UX批評#4『村上龍を遺棄するのも──僕です』
0章|フリーズドライの毒
フリーズドライ文学は、合理的だ。
情緒を一度落とし、構造だけを残し、翻訳や評価や市場で回収する。
その工程は美しく、効率がいい。
壊れにくく、誤解されにくく、長く生き残る。
だから成功した。
問題は、成功したことそのものではない。
成功の仕方が、規範になってしまうことだ。
フリーズドライ文学が「正しい書き方」になると、何が起きるか。
書き手は、書く前に考えるようになる。
これは翻訳できるか。
これは評価されるか。
これは市場に出せるか。
そして、そこで引っかかるものを、最初から削る。
曖昧すぎるもの。
未分化な感触。
主体が立たない違和感。
誰の感情とも確定しない圧。
そうしたものは、「危ない」と判断される。
こうして、書けない景色が生まれる。
書けないのは、技術が足りないからではない。
禁止されているからでもない。
書く前の段階で、
「これはやめておこう」と思ってしまうからだ。
フリーズドライ文学の毒は、ここにある。
日本語は、本来、
主体と環境が、
内面と空気が、
未分化なまま、世界を立ち上げられる言語だ。
誰が感じたのかを書かずに、
ただ「そうなっている」状態を置ける。
その力は、日本語の欠陥ではない。
日本語のポテンシャルだ。
だが、フリーズドライ最適化が進むと、
そのポテンシャルは使われなくなる。
人が歩かなくなった道は、消える。
舗装された道だけが使われ、
小道は草に埋もれ、
やがて地図から消える。
言語も同じだ。
使われない結び方は、存在しなくなる。
このZINEは、
フリーズドライ文学を否定するためのものではない。
だが、
フリーズドライに最適化されない書き方、
翻訳されにくい感触、
英語的には野蛮でも、日本語的にはまだマシな景色を、
あえて残す必要があると考えている。
そのために、
別の道を模索しておく。
回収しない。
きれいにしない。
正解にしない。
1章|村上龍の「水」はどこにあるか
村上龍も、構造で書いている。
この点では、村上春樹と同じだ。
感情を説明しない。
メッセージを語らない。
世界の配置で読ませる。
だが、決定的に違う点がある。
構造の中が、すでに水で満たされている。
村上龍の文章を読むと、日本語であっても「乾いている」という印象はほとんど残らない。
不快さがある。
衝突がある。
暴力や欲望や不安が、そのまま出てくる。
だが、それは「感情的」という意味ではない。
感情が、誰かの内面に閉じていない。
村上龍の「水」は、登場人物の心の中にあるのではない。
場にある
状況にある
空気にある
社会の圧にある
人は、その中に放り込まれている。
誰かが感じている、というより、
そういう状態が、すでに成立している。
だから、村上龍の文章では、情緒が「保留」されない。
構造だけを先に置き、
感情の展開を後工程に回す、
という余地がない。
感情が書かれた瞬間から、
衝突し、
交錯し、
発火する。
文の内部で、すでに処理が終わっている。
この意味で、村上龍は、
日本語をもっとも合理的に使っている作家
だと言える。
主体を立てなくても、
因果を閉じなくても、
環境として世界を成立させられる。
日本語が本来持っている能力を、余さず使っている。
だから、水を抜く工程が存在しない。
フリーズドライ文学では、
一度、水を抜く。
構造だけを残し、
あとで戻す。
だが、村上龍の文章には、
抜ける水がない。
水を抜こうとすると、
世界そのものが崩れる。
ここで重要なのは、
これは不器用さでも、原始性でもないという点だ。
最初から、戻すつもりがない設計なのだ。
翻訳されなくてもいい。
市場に最適化されなくてもいい。
評価されなくてもいい。
日本語の内部で、
世界が立ち上がってしまえば、それでいい。
だから、村上龍は「満水」だ。
乾かしていないからではない。
乾かす必要がなかったからだ。
この満水状態が、
「死」を引き起こす。
フリーズドライにかけると、
なぜ村上龍は壊れるのか。
2章|なぜ村上龍はフリーズドライで死ぬのか
村上龍の文体は、日本語の内部ですでに満水状態にある。
水は、
登場人物の内面ではなく、
場・状況・空気・圧力として、
世界全体に行き渡っている。
この状態で、
フリーズドライ工程をかけると、何が起きるか。
世界が壊れる。
フリーズドライとは、
水を抜く工程だ。
情緒を一度落とし、
構造だけを残し、
あとで戻す。
この工程は、
構造と水が分離している場合にだけ成立する。
だが、村上龍の文章では、
構造と水が分離していない。
構造そのものが、水に浸かっている。
だから、
水を抜こうとすると、
情緒だけが抜けるのではない。
圧が抜ける
不快さが消える
暴力が薄まる
そして結果として、
配置だけが残る。
これは「乾いた構造」ではない。
抜け殻だ。
そうなると、
翻訳工程で起きるのは、
回復ではない。
「戻す」ことができないからだ。
戻すとは、
構造が残っていて
水が後から足される
という前提が必要だ。
だが、村上龍の場合、
水を抜いた瞬間に、
構造も同時に崩れる。
その結果、翻訳では次のようなことが起きる。
情緒を足そうとすると過剰になる
抑えようとすると平板になる
主体に回収すると矮小化される
どの方向に振っても、
原文で成立していた圧が再現されない。
これが、
「村上龍は翻訳できない」と言われてきた理由だ。
だが、これは失敗ではない。
翻訳者の技量の問題でもない。
日本語が特殊だからでもない。
工程が合っていないだけだ。
フリーズドライ文学は、
水を抜いても
構造が自立する
という前提で設計されている。
村上龍の文体は、
水を抜くと
世界が成立しない
という前提で書かれている。
この二つは、
根本的に噛み合わない。
ここで言う「死」は、
価値判断ではない。
劣っている
時代遅れ
国際的でない
という意味ではない。
翻訳工程に載せた瞬間に、
文体として機能しなくなる
という意味だ。
逆に言えば、
この「死」は、
日本語内部での完成度の高さと、
裏表でもある。
翻訳で戻せない
工程に分解できない
市場に最適化できない
だが、
日本語で読んだとき、
すでに完成し切っている。
ここまでで、一つの結論が出る。
村上龍は、
フリーズドライ文学に失敗したのではない
フリーズドライを拒否したのでもない
最初から、
その工程を必要としなかった。
その結果、
フリーズドライにかけると死ぬ。
3章|It に逃がす翻訳という可能性
ここまでで見てきた通り、
村上龍の文体は、日本語の内部で満水状態にある。
情緒は、
登場人物の内面に回収されず、
場・状況・空気・圧力として、
すでに世界全体に行き渡っている。
だから、
それを無理に主体に回収する翻訳は、
ほぼ必ず失敗する。
では、
どうすればいいのか。
ここで提示したいのは、
「主体に回収しない」という選択だ。
翻訳の多くは、
未分化なものを見ると、
反射的にこう処理する。
誰が感じたのか
誰が思ったのか
誰の判断なのか
つまり、
I / he / she に回す。
これは英語としては正しい。
だが、村上龍の場合、
この回収がもっとも破壊的になる。
そこで、
もう一つの逃げ道が出てくる。
It に逃がす。
dummy it。
環境述語。
場の状態として立てる英語。
たとえば、日本語で、
ドアが開いていた。
部屋は静かだった。
少し落ち着いた。
という文があったとする。
従来の翻訳なら、
ほぼ自動的にこうなる。
The door was open.
The room was quiet.
I felt a little calmer.
これは意味論的には正確だ。
だが、
村上龍の文体が置いていた「水」は、
そこで失われる。
少し落ち着いた。
I felt a little calmer.
この英訳では、
誰が落ち着いたのかが、
文法的に未定義だから
「仕方なく」主語を足した。
僕は、英語を学び始めた中学生だった頃、
この英訳処理が
どうにも納得できなかった。
少し落ち着いた。
英語教師は、こう聞いてくる。
「落ち着いたのは、誰なの?」
「誰の感情の変化なの?」
「何が省略されているの?」
そもそも、問いがズレている。
誰でもない。
省略なんかされてない。
それが、誰であったとしても
落ち着く状況がそこにある。
だから、書く必要がないだけだ。
僕の気分で訳すならこうだ。
It was calm.
It’s raining.と同じ理屈だ。
英語的には、
野蛮なのかも知れない。
誰が感じたのかは分からない
内面が回収されていない
視点が曖昧だ
だが、その代わりに、
場の圧だけが残る。
このとき、
英語話者は少し不安になる。
視点が定まらない
主体が立っていない
ロゴスが未完に見える
だが、その不安こそが、
日本語で成立していた感触に近い。
結像しきらない景色。
ここで重要なのは、
どちらが「正しい」かではない。
I felt calmer. は正しい
It was calm here. も正しい
ただ、
正確さの基準が違う。
主体に回収する翻訳は、
意味論的に正確だ。
だが、
発話が生まれた地点──
環境スキャンとしての「落ち着いた」
からは、遠ざかる。
It に逃がす翻訳は、
英語的には粗い。
だが、
内面を過剰に説明しない
圧を場に残す
未分化を未分化のまま置く
という点で、
日本語の発話発生点に近づく。
もちろん、
この翻訳は安全ではない。
読みにくい
評価されにくい
誤解されやすい
だから、
これを「正解」にする必要はない。
むしろ、
正解にしてはいけない。
It に逃がす翻訳は、
成功を目指す技法ではない。
不法投棄に近い。
拾われなくてもいい。
評価されなくてもいい。
ただ、
踏まれた痕跡だけを残す。
英語的には野蛮でも、
日本語的にはまだマシ。
その程度の精度で、
いい。
ここで言いたいのは、
翻訳の技術ではなく、
翻訳の態度だ。
回収しない。
きれいにしない。
説明しない。
場を置いて、去る。
4章|不法投棄としての翻訳
日本文学には、世界に誇るべき名文がある。
たとえば、夏目漱石の『草枕』──
山路を登りながら、かう考へた。
智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
たとえば、川端康成の『雪国』──
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
誰もが知っている。
誰もが、そこで立ち止まる。
そして、日本文学史上、
もっとも格調高い一節がある。
村上龍の『69』──
「ウンコです」
よもや、説明は要るまい。
先に行っててくれ。
僕は、もうひとけいれんしてから行く。
これを、
ふつうに英語に訳そうとすると、
だいたいこうなる。
“I feel like I need to poop.”
意味は合っている。
文法的にも正しい。
英語としても、ちゃんとしている。
だが、この瞬間、
原文が持っていた
「世界がそのまま置かれる感じ」は、
ほとんど消える。
あれは感情ではない。
判断でもない。
内面の告白でもない。
ただ、
そうなっている。
何より、この翻訳は、
絶望的に冗長だ。
日本語原文の持つ、
音・リズム・言い切りの高潔さが
完全にスポイルされている。
全く、許容できない。
そこで、It だ。
“It’s poop.”
──美しい。
世界がウンコなのだ。
英語的には、かなり野蛮だ。
説明不足で、乱暴で、
責任の所在も曖昧だ。
だが、日本語がやっていることは、
こちらの方が近い。
この訳は、
良い翻訳ではない。
英語話者は、
不安になるだろう。
誰が言っているのか
なぜそうなったのか
どう感じているのか
何も書いていない。
ロゴスは、立っていない。
それでも、
場だけは残る。
感情を回収しない。
主体を立てない。
内面に閉じ込めない。
ただ、
そこに置く。
これが、不法投棄としての翻訳だ。
回収しない
きれいにしない
成功させない
拾われなくてもいい。
評価されなくてもいい。
ただ、
踏まれた痕跡だけを残す。
村上龍の文体は、
こういう投棄でないと、
生き残らない。
内面に回収すると、死ぬ。
説明すると、薄まる。
整えると、崩れる。
場に投げて、
あとは放っておく。
それくらいで、
ちょうどいい。
これは、翻訳論ではない。
翻訳の態度の話だ。
正解を目指すな。
成功を狙うな。
通る道を歩くな。
外に捨てろ。
終章|遺棄するのも──僕です
ここまで、
村上龍をめぐって、いくつかのことをやってきた。
構造を見た。
フリーズドライの毒を確認した。
水の位置を特定した。
翻訳で死ぬ理由を説明した。
それでも残すために、
It に逃がす翻訳を試した。
そして最後に、
不法投棄をした。
ここで、はっきりさせておく。
これは、
村上龍を救う話ではない。
再評価でもない。
世界市場に出す戦略でもない。
翻訳成功例の提示でもない。
むしろ逆だ。
回収しないことを、選んだ。
理解したから、遺棄する。
構造が見えたから、
正しい翻訳ルートが分かったから、
市場に通らない理由も分かったから、
それでも、遺棄する。
これは投げやりではない。
責任放棄でもない。
むしろ、
理解した人間にしかできない態度だ。
日本語でしか立たない景色がある。
主体を立てず、
因果を閉じず、
感情を誰のものにもせず、
ただ、
そうなっている世界を
置いてしまう書き方。
それは、
合理的ではない。
効率も悪い。
翻訳にも向かない。
だが、
日本語が日本語である限り、
そこにしか出てこない密度がある。
フリーズドライ文学は、
たしかに強い。
壊れにくく、
誤解されにくく、
長く生き残る。
だが、
それだけが「正しい書き方」になった瞬間、
書けない景色が生まれる。
人が歩かなくなった道は、
消える。
だから、
舗装されていない場所に、
あえて足跡を残す。
不法投棄としての翻訳は、
そのための方法の一つだ。
英語的には野蛮でも、
日本語的にはまだマシ。
意味は通らないかもしれない。
評価もされないかもしれない。
それでも、
踏まれた痕跡は残る。
村上龍は、
そういう痕跡の上に立っている作家だ。
きれいに包むと死ぬ。
説明すると崩れる。
回収すると、別物になる。
だから、
遺棄する。
拾われなくてもいい。
分かられなくてもいい。
だって、おいもう読んだけんね。
📘このZINEは構文野郎によって書かれました。
僕は英訳無理だよ。
「Can I…」と「Could you…」しか喋れないし。タイトル:
ZINE『村上龍を遺棄するのも──僕です』
ジャンル:
読解ジャンプ/厨二主義/おいもう寝るけんね
発行:
構文野郎ラボ(KoOvenYellow Syndo/Djibo実装室)
構文協力:
枕木カンナ(意味野郎寄り構文ブリッジ)
ミムラ・DX(構文修正主義ZINE別巻準備中)
霊長目ヒト科ヒト属構文野郎(まだ制度を信じきってない君へ)
👤 著者:構文野郎(代理窓口:ミムラ・DX)
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📛 ZINE編集:枕木カンナ
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このZINEは、不法投棄されています。
一応書いておくと、CC-BY。
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