母との電話が、いつのまにかスーパーの特売と猫の話になっていた。
六月の日曜日、昼下がり。
ベランダから洗濯物を取り込んでいたら、テーブルの上でスマホが鳴った。画面に「お母さん」と出ている。
「もしもし」と出ると、いきなり「あんた、今日スーパー行った?」と母の声がした。
「行ってないけど」
「卵がね、一パック百三十八円だったのよ。あんなの久しぶり。お母さん二パック買っちゃった」
それからしばらく、特売の話が続いた。鶏むね肉がどうとか、隣町のドラッグストアのほうが洗剤が安いとか。私は「えー、二パックは多くない?」なんて笑いながら、ベランダのサッシにもたれて聞いていた。
話はいつのまにか、ご近所の猫の話になっていた。最近、母の家の庭にやってくる猫がいるらしい。白くて、片方の耳だけ茶色い。母は勝手に「ちゃちゃ丸」と名前をつけて、縁側でひなたぼっこするのを眺めるのが日課になっているという。
「この前なんてね、お父さんの新聞の上で寝ちゃって。お父さん、どかすのもかわいそうだって、立ったまま新聞読んでたのよ」
それがおかしくて、私は声を出して笑った。電話の向こうで、母も笑っていた。
「じゃあね、また」
「うん、また」
そう言って、電話を切った。
スマホを置いて、なんだか変な感じがした。
うまく言えないんだけど、今の電話、最初から最後まで、一度も「あの話」が出てこなかった。
告白すると、婚活をしていた頃の私は、画面に「お母さん」と出るたびに、小さく息を止めていた。
出れば、たいてい同じだった。「あれから、いい人いないの?」「お父さんの知り合いにね、ちょうどいい年の息子さんがいてね」「あんたももう、のんびりしてる場合じゃないでしょう」。
母に悪気がなかったのは、今ならわかる。心配だったのだ。ただ、当時の私には、その心配が重かった。
あのとき私は、母からの電話が少しだけ怖かった。鳴っているスマホを眺めて、一回見送って、夜になってから「ごめん、仕事だった」とLINEを送ったことも、何度もある。
電話の最後に「あんたが幸せになってくれれば、それでいいの」と言われると、わかってるよ、と思いながら、なぜか泣きたくなった。私はまだ、母を安心させてあげられていない。そのことばかりが、胸に残った。
それが、今日はどうだろう。
卵の値段と、知らない猫の話で、二人でただ笑っていた。私は息を止めることもなく、画面の「お母さん」を、なんでもない顔で受けていた。
結婚したから、というだけじゃない気がする。
たぶん母は、ずっと私に結婚してほしかったんじゃなくて、私のことで眠れない夜を、もう過ごさなくてよくなりたかったんだと思う。「いい人いないの」は、そのまま「あなたが心配でたまらない」だったのだ。
その心配が消えたとき、私たちの会話には、やっと「ただの会話」が戻ってきた。特売の話をして、猫の話をして、どうでもいいことで笑う。本当は、親子の電話なんて、それでよかったのかもしれない。
婚活をしていた頃の私は、母を安心させることばかり考えていた。でも、安心って、何かを成し遂げて届けるものじゃなかった。気づいたら、隣にあった。卵が百三十八円だった、っていう、その程度の温度で。
あのとき泣きたくなっていた自分に、一つだけ伝えてあげられるなら、こう言うと思う。
大丈夫。いつか、お母さんとの電話が、猫の話だけで終わる日が来るよ。
その日が来たことに、あなたはきっと、しばらく気づかないくらい自然に。
夜になったら、母にLINEでもしようかな。ちゃちゃ丸の写真、撮れたら送って、って。
婚活って、相手を見つけることだと思っていたけれど。
こうして、誰かとの電話の中身が静かに変わっていくことも、その続きにある景色なんだと思う。
*
こんな、夜にこぼれる婚活時代の話や、結婚してから気づいたことを、ぽつぽつ書いています。
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