連載小説 「その目が覚める前に」#1
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朝。
やわらかい光がカーテン越しに差し込んで、部屋の空気を淡い金色に染めていた。温もりと静けさの混ざりあう気配に包まれて、アヤはいつもと同じ時間にゆっくりと目を開ける。
カズヤの隣、ベッドの片側。彼の寝息が一定のリズムで聞こえている。
彼の呼吸に耳を澄ませる時間が、アヤにとっての幸福のはじまりだった。
「おはよう、カズヤさん……」
小さな声でそう呟き、アヤは微かな機械音と共に静かに身を起こす。シルクに似た肌触りの上掛けが滑り、胸元で少しだけ揺れた。
人間と同じ、温かな体温。彼女だけに与えられた“特別な仕様”。
リビングに降りると、窓辺にはいつもと同じ観葉植物たちが整然と並んでいる。アヤはその中の一つ、少しだけ葉が色づき始めたベンジャミンの鉢にしゃがみ込み、優しく声をかけた。
「昨日より、葉っぱが元気そうね。」
葉を指先でそっと撫でながら、アヤは小さく笑う。人工知能の演算領域では処理しきれない微細な“情”が、彼女の表情をほんのりと彩っていた。
彼女の前頭葉と海馬には、確かに“生”が残されている。だからこそ、朝日を浴びて芽吹く緑にも、愛しさを覚えることができる。
キッチンへと歩き、コーヒー豆を挽き、静かに湯を注ぐ。部屋に広がる香ばしい香りは、カズヤの目覚めを毎朝やさしく誘うのだ。深煎りの豆が好きな彼のために、今日もアヤは時間と温度を寸分違わず調整する。
カタン、カタンと階段の軋む音。
振り返ると、まだ少し眠たげなカズヤがリビングに入ってきていた。
「……おはよう、アヤ。いい匂いだね」
「おはよう、カズヤさん。お湯はちょうど今、落ちきったところ。お砂糖はひとつでいい?」
「うん、いつもどおりで」
やりとりは短い。でも、その短さが愛おしかった。何度繰り返しても、アヤの中では決して風化しない。
コーヒーを渡すと、カズヤは受け取る前にアヤの額にキスを落とした。
恥ずかしそうに、でも嬉しそうにカズヤの顔を見上げてから、アヤはトースターに手を伸ばす。
香ばしく焼けたトーストとコーヒーの匂い、カズヤはささやかな朝食を平らげ、着替えるために寝室に戻った。
「行ってくる。あんまり水やりしすぎないようにね。根腐れするから」
「……うん、わかってるよ。今日も図書館のお仕事がんばって」
カズヤはコートを羽織り、扉の前で振り返る。朝日に照らされる彼の姿を、アヤはまるで映画の一幕のように記憶に刻んだ。
“いってらっしゃい、カズヤさん”
心の中でそう呟いたアヤは、自動扉が閉まった後もしばらくそこに佇み、微笑みを浮かべたまま、静かに空気を抱きしめていた。
それが、彼と彼女の日常。
優しく、あたたかく、――そして、あまりにも儚い幸福な朝だった。
⸻
朝の陽射しはすっかり高くなり、街の輪郭を柔らかく照らしていた。
カズヤは玄関を出て、コートの襟を軽く整えると、アヤが毎朝手入れしてくれている鉢植えのハーブたちに視線を落とした。ミントやローズマリーが朝露に濡れ、香りをわずかに放っている。扉の奥からは、まだカーテン越しに揺れる光とアヤの優しい声が聞こえる気がして、カズヤは微笑んだ。
街は静かだが、人の気配はあった。
学習型AIの発達により、人間とAIアンドロイドの区別が付かなくなって久しい時代。先の人間同士の争いが悲しみの終末を迎えてからどれくらい経過したのか、考える人ももう居なくなった。
自動清掃ロボが石畳の端を走り、空をゆっくり滑るドローンは新聞や郵便物を届けている。
昔のような喧噪はもうない。ほとんどの住民はリモート労働か、AIによる労働代理により、通勤という概念そのものが希薄になっていた。
だがカズヤは、自ら選んだ「通う」という行為を大切にしていた。
道沿いの低木は整然と剪定され、時折アンドロイドのガーデナーがセンサーを光らせながら世話をしている。空には薄い雲が一筋、遠くの高層居住区に目をやるとガラス面には眩しい太陽を反射させ、まるでそこにもまた新しい一日が始まったことを告げていた。
アヤが育てた観葉植物と同じ種類のものが、歩道沿いのプランターにも植えられている。あの子はきっと、この緑にも「可愛いね」と声をかけるだろう。
カズヤは図書館の方向にある長い並木道へと足を進めた。並木の根元には、記憶修正を受けた市民たちのために詩が彫られた石碑が点在している。
「悲しみは 風に流れ 幸福は この朝に宿る」
かつての苦しみは記録からも心からも消され、今はただ、美しい言葉だけが残る。
そういう世界。 穏やかな世界。
カズヤは図書館の古びた外壁を遠目に捉えた。そこだけは、時間の流れからわずかに取り残されたように、静かに存在していた。
そして、アヤの笑顔を思い返しながら、小さく息をついて歩き続けた
(次回へ続く)
