつけながら受付に目を移した。内勤の男が厳つい男と押し問答している。やっと来た。
葛樹はため息をつきながら内勤の男に警察手帳を見せている。内勤の男は渋々葛樹に道を譲った。葛樹が鋭い目つきで店内を見回している。紺が手を挙げると、葛樹は小さく頷き、ずんずんと紺の座る卓に近づいてくる。
紺の動作に違和感を覚えたのか、瀬那は紺の視線の先に目をやった。葛樹の姿に気がついた瀬那は、眉間に皺を寄せて葛樹を睨んだ。「なんだ、あいつ」
「警察の方ですよ」紺がなんともなしに言った。
「警察?」
葛樹は紺の卓まで来ると、さっきまで瀬那が座っていた小さなスツールに座った。「ちょっと失礼しますね」
「警察が、うちの店になんの用ですか」瀬那は聞いたこともないような冷たい声で葛樹に向かって言った。「オーナー呼びますよ」
「ああ。お構いなく。それにお店に用があったわけではなく、あなたに用があったんですよ。瀬那さん……は源氏名か。まあいい、ここはホストだ、源氏名で呼ぶことにしましょう。瀬那さん、殺人教唆の罪でお話を伺いたいのですが」
瀬那がわかりやすく動揺し始めた。一度手に取ったグラスを、口をつけずにまたテーブルに置く。そんな不毛な動作を二、三度繰り返している。
「は? いつ俺が? なんで?」混乱しているのか、瀬那の言葉は拙くなっている。
葛樹が来てくれたことで、紺は心に余裕を持てた。「さっきも言ったでしょう? あなたはえるくんを殺した」
「えるくん? 誰だ、それ」瀬那の声は店全体に響き渡っていた。店中がいまや紺たちの卓に注目している。「そもそもどこに俺が殺したっていう証拠があるんだよ!」
葛樹はジャケットの内ポケットに手を入れた。「扇龍馬さん、でしたっけ。彼が認めてくれましたよ」
「いやいや、あいつが認めるわけ……」
「認めるわけない、ですか」
「あ、いや」はっとして瀬那は手で口を押さえた。
葛樹は取り出したメモ帳を捲りながら淡々と話し始めた。
「扇さんはね、逮捕された当初からずっと『よそ見運転をしていた』の一点張りだったんですわ。彼が起訴されてから、すぐに莫大な保釈金が支払われた。改めて彼の職業を調べてみたら、ホストをされていたというじゃないですか。それならあの莫大な保釈金も払えるかと納得していたんですがね、彼、まだホストで働き始めて間もなかったというじゃないですか。それでね、誰が保釈金を払ったのか調べてみたら、彼のご両親だったんですよ。当時はそれで納得していたんですが、よくよく考えると彼のご両親は一般的なお仕事をされてるんです。お世辞にもあの額の保釈金を支払えるご職業ではない。だから改めて今日、扇さんのご実家に行ってご両親にお話を聞いたら、あなたからお金をもらっていたとおっしゃってたんですよ」
「それは、彼は僕のチームの後輩でしたからね、彼のやってしまったことは僕の責任でもあるので」
紺は冷めた気持ちでその話を聞いていた。葛樹は続けた。
「扇さんのご両親もそのようにおっしゃっていたよ。チームがどうのってね。そこで、扇さん本人にも会って来た。そこで彼のご兄弟について聞いてきたよ。扇さんにはお兄さんがいるそうなんだが」
「だからどうしたっていうんですか。ハルが死んだ話とは関係ないでしょう」
紺は瀬那の言い方に怒りを覚えた。ハルが死んだ。故人に、しかも同じ職場で働いていた同僚に、なんの敬意もない。紺は瀬那の本性を見た気がした。
「扇さんのお兄さんね、中学高校時代と全学年で学級委員長や生徒会長を務めるほど優秀な方でね、誰からも信頼されていたらしいんですよ。同級生も先生も親も、彼の言うことはなんでも信じた。彼がいくら虚言を言ったところで、誰もが彼の発言を信じた。いくら扇さんが本当のことを言おうとも、親が信じたのは兄の虚言だった」
瀬那が大きなため息をついてソファから立ち上がろうとした。紺は彼の腕を掴み、強引に座らせた。瀬那が恐ろしい顔つきで睨んできたが、構わなかった。「逃げるんですか」
瀬那は舌打ちをしながら乱暴にソファに腰を落とした。
「扇さんのお兄さんはかつていじめを助長したことがあった。でもいじめられている生徒の話は誰も信じなかった。いじめられていた生徒の親でさえも扇さんのお兄さんの話を信じた。結果、いじめられていた生徒は、校舎から飛び降りて自殺をした。扇さんはそのことを知っていた。扇さん、今はもうホストを辞めていたんですね。無職なんだそうです。それなのに、やたら広いおうちに住んでいるし、羽振りのいい生活をしているようでした。私は彼に言いました。『君は、お兄さんと同じなのか。お兄さんと同じように嘘で塗り固めた人生を送るつもりか』と。彼が改心せずに嘘の証言をすればなにも変わらない。でも私は彼の次の言葉を、どんな言葉であろうと信じようと思ったんですよ。そうしたらね、彼はハルさんを轢いたとき、よそ見運転はしていなかったと打ち明けてくれましたよ。瀬那さん、あなたからハルさんを殺すよう頼まれたこともね。扇さんは金に釣られて引き受けたとおっしゃっていました。あなた、毎月とんでもない額を彼に仕送りする代わりに、ハルさんを殺すよう依頼したそうじゃないですか」
18
日曜日のせいか、学校の最寄り駅は閑散としていた。
その後、瀬那は罪を認め、扇と瀬那は正式に逮捕されたと紺から聞いた。
「あのカフェに行かなくていいんですか」千隼はホームに吹き込む風を感じながら、通り過ぎる人々を隣で眺めている紺に声を掛けた。「多分伊織さん、あそこにいると思うし、紺さんが行くんなら俺も付き合いますよ」
「んー……そうだねえ」紺の声は、ホームに滑り込んできた電車の音にかき消されそうなほどに弱々しかった。
「伊織さんに会わなくて、いいんですか」
電車から降りてくる人たちは、忙しなく改札に向かって歩いていく。
「どうせわたしにはえるくんは見えないし、声も聞こえないし、触ることもできない。もうえるくんは死んじゃったんだよ。ちゃんとけじめつけないと」
千隼は懐かしく感じていた。駅に縛られる紺の指令を聞き、それに従って無茶なことをいろいろした。そのたびに危険な目に遭ってきた。あの頃の紺は、ただただがむしゃらになにかにすがろうとしていた。それが、今、紺はけじめをつけようとしている。
結局幽霊の正体についてすべてを明らかにすることはできなかった。むしろ謎が深まっただけのような気がする。
「そういえばさ」紺が人間観察をしながら楽しそうに口を開いた。「千隼くん、わたしに相談したいことがあったんじゃないの?」
「え?」
「相談しようと思ってたのに、わたしが急に消えちゃったんでしょ?」もしかして忘れちゃった? と紺は可笑しそうに笑った。
千隼は苦笑いしながら頭を掻いた。「あー……いや、今の紺さんに聞くのはなんだか違う気がするんですよね」
紺が千隼に向き直った。「今のわたしって?」
「つまり、幽霊じゃないというか、生身というか。……すみません、俺、失礼なことを言ってますよね」
「あはは。いいよ、生きてるわたしでもよければ、話聞くよ。わたしのために走り回ってくれたお礼」
紺は無邪気に笑った。その笑顔を見ていると、胸が熱くなるように千隼には感じられた。胸が高鳴る。千隼は大きく息を吸った。
「俺、不本意なんですけど、幽霊が見えるんですよ」
「みだいだね」
相変わらず紺は楽しそうに耳を傾けている。幽霊が見えることは不本意だが、でも幽霊が見えることで紺と出会うことができた。今は以前とは違って、この能力を恨めしく思ったりしない。
千隼は思い切って紺に聞いた。
「どうして俺は幽霊が見えるのに、じいちゃんのことだけは見えないんでしょう」
今まであまたの幽霊を見てきた。むしろ、幽霊を見ても人間だと思っていたほど、もはや人間と幽霊の違いがあやふやになってしまった。それでも、会いたい人を見ることができない。見たくない霊ははっきりと見えるのに、じいちゃんの姿は絶対に見えない。
「そうだねえ」紺は顎に手を当て、眉間に皺を寄せて唸った。「わたしは幽霊が見えるわけでもないし、幽霊の専門家でもないからわからないけど、でもそういうものだよね」
「そういうもの?」
「つまりね」紺は人差し指を立てて、楽しそうに言った。「見たいものほど見えないことって往々にしてあるじゃない? 少なくとも、わたしは経験あるよ。どうでもいい人の心中はなんとなく察せられるのに、好きな人の心の中ほど見えなかった。一緒にいたいと願った人ほど、一緒にはいられなかった。きっとそういうもの」
見たいものほど見えない。紺は伊織と一緒にいることを望んでいた。でもそれは叶わなかった。彼女は、伊織が生きているうちに彼の心の内を知ることができなかった。間違いなくそこにあった彼の心を、彼女以外はきっと見えていたであろうものを、彼女は見ることができなかった。
じゃあ、わたしは行くね。
おもむろに紺が立ち上がった。千隼はつられて紺に目を向けた。いつの間にか、次の電車がホームに滑り込んできていた。電車からたくさんの人が吐き出されたのと同時に、ホームに並んでいた人たちが一斉に電車に吸い込まれていった。紺の姿は、入り乱れる人々に紛れて見えなくなった。彼女の物語は、どうやら動き出したらしい。
千隼はため息をついてベンチから立ち上がった。隣に座る血まみれの女性のことは、見ない振りをした。
