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きぼう

兄が引越しをした
長く父と母と同じ家に暮らしていたけれど
やっとそのタイミングがきた

以前兄が一人暮らしをしていたのは県外で大学生をしていた時だから、もう30数年前
在学中に幻聴幻覚が出て、姉と母で錯乱状態の兄を抱えて病院に連れて行き即入院だった
そこから入院と退院を何度か経てきた

いちばん最後の入退院から今は10数年経っている

兄は入院を毎回拒んでいたし、その理由を聞けば誰でもが共感するような内容だったと思う
だけど服薬しても良くなるわけでなく、昼夜逆転で支離滅裂な言葉を口にしているような状態のまま家で野放しにしているわけにもいかないので、何とか本人を説得して入院を促した事は何度もあった
そしてそれは毎回とんでもなく疲弊するものだった

わたしが短大時代、建て替えたばかりの明るく開放的な図書館で読み漁ったのは精神疾患についての本だった。
学校で学んでいたのは主に食物栄養だったけれど、それよりもずっと病についての本を読んだ数の方が多かったきがする
どれもだらだらとした内容のものに感じられて苛だちを感じる中、1冊、和訳の本が印象に残った

"当事者本人を1人にしない事"

"鍛え抜かれた米軍でさえ、真っ暗な狭い箱に入れられて数日過ごす訓練の中で、幻覚幻聴というものは出てくる
弱い人間であるから精神の不調をきたすのだという説明はつかない"

"この病は寛解まで時間がかかるのが一般的である
10代で発症して50代あたりには高い割合で寛解状態になる"

その頃のわたしは、1人にしないこととは近い位置にいないとかなえられないことだと感じた
兄が沈んでいるのなら、わたしも浮き上がらないでいること
感覚が遠くなれば手は届かないだろうと思った
その思考と、米軍の例えの話はとてもしっくりきてそれから今まで忘れた事はなかった

ただ、50代になれば寛解…の一文には憤りが高まった
仕切りのある読書スペースで泣いた
そんなに待てるわけないじゃないか、とにかく腹が立って仕方がなかった
これを書いている人は当事者じゃない、家族でもない
他の本の著者だってそうだ
医者だったり研究者だったり、ただの人対人として当事者と向き合っていないじゃないか
当事者の苦しみや症状、二次障害、背景、生育歴…それは全部事例として扱われてるだけだ
本に解決策が書いてあるわけじゃなく、もちろんわたしに手を差し伸べてくれているわけでもない

"50代までなんて絶対に待たない"
と怒りを持ち続けながらも、それからの日々もまた兄のことで家の中は落ち着くことなくいろんなことがひっくり返りながら
この状況は良い方なのか悪いのかも判断つかないままだったけれど
とにかく何とか今に繋いできた

気づいたら兄は50代になっていた

兄のケースワーカーさんは10年同じ人が担当をしてくれている
1年ほど前からは精神科特化の訪問看護の人が兄の部屋に来て、部屋の片づけと主に話し相手をしてくれている
話し相手がいるというのは兄にとってとても大きな助けで、自分が筆で書いた書(文字)や、詩を見てもらったりもしている
わたしから見て、詩はともかく、もともと手先がとても器用な兄が書く文字はなかなか味がある

兄からの連絡はだいたいが困った時か苦しい時だからいまだに少し身構えるけれど、
「良い出来だから見てほしい」
と青い文字の写真を送ってきた時はホッとする
「いいやん!綺麗!」
書に興味を持ったことを知った夫がプレゼントをした薄い青インクのペンで書く文字は爽やかで結構良い

引越しまでの下準備と引越し当日、わたしは1人で実家に向かった

3日間を3回行ったから、旅費と宿泊費、レンタカー代で結構かかったけど
今回のこれは、言ってみればわたしの念願だったから体は不思議なほど疲れなかった
気分がもっと高揚するかとも思ったけれど、特にそれもなくでもなんだか全部のことがスムーズだった
時間のロスもなく、お金も予算よりも低くなることが続いて…そういう面でストレスがなく、むしろ関わる人が親切な人ばかりでとても動きやすかった

何よりもわたしが訪ねた時、毎回兄が良いコンディションでちゃんと自分で動いてくれた
きつそうな時があっても前に進めようとしている事が伝わってきた
自分でなんとかコントロールしながら失ってしまった部分を諦めながらもそこに留まらずに前に進めようとしている
底の方にしっかりと流れる生気を感じて
それが嬉しかった

姉がびっくりするくらいにわたしと兄だけで引越しは予定通りにすんなりと終わった

30数年過ごしてきた兄の部屋の壁は
大きな穴だらけだった

幻聴が聴こえている時にストレスが高まって壁を殴ってしまう事についても昔読んだ本には書いてあった

殴りたい衝動というよりも、幻聴によって自分の意思とは別に一気に膨らみすぎる思考をどうにか収めたくてドンっと一点に力を加える
その瞬間は思考が静かになる
だから暴力というよりも抑えようとしている行動なんだ…というような内容だったとぼんやり覚えている

それが頭に残っているから、ひどくボロボロな壁の兄の部屋をみてもわたしは怖いと思わないのかもしれない

兄が1人暮らしを始めてもうすぐ1ヶ月が経つ
ケースワーカーさんと、訪問看護の方に支えてもらいながら、以前からお世話になっている就労支援事業所に通っている
度々兄から連絡があるけど、腰が痛くても体調が良くなくてもゴミ出しだけは欠かしてないと言っていた
そうそう、それ大事!

兄の引越しの日の夜、ホテルに着いたのは22時だったけれどこのまま寝てしまうだけなのは勿体無くて、すぐそばにあるおでん屋さんに入ってみた

"おでん"の提灯にそそられて入っただけの初めてのお店
カウンターに座ると店長さんが話しかけてくれて思いのほかすごく楽しかった

ゆず胡椒の薬味が良かった!


わたしの住んでいる土地には前から行きたいと思っていたそうで、2つの土地のことを1時間ずっと話していて、なんだか不思議な嬉しい時間だった

1人で乾杯しようと思ってたのに、たくさんしゃべって笑って…
結局、人と関わって満足するタイプなんよなと改めて思いながら
兄の生活が穏やかで、じんわりしあわせを感じられるものならいいな
と勝手に願ういい夜だった


izuming0821さんのお写真をお借りしました🦋
ありがとうございます😊

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