あの日の体育館裏

小学3年生の秋風が、少しだけ冷たく頬を撫でるようになった頃のことだ。銀杏の葉が黄色く色づき始め、校庭の隅に転がる落ち葉が靴底に絡みつくようになった季節。いつものようにランドセルを揺らしながら学校からの帰り道を急いでいたけれど、その日の僕の心には、いつもと違う種類の、小さな棘が刺さっていた。それは、がらんとした午後の家を想像した時の、あの心細さの棘だったのかもしれない。

「お母さん、今日はいないんだ」

朝、そう告げられた時の、胸のざわめきをまだ覚えてる。2つ年下の弟が小学校に入学して初めての学校行事。ピカピカの1年生になったばかりの弟のために、母さんはそちらへ行くことになっていた。普段なら、ガラッと玄関のドアを開ければ「おかえり!」と迎えてくれる母さんの声が、今日は聞こえない。その当たり前がなくなるというだけで、世界が少しだけ色褪せて見えた。

「いい? 14時になったら、体育館の裏に来てちょうだい。そこで待ってるから」

母さんはそう言って僕の頭を撫でた。体育館の裏は、弟の行事が行われる場所のすぐ外で、校舎の影になって人目につきにくい静かな場所だった。「お母さんがいるのを他のお友達に見られると恥ずかしいでしょ?」と母さんは言った。確かに、高学年になってきた僕にとって、友達の前で母親と一緒にいるところを見られるのは少し照れくさかった。だから、人気のない体育館の裏は、ちょうどいい待ち合わせ場所のはずだったんだ。

うん、と頷きはしたものの、心のどこかで小さな不安が渦巻いていた。時計の読み方はもう完璧だったし、体育館の場所だって知ってる。でも、なんだか心細かったんだ。

約束の14時。僕はちゃんと、体育館の裏手に立っていた。ざわざわとした子どもたちの声や、先生のマイクを通した声が、壁一枚隔てて微かに聞こえてくる。風が吹き抜けるたび、木々の葉がサワサワと音を立て、ひんやりとした壁の感触が背中に伝わった。運動場の隅では、下級生たちがドッジボールに興じている。僕だけが、その賑やかな輪から弾き出されたように、ぽつんとそこにいた。人目につかないはずの場所が、今はかえって寂しさを際立たせた。

まだかな。

時計の針は、ゆっくりと14時を過ぎていく。最初は、母さんがもう少しで来るという期待が胸を満たしていた。手持ち無沙汰に地面の小石を靴先で蹴ってみる。3分経過。期待は少しずつ焦りに変わり始める。なんだか、ここに一人で突っ立っている自分が、ものすごく場違いで、恥ずかしい存在に思えてきた。たまに校庭から遠くを眺める目があったり、たまたま用事で通りかかった先生の視線が一瞬こちらに向けられるだけで、まるで強い光を当てられたように感じた。

5分が過ぎた頃には、焦りが不安へと姿を変えていた。体育館の壁が、徐々に僕を締め付けるように感じられる。人けのない場所だからこそ、偶然の視線が、僕の孤独を浮き彫りにするようで、たまらなく居心地が悪かった。

「あの子、何してるんだろう」

そんな声が聞こえた気がして(実際には誰も何も言っていなかったのかもしれない)、僕はますます縮こまった。背中がむず痒くて、早くこの場から消えてしまいたかった。母さんは何かの用事に引っ掛かっているのか、それとも…僕のことを忘れてしまったのか。8分が経った頃には、その考えが頭から離れなくなっていた。

あと少し、あと少しだけ待ってみよう。

心の中で何度もそう繰り返した。母さんはきっと、もうすぐ来る。何かちょっとした用事で手間取っているだけなんだ。そう自分に言い聞かせても、時計の針は無情にも進んでいく。体育館のドアに近づき、中の様子をうかがおうと手を伸ばしかけた。でも、その数センチが、どうしても踏み出せない。もし、そこに母さんがいなかったら? その考えが、僕の足を縫い付けた。

10分が経った。もう限界だった。本当は弟の行事が終わるまでここで待っているはずだったけれど、胸を締め付ける不安に、もう耐えられなくなっていた。期待は完全に消え、代わりに見捨てられたような喪失感だけが残った。

どうして僕は、もう少しだけ待つ、という「あと一歩」が踏み出せないんだろう。いつもそうだ。ギリギリのところで怖くなって、逃げ出してしまう。

たまらなくなって、僕は踵を返した。体育館のざわめきと、風に揺れる葉擦れの音を背中に聞きながら、逃げるようにその場を後にした。母さん、ごめん。でも、もう待てなかったんだ。

誰もいないはずの家へ向かう道は、やけに長く感じられた。さっきまでの太陽が嘘のように、空が少しずつ灰色がかって見えた。家の前に着き、鍵を開けて玄関に入る。

しーん……。

冷たい空気が、肌を刺した。やっぱり、誰もいない。分かっていたはずなのに、その完璧な静寂が、まるで深い水底に沈んでいくように、僕の心を冷たく浸していく。さっきまで無理やり押さえつけていた不安と虚しさが、一気に堰を切った。

家の中の静けさが、急に得体の知れないもののように感じられて、怖くなった。いつもは母さんの声や生活音で満たされているはずの空間が、今は妙に広く、冷たく、よそよそしい。この静寂の中に一人でいるのが耐えられなくて、僕は慌てて玄関から飛び出し、門の外へ出た。

「う……っ、うわぁぁぁん……!」

気づけば、僕は家の門の前に座り込んで、声を上げて泣いていた。ランドセルは脇に放り出したまま。冷たいアスファルトの感触がお尻に伝わる。頬を伝う涙がしょっぱかった。どうして母さんは来なかったの? 約束したのに。僕、ちゃんと時間通りに行ったのに。一人ぼっちだよ。胸の奥が空っぽになったみたいで、息をするのも辛いよ。静かな家の中よりは、外の方がまだましだと思ったのに、涙は少しも止まらなかった。

次から次へと涙が溢れてきて、止まらなかった。幸い、その道は人通りが少なく、僕が泣いている間、誰も通りかからなかった。それが、せめてもの救いだったかもしれない。でも、孤独感は増すばかりだった。世界にたった一人取り残されたような、途方もない虚無感。

どれくらいの時間が経っただろうか。泣き疲れて、しゃくりあげる声も小さくなってきた頃、遠くから聞き慣れた声が近づいてきた。

「あら、どうしたのこんなところで!」

顔を上げると、心配そうな顔をした母さんと、きょとんとした顔の弟が立っていた。弟の手には、行事で作ったらしい小さな工作が握られていた。

「お母さん……!」

僕は駆け寄って、母さんの足にしがみついた。母さんの温かい匂い。そこには、運動会の日の砂埃と、いつもの洗濯洗剤の香りが混ざっていた。その瞬間に、堪えていたものが全て決壊したように、嗚咽が漏れた。安心感と、裏切られたような気持ちと、胸の奥に押し込んでいた寂しさがごちゃ混ぜになって、言葉にならない。

「なんで……なんで、こーへんかったん!」

しゃくりあげながら、服を強く握りしめて、精一杯の抗議の声を上げた。母さんは僕をぎゅっと抱きしめて、何度も何度も背中をさすってくれた。僕はその腕の中で、安心と同時に、まだ残る怒りを感じていた。心の中では「待ってたのに」という言葉が渦巻いていたけれど、母さんの温もりが少しずつその気持ちを溶かしていく。

「ごめん、ごめんね。先生とのお話が長引いちゃって、時間通りに行けへんかってん。体育館の裏にいなかったから、もう家に帰ったんやと思って。ほんまにごめん」

母さんの温かい腕の中で、僕はまだ少しだけぐずっていたけれど、心の奥にあった冷たい塊が、じんわりと溶けていくのを感じていた。それでも、あの10分間の孤独は、確かに僕の中に存在していた。

あの日の体育館裏での10分間。そして、家の門の前で一人流した涙。時々、似たような寂しさが胸をよぎる時、僕はあの日の風の匂いと、母さんの腕の温もりを同時に思い出す。

今でも体育館の裏を通るたび、僕は立ち止まって、少しだけ目を閉じる。秋風が頬を撫でるその感触は、あの日と少しも変わらない。

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