見出し画像

【義父との夜~スナックともう一つの土曜日と誕生日~】

僕の奥さんの父親である義父が75歳の誕生日の前日に長年勤めた仕事を退いた。節目の年に仕事を終えるつもりだと、義父は以前から話していた。
義父は明るくて裏表がない人で、初めて会ったときからその人柄に僕は惹かれていた。
「俺と違って何の取柄もない娘だけどよろしく頼むな」
そう言って笑う義父は、奥さんから「いやお父さんよりもよっぽど取柄あるわ!」と思いっきり肩を叩かれていた。このやり取りを見た瞬間、僕はこの父娘おやこに心を奪われた。こんな家族と一緒ならこの先もきっと楽しいんだろうなと思った。
義父の正直さは、よく周りを怒らせていた。新婚旅行の土産でブランド物のベルトを贈った時には「ありがとな!でもベルトってカットするのが面倒なんだよな」と笑い、奥さんから「もうあげない!」と怒られていた。
腎臓がんで入院していた義母にも「お前が死ぬ前に口座のお金を俺の方に移した方が良いと思うんだ」と堂々と義母に言っては、激怒されていた。そんな悪気のない発言が、義父の純粋さを物語っていると、僕はいつも思っている。

そんな義父と、誕生日の前日の夜に二人きりでスナックに出かけた。以前から「仕事の最後の日は君と呑みに行きたい」と義父から誘われていた。こうして義父と呑みに行くのは、ずいぶんと久しぶりだった。まだ奥さんの祖父が健在だった頃は、義父と祖父と僕の三人で、義父の行きつけのスナックへ通っていた。初めてスナックに訪れた夜、義父はママさんに僕らを紹介してくれた。
「こっちが親父。こっちが……まぁ息子みたいなもんかな」
少しはにかみながら言った義父の言葉に、胸にじんわりと温もりが広がった。義父と祖父はカラオケが大好きで、楽しそうに歌う二人の姿を見るのが好きだった。当時は二人に合う曲を探すのが難しく、よく「知らん曲だなぁ」と笑われた。当時、90歳を超えていた祖父だったが、しっかりとした歌声で周囲を驚かせていた。歌い終えた祖父に「とても上手でしたよ」と告げると、照れ笑いを浮かべながらお礼を言ってくれた。カラオケの最後は義父が浜田省吾の『もうひとつの土曜日』を歌い、その夜が締めくくられるのが定番だった。

祖父が亡くなり、ちょうどコロナ禍が重なったことで、スナックへ行く習慣は途絶えた。やがて僕らが通っていた義父の行きつけの店も閉店したと聞いた。それから義父は新しい店を巡り、最近ようやく「これぞ」というスナックを見つけたらしい。誕生日の前日の夜は、その店に僕らは向かった。

奥さんの車で店の前まで送ってもらい、扉を開けて店へと入った。どうやらママさんへ事前に行くことを伝えていたらしく「お待ちしておりました!」と大袈裟に出迎えられた。「こっちが話していた息子だよ」と、義父はおどけた様子でママさんに言った。数年前と同じ言葉に懐かしさが胸を締め付けた。カウンターに座って、まずはビールで乾杯。互いの近況をぽつぽつと話した。義父は来月白内障の手術を受ける予定だという。最近、目が見えづらくなっており、それも仕事を退いた理由の一つだった。
「あいつらはどうだ?元気にやってるか?」そう義父が尋ねた。奥さんのことか、息子のことか、どちらのことを指しているのか分からず「いろいろ大変ですが、まぁ元気です」と曖昧に答えた。「そうか、元気ならいいんだ」と、義父は笑ってグラスを傾けた。

酒が進むにつれ、饒舌になった義父は自らの心境を語り始めた。仕事を辞めた後、ボケてしまわないかという懸念。定職につかずふらふらしている長男への苛立ち。少しずつ無理が利かなくなってきた身体への不安。浅くなった睡眠、落ちる食欲、総入れ歯にしたことなど。
いつも朗らかな義父の口から、こんな言葉がこぼれるとは思わなかった。明るい笑顔の裏に、こんな思いを抱えていたのかと胸が詰まった。
義父は僕の返答を待つことなく話し続けた。きっと誰かに解決してほしいわけじゃない、ただ聞いてほしいだけだろう。僕は「うんうん」と頷き、黙って耳を傾けた。

ひとしきり話終えると、義父はママさんに目配せした。ママさんは軽く頷くと、カラオケの電源を入れた。マイクが義父の前に置かれる。「久しぶりにどうだ?たまにはいいだろ」そう言って義父が曲をリクエストする。ママさんが素早くタッチパネルを操作して曲を入れた。画面に曲名が映り、イントロが流れ出す。義父はマイクを握り、立ち上がった。少し掠れた、でも力強い声で歌い始めた。その歌声は先ほどまで不安を抱えていた人とは思えなかった。まるで歌うことで自分を取り戻しているようだった。僕は少し安堵して、ママさんからタッチパネルを借りた。昔、義父や祖父が褒めてくれた曲を入れる。義父の歌に触発されたのか、店内の他の客も選曲を始めた。店の雰囲気が次第にカラオケの熱気に包まれていった。

何曲目だっただろう。画面に『もうひとつの土曜日』の文字が浮かんだ。義父が選んだに違いない。僕は曲を探す手を止めて、タッチパネルをママさんに返した。聴き慣れたイントロが流れる。義父は再び立ち上がりマイクを握った。

昨夜ゆうべ 眠れずに 泣いていたんだろう?
彼からの電話 待ち続けて

しっとりと歌う義父の声は、昔と変わらない。祖父と三人で歌った夜が、ありありと蘇った。あの頃からどれだけの時間が過ぎただろう。祖父はもういない。義父とこうして過ごす時間も失われていた。義父も、眠れない夜を過ごしたことがあるのだろうか。そんなことを考えながら、義父の歌を静かに聴いた。
ふと、母親の顔が浮かんだ。一昨年、父親が亡くなり、母親は一人で暮らしている。僕が知らないだけで、いや知ろうとしないだけで、きっと母親にも不安や悩みがあるはずだ。
義父も、母親も、勝手に「元気だ」と思い込んで、ろくに連絡をしてこなかった。でも、二人とも確実に歳を重ねて老いていく。これからは、もっと気にかけようと思った。自分が後悔しないために。

受け取って欲しい この指輪を
受け取って欲しい この心を

義父が最後のフレーズを歌い終えたとき、時計は0時を回っていた。マイクを置く義父に「お誕生日おめでとうございます」と声をかけた。義父は驚いた顔で時計を見て「そうか、0時か」と穏やかに微笑んだ。「あら、お誕生日?おめでとう!」とママさんが声を上げる。「ありがとう」義父は照れくさそうに笑った。その笑顔が、照れ笑いを浮かべながらお礼を言ってくれた祖父の面影と重なった。あの頃の記憶が、鮮やかに蘇る。懐かしさと温もりに包まれながら、僕らは店を後にしたのだった。


#創作大賞2025
#エッセイ部門

いいなと思ったら応援しよう!