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ロンドンで家を買った話

ロンドンで家を買おう、そう決めていた。

おかしな話だが、ロンドンに着く前に、もう、家を買おうと決めていた。

そもそものきっかけはジョージだった

東京時代、私のガイジン友達は金融業界で働くひとが多かった。
その一人、ジョージが、

「ロンドンの住宅は、なにはなくとも買うべきものなんだよ。とにかく。落ち着いたらすぐ、家は買ったほうがいい」

持っているジントニックのグラスを振り回さんばかりに熱弁を奮った。
出発前にいつもの仲間で麻布のバーで集まったときのことだ。

台湾生まれアメリカ育ちのジョージは、アジア人の慎み深さとアメリカ人の合理性が完璧なバランスでミックスしている一流金融会社のファンドマネージャだ。
その彼には珍しく、こんなに力をいれて勧めるんだから、これは「買い」に違いない。
理由はよくわからないけど。

ジョージからさかのぼること10年ほど前

その会話から10年ほど遡ったころ。
工場のすぐ横にあるオフィス棟で、終電ギリギリまで仕事をしていた30代前半の私。
お金を使う暇もなく、資産活用を考える暇もなく、銀行に行く暇すらなかった。
とにかく仕事で一日が終わっていた。

そもそも「労働」とは、「お金を稼ぐため」にしていると思っていた。

大学時代は一年間頑張ってバイトし、その貯めたお金で、夏の間アメリカの語学学校に行っていた。
卒業後就職した会社では、アメリカの大学院に留学するため、給料の半分を積み立てていた。

ブランド物も好きだったけど、メリハリをつけて消費する、浪費はしないタイプだったと思う。

やがてアメリカへ行き、大学院生をしていたときは、高い学費においつめられた。
だから、マイナス20度は普通という極寒のミネソタ州で、暖房費を切り詰めるため、ダウンを着込んでお湯を沸かし、味噌汁を作りつつ鍋に手をかざして暮らすようなありさまだった。

わりと華やかな女子大生時代やOL時代を送ったにもかかわらず、そんな生活の後日本に帰国した私は、そこそこ給料をもらってるのに、お金を使う筋肉が強張っているような感じだったし、なにより、お金のことを考える時間がなかった。

だから、ふと、東横線のホームで、根本的な疑問に気がづいた。

「私、なんで働いてるんだろ」

かつてはアメリカに行く資金がほしいと思って働いていた。
じゃあ、アメリカから戻った今は?
何のために働いてる?
働くために働いてない?

今の仕事は楽しい、やりがいもある。
だけど。目標ってなに?

「借金したら、それを返すためだって頑張れるのかな」

ローンを組めば、わかりやすい目的ができる、ような気がした。
だったら、家、かな。

東京で家を買おうとしたけれど

「ダメよ、だめだめ!絶対にだめ!」

しかし母は強固だった。

「独り身の娘がマンションなんて買ってごらんなさい。
そんなの嫁き遅れを確定しましたって、世間にいってまわるようなもんじゃない!
それに、うちには家が三軒あって、お姉ちゃんとあんたで継いだって一軒余分にあまるのよ。
なんで借金背負ってまでマンションなんて買う必要があるのよ」

かばんの端からちょっとだけ飛び出していた「グランドなんとか渋谷」的マンション販売の封筒を目ざとくみつけた母は、私が、マンションでも買おうかな、と言ったとたん、ものすごい勢いで止めにかかった。

母がそこまで世間体を気にしていることも意外だったし、アメリカでMBAを取り、とうに嫁き遅れが確定しているのに、まだ娘の結婚を諦めていなかった母の、小鼻を開いた形相に驚いた。

まあ、確かに、家はある。
さらに買っても意味はなさそうだ。

それに。
もし東京でマンションを買うなら、今借りているアパートより、実家より、便利なところがいい。
となったら、渋谷か千駄ヶ谷にでも住むしかない。
そしたら、手に入るのはせいぜいワンルームマンションだ。

自分の長時間労働が、そんな小さな部屋に交換されるのかと考えて、やっぱり計画は取りやめることにした。

そして月日は流れ、ロンドンへ

そこから月日は流れ。
やがて私はロンドンへ転勤することになった。

「ロンドンの住宅は、自分が住むことがなくったって買うべきものなんだよ。とにかく、落ち着いたらすぐ。家は買ったほうがいい」

その転勤祝いの飲み会でいわれたのが、冒頭のジョージからのアドバイスだった。

なぜ、ロンドンの家は買いなのか。

当時は謎だったその疑問。
ロンドンに暮らして十数年がたった今、かなり答えがでた気がする。

なぜロンドンの家は「買い」なのか

日本では、住宅というのは車や家電と同じで、買った瞬間から減価償却が始まる。
つまり、買ったときに100万円の家でも車でも炊飯器でも、翌日すぐに売ったとしても買った金額より下の価格にしか値がつかない。

日本で上がっていくのは、通常、土地の値段である。
それだってバブル崩壊以降、右肩上がりとはいかなくなっているのが現状だろう。

でも、イギリスでは違う。
家の評価額が経年で下がっていかないのだ。

家に骨董的価値を認めるイギリス

一番の理由はこの国には地震や台風といった天災がなく(雨が多いから洪水は別だが)、レンガで作られた古い家が長い期間耐えられるということ。
ゆえに、人々の感覚として、家は長い間大事に手入れをしながら住むのが普通で、日本のように3-40年サイクルで建て替える前提ではないということ。

そして、そんな古い家に対して、イギリス人はむしろ骨董的価値を認める。

つまり、新築のコンクリートや鉄筋の家よりも、きちんと手入れされた古い煉瓦の家に高い値段がつくのだ。

「え、これ去年建てられた物件なの?じゃあ、あと数年は誰か他の人に住んでもらって、配管や電気に問題がないか分かってからのほうがいいわね」
とイギリス人はいうくらいだ。

それはなぜか。

ロンドンに現存する一般住宅の大半が建てられたヴィクトリア朝(1837-1901)あるいはエドワード朝(1901-1910)というのは、イギリスが大英帝国として栄華を極めていた絶頂期だ。
したがって、当時建てられた住宅は極めて良い資材で丁寧に建てられている。
戦後、特にイギリスが不況に喘いだ60年代あたりに作られた家というのは、コンクリートに混ざりものが多く、パイプの素材など粗悪なことが多いのだという。
ゆえに古い建物のほうが、ベースとして安心できるという皮肉が裏にある。

とはいえ、ヴィクトリア朝あるいはエドワード朝の家といえば、御年120歳、あるいはそれ以上!

当然、中にはいろんな問題がある家もある。
しかし、きちんと手入れされ、外見はクラシックなのに中に入ると近代的なキッチンやお風呂場という物件は(もちろん景気に合わせて多少の上下はあるが)長い年月でみたときには数パーセント、時には数十パーセントで価格が上がっていくのだ。

家の評価額が経年で下がっていかない、ということはどういうことか。
それは、普通の人々が、家を「住む」という実用的な理由だけでなく、貯蓄のひとつの形として気軽に売り買いする、ということだ。
中長期で金利を生むと考えれば、銀行に預ける以外の選択肢として、家を買い(貯金)何かがあったら売る(引き出す)というわけ。

だから、イギリス人は就職するとすぐに頭金を貯め(あるいは借り)、最初の一歩として小さい物件をまず購入する。
これを「First Time Buyer(ファーストタイムバイヤー、初めての購入者)」と呼ぶ。

そして収入の増加や家族の増加に合わせて、その物件を売り、それを次の頭金にしてさらに大きな家に移るということを繰り返す。
これを「Property Ladder(プロパティラダー、物件のはしご)」という。

やがて経済状況の変化や子どもたちの巣立ちと合わせ、今度は小さな家に売り変え、その差額が老後の暮らしを助けることになる。

そう考えると、イギリス人の生活設計のベースというのは、住宅の再販価格が安定していることに基づいており、再販マーケットが充実しているという前提になりたっている。

みなさんがイギリスに遊びに来て、ちょっと観光地を離れると、必ず目にするのが不動産屋だろう。
時には100mの間に3-4軒並んでいることもある。
そのウインドウの多くは賃貸の広告ではなく売買の広告が飾られているはずだ。
それは、不動産売買マーケットが活発であることの証拠でもある。

こういう背景をすべて理解したのは、正直、家を買ったあとだった。

しかし、当時、なんせ「安定志向のかたまり」ジョージがそこまで強く勧めるのだから、ロンドンの家は、理由はともかく買い、なんだろうと思っていた。

海外だったら親も文句をいえまい。
家賃を払うより月々の支払いも得なのだと説明すれば、それでおしまいだ。

家を買おう。いよいよ行動開始

こうしてロンドンに引っ越してから半年後、私は行動を開始した。

まずは、仕事仲間に相談である。

「家を買おうと思うんだよね…」

そう切り出すと、みんながホワッと盛り上がったのがわかった。

私がロンドンに根を下ろすことを喜んでくれた、と言いたいところだが、おそらくそれは二の次。
じゃあ、何が?

それは、みんな家を買う話が大好きだからだ。
と、今なら思う。

再販市場が活発ということは、みんな人生の間に何度も不動産の売買を経験している。
ゆえに体験談も知見もたくさん蓄えている。
そしてみんなそれを語りたくってしかたない。

だから、日本から来た「アマチュア」の私に経験を話すだけでも、ビールが何杯も空いてしまう格好のネタなのだ。

「よし、今夜は裏のネルソン集合だな」

チームのみんなは5時にパソコンを閉じ、会社のすぐ裏にあるネルソンというパブに集合とあいなった。

先立つものはまずお金。ローンをみつけねば

「まずは、ローンなんだよ」

と、カナダ人の同僚アーロンがラガービールを手にいった。
彼は同郷の奥さんと共にトロントから10年ほど前にロンドンに移ってきて、すぐに家を買い、それから子供が生まれるにしたがい3回も引っ越しをしているという。

「オレたち、ガイジンだからな。まずは、金を貸してくれる銀行を見つけないとならない」

そうなのだ。
それを受けて私は泣き言を語る。

イギリス人向けには、いくらでもローン比較サイトなどがある。
そのサイトは教えてもらっていたのだ。

これでもかというくらい信用金庫や銀行があり。
それぞれの特色あるローンを並べていて。
その中から金利などの条件を選び、電話をかけた。

しかし、リストの上から15、6番目くらいでやめた。

だって、みんな同じ展開になるからだ。

あなたはイギリス人ですか?⇒いいえ
イギリスの永住権または国籍はありますか?⇒いいえ
イギリス人の配偶者はいますか?⇒いいえ
EU加盟国の国籍はありますか?⇒いいえ
EU加盟国の国籍を持つ配偶者はいますか?⇒独身です

同じ質問、同じ展開。
私が就労ビザを持っていることも、この国の平均以上の収入を得ていることも、不動産価値の三割分も頭金があることも、まーーーーーーーったく会話に出る前に、「ガイジンだ」という事実がのしかかる。

「申し訳ありませんが、あなたは高リスクに該当するので」

どこかうちじゃない別の銀行が貸してくれるといいですね、と幸運を祈られ、会話が終わる。

この感覚、知ってるぞ。
そうだ。大学を卒業したときの就職活動だ。
自分では悪くない案件だと思っているのに、それはどうやら思い込みらしく、どこの誰も見向きもしてくれない。
そして、形式的なお祈りをされて終わる。

そのお祈りは、「自分はあなたを蹴飛ばして追い出すけれども、私はそんなに悪い人たちじゃないんだよ」と思いたい彼らの免罪符でしかない。

けれど、私はもうそんな純真無垢なリクルートスーツのオンナノコじゃない。
アメリカで暮らし、イギリスに来て、なにごとも主張し戦わなければ手に入らないとしっかり学んだ。

まず向かうのは、7階だ。

「海外からの転勤者なんですが、ローンが組めません。
人事から会社の取引銀行に紹介してもらえませんか」

そう。
オフィスの7階にあるのは人事部だった。
イギリスに転勤しろといったのは会社なんだから、ローンだって助けてくれるんですよね。

話が少しそれるが、海外で外国人が銀行口座を作るのは、普通だととても大変だ。
そしてそれがないと携帯の月極め契約などをするのもかなり難しい。
それはクレジットヒストリー(過去の金融取引実績)がないことを不審がられるからだ。

アメリカでも、口座を作るのに雇用主である政府機関や勤務先の学校の手紙をいくつも提出し、ようやく作れた記憶がある。
けれど、今回の転勤にあたってイギリスでの私の銀行口座は、とっくに人事部の手配で作られていた。
そのくらいの影響力が取引先銀行にあるのだから、ついでに私のちいさな住宅ローンのお声がけもお願いしたい。

すると、人事がメールを送っただけで、すんなりと私のローン見積もりが送られてきた。
寄らば大樹の陰、とはこういうこと。
しかし、その金利はウェブサイトで見るイギリス人向けローンに比べ、倍くらい高かった。

借りられるだけマシ、と思うべきなのか。
それともこれはガイジンだったら涙を呑めということなのか。
ううむ。

そこまでみんなに語り終えた時、私のギネスのグラスは空になっていた。

スコットランド人のジェニーが、みんなのために2杯目を買いに行く間、アーロンがいった。

「じゃ、S銀行にいってみなよ。あそこはイギリスの銀行と合併したけどスペイン系だし、基準が違うのか、オレも最初はあそこで借りたんだ」

つまみのわさびナッツを頬張りながら、彼はうちの商店街にも支店がある銀行の名前を教えてくれた。

「コツは、電話じゃなく直接支店にいくことだよ。
成績がほしいと思ってる担当がいるし、顔が見えると断りにくいもんだよ」

励まされて、私は近所の支店に予約を取った。

「ほんとに?ほんとにですか?」

そう云ったのは私ではない。担当者の方だった。

「あなたの頭金と、収入額からいったら、貸付はもっとできるんですよ。ほんとにそんな小さな物件でいいんですか?」

これまでとは、まったく逆の反応だった。
金利はイギリス人向けより若干高かったが、会社の取引銀行が出したものよりかなり低い。
よし、ここで借りよう。

「はい、できれば10-15年で完済したいので、身の丈にあった物件でいいんです。広いと掃除も大変だし」

そう会話を終わらせて、ローン審査がおりた証明書を印刷してもらい、銀行を出た。
いつも通りのロンドンの曇り空だったけど、私には、すこし明るくみえた。

そして。
この合格通知(ローン審査の)を手に、本当のプロジェクトが始まった。
いよいよ物件探しだ。

物件探し、まずはどんなタイプにするか  

ここまでさんざん「家」と書いてきたけれど、正確には私が買おうと思っている物件は「家」ではない。イギリスでは「Flat(フラット)」と呼ばれるタイプの物件だ。

イギリス、特にロンドンには、外から見たときに一軒家にみえていても、よく見ると玄関のところにドアベルがいくつもあったり、ゴミ箱が複数個外においてある建物が結構ある。これは、かつて一軒の家だったものを、例えば1階はジョンさんの家、2階はメアリーさんの家といった感じでフロアごとに分けているものを指す。
ちなみに、複数階を占有している場合には「Maisonette(メゾネット)複層住戸」と呼ばれる。
フラットという言葉が使われるのはそれだけでなく、日本でイメージするのマンションやアパートの一室の場合もいう。ただし、その場合は、建物自体がもともと区分所有を前提に建設されたものだという意味で「Purpose Built(パーパスビルト)意図あって建てられた建物」のフラットと呼ぶ。
イギリスには、ヴィクトリア朝に建てられたレンガ造りの荘厳で巨大な歴史あるパーパスビルトもあれば、日本でも見るような鉄筋コンクリートの近代的な建物も含まれる。
そして、イギリス人は圧倒的にこのコンクリート造りの集合住宅を嫌う。

「だって、テイストがないし、新しすぎるじゃない」

だそうだ。

そう。家に骨董的価値を見いだす彼らの目には、趣がない建物なんて魅力的じゃない、ということらしい。

そもそもコンクリート造りのパーパスビルドというのは、不景気にあえぐイギリスが大量の失業者たちの対応策として、政府の肝いりで住宅事情の改善のために建てられた公営住宅だったものが多い。
社会福祉のサポートを受ける人たちが住んでいるイメージが強く、ゆえに避けられがちということもあるようだ。

そんな影響を受けて、私の候補もだんだんと一軒家を分割したフラットになっていった。

物件探し、どこにしようか

次はエリアだ。

東京ももちろんそうだが、首都の住宅価格というのはものすごい振り幅がある。
超高級物件なら、たとえばロンドンのチェルシー地区や郊外のリッチモンド。
比較的安いのは東や南ロンドンの最近発展してきたエリアということになる。その辺りは便が良くとも、若干治安面に不安があった。

購入したら簡単には引っ越せない。
だから私の条件は、とにかく治安と利便性のよいところだった。

ゾーン2か3で、なにかあって日本に緊急に帰るときに困らないようにヒースローから遠くないところがいい。

ちなみに、ゾーンというのはロンドンを走る地下鉄の運賃を区分するものなのだが、同時にどのくらい都心から離れているかの目安にもなる。
ビッグベンやトラファルガー広場などがあるあたりを中心に、山手線内の1/3くらいの大きさのエリアがゾーン1と呼ばれている。そこから外環に行くに従い2、3…と数が増えていく。一番遠いのがゾーン6、西側であればヒースロー空港があるところだ。

ゾーン2か3で、治安がよくて、駅まで歩いて7分以内。近くに大きなスーパーと商店街があるところ。
東京で例えるなら、渋谷に出るまで東横線の特急に乗って20分ほど、その駅から7分以内で、平日遅くまであいているスーパーと、週末に買い物できる商店街があるところ、つまりは武蔵小杉か日吉といったイメージか。

そうやってまずはだいたいのエリアを絞り込み、そこから今度はネットの住宅検索をしていった。

しかし、どこの国も、不動産屋というのは同じようなテクニックを使うものだ。
サイトに載っている素敵な条件の物件は「実は昨日もう決まっちゃって」的なことを必ずいわれる。10-20軒ほどの物件をリストアップし、片端から電話を掛けるが、その物件そのものが見学可能なことはほとんどなかった。

私はいくつもの不動産屋に登録をし、いい物件が出てきたら連絡をもらうということになった。

ようやくビューイング(物件見学)

「で、昨日、市場に出てきた物件があって、会社から10分くらいのところなんだけど」

そうランチタイムに話すと、仲間の目が輝いた。
ローン審査に通った話も喜んでくれたが、彼らが楽しみにしているのはもちろん物件探しのほうなのだ。

「おっし、じゃあ今日のベルギーとの会議はぜったい5時に終わらせて、みんなで一緒に見に行こうぜ」

この前アドバイスをくれたカナダ人のアーロンが誘うと、イングランド人のブルースがうなずき、スコットランド人のジェニーが笑い、ウェールズ人のトレーシーがオッケーとこたえた。

チーム総出。

もしかしたら会社のプロジェクトよりみんな熱が入ってるかもしれない。

そうして見に行った物件は…。奇妙だった。
まず、三角形の土地に建てられているので、リビングルームの形も先のとがった三角形。しかも、長い間放置されていたのか、少しだけ開いていた窓の隙間からアイビーが侵入し、台所の壁を少しずつ攻略しているところだった。
なによりも、一番ヘンだったのは、寝室。いや、寝室と呼んでいいのか?
なんと、その家には風呂場がなく、寝室の真ん中に浴槽がどーんと置かれていた。

「え?これってものすごい湿気の中で眠るのかな?」
「っていうか、パシャって水が跳ねたら、木の床がどんどん痛むよね」

今思い返しても、たぶん、その家は奇妙度で1、2を争うレベルだったと思う。
その後も、実に個性豊かな家に出くわすことになった。

例えば階段の下のスペース(ハリー・ポッター君が親戚の家で住んでいたところだ)に浴槽とシャワーが突っ込んである家。

タンスが奇妙な場所にあるなとアーロンとブルースが動かしてみたら、その後ろ2メートル四方がカビだらけだった家。

見上げると空が見える(天窓ではない。何かが落ちてきたのか、天井と屋根に穴が開いていたのだ)家。

すべての部屋が横に並んでいるうなぎの寝床のような家。

そんな家を見続けると、途中からはもう何を見ても驚かなくなった。

私は、ロンドンで家を買う、というプロジェクトが、案外と波乱万丈になるのかもしれないと思いはいじめていた。

パブで見学反省会

その後も何軒もの物件を見に行った。
チームみんなで行くこともあれば、予定のない数人が付いてきてくれることもあった。
そして物件を見に行ったあとは、反省会と称してパブに行くのが定例になっていった。

最初こそ見てきた物件の話で始まるけれど、ビールが進めば、自然に取り組んでいるプロジェクトのこと、上層部への愚痴など、いろんな話に広がっていった。

みんなと飲むことで、私のひとりぼっちのロンドンの夜が埋められることは本当に嬉しかった。

山手線の最終に乗り、午前1時の閉店直前に東急ストアに駆け込んでいた東京のころとは違い、ロンドンのサラリーマン生活は夕方6時には平和に終わる。
それはとても素敵なことだったけれど、同時に、まだ友達もおらず、賃貸のフラットに一人暮らししていた私の夜を、とても長いものにしていた。

物件探し、という実際的なサポートはもちろんだったが。
でも、たぶん。
私が一番嬉しかったのは、新しい国にきて一緒に仕事をしはじめた「会社の人」が、私の家の相談を通じ、どんどんと「仲間」になっていったことだと思う。

ご近所さんだって確認しておかないと

そんなある日。
その日は私とウェールズ人のトレーシーの二人だけだった。

見に行った物件は、スーパーの上に建つコンクリート造りの建物の一室で、そのエリアではかなり安いほうだった。
トレーシーがそういう建物を好きじゃないのは重々承知していた。でも安かったのだ。

「そうことじゃないのよね…」

と、トレーシーはいった。
問題は隣の家の窓にあるという。

「窓が?」

彼女の目線の先を私も追う。

「そう。ほら、隣の窓を見てよ。あの聖ジョージの旗!」

そう、通りに面した隣家の窓にはそこを埋め尽くすようなサイズの白地に赤十字、イングランドの守護聖人、聖ジョージの旗が掲げられていたのだ。

フットボールやラグビーのワールドカップを観ながら、疑問に思ったことはないだろうか?
オリンピックはグレート・ブリテンとして参加する「イギリス」という国が、なぜフットボールやラグビーではイングランドやスコットランドなのかということを。

日本でよく使われるイギリスという呼称が何を指すかは時にあいまいだが、この国の主権国家としての正式名称は「グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国」である。ちなみにGreat Britainというのはあの二等辺三角形みたいな形をした島の名前だ。

国の公的コードはグレートブリテンを示すGB、ただ一般的には連合王国(United Kingdom)を示すUKが使われることも多い。

その連合王国は、イングランド、スコットランド、ウェールズと北アイルランドというそれぞれのCountry(国)に分かれており、イングランドが他の国を制して連合国を作り上げた歴史もあって、互いのライバル意識や文化的差異への関心は非常に高い。

ちなみに、イングランドの守護聖人は聖ジョージ、スコットランドは聖アンドリュー、ウェールズは聖デイヴィッド、そしてアイルランドが聖パトリック。そして、早々に併合されてしまったウェールズを除く三聖人の旗を重ねると出来上がるのが「ユニオン・ジャック」つまりグレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国の国旗だ。



私は最初、ウエールズ人の彼女が、隣人がイングランド人なことを嫌って云っているのだと誤解していた。

「そうじゃないのよ。
フットボールやラグビーのシーズンならともかく、あんな大きな旗を何でもないときに掲げているようなタイプのひとよ。
言いたくないけど、『日本から引っ越してきたんです』って挨拶してうまくやっていけるかしら。
私だってウェールズ人としてのプライドはあるけれど、家の外に毎日旗を飾ったりしないわよ」

ふむ、確かに。
私も普通の日に日の丸を表に向けて飾ったりはしない。

そういわれて改めて見上げると、確かにその灰色の建物に、鮮明な赤と白の十字架が実に際立ってみえた。

そこにようやく到着した不動産屋と合流した。
金額だけ考えればかなり魅力的だった。

「検討します」

そういいながら物件を出たところで、狭い廊下で出くわしたのは、大きなビニール袋に入ったなにかを階段から運び込もうとしている隣人だった。

「ハロー」

将来のご近所仲間になるかもしれないしと、笑顔を作って挨拶をしたものの、返ってきたのは、上から下になめ回すような目つきと沈黙。

うーん、あんまりお隣さんになりたくない。

日本でもそうだが、家を買うとなると、やはり隣人や環境というのは重要なファクターになる。
家そのものがいくら良さそうでも安くても、後々暮らしづらいのでは意味がない。

さらに考えなくてはならない条件が増えてしまった。

結局、それから5-6か月の間、私はおそらく100軒くらいの家を見学したと思う。
家そのものだけでなく、近所の環境や、隣人のことも考え始めると、どんどん確認項目が増えていくことになった。

そうして、絞られたエリアの予算内の物件で見学してないものはなくなった。
あとは、新しい物件が出てくるのを期待するしかない。

そしてとうとう運命の出会い  

そんなある日。仕事中に携帯が鳴った。

「たぶん、これじゃないかという物件がいま市場に出たんです。
売主との契約が終わって、まだ写真も撮れてないんですけど、よかったら他の誰かが見る前に見学しますか?」

もう顔なじみになっていた不動産屋からだった。
あいにく会社の仲間たちは皆忙しかったけれど、いい物件はその日に売れてしまうと学んでいたので、自分だけで見にいくことにした。

11月のロンドンは夕方4時にはもう真っ暗だ。
暗い中で物件の良し悪しを判断するのはなかなか難しい。
とはいえ、ロケーションとしては行き止まりの静かな道に建ち、商店街まで歩いて5分、地下鉄の駅まで6-7分という条件通りのものだった。

「出されている条件のなかで、満たしていないのは浴槽だけだと思うんですよ」

不動産屋の女性は云いながら鍵を開けた。
足元でネコがにゃーとあいさつをした。
現在は私と年齢の近い女性がネコと一緒に暮らしているらしい。

「いい感じだな」と思った。
小さくて、背伸びしてない。

言われたとおり、その家には狭いシャワーブースがあるだけで浴槽がなかった。冬のロンドン暮らしにはかなり辛い。

けれど。
その家には、不釣り合いなサイズの庭がついてきていた。たぶん、居住部分と同じくらいの大きさの。

広い、というよりも、深い、とでもいおうか。
幅はないのに、やたらと奥まで広がっているその庭は、奇妙な庭木の植え方のせいで分割されて、手入れも全くされていないジャングルのようだった。

「もちろん、市から建築許可は必要なんですが、3メートルまでの増築はこの近隣はみんな許可が出ています。
だから、庭を半分くらい残してあとは居住スペースに増築できると思います。
そしたら、お風呂場だって好きなように作れますよ」

不動産屋は私が思っていたのと同じことを言った。

そう、ロンドンの古い家は、手入れをするのが重要なポイント。
だから、構造が問題ないのであれば、荒れ放題の古い物件を安く買い、庭や天井裏の部分を増築したり、壁をぶち抜き豪華リビングダイニングにして、付加価値をつける、といったことがよく行われている。

私も、渡された見取り図をみながら、「庭を潰して、部屋の構造を少し変えたらぜったいに価値もあがるな」と感じていた。
いろんな物件を見て回るうちに、そんな感性も養われてきていたのだ。

「買います」

玄関近くまで戻ったところで、その言葉が口に出た。

あっ。
いっちゃった。

この日は仲間の誰とも一緒にいなかった。
予算の上限ギリギリの値段でもあった。

けれど、自分がこの家で暮らしているところが想像できた。

ここだ。
そう思った。

「えええええええ!で、オファーしたの?買うって?」

トレーシーは電話の向こうで叫んでいた。
不動産屋と別れてすぐに報告したのだ。
彼女は、ちょっと心配そうに続けた。

「今日はアーロンもブルースも忙しくて一緒に行けなかったから、確かあなたひとりで見にいったのよね。
ほんとにそこだと思う?
クリスマスも迫ってるし、疲れちゃって、もうこれでいいやと思ったとか、そういうんじゃない?」

いや、ブレはなかった。
そこだという気持ちがあった。

「もちろん配管だとか床や天井に問題がないかはプロに見てもらわなくちゃダメだとは思う。
でも、なんていうのかな、この家だって感じたの。
よかったら、明るい時間にもう一度見に行こうと思うから、一緒にいかない?」

出会った後にもやることはいっぱい

翌日、会社のみんなに報告をしていると、いつも横で話を聞いていた隣のチームのイングランド人フィルが、

「お、いよいよ、これって言う物件に出会えたの?
じゃ、オレの地元に建築関係の友達がいるから、契約する前にそいつに物件をチェックしてもらうといいよ。
プロに頼めば普通は金がかかるし、なにより知り合いの目で見てもらうと安心だろ」

と、友達を紹介してくれた。

もう一人のイングランド人グラハムは、社員割引が使える行政書士を紹介してくれた。

会社のみんなは、どこまでも、ホント親切だった。

数日後、フィルの友達トムは、わざわざ高速を1時間かけてやってきて、電気配線や水道管を確認してくれた。

「壁や天井のひび割れみたいな小さな手入れは必要だけど、数年のうちに増築してガツンと手をいれるんだったら、そのときに修理をすればいい。
いい物件だと思うよ」

ふう。

いよいよ契約

現在猫と一緒に住んでいる女性は、その家の所有者のガールフレンドなのだという。
それが、最近彼女に新しいボーイフレンドができたため、「できるだけ早く売買契約を終わらせ、今の店子に出ていってもらいたい」のだと。

誰かの恋人関係の破綻を喜ぶのは申し訳ない気がしたけれど、住んでいる家の賃貸契約の切れ目が迫っていた私にとって、そんな事情は好都合だった。

おかげで、書類ごとにえらく時間がかかるはずのイギリスで、しかも、間にクリスマスをはさんだというのに、実質たったの5週間ですべての手続きを終わらせることができた。

みんなに言わせると、奇跡的、らしい。

そして、私の手に、払った金額の割には、あまり高そうにみえない古びた3つの鍵が渡された。

「そうそう、オーナーからのお願いがあって」

と、不動産屋が鍵を渡しながら云った。

「この家を所有していたことは奥さんに知られたくないので、今後郵便物などが来た場合も、一切転送せずにすべて破棄してくれということでした」

え?
奥さん?
ガールフレンド?

いろんな事情があるようで。

こうして、2011年1月。
私はロンドンで家のオーナーになった。

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