【奥さんに初めて髪を切ってもらった日を僕はきっと忘れないだろう】
「頭を借りたいんだけど」
8月某日、リビングでダラダラしていた僕に奥さんが唐突に声を掛けてきた。頭を借りたい__この言葉がトリガーのように過去の記憶が僕の頭の中でフラッシュバックする。
ちょうど1年くらい前に、僕は奥さんの髪染めの実験台となり、”鉄腕アトム”にされたのだ。あの苦い記憶。あの時と同じセリフに僕は身構えた。
「違う違う、髪染めじゃなくて今度はこっちだから」
そう言って奥さんが見せてきたのは、美容師さんが使っているような鋏だった。

奥さんは昨年から美容学校に通っている。2年目の今年から本格的にカットの授業が始まった。やはりカットには相当な技術がいるみたいで、奥さんはかなり苦戦していた。しかも40歳を過ぎてから学生となった奥さんは、他のクラスメイトと比べてカットレベルが劣っているようだった。
きっと奥さんは夏休みの間にスキルアップをして、少しでもクラスメイトのレベルに近づこうとしているんだと思った。偉い。そんな奥さんために頭の一つや二つ黙って差し出すのが夫の務めだろう。
「夏休みに自主練か!偉いね!」
「自主練?何言ってんの?〇〇くん(息子)で失敗したくないだけだよ」
なるほど、どうやら今度はヘアカットの実験台のようだ。あくまで本番は息子のカット。いきなり息子をカットして失敗したら、息子がかわいそうだもんね。失敗するならそりゃ息子より夫だろう。息子のために頭の一つや二つ黙って差し出すのがパパの務めだろう。
もうカットに失敗して絶望する未来しか見えないのだが、実のところ僕は奥さんからカットの練習を頼まれることを想定していた。最近では学校から帰ると口グセのように「マジでカット難しい……」と嘆いていた。むしろ、そろそろ奥さんから声がかかるだろうと思って、あえて美容院には行ってなかったのだ。
そんな僕の髪の長さがこのくらいだった。

「頭を貸すのは良いけど、どれくらい切るの?」
そう僕が尋ねると、奥さんの瞳の奥がキラリと光った。
「フフフ、秘密兵器があるんだよね」
奥さんは得意げにそう言うと、大きなスクールバッグから何かを取り出した。それは__生首だった!!……と思ったら、練習用のマネキンだった。

「うわ!ビックリした!急に不気味なモン出さないでよ」
驚いてる僕を気に留めず、奥さんはマネキンを使って丁寧に説明し始めた。
「中をツーブロックにして、サイドは耳くらいの長さに切ろうと思ってるんだよね」
その姿が本物の美容師さんのようで、頼もしく映った。僕は奥さんの提案に抗うことなくただ頷く。そして姿見の前に座らされると、上からヘアカット用のケープを被った。鏡に映る自分の姿が、まるでお母さんに散髪される小さな子供みたいで少し滑稽に見えた。

僕の髪を入念にチェックする奥さんの表情がだんだんと強張っていく。そしてコームと呼ばれるクシで僕の髪を掬い上げると、急に弱々しい声を出した。
「なんか緊張してきた……」
「いや、今から切るぞっていう直前にそのセリフはやめて」
「失敗したらゴメン!」
「え?ちょっと待っ__プツッ…ジョキン。
僕の返答を待つことなく奥さんの第一刀が僕の髪に入った。重々しい音と共に、2㎝くらいの長さの髪がハラリと僕の目の前に落ちる。ほんの一秒前まで僕の一部だった髪を見つめながら、なんとなく僕はこれまでのことを思い出していた。
__初めて奥さんから「将来は美容系の仕事をしたい」と聞いたのは、もう十年以上も前のことだった。目をキラキラさせて夢を語る彼女は、眩しくてカッコよかった。彼女の夢が叶うことを僕も願っていた。結婚して2年後、彼女が本格的に夢を叶えようと動き出そうとした時に息子を授かった。息子が生まれ、そして障害が分かり、僕らの生活は息子一色に染まった。夢どころではなくなっていった。
チョキ……。チョキ……。一回一回鋏を入れる度に確認しながら慎重にカットしていく。真剣な表情で髪をカットする奥さんに、僕は出来るだけ頭を動かさないように身を固めた。
__慌ただしく過ぎていく日々に、僕は彼女の夢のことをすっかり忘れてしまっていた。だけど彼女の中で夢はまだ生きていた。息子が小学4年生になったある日、「来年さ、美容専門学校に行こうかなって」と彼女は言った。突然のことに僕は驚いた。でもそれ以上に嬉しかった。彼女の夢がついに動き出すんだ、そう思った。ちょうどその頃、息子の特別支援学校への転校が決まった。彼女と息子、同じ時期に環境が変わることに不安もあったが、僕らは家族で乗り越えていこうと誓い合った。彼女は44歳で学生になった。
チョキ、チョキ、チョキ。慣れてきたのか少しずつ鋏を入れるスピードが速くなっていく。髪を切る音がリズミカルで心地良さを感じる。パラパラと落ちる髪の毛を黙って見つめた。
__入学して1ヵ月後の5月。通っていた美容専門学校が経営不振により閉校することが突然決まった。青天の霹靂だった。閉校することだけが決まって、後のことは「まだ協議中です」と学校側は繰り返した。先のことが全く分からず、不安を抱えたまま日々を過ごした。夢を諦めてもおかしくない状況だった。それでも彼女は愚直なほど真面目に学校に通った。他の生徒がサボる中で、真剣に授業を受ける彼女の姿に胸が痛んだ。絶対に美容師になって欲しかった。頑張っている彼女が報われないのはおかしいと思った。
シュッシュッと霧吹きで僕の髪を濡らす。コームで髪を整え長さを確認すると、奥さんは再び鋏を動かした。繰り返し行われるそのテキパキとした動作がプロみたいに見えて「なんか美容師みたいじゃん」とバカなことを僕は口した。奥さんは「変な事言うと刺すよ」とコームの先っぽを笑いながら僕に見せる。なんなら、僕のおでこをちょっと刺した。ちょっと痛い。
__懸命に頑張っていた彼女のもとに朗報が届く。6月からの受け入れ先が決まったのだ。そこはいくつもヘアサロンを経営している大手の美容学校だった。たくさんの美容師を輩出していて、授業がとても厳しいと有名な学校だったが、彼女は迷わず入学を決めた。僕も彼女の意志に反対はなかった。6月。息子に続いて、今度は彼女が転校した。
チョキチョキパッツン、チョキチョキチョキ。迷いなく鋏が動く。まるで馴染みの美容師さんにカットしてもらっている感触だった。本当に美容師になるんだなぁ……と実感して、胸がいっぱいになった。ちょっとだけ泣きそうになる。
__若者たちに交じって厳しい授業を彼女は受けた。毎日ヘトヘトになって帰宅した。「本当についていくのが大変!」と嘆いていたが、その顔は充実感でいっぱいだった。ハロウィンパーティやクリスマスフェスなど、20歳以上離れたクラスメイトと一緒に、学校行事を楽しむ彼女が微笑ましかった。そして、少し羨ましく思った。
「よし……。終わり!どう?」
奥さんが鋏を置いた。僕は姿見に映る自分を見つめた。変なところはどこにも見当たらなかった。それどころか、かなりいい感じにカットされていると思った。奥さんのカット技術に改めて驚きと、尊敬の念を抱いた。


このまま順調にいけば、奥さんは来年の3月には美容師の資格を取るだろう。4月からどうするかは、まだ具体的には決まっていない。ただ、この先の僕の髪は奥さんが切っていくだろう。奥さんに髪を切ってもらうことに、次第に慣れていき、それが当たり前の日常になっていく。
でも、僕はきっとこの日を忘れない。初めて奥さんに髪を切ってもらったこの日を忘れないだろう。奥さんが夢を叶えるために努力してきたことを実感したこの日を。コームの先っぽで刺されてちょっと痛かったこの日を。奥さんを心から誇らしく思ったこの日を。
僕は一生忘れない。たとえ奥さんが忘れたとしても。
「めちゃくちゃ良い感じだよ」
「そう、良かった。じゃあ5000円になります」
「いやお金取るの?!」
「当たり前でしょ。こちとらプロだよ」
いやまだプロじゃないだろ……と頭の中で思ったけど、口には出せなかった。奥さんに切ってもらった髪型に満足している自分が、確かにいた。
「ほら、早くお代をください」
そう言って笑う彼女の目は、そこそこ真剣だった。
おしまい
【高橋優/非凡の花束】
