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ヴォイニッチの種

あらすじ

 主婦の佐伯幸は、ある6月の午後、スーパーで買ったミニトマトの種をプランターに埋めた。
3ヶ月後、1メートルに育ったトマトを眺めながら、幸は気づく——新芽は「また(股)」から、実は「脇」から生まれる。植物もまたから命を出す。なぜ、人間も同じ場所から命を産むのか。

 この小さな発見が、幸を思索の深みへと引き込んでいく。
植物の「根っこが頭」なら、逆さまに立っている。
人間もまた、何かが逆になってしまったのではないか——。そんな問いを抱えながら本棚を開くと、15世紀の謎の写本「ヴォイニッチ手稿」が目に入る。
誰も解読できないその図には、植物と人体が同じ原理で描かれていた。

 幸の仮説は膨らむ。
ガリバー旅行記の小人こそ本来の人間の姿であり、旧約聖書のネフィリムは改変された巨人だったのではないか。
五稜郭の星形、日本中に湧く温泉——それらは古代の「生命製造工場」の痕跡かもしれない。
ヴォイニッチ手稿は、異次元から持ち込まれた人間の製造マニュアルなのだ、と。

 証拠はない。
全部、自分の思考が生み出したフィクションだと幸は知っている。
それでも夜中の3時、ノートに書き続ける。窓の外では、またから出た新芽が静かに揺れている。
廃棄されるはずだった種が命になったように、何度でも、循環は続く。


第一章 またから生まれるもの

 6月の午後、佐伯幸は、ミニトマトを半分に割った。

 包丁の刃がオレンジ色の果肉に入った瞬間、中から透明なゼリー状のものが溢れた。種だった。
ぐちゅぐちゅと、まるで生きているように、まな板の上に広がった。

 捨てるのはもったいない。

 理由はそれだけだった。
家庭菜園を10年やっていると、こういう感覚が体に染み付く。
スーパーで買ったトマトの種でも、土に埋めれば育つことを、幸は知っていた。

 プランターに埋めた。窓際の、日当たりのいい場所に置いた。

 それだけだった。


 3ヶ月後、その種は身長1メートルになっていた。

 幸は毎朝、水をやりながら植物を観察した。
家庭菜園を始めて10年になるが、今年初めて、ちゃんと見た気がした。
いや、正確には、今年初めて、見え始めたのだった。

 新芽は、また(股)から伸びていた。

 茎と茎が分岐する場所。人間で言えば、脚の付け根、股に当たる部分。
そこから新しい芽が伸びていた。
柔らかく、まだ産毛のような毛に覆われた、緑色の芽。
触れると、微かに温かい気がした。
生きているものだけが持つ、あの温度。

 でも花芽は、脇から出ていた。

 茎の横腹から、ひょいと顔を出して、やがて黄色い5枚の花弁を広げ、小さなトマトになる。
また(股)でも、先端でもなく、脇から。

 またから新しい命。脇から実を結ぶもの。

 幸は水やりの手を止めた。

 ジョウロを持ったまま、しばらく立っていた。

 これ、どこかで見た図だ。


 人間の子供は、女のまたから生まれる。

 当たり前のことだ。誰でも知っている。
でも幸は、トマトの新芽を見た瞬間、その「当たり前」が、突然、当たり前ではなくなる感覚を味わった。

 植物もまたから新しい命を生む。

 でも植物が種を作るのは、またではなく脇だ。

 なぜ、場所が違うのか。

 なぜ、人間はまたから子を産み、植物は脇から種を作るのか。

 幸はジョウロを置いた。

 植物の構造を、もう一度、ゆっくりと見た。


 根っこ。茎。葉。花。実。種。

 私たちは植物を、根っこが「下」で、花が「上」だと思っている。
地面から空に向かって伸びる生き物だと思っている。

 でも、それは本当だろうか。

 植物にとっての「頭」は、どこだろう。
人間の頭は、思考する場所だ。
情報を集め、処理し、命令を出す場所だ。
体の中で最も重要な器官が集まっている場所。

 植物で、それに当たるのはどこか。

 根っこではないか。

 根っこは、地中に張り巡らされた無数の細根で、水分を、ミネラルを、微生物との信号を、絶え間なく受け取っている。
根っこがなければ植物は死ぬ。
どんなに大きく育っても、根っこが傷めば、1週間で枯れる。

 根っこが頭なら、植物は逆さまに立っている。

 頭(根っこ)を地面に埋めて、足(梢)を空に向けて伸ばしている。

 そして——頭(根っこ)に近い場所、またから、新しい芽が出る。


 ではなぜ、人間は頭が上にあるのか。

 植物の原理が正しいなら、人間も頭(重要な器官が集まった場所)が下にあるべきではないか。

 どこかで読んだことがあった。
人間は、逆さまの生き物だという説。
頭が下で、足が上が、本来の向きだという話。
ヨガの逆立ちのポーズが、実は人間の「正しい姿勢」に近いという人もいる。

 幸はそれを読んだ時、荒唐無稽だと思った。

 でも今は、少し違って見える。

 植物の構造から考えれば、頭(重要な部分)が下にあって、股から命を生むのは、論理的に筋が通っている。

 では人間が頭を上にして生きているのは——

 何かが、逆になってしまったからではないか。


第二章 異次元の設計図

 本棚の奥に、ずっと気になっていた本があった。

 ヴォイニッチ手稿だった。

 15世紀初頭に作られたとされる羊皮紙の写本。
奇妙な植物の絵と、未知の文字が書き記されている。
植物図鑑のようなセクション、天文図のようなセクション、裸体の女性たちが管でつながれているセクション、レシピのようなセクション。

 世界中の暗号学者が挑んだ。言語学者が挑んだ。AIが挑んだ。
100年以上かけて、誰も読めなかった。

 幸はそれを引っ張り出して、植物の挿絵のページを開いた。

 見覚えのある構造だった。

 根っこから伸びる茎。茎の股から出る芽。茎の脇から出る花。

 これはトマトの設計図と同じだ。

 でも、手稿に描かれた植物は、実在しない形をしていた。
根っこが人間の足のように分かれているものがあった。
茎が体の輪郭に似ているものがあった。
花びらが指のように広がっているものがあった。

 植物と人体が、同じ原理で描かれている。

 いや、もっと正確に言うなら——植物の図を使って、人体の仕組みを説明しようとしている。

 そういう本なのかもしれない。

 幸は手稿の写真を、食い入るように見た。


 この本が、どこから来たのか?誰も知らない。

 1912年、イタリアのモンドラゴーネ別荘で発見されたポーランド系アメリカ人書籍商のウィルフリッド・ヴォイニッチが、イエズス会から購入した。
それ以前の来歴は、断片的にしかわからない。
神聖ローマ皇帝ルドルフ二世が所有していたという記録がある。
16世紀の錬金術師ジョン・ディーが持っていた可能性もある。

 でも、最初に誰が書いたのか。なぜ書いたのか。どこで書いたのか。

 何も、わからない。

 幸はそれが、不思議だと思った。

 写本というのは、必ず何かを目的として書かれる。
聖書の写し、医学書の写し、薬草図鑑の写し。
必ず「元になるもの」があって、それを残すために写される。

 でもヴォイニッチ手稿は、元になるものが見つかっていない。

 これが写本なら、原本はどこにあるのか。

 あるいは——これは写本ではなく、原本そのものではないか。

 原本だとすれば、誰かがゼロから書いた。
何かを知っている者が、それを記録するために書いた。

何を?記録した?


 幸は一つの仮説を立てた。

 荒唐無稽だと自分でもわかっていた。
でも、植物を観察し続けた10年が、この仮説を否定させなかった。

 この本は、この世界で書かれたのではないかもしれない。

 次元の違う場所で——人間という生き物を研究し、理解し、あるいは設計した存在が——その知識を記録した文書が、何らかの理由でこの世界に持ち込まれた。

 事故のように。あるいは意図的に。

 持ち込んだ者が使った言語は、地球のどの言語とも一致しない。
だから誰も読めない。

 でも、図は残っている。

 植物に見せかけた、あるいは植物と人体を同一のものとして捉えた、生命の設計図が。


 設計図。

 幸はその言葉を、頭の中で繰り返した。

 設計図があるということは、設計者がいるということだ。

 設計者がいるということは、製造者がいるということだ。

 製造者がいるということは——人間は、作られた存在だということになる。

 女のまたから自然に生まれるのではなく、何らかのプロセスで、意図的に作られた。

 その作り方が、ヴォイニッチ手稿に書かれている。

 植物の原理に従って。
またから命を生み、脇から文明を実らせる生き物として。


第三章 巨人と小人の逆転

 ガリバー旅行記を、幸は子供の頃に読んだ。

 ガリバーが小人の国に行く話は、知っている人が多い。
身長15センチほどの小人たちが、縄でガリバーを縛って、城に運んで、色々と困らせる話。

 幸はずっと、その話を「小人の国に迷い込んだ普通の人間の話」として読んでいた。
ガリバーが「普通」で、小人たちが「異常」な存在として。

 でも、本当にそうだろうか。

 逆だとしたら、どうなるか。

 小人たちの方が、本来の人間だとしたら。
ガリバーの方が、異常なサイズに育ってしまった存在だとしたら。

 一寸法師を思った。

 日本の昔話で、指ほどの大きさしかない男の子が、お椀の船に乗って都へ行き、鬼を退治して、打ち出の小槌で普通の人間の大きさになる話だ。

 私たちはあの話を「小さくて可哀想な子が、普通の大きさになってめでたしめでたし」と読む。

 でも——普通の大きさになることが、本当に「めでたし」なのか。

 もし一寸法師の大きさが、本来の人間の大きさだとしたら。

 彼は打ち出の小槌によって、本来の姿から遠ざかったことになる。

 親指姫も同じだ。
花の中に住む、指ほどの大きさの女の子。
彼女は最終的に、妖精の国で自分と同じ大きさの王子と結ばれる。
それが「幸せな結末」として描かれている。

 同じ大きさの存在と出会った時に、初めて幸せになれた。

 ということは——私たちが「普通」と思っているサイズの人間の世界では、親指姫は幸せになれなかったということだ。


 旧約聖書に、ネフィリムという存在が登場する。

 創世記六章に、こう書かれている。
「神の子らは人の娘たちが美しいのを見て、その中から好きな者を選んで妻にした。(中略)その頃も、またその後も、地上にはネフィリムがいた。
これは神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の勇士であり、名高い英雄であった。」

 天の存在と、地上の人間(女)の間に生まれた子供たち。

 彼らは巨人だったと言われている。
通常の人間よりも、はるかに大きな体を持っていた。

 幸はここで、一つのことに気づいた。

 ネフィリムが巨人なのだとすれば——彼らの親である「神の子ら」は、もっと大きかったはずだ。
あるいは、少なくともネフィリムと同等の大きさだった。

 そして「人の娘たち」は——ネフィリムより小さかった。

 つまり。

 大きいのがネフィリム(天の存在との混血)で、小さいのが本来の人間だ。

 一寸法師や親指姫のような、小さな存在が、本来の人間だとしたら——

 ネフィリムは、本来の人間よりもずっと大きな存在だった。

 そして今、地球を生きている私たちは、ネフィリムの血が混じった、本来の人間よりも大きくなってしまった存在なのかもしれない。


 スミソニアン協会が、巨人の骨を回収し続けているという話がある。

 世界各地で発掘された、明らかに通常の人間より大きな骨格の記録が、発見されても公表されず、どこかへ消えていくという話だ。
19世紀から20世紀初頭にかけて、アメリカの新聞にはそのような記事が何度も載った。
身長2メートルを超える、あるいは3メートルに迫る骨格が、各地の墳丘から発掘されたという報告が。

 でも今、それらの骨はどこにもない。

 なぜ、消えるのか。

 もし巨人が実在したという証拠が公になれば、人類の歴史を根本から書き直さなければならなくなる。
神話の中にしかいないはずの存在が、実際に地上を歩いていたことが証明されてしまう。

 知っている者がいる。知っていて、隠している者が。

 なぜ隠す必要があるのか。

 それを知られると、困る者がいるからだ。

 困る者とは——ネフィリムの血を濃く引いている者たちではないか。

 今の地球を支配している者たちが、自分たちが「本来の人間」ではないことを、知られたくないのではないか。


第四章 作られた命

 中世ヨーロッパのある時代に、孤児が異常な数で存在したという記録がある。

 歴史家たちはそれを、戦争や疫病の影響だと説明する。
親が死んで、孤児が増えた。
合理的な説明だ。

 でも幸は、別のことを考えた。

 戦争や疫病で親が死ぬなら、子供も同じ割合で死ぬはずだ。
大人が大量に死んだなら、子供も大量に死んでいるはずだ。
なぜ、子供だけが大量に「残る」のか。

 親がいないのに、子供が存在する。

 これは——最初から、親がいなかったのではないか。

 女のまたから生まれたのではない子供たちが、突然、大量に「出現」した。

 誰かが、作ったのではないか。


 人間を作ることが、できるのだろうか。

 現代の科学では、試験管の中で受精卵を作ることができる。
クローン技術がある。
遺伝子を編集する技術がある。
人間の体は、突き詰めれば、地球にある化学物質の集合体だ。
必要な材料が揃えば、理論的には、作ることができる。

 現代でそれができるなら、はるか昔に同じことができた存在がいたとしても、不思議ではない。

 ただし、その存在は地球の人間ではなかった。

 地球の人間が当時持っていた技術では、到底できないことだ。

 では誰がやったのか。

 ヴォイニッチ手稿に、その答えが書かれているとしたら。

 異次元から——あるいは宇宙の別の場所から——この地球に来た存在が持ち込んだ製造マニュアルに従って、人間が作られたとしたら。

 そのマニュアルが、植物の図として描かれているとしたら。

 なぜ植物の図なのか、それも説明がつく。

 植物の成長原理と、生命の製造原理は、同じだからだ。
またから命を生み、脇から実を結ぶ。
その原理で、人間という生き物を作ることができる。

 作った場所は?どこ?


第五章 製造工場の痕跡

 幸は、五稜郭を写真で見たことがあった。

 北海道函館にある、星形の西洋式城郭。
上空から見ると、五つの角を持つ星の形をしている。
幕末に築かれた、日本最大級の西洋式防衛施設とされている。

 でも幸は、あの形を見るたびに、奇妙な感覚を覚えていた。

 あれは、防衛のための形ではない気がする。

 ペンタゴン。アメリカ国防総省の建物も、同じ五角形をしている。

 なぜ、軍事施設が星形なのか。
防衛のためなら、丸い形や四角い形の方が、機能的に理にかなっているはずだ。
なぜわざわざ星形にするのか。

 あるいは——あの形には、防衛とは別の意味があるのではないか。

 星形は、何かを呼び込む形ではないか。

 あるいは、何かを作り出すための形。

 エネルギーを特定のパターンで集め、循環させ、ある目的のために使う形。

 五角形の頂点と頂点の間に走るエネルギーラインを想像すると、それは複雑な循環回路のように見える。
入力があり、変換があり、出力がある。

 生命を作るためのエネルギー装置として、星形は論理的な形ではないか。


 温泉のことを、幸は考えた。

 日本には、異常なほど多くの温泉がある。
世界有数の温泉大国だ。
地熱活動が活発だからだと説明されるが、それだけではない気がする。

 温泉の成分は、場所によって大きく異なる。
硫黄泉、炭酸泉、塩化物泉、鉄泉、放射能泉。
それぞれに、体への作用が違う。

 体への作用が違うということは——体に何かを与えているということだ。

 ミネラルを。熱を。何らかのエネルギーを。

 温泉に入ると、傷が治る。病気が快方に向かう。疲れが取れる。
これは科学的にも認められた事実だ。

 温泉が、体を「修復」するのだとしたら。

 修復できるということは——製造もできるのではないか。

 同じ成分が、同じ熱が、同じエネルギーが、命を作ることに使えるのではないか。

 五稜郭の形をした施設の中に、温泉のようなプールがあって、そこで人間が作られていたとしたら。

 古代の製造工場の痕跡が、世界各地に残っているとしたら。


 ヴォイニッチ手稿の女性たちのページを、幸はもう一度見た。

 緑色の液体の中で、女性たちが管でつながれていた。
管はある者の体から別の者の体へと繋がり、複雑なネットワークを形成していた。

 温泉に浸かっているように見えた。

 まるで、プールの中にいるように。

 もしかしてこれは、製造プロセスの図なのではないか。
人間を作るための施設の、内部構造を描いた図なのではないか。

 植物の図が製造原理で、女性の図が製造プロセスだとしたら、ヴォイニッチ手稿は完全な製造マニュアルになる。


第六章 魂という乗り物

 でも、体だけ作っても意味がない。

 幸はそう思った。

 人間というのは、体と魂で構成されている。
少なくとも幸はそう思っている。
体は魂が三次元を体験するための乗り物だ。

 乗り物だけ作っても、乗り手がいなければ動かない。

 では、魂はどこから来るのか。


 幸の考えでは、魂は本来、肉体を持っていない。

 肉体のない状態で、どこかに存在している。
意識として。エネルギー体として。情報として。

 その魂が、三次元を体験したいと思った時、肉体に入る。

 でも、全ての魂が肉体に入れるわけではない。
魂と肉体には相性がある。
どんな肉体でも魂が入れるなら、地球上に肉体を持てない魂など存在しないはずだ。
でも実際には、肉体化できない魂が大量にいると、幸は感じていた。

 三次元というのは、物質が存在する空間だ。
重さがあり、温度があり、痛みがあり、喜びがある。
匂いがあり、音がある。

 それは、肉体のない状態では体験できないことだ。

 アトラクションとして、三次元は存在しているのではないか。

 魂が乗り込むための、体験施設として。喜びも悲しみも、全部含めて体感するための場所として。

 そのアトラクションに乗るための「乗り物」が、人体だ。


 ネフィリムについて、幸はもう一度考えた。

 ネフィリムは「天の存在」と「地の人間」の混血だと聖書は言う。

 でも幸の解釈は少し違う。

 ネフィリムとは、もともと肉体化できなかった魂の集合体ではないか。

 肉体に入りたい。三次元を体験したい。
でも、相性の良い人体が存在しない。
あるいは、相性の良い体を作る方法を知らない。

 そこで、強引に入り込んだ。

 地球にもともとあった人体——本来の人間、一寸法師のような小さな存在——の遺伝子を改変して、自分たちが入れる体を作った。

 その結果生まれたのが、ネフィリムだ。
巨大化した、改変された人体。

 改変は、一度で終わらなかった。
世代を重ねるごとに、改変は広がった。
本来の人間の遺伝子が薄まり、ネフィリムの遺伝子が濃くなっていった。

 そして今——

 私たちの中に、本来の人間の遺伝子は、どれくらい残っているのだろうか。


 善と悪という概念を、幸はこの話に当てはめない。

 ネフィリムが悪で、本来の人間が善だとは思わない。

 ネフィリムもただ、肉体を持ちたかっただけだ。
三次元を体験したかっただけだ。
その欲求は、理解できる。
理解できるから、責めることもできない。

 ただ、問題がある。

 自己中心的な欲求は、循環を止める。

 三次元というアトラクションは、循環によって成立している。
命が生まれ、生き、死に、また生まれる。
エネルギーが流れ、変換され、また流れる。
その循環があるから、アトラクションは動き続ける。

 でも、自分だけのために、循環を止めようとする存在が増えると——

 アトラクション全体が、機能しなくなる。

 肉体のない魂が入れる体がなくなれば、三次元を体験できる存在がいなくなる。
それは誰にとっても、損失だ。
ネフィリム系の魂にとっても、本来の人間系の魂にとっても。

 だから、循環は必要だ。

 善悪ではなく、機能の問題として。
アトラクションを維持するために、循環は必要だ。


第七章 もう一度、またから考える

 幸はプランターの前に戻った。

 夜になっていた。
窓の外は暗く、プランターのトマトは夜風に静かに揺れていた。

 スーパーで買ったトマトの種から生まれた、1メートルの植物。

 廃棄されるはずだった種が、土の中で眠り、芽を出し、茎を伸ばし、またから新芽を出し、脇から花を咲かせ、実を結んだ。

 廃棄されるはずだったものが、命になった。

 幸はそこに、何かを感じた。

 本来の人間——一寸法師のような小さな存在——も、ある意味で「廃棄されるはずだったもの」だったのかもしれない。
遺伝子改変によって、本来の姿を失った。
逆さまにされた。頭が下から上へ。またが上から下へ。

 でも、命は続いた。

 改変されながらも、本来の遺伝子は薄まりながらも、残っている。

 植物のまたから新芽が出るように、何度でも、新しい命は生まれる。

 脇から花が咲くように、何度でも、実を結ぶ。


 幸はノートを取り出した。

 書き始めた。証拠はない。
全部、自分の頭の中の話だ。
脳みその中の思考回路が作り上げたフィクションだ。

 でも、トマトは1メートルに育っていた。

 またから芽が出て、脇から花が咲いていた。

 スーパーで買ったトマトを食べた時に、誰かがこれを設計したとは思わない。
でも、設計されたかのように、精巧に、繰り返し、同じ原理で育つ。

 ヴォイニッチ手稿も、同じかもしれない。

 誰かが書いた。何かを知っていた者が。
その知識がどこから来たのかは、わからない。
この世界の知識ではないかもしれない。

 でも書かれて残った。

 100年以上、誰も読めなかった。

 でも、図は残っている。

 植物の図が。女性の図が。星図が。

 見る者が見れば、わかる。

 読める者には、読める。


 幸はノートに書き続けた。

 夜中の三時になっていた。

 窓の外で、トマトが揺れていた。

 またから出た新芽が、夜風の中で、静かに揺れていた。

 明日も、新しい芽が出るだろう。

 脇から、花が咲くだろう。

 実が成るだろう。

 種が生まれるだろう。

 その種を、誰かがまた土に埋めるだろう。

 循環は、止まらない。



この作品は完全なるフィクションです。
登場する仮説・考察は著者の想像によるものであり、実在の団体・人物・事実とは一切関係ありません。

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