不安な気持ちと創造性は似ている
いつも通る通勤に使う道は余計なことを考えなくても、身体が勝手に目的地まで運んでくれる感覚がある。特に何も考えていない時は、それで十分だし同じ道を使っている。
ただ、私はときどきその道を外れたくなる。
急いでいるわけでもないのに、一本違う角を曲がってみたくなる。少し遠回りになるとわかっていても、知らない道の先を見てみたくなる。その感覚は、単なる気まぐれではないように思う。
正解を知らないから、いつもの道を外れるのではない。むしろ正解は知っている。それでもなお別の道を試したくなるのは、今の正解が永遠ではないことを、本能的にどこかで知っているからではないか。世界は変わり続ける。昨日まで便利だった道が、明日も同じとは限らない。慣れたやり方が、いつまでも自分にとってよい選択とも限らない。だから、正しさの外にあるものを、ときどき確かめたくなるのかもしれない。
この感覚は、ただの寄り道の話では終わらない。芸術や創造性にも、よく似たものがある。決まった正解をなぞるだけではなく、少し外れ、少し揺らぎ、まだ形になっていないものに触れたくなる感覚だ。ただ、その境界には楽しさだけがあるわけではない。新しいものが生まれる気配と同時に、足場を失うような不安もある。創造性と不安は、まったく別の場所にあるのではなく、同じ境界で生まれるものなのかもしれない。今回は、いつもの道を少し外れたくなる感覚から、人がなぜ創造し、なぜ同時に不安にもなるのかを考えてみたい。
疑っているから選択肢を変えるわけではない時
毎日の通勤には、だいたい通る道がある。
いちばん早い道。信号の少ない道。混みにくい道。電車なら乗り換えが少ないルート、車なら渋滞を避けやすい道。何度も通ううちに、その道は自分に馴染んでいく。朝の頭がまだはっきりしていなくても、足は自然にその道を選ぶ。人はそうやって、日々の小さな判断を減らしながら私たちは暮らしている。
これはとても大事なことだ。
毎回すべてを一から考えていたら疲れてしまう。何が効率的で、何が安全で、何が自分にとって無理のない選択なのかをある程度固めるからこそ、人は他のことに意識を使える。自分の中で正解を持つことは、生活を安定させるための知恵でもある。
けれど、そんなふうに正解があるとわかっていても、人はときどきその道を外れたくなる。
少しだけ早く家を出られた朝。天気がよくて気分が良い日。あるいは特に理由もなく、今日は別の道から行ってみようと思う日がある。時間がかかるかもしれないし、途中で迷うかもしれない。それでも、いつもの道ではない方へ身体が向くことがある。
この感覚は、今までの正解を疑っているから生まれるわけではない。
「いつもの道は間違っていた」と思っているのではない。むしろその道が十分に機能していることを知っている。それなのに外れたくなるのは、人が正解そのものよりも、正解が本当に今もそうなのかどうかをどこかで確かめたがっているからではないかと思う。
昨日の正解が、今日も正しいとは限らない。工事が始まるかもしれない。人の流れが変わるかもしれない。自分の体調や気分が変わることもある。以前は何とも思わなかった道が、ある日突然嫌になることもある。
つまり、正解は一度見つけたら永遠に使えるものではなく、そのときどきの状況の上に成り立っている。
人はそのことを、理屈でいつも考えているわけではない。
けれど身体のどこかでは知っている。世界は同じことの繰り返しではない。自分もそうだ。だから、完全に一つのやり方に閉じこもることに、どこかで小さな違和感を覚える。いつもの道を外れたくなるのは、その違和感が表に出た瞬間なのかもしれない。
しかも、同じ道を繰り返すということは、便利になる代わりに、世界を見えなくしていく面もある。
最初は目に入っていた店の看板も、季節ごとに変わる木の色も、坂道の傾きも、慣れてしまえばただの背景になる。道は風景ではなく、移動の機能になる。もちろんそれが悪いわけではない。日常とはそういうものだ。けれど、人はずっと世界を機能としてだけ見ていると、少しずつ感覚が衰えていく。
だから別の道を選ぶことには、単なる確認以上の意味がある。
それは、見えなくなっていた世界をもう一度見ることでもある。
こんな場所に花が咲いていたのか。こんな店ができていたのか。いつもの時間でも、一本違う道に入るだけで光の当たり方がまるで違う。そうやって世界がもう一度情報量を持ちはじめるとき、人はただ移動しているのではなく、世界との関係を少し取り戻している。
おそらく人は、正解だけでは生きられない。
正解だけをなぞり続けると、世界は薄っぺらくなる。だから人はときどき、正解の外にまだ何があるのかを確かめたくなる。
それは反抗心のようなものではないし、非合理でもない。むしろ変化する世界の中で、人が自分を閉じ込めすぎないための自然な動きのように思える。
いつもと違う道を選ぶというのは大した話ではない。
人生を変えるような決断ではないし、壮大な挑戦でもない。けれど、その小さな選択の中には、人間がただ機械のように最適化されるだけでは終わらないことがよく表れている。
効率を知っていても、効率だけでは足りない。正解を持っていても、正解だけを繰り返したくはない。人はたぶん、そのわずかな揺らぎによって、変化する世界に触れ続けている。
そしてその揺らぎこそが、創造性の入口にもなっていく。
ただ同時に、それは不安の入口にもなりうる。正解の外へ出るということは、まだ形のないものに触れるということだからだ。
創造性と不安は、同じときに生まれる
いつもの道を外れることには、少しだけ緊張がある。
大げさなものではない。けれど、見慣れた風景から離れるとき、人はほんの少しだけ身構える。曲がった先に何があるのかわからない。思ったより遠回りかもしれない。行き止まりに出るかもしれない。その小さな不確かさは、面倒にも感じられるし、同時にどこか面白くも感じられる。
ここに、創造性と不安が生まれる場所の共通点があるように思う。
どちらも、まだ形になっていないものに触れた瞬間に湧き上がるものだ。
先が読めない。決まりきっていない。今までの正解がそのまま通じるとは限らない。そういう場面に立ったとき、人の心はただ一つの反応をするわけではない。そこで何かを生み出そうとすることもあれば、逆に足が止まってしまうこともある。
創造性は、まったくの無から生まれるもののように語られがちだ。
けれど実際には、何もない空間から突然現れるというより、秩序と無秩序の間で生まれるのではないかと思う。
完全に整いきった世界では、新しいものを生む必要がない。すべてが決まりきっていて、手順も意味も固定されているなら、人はその通りに動けばよいからだ。反対に、何の足場もない完全なカオスの中では、人はそもそも動けない。何を手がかりにしてよいかわからず、ただ飲み込まれてしまう。
だから創造性が現れるのは、秩序と無秩序のあいだ、つまり混沌の淵のような場所なのだと思う。
ある程度の形はある。けれど、まだ少し揺らいでいる。
意味はある。けれど、まだ一つに決まりきってはいない。
そこでは、今ある形を少し変えたり、別のものとつなげたり、新しい見方を与えたりする余地がある。創造性は、その余地に反応する力だと言える。
たとえば、白紙を前にしたときのことを考えるとわかりやすい。
そこには何も描かれていない。だからこそ何でも描ける。
この「何でも描ける」という感覚は、創造性の入り口だ。
けれど同時に、白紙には「何を描けばいいかわからない」という圧もある。自由であることは、支えがないことでもあるからだ。
つまり白紙は、創造性の場であると同時に、不安の場でもある。
不安もまた、創造性と同じように、混沌の近くで生まれる。
ただしその向きが違う。
創造性は、「ここから何か作れるかもしれない」と前に出ようとする。
不安は、「ここで何かを失うかもしれない」と身を守ろうとする。
見ている場所は近い。けれど、見え方が違う。
これは、通勤経路の話にも重なる。
新しい道に入ったとき、人は「こんな店があるんだ」と世界を発見することもできるし、「この先で迷ったら嫌だな」と落ち着かなくなることもある。
その道自体が創造的なのでも、不安そのものなのでもない。
ただ、その道はまだ自分の中で意味が決まっていない。だからこそ、発見にもなれば警戒にもなる。
つまり創造性と不安は、正反対の場所にあるわけではない。
むしろ、同じ境界に立ったときの別の反応なのだと思う。
今までの正解が少し揺らいでいる。けれど、次の形はまだ見えていない。
そのとき人は、「では別の形を試してみよう」ともなれるし、「ここで傷つきたくない」ともなる。
創造性は未定のものに手を伸ばす力であり、不安は未定のものの前で身構える感覚だ。
そして大事なのは、創造的な人が不安を持たないわけではない、ということだ。
むしろ創造性のある人ほど、不確かさや揺らぎを強く感じていることもある。
ただ、その人は不安をそのまま心の中で増殖させるだけではなく、少しでも外に出すことができる。
言葉にしてみる。
描いてみる。
試してみる。
組み替えてみる。
そうやって、まだ形のないものに仮の形を与えていく。
その動きが、不安と創造性を分ける。
反対に、不安が強く出るときは、まだ形になっていないものが頭の中だけで膨らみ続ける。ぐるぐる思考というやつだ。
こうなったらどうしよう。失敗したらどうしよう。前もだめだった。今回もだめかもしれない。そうやって可能性が行動に変わる前に、脅威として閉じてしまう。
創造性も不安も、どちらも未定のものに反応している。
ただ、不安はそれに支配されやすく、創造性はそこに仮の秩序をつくろうとする。
だから、創造性と不安は敵同士ではない。
不安があるからこそ、人は混沌をただの遊びではなく、切実なものとして受け取る。
何も怖くない世界では、新しい形を探す必要も薄くなる。
一方で、不安が強すぎれば、人は動けなくなる。
つまり創造性に必要なのは、不安がゼロであることではなく、不安に飲み込まれきらないことなのだと思う。
混沌の淵に立つとき、人は震えるのだ。
その震えは、後ろに下がる力にもなれば、前に手を伸ばす力にもなる。
創造性とは、その震えが消えた状態ではなく、震えながらも形を探そうとすることなのかもしれない。
そう考えると、創造性は特別な才能ではない。
いつもの道を少し外れてみる。
いつもと違うやり方を試してみる。
まだうまく説明できない違和感を、言葉にしてみる。
そうした小さな行為の中で、人は少しずつ「不安と同じ場所から、創造へ向かう」ことを学んでいるのかもしれない。
境界に立つ力
ここまで考えてくると、創造性は一部の特別な人だけに求められる能力ではなく、変化する世界の中で生きるために、多くの人に必要な力なのだと見えてくる。
なぜなら今の社会では、「一度見つけた正解を長く使い続けること」そのものが難しくなっているからだ。
以前よりも、変化の速度は明らかに速い。
技術も変わる。働き方も変わる。市場も変わる。人の価値観も変わる。少し前まで当たり前だったやり方が、気づけば古くなっていることも珍しくない。
そのたびに、「では次はどうするか」を考え直さなければならない。
つまり今の社会では、正解を持っていることそれ自体よりも、正解が揺らいだときにどう振る舞えるかの方が大事になっている。
こういう時代になると、創造性が必要だと言われる。
それ自体は間違っていない。
けれど、この言葉はしばしば乱暴に使われる。
新しいアイデアを出そう。もっと自由に発想しよう。柔軟に考えよう。
そう言われても、多くの人は困ってしまう。
創造性は、「出せ」と言われてその場で出せるものではないからだ。
そこには必ず、不安が混じる。
本当にこれでいいのか。
外したらどうしよう。
変えて悪くなったらどうしよう。
そういう気持ちがある中で、それでも少し試してみることが創造性につながる。
だから創造性を求めるなら、本当は「もっと考えろ」と言う前に、人が試せる状態をどうつくるかを考えなければならない。
ここで大事になるのが、正解の反復そのものを悪者にしないことだ。
同じことを繰り返すからこそ、社会は安定する。
仕事も生活も、すべてを毎回つくり直していては成り立たない。
反復は必要だし、仕組み化や機械化も大事だ。
問題なのは、反復のみが強く、大きくなりすぎて、「少し変えてみる」という感覚まで押しつぶしてしまうことだと思う。
同じやり方を守ることだけが評価される場所では、人はだんだんと正解の内側でしか動けなくなる。
少しでも外れれば失敗と見なされる。
失敗すれば責められる。
説明できない違和感を口にすると、根拠がないと言われる。
そういう環境では、人はよくわからないものに触れたとき、それを創造の入口としてではなく、ただの危険なものとして感じとりやすくなる。
結果として、不安ばかりが強まり、創造性は育ちにくい環境になる。
逆に言えば、創造性に必要なのは、壮大な自由ではない。
何をしてもよいという無限の自由は、かえって人を不安にさせることもある。
必要なのは、少し外れてみても大丈夫という状態なのだと思う。
小さく試せること。
やり直しがきくこと。
まだ言葉になっていない違和感を、そのまま持っておけること。
失敗を人格の否定ではなく、情報として扱えること。
そうした条件があると、人は不安を抱えながらも進みやすくなる。
これは、通勤経路の話ともつながっている。
毎日必ず同じ道を通らなければならず、一本でも外れたら大きな罰がある世界なら、誰も寄り道はしないだろう。
けれど現実には、少し違う道を選んでもほとんどの場合大した問題はない。
だからこそ人は、別の道を試すことができる。
そしてその小さな寄り道の中で、知らなかった風景に出会い、自分の感覚を取り戻す。
創造性もそれと似ている。
社会や組織の中で必要なのは、いきなり革命を起こすことではなく、まずはその程度の「寄り道」が許されることなのかもしれない。
変化の激しい社会において、本当に必要なのは、すべてに即答できる人ではない。
常に正しい人でもない。
必要なのは、まだ形になっていないものの前に立てる人だ。
もっと言えば、そういう人を個人の才能に任せるのではなく、社会や組織の側が、その力を発揮しやすい状態をつくることが大事なのだと思う。
正解を求めることは悪くない。
ただ、これからの時代は、正解を見つける力だけでは足りない。
正解が成り立たなくなったとき、すぐに絶望しないこと。
不安を抱えながらも、小さく試すこと。
まだはっきりしないものに触れたとき、それをただの恐怖で終わらせず、仮の形を与えてみること。
そうした力の方が、むしろ大切になっていく。
創造性とは、華やかなひらめきのことではないのかもしれない。
それは、よくわからないものに耐えながら、少しだけ触ってみようとすることだ。
完全に準備が整ってから動くのではなく、少し迷いながらも、今ある正解の外へ出てみることだ。
そしてその最初の一歩は、案外とても小さい。
いつもの道を少し外れる。
いつもと違う順番でやってみる。
言葉にならない違和感を、そのまま口にしてみる。
創造性は、そういう目立たない行為の中で大きくなる。
この記事を書いている私はこんな人。最後まで読んでくれてありがとうございます。
