なぜ人は“老眼”だけは認めたくないのか
「私、老眼はないから!!」
ご高齢な人の中に、たまに強めな口調でそう言ってくる方がいる。僕はいつもその反応に困る。
本音を言って許されるのなら言いたい。
「そんなことあるわけ(自主規制)」
“老眼”というものは、多少の個人差はあるかもしれないけれど、誰しもほぼ同じ年齢で同じように始まって進んでいく。
老眼はおおよそ40代をすぎた頃からじわじわと影響を感じ始め、「目が疲れる」が「見えにくい」になって、やがて「見えない」になっていく。
「見えない」と言っても物理的な「見えない」ではないけれど。
近視だからとか遠視だからとかも関係ない。
スマホや本が見えやすいのは10代から20代までで、それ以降は老眼のスタートが切られるのだ。
「メガネ外したら見えるけど…」
とかの話もあるが、この辺のところを語る記事ではないので、そこは別のところで調べて欲しい。僕が言いたいのはそこじゃない。
「老眼」というものは、これはもう“仕方がない”ことだから、潔く認めて欲しい。
というか、認めるしかない。もう確実にそうなんだよ。なんと言おうとそれが事実。
気持ちはわかるよ。わかるけど。
でも認めたくない人は断固として認めない。
こちらもドクターではないから厳密には「老眼“です”」と言い切ることはできない。
だから「老眼の度数が出てますね〜」とか、「かもしれませんね〜」みたいな曖昧な表現にならざるを得ない。
だからだろうか、
「ほら、私は老眼じゃないんよ!」
「スマホも見えるもん!」
「LINEも読めるよ!ここに書いてあるのは、こんにちは…明日の懇親会の準備ですが…ほら読める!」
と猛烈に反論してくるのだ。
「そのLINEの文字、通常よりも大きくないか?」
と思うけれど、これ以上のディスカッションをするのも面倒くさ(自主規制)
論より証拠。スマホが見えやすいであろう度数のメガネをかけてもらうと、「あっ…」という言葉と同時に認めてくれる。このやり取り1年のうちにけっこうある。
僕は思うのだけれど、「老眼」というネーミングが良くない。これをいつしか変えたい。これを成し遂げて人生を終えたい。
10代の頃よりも確実に早く走れないし長くも走れないし、重たい物を持てないし、記憶もしにくくなっている。
だったら“目だけが衰えてない”ことはあり得ないにも関わらず、それでも認めたくないのは、そこに「老いる」という文字があるからではないだろうか。
それこそ40代は“老いている”と言えるのかという疑問もある。まぁ確かに色々とピークは過ぎているかもしれないけれど。
「老脚」とか「老腕」とか「老脳」とかはないのに、目だけは「老眼」が使われる。
誰だって老いたくはないのだ。わかってはいても、みんなそれに抗って生きている。
だから「老眼」と言われると、身体に「老いた人」という刻印が焼き付けられるような気持ちになるのかもしれない。
それもわかるから、「老」という文字を使わない別の表現が完成するまでは、認めててください。
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路上にチップもらう用のシルクハットを置いてパントマイムするの、実はやってみたかったんです