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支配と自由のあいだで



人は誰でも表と裏がある。
表だけで生きていける人はいないと思う。

だけど表面的なものに振り回されずに
表の自分はこう、裏の自分はこう、と
本質から把握しようとする人は少ない。

表とは表層の心・顔。
自分で気づける心の領域。自覚できる思考や感情。

裏とは深層の心・顔。
表現されることは少ないが、行動、選択、
思考に強く影響する深い心理のことだ。


表も裏もどちらも対局に存在することは
健全なことなのに、
特に裏の自分と向き合うことに多くの人は躊躇する。


人は誰でも光と影の両方を持っている。
だが人は影を隠そうとする。

そこで問題なのは影があることではなく、
その影を見て見ぬふりして
自分を傷つけ続けることなんだと私は思う。



「邪悪な私」を知る

”邪悪”というのは、悪い感情をもつことではなく、
未来、希望、可能性、尊厳など、私の自由を奪う力、という意味を指す。

自分の可能性や勇気を切り捨てたり、怠けたり、
嘲笑ったり、羞恥を晒たり
奈落の底に突き落として支配するようなそんな、
姿勢のことだ。



そんな邪悪に支配されてしまうと
自分を恥じたり、後悔から抜け出せなかったり、
他人のせいにしたり、
本心で行動することをやめてしまうだろう。

だからこそ、私たちは「邪悪な私」を把握して
自ら選んでいく必要があるのだ。

「邪悪な私」には、いつくかのパターンがある。

そして私達は「邪悪」と、対極の「愛」の両方で生きている。
また、私達の行動や思考や性格と言われるものにはある程度の法則性がある。

それを知り自分で選んでいくことは
無意識に浮かぶ思考を切り離し、
意識してコントロールするチカラを養う。

無意識を有意識にするチカラは、呪縛から少しづつ私達を自由にする。


それが、私達がずっと探し続けている
「私の心を縛るもの」と「私を解放するもの」
の正体なのだ。



私にはどうしても無意識に浮かぶ思考のパターンがいくつかある。
その中のひとつは、「どうせ私は愛されない」という思い込みだ。

この思考が浮かぶこと自体は、
おそらく一生止められない。

でも、
「あー、また浮かんできてしまった」と気づいて、
「それでも私はこう在るんだ」と選ぶことはできる。

その瞬間から、私は「選んだ」という自由を手に入れる。


"自由"の反対は"支配"だ。
無意識に浮かぶ思考に舵をとられてしまったら
それは支配されている状態であり、本来の私ではない。
その支配から自分の意志ですこしづつ距離をとることを
私は「解放」と名付ける。


「どうせ愛されない」の思い込みは根深い。
誰かに言われたわけでも、それまで決定的にそう信じざるを得ないような出来事を経験したわけでもなかった。
だが、それは私の根深い基盤になっていて、決して信じて疑いようのない事実(私の中で)なのだ。


思い返せば28歳の頃、その思い込みの答え合わせになるような出来事があった。

当時長く付き合っていた彼の家で、浮気現場に遭遇したのだ。
届け物があった私は当時持っていた合い鍵でいつものように彼のマンションの鍵を開けドアを開けた。
すると玄関に何か落ちている。
その何かは、すぐにわかった。私のものではない女性の服だ。

それは部屋へと一枚一枚点々と続く。
目で追っていくと、見慣れた彼と見知らぬ女性が静かに眠っていた。


唐突の出来事にどう対処すればいいか頭は真っ白になった。
「こんなドラマとかのシーンでよくありそうなこと、実際に起こるんだ」
そんなことを冷静に考えながら、その場から自分を消すように私は部屋から急いで出た。


そんな状況の最中、私の頭の中に一番に浮かんだ言葉は、
「やっぱりか」だった。
「やっぱり、私は人から愛される価値はないんだ」
その思いはさらに先頭に出てきて私の頭の中を支配した。


今ではなんて極端で偏った自己中心的な捉え方だと笑って話せるけれど、
当時は自分の邪悪な影も理解できていなければ、俯瞰して事実と自分の思考も分けて捉えることもできていなかったので、
仕方がないといえばそうだと思う。


私の思考パターンの1つはどうせ愛されない。という思い込みだが、
この思考パターンは人それぞれ異なる。
これを読んでいるあなたはどのような潜在的な思考パターンを持っているだろうか。それにより当然、反応もそれぞれだ。
「私だったらこうするだろう」と感じたそれは、どのような邪悪な影と関わっているのだろう。
それにより、あなたが無意識の制限の中で自ら生きにくくなっていないことを願う。


話を戻すと、どうせ愛されないの思考の奥底にあるものの正体は、”欠乏感”だと思う。
人と比べて何か足りてない。自分にはなにかが欠けているという信念が、
潜在的に”自分が愛されるなんて不釣り合いだ”と感じてしまう根っこであり
人との関係性や幸せに向かうことを阻む”邪悪な私”の一部分だ。

邪悪な私の欠乏感は、他のあらゆる場面でもそれぞれパターンを変えて現れ、本来得られるはずの幸せや人間関係を自ら遮断する。



その邪悪な私と、本来の私を重ねて「これが私だから」と誤った認識をしてはいけない。

それは別物なんだと意識下に置き、自分の意志で自分の選択を生きていかなければならない。



今でも「私は愛されるはずがない」という選択は私の中にある。
それは、これからも根っこから引き抜かれることはないだろう。

だが今は、「それは私に根付く思考パターンであり、思い込みである」ということを私は知っている。

思い込みと事実を分けて捉えられるようになれば、
「私は愛されるはずがない」という思考パターンから付随して
さらに枝葉のように派生する違う形の支配も見つけることができる。



何も知らずに「これが私だから」と納得したフリをするのは
自分で自分を傷つけることを許しているようなものだ。

本来手に入るはずの未来を知らないうちに逃している。
そんな人は周りでも少なくない。

自己不一致感、自分責め、後悔、不安、怒り、執着。。
思考パターンはいくらでも枝分かれし、形は違えど似たような問題を繰り返す。
防衛反応も選択を間違えば、幸せを遠ざけてしまうことになりかねない。


でも、私はもっと優しい景色を見ることができるはずだ。


表も裏も知った上での自由な選択の先には、希望や可能性が続いている。
言い直すと、希望を見出すことができる限り可能性は続く。
自分で選択できる人は、自由に自分の世界を広げることができる。



自由とは、自分を変えることではなく、
思考パターンに支配されず、表も裏も知り自分の意志で生き方を選べるようになることだ。

その選択こそが「解放」の正体だ。


表と裏。邪悪な私と愛の私。
支配と自由のあいだで時に揺れ動く人間らしさや葛藤を滲ませながら
これからも知ることを続け、自分自身で選び
"私"をより良く生きていきたい。


#創作大賞2026 #エッセイ部門

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