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この人生に乾杯

駐在所に通う私

「また来たか」多分そう思っただろう。
でも、そんな思いを言葉にも態度にも出さず、駐在さんはいつも笑顔で私を迎えてくれた。
私は三日と空けずに駐在所に通うようになっていた。
夫が従兄の妻と駆け落ちをしてからだった。

結婚と農家生活

まずは、私が駐在所に通うようになる14年前に時間を戻しましょう。
大好きな人との結婚。その結婚が苦難の道のりであることは、少しは覚悟ができていた。「やめるんだ」「あそこの家、借金が山ほどあるぞ」などと周りの人に言われても、そこはまだ23歳という若さゆえ、愛情で押し通してしまった。

私の嫁ぎ先には夫の両親と祖母、弟がいた。正月やお盆には親戚が泊まりに来るので、1週間の間、10人ぐらい家族が増える。姑は「盆や正月がなければいいのに」と言って叱られたという。その気持ち、よくわかるよ。普段は対立することが多い姑に1票。

何かと口うるさい両親や親戚。慣れない農作業。身も心もくたくたになる毎日。それでも逃げ出さなかったのは、夫の優しさ以外何物でもなかった。表立って私をかばうようなことはしなかったけれど、いつも私を気遣いそっと支えてくれた。涙を流すことが多い毎日でも「私はいい男と結婚したな〜」といつも思っていた。

そんな中で次々に子供が生まれ、4人の子供を授かった。専業農家で昼間は田畑で仕事をし、家に帰れば親たちがいる。大好きな夫とゆっくりできるのは布団の中だけ、こりゃ〜子供も産まれるね。

結婚して4年後、多額の借金返済に行き詰った義父は、「後はお前たちがやれ」と、私たち夫婦に借金を丸投げしてきた。今だったら「自分の借金なんだから自分で返したら」と言えるけれど、そこはまだ20代の世間知らず。嫁に来たからにはやらなければいけないと思ってしまった。

その時私が思ったこと。「長生きしろよ。この借金全部返して、借金証書で引っぱたいてやる」。なんと気の強いことか。だがこの気の強さが規模拡大をして、借金返済の道を走らせることになった。

この時、もしかして夫は私に頭が上がらなかったのかもしれない。規模拡大の提案をする私に、夫は従い協力してくれた。

現実の生活とは別に、私には一つの夢というか道しるべが生まれた。借金を返済し、両親をあの世に送り届け、子供たちを一人前にしたら、大好きな夫と二人だけの時間を好きなだけ過ごしたい。この想いが大変な現実を乗り越える力になっていた。

夫の家出

借金の譲渡から10年後、そんな夢があっけなく壊れた。大好きな夫が、ある日突然家出をした。単なる家出ではなく、近所に住む従兄の奥さんと駆け落ちをするという、私にとってこれ以上ない屈辱だった。

夫が家出をした次の日の朝、「家出しました」というたった一言の電話があったきり、夫の消息はわからなくなった。

「なんで駆け落ちなのよ。家出したかったら一人で出ればいいじゃない」駆け落ちというやり方に不満はあったものの、夫の家出には理解できるものがあった。

借金返済から10年。こんな大変な生活に私はこれ以上は耐えられなくなっていた。だが、私以上に夫の方が耐えられなくなっていたのだろう。ここ1〜2年、疲れ果てて笑顔が消えていく夫を見ているのも辛かった。この苦痛から夫を解放してやりたい。そんな思いが生まれていたのだった。

ここから私の駐在所通いがはじまった。まずは、捜索願を出した。捜索願を出したらすぐに捜査してくれるものと思っていたが甘かった。「事件ではないので、捜査はしません」「たまたま何かで網にかかるのを待つしかない」とのことだった。

夫が家出をした私の怒りは、夫ではなく義父に向かっていた。「もとはと言えば生活に行き詰るほど、借金をしたお前のせいだろう」そんな言葉が喉から出かかった。「家を建てたり農地を買ったりしたわけではないのに、何でこんなに借金があるの?」夫に聞いたことがあった。「付き合いと飲み食い」それが夫の答えだった。

一人農業

私は農業という仕事が好きだった。種をまき作物が育つ姿を観ることはこの上ない喜びだった。私は結婚してから5年の間に、お産以外で3回入院した。特にどこが悪いわけでもないけれど、産後に乳を飲まれながらの農作業で疲れがたまって回復できない状態になり、入院を余儀なくされた。

さすがに4人目の時は体が慣れたのか入院することはなかった。それほど体にこたえる農作業だが、作物の成長は私の心を癒してくれた。

夫がいなくなってから、規模縮小をしたものの、私は一人で農作業を続けていた。私が一人でトラクターを運転する姿を見て、近所の人に「旦那がやっていた時と同じようにできるじゃ〜」といわれたものだ。夫は私が何でもできるように教えてくれていた。「まさか自分がいなくなる日を予感していたの?」ふとそんな思いも横切るが、何でもできることは私の喜びでもあった。

だが、一人でする農作業は精神的に私を追い詰めた。同じようにトラクターを運転していても、夫がそばにいるときは「ちょっと音が変だな」などと言ってすぐに対応してくれた。一人での作業はすべてのことに気を配らなければならず、夫がいる時の数十倍疲れた。

田植えをした田んぼを見ながら、「この苗が育ち収穫するときまで私はここにいるのだろうか?」そんなことを思いながらの農作業だった。

夫が家を出たあとの子供たち

農作業が忙しくなると、子供たちにも手伝ってもらった。夫が家を出たのは2月。夫は農閑期である冬の間、高速道路の除雪作業をしていた。雪が降ると3日ぐらい帰って来ないこともあり、冬の間父親がいないことは子供たちにとって特に不思議なことではなかった。そのため、父親の不在を子供たちに特に説明していなかった。

だが、さすがに農家が忙しくなる時期になると、黙っている訳にもいかなくなった。子供たちと種まきの準備をしながら「お父さん、いなくなったんだよね」と私が言うと、「僕知っていたよ」と長男が言った。私が何も言わなくても、子供たちはそれなりに感じていたのだった。

「お母さん何処へも行かないでよ。お父さんがいなくなって、お母さんもいなくなったら僕たちどうしたらいいの?」と言ったのは次男だった。子供の素直な思いだった。「大丈夫、何処にもいかないからね」そう言って、私は子供たちを抱きしめた。

長女は学校への通学途中に、心無い大人たちに父親が家出したことを言われて辛い思いをしていたようだった。その時は長女は何も言わなかったが、私はあとでそのことを知った。父親がいなくなり娘が私に言ったのは「親は両親揃って親だ。一人になったのだから親の顔しないでよね」だった。私には返す言葉がなかった。

まだ5歳の三男は無邪気だった。

私を救った駐在さんの一言

捜査をしないと分かっていても、何か進展があるかもしれない、そんな思いで私は駐在所に通った。私の駐在所通いは3日と空けずに続いた。

捜査に進展がないことは、その時の私には大した問題ではなかった。やり場のない私の気持ちを、たとえ一時的であっても解消してくれるのは駐在さんしかいなかった。駐在さんは長いときは半日、だまって私の話を聞いてくれた。

私は実家が近くにあり、親も兄もいる。でも利害関係のある人と話すのは嫌だった。助言が欲しいわけではない。ただ聴いてほしかったのだ。夫が家を出たことを知った時、母は「嫁ぎ先を出て実家に戻って来い」と言った。でも、今戻ったら、その後が良くても悪くても後悔する気がして嫌だった。

駐在さんだって忙しいだろうに、今考えるといい迷惑だったと思う。それでも嫌な顔一つせずに私の話を聴いてくれた。ほんとは大変だっただろうに、ごめんね駐在さん。

そんな日がしばらく続き、だまって私の話を聴いてくれていた駐在さんがぽつんと言った。「随分義父を憎んでいるんだね」この一言が私を救ってくれた。分かってもらえた、それは私にとって何にも代えがたい救いだった。

この時、駐在さんが黙って私の話を聴いてくれていなかったら、私は義父を殺していたかもしれない。それほど私の憎しみは強かった。この駐在さんと4人の子供たちの存在が、私が進んだかもしれない犯罪という道を閉ざしてくれたのだった。

夫からの電話

夫が家出をして40日後、夫から電話がきた。「毎日夢でうなされる」と言っていた。「それだけの事をしたんだろ。私の方こそ現実にうなされてるわ〜」。

懐かしさとほっとした思い、「生きていたのか」という思い、「もう死んだかもしれない」と半分覚悟していたので、様々な思いが入り乱れた。「何処にいるの?」「何をしているの?」何を聞いても夫は答えなかった。

それから時々電話が来るようになった。当時はまだ携帯電話がない時代。一方的に来る電話を待つしかなかった。電話があったことは駐在さんに伝えていた。

ちょうどこの頃、本棚を整理していたら夫の古い日記がでてきた。最初の数行しか書かれていなかったが、そこに書かれていた内容はあまりに衝撃的だった。

私と結婚する前、夫は彼女に恋していた。それでも彼女は人の妻、その恋心がむくわれることはない。私との結婚の話になり、彼女を忘れられない葛藤が書かれていた。「今になって彼女を連れて逃げるくらいなら、なんでこの時に逃げなかったのよ!」言い知れぬ悲しみや悔しさが私を襲った。

時期を同じくして、家を出た二人の大体の居場所が分かった。彼女が預金から現金を引き出したことで、場所が特定できたのだ。ここまで分かると「犯罪だったら3日で捕まえられる」というが、「犯罪ではないので、捜査はできない」とのことだった。私にしてみれば「これもりっぱな犯罪」なのに、民法と刑法の違いだよね。2人は都会に行っていた。

警察官の勘とでもいうものだろう。駐在さんは「最寄りの駅で3日ぐらい張っていれば見つかると思う」と言ったが、私にはそこまでする勇気はなかった。

戻ってきた夫

2月に家を出た夫が発見されたのは、その年の10月だった。夫の誕生日は10月。その日、夫は免許証の更新のため、地元に戻って来た。捜索願が出ているためその網に引っかかったのだった。

戻ってくる少し前、夫から電話があった時、「免許更新のために戻れば、警察に捕まるよ」と話していた。それでも戻って来たからには、警察に捕まることは覚悟の上だったのだろう。

夫が戻ってきた日、いつも通り畑で農作業をしていた私のところに駐在さんが来た。あわてた様子の駐在さんに「いたから早く行くよ」と言われ、私は駐在さんの車の先導で免許センターに向かった。免許センター内に踏み込むようなことはなく、免許更新が終わって出てくるまで車で待たされた。

夫が出てくると、別々の車で警察署に連れていかれた。取調室のようなところに案内され、夫と引き合わされた。「この引き渡しで捜索願は解除されます。お引き取り頂いて結構です」とのことだった。警察署内で夫と言葉を交わすことはなかった。

夫は笑顔が素敵な人だった。だが、家出をする2年ぐらい前から笑わなくなっていた。地区の集会などがあり、みんなが集まる場面ではいつも通りの笑顔を見せる夫が、家では笑わず話もしなくなっていた。

警察署で引き渡された夫の顔は、家を出ていく直前のあの冷めた笑わない顔だった。私は何から話していいか分からなかった。

誰にも邪魔されずゆっくり夫と話がしたい、そう思った私はコンビニで食料を買い、二人でホテルに向かった。

消えた記憶

ホテルに向かった。私の記憶はそこで消えている。ホテルに着いた瞬間も、何を話し何を言われたのかも全く覚えていない。ただ一つ覚えていることは、泣きながら夫の胸をたたいたこと。会話は覚えていない。映画のワンシーンのようなその場面だけが残っていた。

もう一つ覚えていることは、ホテルから家に帰る道すがらだ。車を運転して帰る私の後を夫が車でついてきていた。途中で止めて車から降りると、夫も降りてきた。私が「何処に行けばいいの?」と聞くと「家か実家に行け」と夫が言った。様子がおかしい私を心配して、私が家に着くまで見届けてくれていたのだった。覚えているのはその一部分だけで、家に着いた瞬間は記憶に残っていない。

私の記憶は夫と引き合わされた次の日の昼、家の台所から再開する。中学生の娘が、前日私が帰らなかったことを心配して、学校を早退してきたのだった。ぼーっとして台所に座っている私の肩を揺らし「お母さんどうしたの、どうしたの」と叫んだ。その声で私は我に返った。

家にいる自分。昨日、夫に引き合わされたことは覚えている。私は夫といったい何を話したのだろう?なぜ今ここにいるのだろう?何も分からなかった。娘が「お父さんどうしたの?何があったの?」と聞いても何も答えられなかった。「昨日の記憶がない。今お前の声で現実に戻ったのよ」これしか言えなかった。

私が家に戻ってすぐに姑が私に夫のことを聞いたという。私は手を振るだけで何も話さなかったため、姑は「俺には何も言いたくないんだ」と思ったとのことだった。私はそれも覚えていなかった。

私の様子の異常さに気づいた娘は「駐在所に行こう」と言った。昨日何があったのか?確認をするため二人で駐在所に向かった。

何も覚えていない私を見て、駐在さんもびっくりした。駐在さんは昨日のことを詳しく話してくれた。私を迎えに来たこと、警察署で夫と引き合わせたこと、私の記憶がどこまであるのか?確認しながら丁寧に話してくれた。

その後、駐在さんは私と夫が行ったホテルに電話をしてくれた。何時に入って何時に出たか?できる限りの情報を集めてくれた。でも、当然ながら私と夫が何を話したかは誰にもわからなかった。

夫と一緒に来ていた彼女も従兄と引き合わされていた。駐在さんは二人の間を冷めさせようと、私の夫が定期的に私に電話をしていたことを彼女に話したという。しかし、夫と彼女はすべてを振り払い、二人で元の場所に戻って行ってしまっていた。駐在さんが夫の住所や職場を聞いていてくれたおかげで、夫と連絡が取れるようになった。

この1日に何があったのか?何を話したのか?今でも分からない。もしかしたら、私の許容範囲を超えるようなことを夫に言われたのかもしれない?私は自分を守るために、自ら記憶を消したのだろうか?

その後、夫に会ったときに何を話したのか?聞いてみたけれど、「様子が変だった」というばかりで、何を話したか言うことはなかった。

なぜを追い続けた日々

夫の居場所が分かり、私は夫の元へ通うようになった。通うと言っても、新幹線で3時間近くかかるところにいるため、そうそう行けるわけではない。ただ納得ができなかった。なぜ家を出たのか私の中で想像は出来ても、夫の思いはどうなのか知りたかった。

だが、何度会っても答えは同じだった。「お前が悪いわけではない。世の中が嫌になった」そんなことで私は納得ができなかった。夫に帰ってきてほしいと思っていた私は、会うたびに「戻って欲しい」と訴えたが、夫は決して首を縦には振らなかった。「俺は別れたい」それが夫の答えだった。

夫と子供たちが会う機会も作った。年末に親子6人でディズニーランドに行くことにした。子供たちと会うことで夫の気持ちも変わるかもしれない、そんな淡い期待も込められていた。初めてのディズニーランドで子供たちは喜んだが、夫が変わることはなかった。

父親との別れ際に次男が言った。「もしよかったら戻ってきてね」無邪気な一言だった。そんな言葉にも夫の顔がほころぶことはなかった。

夫が家を出てから約1年後、長男が「お父さんに会いたい」というので、一人で新幹線に乗せることにした。東京駅まで夫に迎えに出てもらい、1日遊んで夜に帰って来た。

帰って来た長男が真っ先に私に言った言葉は「やっぱり僕、お父さんの方がいいな」だった。涙が出るほど辛く悔しい言葉だった。でも私はその思いを押し殺し「そうか。よかったね」といった。まだ幼い息子が、私に言った言葉の意味を理解できるはずもなかった。

夫に何度あっても、「何故夫が家を出たのか?」私が納得できるような答えもなく、夫が帰ってくることもなく時間だけが過ぎていった。

離婚と旅立ち

夫は帰ってこない。そのことがはっきりしてからも、私は嫁ぎ先にいてここで子供たちを育てたいと思っていた。もしかして、夫をあきらめきれない私の未練だったのかもしれない。

夫が家を出て4年後、義父が私に言った。「お前はこの家の財産が欲しくてこの家にいるのか?息子が可哀そうだからお前には何もやれない」その言葉を聞いて私は啞然とした。借金だらけで何が財産だ。農地や山はあるものの、売っても二束三文にしかならないではないか。

一方その言葉を聞いて、私は義父があわれになった。旧家であることを笠に着て、それだけで敬われていた時代からまだ抜け出せないのだろう。「私がいることで義父を不安にするなら私がこの家を出よう」そう思った。私は夫と正式に離婚をして、嫁ぎ先を出ることにした。

私が離婚を決めたのにはもう一つ理由があった。戸籍上父親がいる子供たちに支援は何一つなく、経済的に追い詰められていたからだった。一人で4人の子供たちを育てるには限界が来ていた。

夫が家を出て1年間農業をしたものの、生活費がまかなえるほど稼げる訳ではなく、2年目から私は勤めに出ていた。しかし、私の一人の稼ぎで家族7人の生活は支えられなくなっていた。

家庭裁判所に調停を依頼し、正式に離婚が決まった。もともと離婚を望んでいた夫に異議はなく、話はすんなり進んだ。この時、私は「子供を引き取って欲しい」と言ってみた。夫がどうでるか知りたかった。夫の答えは、「お前が育てられなければ俺によこせばいい。でも俺は育てられないから施設にやる」というものだった。

もともと子供を手放す気がない私はその言葉で覚悟が決まった。「どんなに大変でも、しっかり子供たちを育てよう」親権は私が得た。

子供たちの進学や進級の区切りがよい3月末、私は子供たちを連れて嫁ぎ先を出た。この家に来て18年の歳月が流れていた。

法華経と心理学との出会い

4人の子供たちを連れて、アパート暮らしが始まった。夫の家出に私はまだ納得できていなかったが、前に進むしかなかった。夫が家を出た翌年、こんなに一生懸命生きてきたのに何故こうなったのか?何が悪かったのか?心の闇を彷徨う私は、法華経に出会っていた。

法華経を学ぶうちに、私の物事を見る角度が変わった。「夫が家を出て借金・親・子供全部残されて、一番大変な思いをしているのは私なんだから、義父母も私に協力して当然でしょ」と思っていたため、義父母とはいつも衝突していた。

ところが、義父母の方から物を観ることができるようになると「息子に家を出られた親が辛くないはずはない。私と同じ辛さを抱えていたんだ」と思えるようになった。そう考えると「同じ苦しみを抱えた者同士、何故いがみ合っていたのだろう。何故助け合えなかったのだろう」という思いが湧き上がってきた。

その思いがあったから、私は嫁ぎ先を出るとき、義父母と喧嘩することもなく静かに去ることができたのだった。

アパートに引っ越して間もなく、洗濯物を干しているときに、ふと湧き上がる幸せを感じた。でもこの時、私はこの幸せを必死に否定していた。「こんな状況の私が幸せだなんておかしい」と思ったのだった。しかし、ふと感じる幸せは確かにあった。不幸自慢のようになっていた私の心が、幸せへと歩き出した瞬間だった。

法華経は何を言っても「あなたが悪い」という自己否定から入った。親が借金をしたのも夫が家出をしたのも私のせいだった。法華経だけでは超えられない心の葛藤に気づいたとき、私は心理学を学び始めていた。

心理学では、全肯定を学んだ。決して自分を否定することなくすべてを受け入れることを学んだ。それが私をあらたな救いへと導いていった。

私は間違った生き方をしたわけではない。精一杯生きてきた。ただその自分を認めればいいだけのことだった。法華経と心理学が自分の人生を「苦痛から宝物」に変えてくれた。

子供たちの成長

シングルでの4人の子育ては決して楽なものではなかった。働いてご飯を食べさせ寒くないようにする、それだけで精一杯だった。3つの仕事を掛け持ちをしていた私に、子供たちにかまってる暇などなかった、

多感な時代の子供たちは、決して順調に育った訳ではなかった。でも、たとえ何があってもこの子たちは私の大切な子供です。全肯定、そのままを受け止めると決めた私に怖いものはなかった。

学校に行くのを嫌がった長男と、仕事も学校もサボって一緒に山登りをした冬の一日。いじめにあい10年間も不登校だった次男を見守り続けた日々。喧嘩をして停学になり、ついには学校を辞めることを認めた三男との会話。

以前の私のように狭い範囲でしか物事を考えられなければ、子供たちの思いを受け止めることも一緒に考えることもなく、自分の思いを押し付けていたかもしれない。4人の子供たちは無事に成人し、それぞれが自分の人生を歩んでいます。

30年後の私

私が還暦を迎えるころから年に一度、子供たちがお金を出し合って私を旅行に行かせてくれます。

神社仏閣が好きな私は、伊勢神宮や出雲大社にも行きました。今年は台湾に行かせてくれました。昨年、東京湾クルーズに行きたいと言った私に娘が言いました。「東京に行くんだったら父に会ってきて。そろそろ年なんだし、この先どうしたいのか聞いてきてよ」どんな親でも父は父。娘はそう思っていた。

夫に連絡すると、夫はすんなりOKしてくれた。東京湾クルーズと前日のホテルを二人分予約した。

当日、久しぶりに会う夫は一回り小さくなっていた。米俵を担いで農業をしていたころの面影がなくなっていた。夫の目に私はどう映っているのだろう、「年取ったな」と思っているのかもしれない。ここはお互い様だね。同じ年月を重ねてきたのだから。

夫は悪性リンパ腫を患い病院に通っていた。すでにステージ4とのことだが、今すぐどうにかなるものではないとのことだった。一通りお互いの現状を話すと、昔の話になった。今更「なぜ家を出たのか」を掘り返すつもりはなかった。

「本気であなたのことが好きだったんだよね」そう言う私に「俺も好きだったよ」と言ってくれた。その言葉が嘘でも本当でもよかった。私は本気で夫を愛した。これほど愛せる男と出会えたこと自体が私にとっては宝なのだ。

30年前の家出が決して正当化されるものではないことを夫は知っている。でもただ一つ「あの大変な農作業からお前を解放したことだけは良かったと思っている」と言った。今でも心のどこかで私を思いやっている言葉に思えた。

静かに更けていく夜。そこに家を出る直前のあの冷たい視線はなかった。「サービス」と言って夫は私の体を支えてくれた。

夫と過ごした1泊2日は、年齢を重ねた静かな愛の灯が私の中にともっていた。30年ぶりに夫のぬくもりを感じながら枕を並べて寝た。

駐在さんへの手紙

結婚して必死に生きたあの時代は私にとって生きた証です。幸せをかみしめながら過ごす今のような穏やかな人生とは違い、まさに「生きている〜」という感じなのです。

30年前お世話になった駐在さんに感謝の言葉を伝えることもなく、時間が過ぎていきました。あの時私の心を受け止めてくれた駐在さん、本当に有難うございました。先日、地元の警察署に行き、当時の駐在さんの所在を聞きました。でも、もうすでに30年の時が過ぎ、今の状況は分からないということでした。

一番大変な時に私を支えてくれた駐在さん。私が駐在所に行く目的は、夫の行方に進展があるか確かめることより、私の思いを聴いてもらうことだった。つもりに積もった恨みや辛みを爆発させずにすんだのは、ただひたすら私の話を聴いてくれた駐在さんのおかげです。本当に有難うございました。

今頃になって駐在さんへの感謝の手紙を書きました。本人に届くことはないかもしれないけれど、思いはきっと届くと信じています。私の人生が、警察のお世話になるような方向に行かなかったことに感謝しています。

この人生に乾杯

もう一度生まれ変われるとしたら、私は同じ人生を生きたい。

たとえ裏切られても、本気で人を愛することを教えてくれた夫に会いたい。

時に喧嘩をし、時に辛い言葉を浴びせられても、いつもそばにいてくれる子供たちの親になりたい。

辛いことも多かったけれど、本気で生きたあの18年があるから今の私がいる。あの頃の自分に会えるなら伝えたい「大丈夫その涙は無駄にならないから」

最高の宝物を与えてくれたこの人生に乾杯!


#創作大賞2026 #エッセイ部門

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