宝箱を「あけない」という選択
「目の前に、大きな宝箱がある。
きみはこの宝箱を開けてもいいし、
開けなくてもいい」
昔、あるダンジョン系のゲームをプレイ中、宝箱の前でAボタンを押すとこんな感じの表示が出た。
もしこれが、ドラクエや一般的なゲームならこんな選択肢になるだろう。
「宝箱を開けますか?」
はい いいえ
それなのにそのゲームは、わざわざ「開けてもいいし、開けなくてもいい」
という、小説の地の文っぽいけれど、どこか回りくどい言い方をしていた。
でも、どうしてだろう。そのセリフが印象深かったのか、ふとしたときにそのフレーズを思い出すことがあった。
ちなみに、今日も思い出した。YouTubeで占い動画を見ていたときだ。
ある占い師さんは、こう言った。
「私のアドバイスを実行してもいいし、実行しなくてもいい。どっちでも大丈夫です。あなたの好きなようにしてください」
その言い回しを聞いたとき、例の宝箱のフレーズが脳裏をよぎった。
「きみは、
宝箱を開けてもいいし、
開けなくてもいい」
そのとき、私ははじめて、「そうだ、何事にも自分に主導権があるんだ」と気づいた。
選択の自由を許されているような、こちらに全てを委ねられているような、自分を尊重されているような感じがした。
私は欲張りなので、ゲームの中で宝箱を見つけたとき、いの一番に必ずAボタンで宝を回収しに行っていた。
開くという選択肢以外は持っていない。「いいえ」なんて押したことがなかったし、絶対に開くっていうのに無駄な表示だなぁ、なんて考えたこともあった。
それは、「宝箱は開くもの。宝箱を開くと、報酬や攻略に必要なものが必ず手に入る。プレイヤーにとってプラスになる」とわかっているからだ。
でも、実際は、宝箱をあえて開かないと言う選択肢もある。
宝箱を開くことでモンスターが飛び出してきたり、中に入っていた毒入りの食べ物を口にしてダメージをくらうリスクもあるからだ。
(私がプレイしたゲームには、そういうマイナスな展開も本当に用意されていた。これでフェイントをくらって、パーティーが全滅することもあった。解せぬ)
これを現実に応用して考えると、宝箱のように自分にとってプラスになると知っているものでも、ときにそれが「害をなす可能性」もあるということ。
だからこそ、「あえて受け取らない」「スルーする」選択肢もあるし、実際にそんな行動をとってもいいということ。
具体的に生活に落とし込むなら、こんな感じ。
たとえば、早起きは体に良いとわかっているから挑戦してみようとするけど、
「朝早く起きないと……。◯◯さんのように、朝活して有意義にすごさないと……」
というプレッシャーが生じる。
元気なときならまだしも、メンタルがすぐれないときは、私は結構重荷に感じる。
達成できないと罪悪感を覚えつつ、無意識に自分を責めてしまう(やめたいなあ)。
だからこそ、あえて「起きない」という選択肢を選ぶ。
早起きの宝箱を、無理に開かない。
健康と言う名の宝を、つらいときは回収しにいかない。
そういう選択を、選択のひとつひとつを、自分で選ぶことができる。
宝箱を開けることを当たり前にしなくていい。
周囲がこぞって「我先に」と開けに行くからといって、気にしなくていい。後に続かなくていい。
私は、私の意思で、目の前の宝箱を開けるか開けないかを、その都度選ぶ。
そして、そのどちらの選択をしても、今の自分にとってはそれが正解で。
自分が選んだ選択こそが、正解だと思うように「意識」していけばいいんだ。
「決めて」いけばいいんだ。
今日は、ずっとそんなことを考えていた。
私はこの独り言のような記事を、公開してもいいし、公開しなくてもいい。
あなたも、今からなにかの記事を書いてもいいし、書かなくてもいいんです。
さあ、今日はどっちにしようか?
