絵巻物のぬりかべは何に似てる?
狩野家の妖怪絵巻物に描かれてるぬりかべが、文字情報として紹介される際、「獅子」と形容されるパターンがときどき書籍や説異などに出て来たりします。
基本的に、あの3つ眼のあるぬりかべみたいな生物は「もともと」いないので、任意の実在の畜獣をあてはめて「~みたいなすがたをした妖怪」と形容して、ことばで伝えること自体が難しいわけですが、どういう情報を経由すると「獅子」をぬりかべの代表的な形容にするんだろう? という疑問はちょっぴり湧きます。
あまり、「獅子」と言われてピンと来るかたちはしてませんからね。

単純に、この絵を見たダケでは「獅子のような」とは表現しづらいでしょう。
だいぶ前に、この絵巻物のぬりかべの目の部分のきれいな花びらのような模様にダケに着目して、「レースと言うかワッフルと言うか、お菓子みたいでかわいい」という表現で感想を語ってくれたキッズもいました。

そういう形容でも確かにいいわけですね。もともと妖怪なのですから、別に畜獣にたとえなくてもいいわけです。(『えんすけっ!』でぬりかべをホワイトチョコレートにデザインしてみたのも、そういう感想を踏まえた延長線上にあります)

形容としては、特定の生物に寄せるのだとしたら「単体」ではなく「複数」提示をしたり、湯本豪一さんが2010年代にぬりかべの描かれてる絵巻物を紹介する際にトークショウなどで用いてた「メタボなどうぶつ」のような、特定の生物に限定しないもっと漠然とした形容のほうが良い気が、個人的にはします。
たとえば、Wikipediaの「塗壁」の項に組み込まれてる絵巻物のぬりかべに関する最近の記述は、こんな様子でした。


わずかにしか存在してない新聞雑誌・書籍での言及資料をむりくり継ぎ接ぎ細工してるのと、「発見された」「残存していないものと考えられていた」など典拠の不確かな主観が入り込んでるせいもあって、かなり雑然とした印象を受けますが、項のあたまにも「絵巻物」についての節にも、犬・象・獅子が挙げられており、Wikipediaの言及レベルでも「獅子」とはとりあえず限定してないことは知れます。
これは、先ほど言ったように基本的に絵巻物のぬりかべは、実在の畜獣をあてはめて「~みたいなすがたをした妖怪」とするには難しくて、特定の「単体」ではなく「複数」提示しつつ、実際のところはお茶を濁した説明がされてるということに過ぎませんから、犬・象・獅子も決め手があるわけではありません。
だとすると、任意の畜獣をあてはめて「~みたいなすがたをした妖怪」と形容しないといけないようなケースがあるとすれば、犬・象・獅子どれも平等に選ばれそうです。
また、犬・象・獅子のどれかに絞らねばいかんというケースがあるとすれば、大和絵や仏画の描き方からみても、絵巻物のぬりかべには、ふさふさしてる毛が生えてる描写がない分、獅子よりは象あるいは犬のほうがチェックポイントの総数からすると、近いようではあります――としか言えないわけです。
形容としては本当は不似合いなのですけれどもね。

チェックポイントを挙げますと、まず、仏画の象さんは白いんです。
対して、獅子さんのほうは青か赤で彩色されることが多いので一般的な描き方だと、白くはありません。
絵巻物のぬりかべに対する「獅子のような」という形容は、要するにぬりかべの「耳が垂れてる」「鼻が長くない」という箇所と、獅子の「耳が垂れてる(こともある)」「鼻が長くない」という箇所に重なりを求めてるのだとは思うんですが、それは犬であっても差はないわけですし、逆に「ふさふさした毛がない」「白い」という箇所を立ててゆくと、それは象のほうが当てはまるチェックポイントは増えてしまうことになりますからね。
やはり、それぞれに決め手となる優先順位自体は特別ないわけですね。

左列上の耳が立ってるのは醍醐寺『渡海文殊』、左列下の耳が垂れてるのは伝・顔輝『釈迦三尊図』の獅子さん。右列は上から清原雪信『騎獅文殊図』/狩野益信(洞雲)『文殊・花鳥図』の文殊図/竜雲寺『文珠菩薩図』の獅子さんです。

色にこだわるにしても、色ざしのほぼ入ってないような軽い彩色の狩野探幽『釈迦文殊普賢図』で象さん獅子さんをくらべてみても、最大の差はふさふさしてる毛の有無にはなってくるかと思います。
そうなって来ると、どちらかと言えば獅子よりも象や犬のほうが見た目のチェックポイントとしては、勝って来るんじゃないのかナ……とも言えるわけですが、どんなものなんでしょう。
むかしの画家たちにとって、今回あげたような文殊菩薩の「獅子」と普賢菩薩の「象」は妖怪とかよりも何層倍も身近で一般的な画題ですからネ。
ちなみに、2025年4月7日の版までのWikipediaの「塗壁」の項の記述はこんな具合です。

項のあたまの部分は、みんなの知ってる通行をさえぎって来る妖怪についてのみです。「妖怪画」という節に、絵巻物の例や、勝手に塗壁の図版として転用されてた『稲生物怪録』の絵についてのことが出て来ます。

2025年5月に、文意はほぼ変わってないレベルなのに構成自体が大幅に変えられるという10数回にもおよぶ同一個人による過剰ともいえる改変や引用の付け足しが生じて、2026年3月15日現在の最新版(2025年7月14日版)に至ってることがわかりますが、それまでの段階も「獅子か犬のような姿の」という特に根拠はなかった形容を引用してるものの、「獅子」だけには限定をしてなかった様子ではあります。
そうなると、なんで犬や象ではなくて獅子に限定した形容を好む傾向が存在するのか? という這所を、とりあえずは考えてみるといいのでしょうかネ。
あんまり考えて説明してない、と言ってしまえば、そうなっちゃうんでしょうけれども……。地域性や特別な性質・説話といった伝承がほとんど内容として存在してない、絵巻物で創られてったダケの画像妖怪たち(ぬりかべもそれに該当する、デザインのみがある妖怪だと言えます)は、「現代人の創作の上で」こういうプチサイズの文字情報にものすごく振り回されちゃうことがとてつもなく大きいので、あまり固定的・限定的な解釈につながりがちな形容や説明のみになってしまう傾向というのは非常に考えものなのですよね。
塗り佶さんなどが日頃から気にかけてらっしゃる、絵巻物の確認当初から指摘されてる「絵巻物のぬりかべ ≠ 九州に伝わる塗壁」という不等号の関係とかも、実質これと線路としてはおなじところを通ってる課題ではあります。
絵巻物がつくられてるような時代よりも以前に、共通した語句や形容があれば「ひとつの解釈・説」として成立するわけですが、そのほとんどは(この「獅子」とか「象」とかの形容にしても)現代人がそう「見た」という感想レベルのものが大半であって、根拠・典拠を示して濃厚に言及してる例が参照された結果だというわけでは決してありませんからネ。
あまりそういうふわふわした部分が強調・限定されず(それ自体が伝承・研究結果――つまり「絵の本来の伝承や具体的なモデル」めかして固定的にとりあつかわれず)に、ワッフルだとかレースみたいなと言ったような、到底「絵の本来の伝承」説と勘違いされないカジュアルすぎるもの含め、いろんな説が出てつづけて流動しつづけて欲しい、というあたりの欲求のほうが、つよめではあります。
ちなみに、ひょーせんは絵巻物のぬりかべは、『大佐用』vol.117で打ち出してるように、「かべ=夢」という古註や和歌の方面に存在してた「夢」とか「まくら」をイメージして描かれてるものだと考えてますので、どういう動物か、という観点にはとりたてて興味はなかったりもします。
