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もっと言葉があったはず。

「お父さんが倒れたの」

もうかれこれ7年ほど前になるだろうか、とある舞台の本番を直前に控えた最後の稽古、その稽古の終わりに母から電話があった。

力ない母の声、かきむしりたくなるほどの衝動を隠し、冷静に話を聞いた。
心の中に渦巻く言い様のない感情に、舞台を降板して実家に帰るということが頭をよぎった。


父は若い頃からずっと水泳をやっていた。
トライアスロンやマラソンにも参加するような運動が好きで、健康な体を持っていた。僕が物心ついてからの記憶では、大きな病気をしたこともなく、常に穏やかで優しい父だった。

電気技師としても尊敬できることが多く、目標になる父だった。
中米はグアテマラという国に、電気技術を教えるために派遣される日本人技術者にも選ばれた。自宅を建て替える際にも、電気系統は自分で設計するほどで、本当に技術者として優れていた。

ラジコンを欲しがっていた僕に「時代はパソコンだ」といってパソコンを買ってきたあたり先見の明があったし、そのおかげで僕はシステムエンジニアとして食べていけている。


そんな頼れる父が倒れるなんて考えたこともなかった。
聞いた話では、ジムの帰りに寄った銭湯でのできごとらしい。

毎日のように母に連絡し、父の容態を確認する。
脳梗塞を起こしてしまっていたが、無事に目覚めたという報せがあったと同時に、衝撃的なことを聞かされた。
「後遺症が残りました」
後遺症として、”左半側空間無視”が大きな障害として残ったのだった。
体も思うように動かず、言葉も思うように話せないようになってしまっただけでなく、左側の世界を認識しなくなってしまったのだ。


父の様子を気にしていても、舞台の幕は容赦なく上がる。
照明に彩られた華やかな舞台の上で、僕の心は少しだけズレていた。集中しようとすればするほど、舞台袖で待つ時間に父のことが頭をよぎる。
それでも来場してくれたお客様のことを考え、2日間3公演を無事終わらせた。

舞台本番が終わった後、実家に戻り父の様子を見にいった。
思っていたよりも衰弱していて、話すことはままならず、ボーッとしている感じだった。

後遺症として残った”左半側空間無視”は、健常者には想像もつかない状況だった。僕が左側に立つと、そこにいないものとして認識されてしまう。右側に回り込むと気付いてくれて、ゆっくりと顔を右側に向けてくる。
そういうものだと理解した僕は、お見舞いの際にはいつも左側に立ち、そこから左手を握って存在を知らせていた。その父が握り返す手の平から感じる気力に安堵して帰宅した。
しかし数日後、また衝撃的な知らせがあった。


「お父さんに、がんが見つかったの」

それだけでも衝撃なのに、さらに追い打ちをかけるように母が言った。
「体力がないから手術ができないの」
そう、脳梗塞の影響で長い入院生活を強いられただけでなく、後遺症で動けないから体力が著しく低下してしまったのだった。
体力がないため、手術も抗がん剤治療もできない、何もできない状態だった。

何も手を尽くせないまま、がんの進行を見守らないといけない辛さ、悔しさ、もどかしさで吐き気がしてしまった。
頭の中がぐるぐると回ってしまい、その場にへたりこんでしまった。


「何もできない」

その言葉だけが頭の中をぐるぐるとめぐり、心を掻き乱す。
そこからの日々は暗く長い日々だった。
手の尽くしようがないもどかしい日々、近くにいないから見舞いにもいけない日々、心の中は散らかり放題だった。

数日だったか数週間だったか経ったある朝、母が電話口で言った。
「お父さん、いつになく今日はよく寝てるわ」
穏やかな母の声とは裏腹に、僕の心の中には嵐が吹き荒れていた。
もしかしたら…
悲しくもその予感は当たってしまった。
父はそのまま目覚めなかった。


今でも目を閉じると、鮮明に思い出す光景がある。
初めてお見舞いにいった日、父の手を握り、握り返された力の弱さについ「弱くなったな」と言ってしまったことだ。
その後、さっきとは違い強く握り返そうとする父の手がそこにはあった。
「まだ弱ってない、これからだ」という言葉にできない意志をしっかりと伝えられた。

僕をここまで育ててくれて、色々と迷惑をかけても何も言わず助けてくれた父。弱くない、むしろ強いはずなのに、なぜ「弱くなったな」なんて言ってしまったのだろう。


もっと言葉があったはず。

あのときはまだ父が退院して、元気に話せると信じていた。
父とのこれから先の未来があることを信じて疑わなかった。

僕はその後悔を抱えたまま、愛する父を失った。
もう取り返しはつかない、これからはもっと言葉を選ぼうと心に決めた。

それが父が僕に残した最期の教訓だから。


#創作大賞2026
#エッセイ部門


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