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やらなきゃ、と気持ちが追い込まれたら読むnote

仕事や勉強、それ以外にも筋トレやダイエットなどでもそう。

休日にダラダラとしていたり、遊んでいたり、あるいは夜になってソファやベッドに意味もなく寝転んでいたり。

そういうときに、ふと、やらなきゃ、という焦りが出てくることはないか。

僕は、よくある。

仕事はとても好きだ。

今の仕事は天職だと思うし、夢中になれるし、楽しいという言葉では足りないほど充実しているし、大げさでなく人生のすべてだと思う。

ただ、それでも「やらなきゃ」という気持ちに何故か襲われるときがある。

店仕舞いをして家に帰り、ご飯を食べるまでの2時間くらい。

ふと何もしていない時間があると、得体の知れない焦りを感じることがある。

でも、そういうときに仕事に取り組んでも、アイデアは出てこないことが多い。

アイデアというのは、考えれば出てくるというものではない。

膨大なインプットと一度意識的に考えに考えて煮詰めること、そして一回忘れることが重要だ。

だから、常に考え詰めでもよくない。

何もやらない時間も重要なのだ。

また、人間だから休息は必要だ。

単純に体を休めたり、違うことに意識を向けたり、そういった時間が仕事にも生きる。

そう頭では分かっていても、無意識が焦りを作り出してしまうときがある。

そういうときは、何か目的意識に囚われている。

例えば、テストでいい点数を取らなければいけない、とか。

例えば、いついつまでに売上をこれだけ作らなければいけない、とか。

例えば、同期のあいつよりもいい成績を収めなければいけない、とか。

何か目的に対して動けていない自分、目的に対して遅れをとっている自分に「こんなことしていていいのか?置いていかれるぞ?」とばかりに、焦りが生まれてくる。

そういうときは、すぐに行動に移さずに、一度、心を落ち着かせてみる。

目を瞑って、深呼吸をしてみる。

その目的って、本当に達成しなきゃいけないんだっけ?

人生の目的ってそもそもなんだっけ?

良い点を取ったり、売上を伸ばしたり、同期に勝ったりすることだったっけ?

と自問してみる。

そうではないはずだ。

それは、人生の目的を達成するための手段だったはずだ。

それがいつの間にか目的にすり替わる。

手段は手段であるから、代替可能なはずである。

例えば、ステーキを食べるという目的があるとして、手段はナイフとフォークだ。

しかし、ナイフとフォークでなければステーキが食べられないかというと、そんなことはない。

フォークだけでも十分食べられる。

箸でもいい。

もっといえば、素手でも食べることはできる。

手は汚れるけど。

手段というのは無限にあって、たぶん、今襲われている焦りの先にある目標も手段であって、代替可能なのだ。

人生の本来の目的は、いつでも、自分が幸せに生きることだ。

これは、代替のしようがない。

自分という主体があり、感情を感じるのが自分である限り、変わりようがない。

もちろん、世界をよくしたい。

地域を盛り上げたい。

家族を守りたい。

そのような目的は、人それぞれに持っていると思う(そうでない人もいると思う)。

ただ、その結果としての幸せを感じるのは、やはり自分である。

いつでも、最後は自分の幸せに帰着する。

感情を感じるのが自分である限り。

そして、世界をよくしたい、のような二次的な目的はやはり代替され得るものである。

なぜなら、それは生きてきた中で変化してきたものだからである。

例えば、高校時代は部活のメンバーと全国大会に行くことが全てだったかもしれない。

でも、中学生の頃は、レギュラーを勝ち取ることが全てだったかもしれない。

何かを達成したい、成し遂げたい、目標である、といったことは今までも、そしてこれからも変わりうる。

だから、やっぱり人生の最大にして根源的な目的は、自分が幸せに生きることなのだ。

それだけは変わりようがない。

何かに迷ったとき。

追い込まれたとき。

挫折したとき。

これをやっていて自分は幸せか?ということに立ち返るようにしている。

夜寝る前、休日にダラダラしているときに、何かしなきゃという焦りが襲ってきたときも。

判断軸は、これだけだ。

自分は今こうしていて幸せか?

幸せなら、何の皮肉でもなく、そのままダラダラしていて良いと思うのだ。

実際、僕もそうすることがある。

何でもない時間。

何の役にも立っていない時間。

何の生産性もない時間。

そういった時間を過ごせるのも、幸せな時間の使い方だなと思う。

僕の幸せには、何も考えずぼーっとする時間は必要だなと思う。

一方、そうではないときもある。

今、noteを書いているのもそのためだ。

今は何かを作っていたい、生産していたいと、自分の本当の気持ちに気付くこともある。

その選択は時によって違って良いと思うし、違っていて当たり前だと思う。

いつもダラダラしていてはいけない、ずっとダラダラしていていい、そういう二律背反ではない。

その時々によって、自分に問う。

そして、その基準は、自分が幸せであるかどうかに求める、それだけ決まっていればそれでいい。

やらなきゃいけないことなんて、この世に一つもない。

自分で判断して、自分で決めることができる。

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