【創作】夜のプール
「聖人、どうだ? 友達はできたか?」
テーブルの向こうから、パパが僕に柔らかな笑顔を向けた。
普段、平日の朝にパパと顔を合わせることはほとんどない。大手建設会社で現場監督をしているパパは、毎朝僕が起きるよりも、ずっと早くに仕事へ行く。そして、夜は僕が眠った後に泥のように疲れて帰ってくる。
だから、今日みたいに珍しくパパと朝食を囲んでいる時間は、それだけで少し特別なものに思えた。
「転校してまだ一週間だよ。そんなにすぐに友達なんてできないよ」
トーストを齧りながら苦笑いを浮かべる僕の真正面から、硬く、鋭い声が飛んでくる。
「この学校で友達なんていらないわよ。どうせすぐに中学でお別れするんだから。ね、マー君」
流し台でサラダを取り分けていたママが、振り返りもせずに言った。その声には、一切の迷いも妥協もない。
パパは「そっか……」と、少し寂しい顔をしてコーヒーを一口すすると、腕時計にチラリと目を向ける。
「もうこんな時間か。それじゃあ、行ってきます」
そう言ってパパは、逃げるように家を出て行った。バタン、と静かにドアが閉まる。
「マー君はパパのようになっては駄目よ」
ママは僕の前にサラダの皿を置くと、諭すように言った。
「パパは良い人だけど、人が良すぎるの。だから、いいように使われて朝から夜遅くまで働きっぱなし。マー君にはあんな風になってほしくないわ。だからこそ、今から勉強を頑張らないとね。いいわね?」
「……うん、分かってる」
僕は小さく頷き、レタスを口に運んだ。
本当は、分かってなんていなかった。パパの仕事はカッコいいとずっと思っているし、新しい友達だって欲しかった。
だけど、小学六年生の夏という、この一番中途半端な時期に引っ越さなきゃいけなくなったのは、パパの会社の都合だった。
ママはそのことでパパを激しく責め立てた。引越しを受け入れる代わりに、僕をこの地域で一番の難関と言われる私立中学へ受験させることを決めたのだった。
ママのピリピリとした期待に応えることだけが、ギスギスした家の中の平和を保つ唯一の方法だと、僕は気付いていた。だから、大好きなパパとキャッチボールがしたいことも、新しいクラスの輪に入りたいことも、全部心の奥底に押し込んで、我慢してママの言う通りにしている。
学校での僕は、まるで透明人間だった。
新しい教室の喧騒の中、僕は教科書を開き、ひたすら次の塾の予習を進める。誰とも目を合わせず、誰の声にも耳を貸さなければ、クラスメイトと仲良くなることはない。そうすれば、ママを裏切ることもない。
「友達なんて、いらない」
僕は、自分にそう言い聞かせ、机の上のノートにシャーペンの先を走らせる。その時だった。
「マサト……だっけ? お前、今日の夜ヒマ?」
ふいに頭上から降ってきた人懐っこい声。驚いて顔を上げると、そこにはクラスメイトのヒカルが立っていた。ヒカルは、いつも男子の真ん中で笑っていて、僕とは対極にいる太陽のような存在。
「え? 今日の夜は……塾があるけど、どうして?」
突然のことに、僕の声は少し上ずる。
「お前、いつも勉強ばっかりしてるだろ? だからたまにはストレス発散した方がいいと思ってさ」
「ストレス発散? 何するの?」
ヒカルは悪戯っ子のような笑みを浮かべ、僕の耳元に顔を近づけて囁いた。
「夜の学校に忍び込んで、プールに入るんだよ」
「え? 学校に忍び込んでプールに!?」
思わず大きな声を上げてしまい、僕は慌てて両手で口を塞いだ。まわりの数人が、怪訝な顔でこちらを振り返る。
「シーッ! お前、声がデカいって!」
ヒカルは楽しそうに人差し指を口に当てた。
「な、なんのためにそんなこと……? 見つかったら怒られるよ」
「なんのためって、そりゃあ、面白いからに決まってるだろ!」
ヒカルはあっけらかんと言い放った。
普段の僕なら絶対に断っている。こんなことをすれば、ママに何を言われるか分からない。今よりもっと監視の目が厳しくなるに違いない。
でも……その瞬間、僕の頭に浮かんだのは、今朝のパパの顔だった。
ママに「友達なんていらない」と言われた時の、あの寂しげな、申し訳なさそうなパパの笑顔。
もし、僕が「友達ができたよ」と言ったら、パパはどんなに喜んでくれるだろう。自分のせいで息子を独りにさせていると責めているパパの心を、少しでも救えるんじゃないだろうか。
「……行く。僕も行きたい」
自然と口から出た言葉に、自分自身が一番驚いていた。
「よし! 決まりな!」
ヒカルは勢いよく僕の肩をパシッと叩くと「今日の昼休み、秘密会議だからな!」と言い残して去っていった。
その日の昼休み、ヒカルに連れられて体育館の裏へ向かった。そこにはいつもヒカルとふざけ合っている男子が三人集まっていた。みんな、普段の僕なら絶対に交わらないような、泥だらけになってサッカーボールを追いかけている奴らだ。
「こいつ、俺の友達のマサト。マサトも今日の夜、プールに行くから!」
ヒカルが僕の背中を押し、みんなに紹介する。
友達。その響きが、僕の胸の奥をじわりと温かくする。
「やるじゃん! お前そういうの来ないタイプだと思ってた!」
「よろしくな、マサト!」
彼らは僕の予想に反して、ごく自然に僕を受け入れてくれた。塾の模試の順位なんて関係ない、ただの『マサト』として。
その日の夜。時計の針は八時を指そうとしていた。
僕は「用事があります」と先生に嘘をつき、水着とタオルを詰め込んだリュックを持って塾を出る。僕は学校へと向かって駆け出した。心臓がうるさいくらいに脈を打つ。汗がとめどなく流れていく。シャツが身体にぴったりとへばりつくが、それでも僕は走る足を止めなかった。
月明かりに照らされた校門の前には、既に影が四つ集まっていた。
「ごめん! 待った?」
「大丈夫だ。俺たちも今来たところ。よし、じゃあ行くぞ!」
ヒカルを先頭に、僕たちは校門の格子をよじ登った。触れた手から鉄の冷たさが全身に伝わる。まるで、泥棒にでもなったかのようなスリルと不安で、指先が震えた。
見慣れた昼間の学校は、夜になると別の生き物のようだった。静まり返った校舎の脇を、足音を忍ばせてコソコソと通り抜け、僕たちはついにプールサイドへと辿り着いた。
昼間の太陽の熱をかすかに残したコンクリートの向こうで、水面が月光を反射して、まるできれいな宝石のようにキラキラと輝いている。
「さあ、入るぞ!」
ヒカルの合図で、みんなが一斉に服を脱ぎ始めた。
僕もリュックから水着を取り出そうとした__その時、信じられない光景が目に飛び込んできた。
「え……!?」
ヒカルたち四人は、パンツまで全部脱ぎ捨てて、完全に全裸になっていたのだ。
「な、何で全裸なの!?」
驚愕する僕を見て、ヒカルたちはゲラゲラと大笑いする。
「当たり前だろ! 水着なんか持って帰ったら、親にバレるじゃんか!」
「あ……」
初歩的なミスに気付いて茫然とする僕にヒカルが言葉を投げる。
「マサトも全裸になれよ!」
「いや、でも、僕は、裸はちょっと」
「友達だろ! 何恥ずかしがってんだよ! ほら、脱げ脱げ!」
友達という言葉が、僕の背中を強烈に後押しした。
もう、どうにでもなれ。
勉強や将来のこと、そしてママが望む「良い子」の殻なんて、今ここで全部脱ぎ捨ててやるんだ。
僕はシャツとズボンを脱いで、最後にパンツを勢いよく脱ぎ捨てた。夜の少しヒンヤリとした風が全身に吹き抜ける。恥ずかしさなんて、一瞬でどこかへ吹き飛んでしまった。
「うおおお!」
僕たちは叫びながら、つぎつぎと夜のプールへと勢いよく飛び込んだ。
ザブーーーン!!
大きな水音が夜の静寂を破る。
水の中に潜った瞬間、耳に届くゴボゴボという水の音。そして水面から顔を出したとき、目の前には、見たこともないほどに広がった夜空と、水飛沫の中で大笑いしているヒカルたちの顔があった。
「冷てえええ!」
「最高だな、マサト!」
「うん……最高だ!」
冷たい水が、僕の身体にこびりついていた息苦しさを、すべて綺麗に洗い流していくようだった。全裸で水を掛け合い、バシャバシャと泳ぎ回る。
ただただ、可笑しくて、楽しくて、涙が出るほど気持ちがいい。
学校に忍び込んで全裸でプールに入るなんて、これまでの僕には考えられないことだった。ママが見たら気絶するかもしれない。
でも、僕の心の中に後悔は微塵もなかった。
明日、パパに会ったら一番に言おう。
「僕、最高の友達ができたよ」って。
水面を叩く僕たちの笑い声は、夏の夜の風に乗って、どこまでも、どこまでも響いていった。
おしまい
***
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コッシー
