僕が「推し活」という言葉を使わない理由
「推し活」という言葉に、前から違和感がある。
もちろん、誰かを応援すること自体を否定したいわけではない。
僕も音楽が好きだ。
ライブに行くし、Tシャツも買うし、レコードも買う。
世間一般で言えば、十分「推し活」と呼ばれる行動をしているのかもしれない。
でも、不思議なことに、自分では一度も「推し活をしている」と思ったことがない。
最近考えていて気づいたのは、「何にお金を払っているか」の違いなのかもしれない。
同じライブに行き、同じグッズを買っていても、人によって見ているものが違う。
ある人は、「推し」という人そのものを応援することに喜びを感じているのかもしれない。
もちろん、それが悪いことだとは思わない。
誰かを応援することは素敵なことだし、その熱量が音楽文化を支えている側面も間違いなくある。
ただ、僕の場合は少し感覚が違う。
僕は「人」を応援しているというより、「その人が生み出した表現」に惹かれているのだと思う。
ライブのチケット代は、「応援代」というより、「素晴らしい演奏への対価」だと思っている。
レコードを買うのは、「推しだから」ではなく、「この音を手元に置いておきたいから」とか、「サブスクでは味わえない”音”を楽しみたいから」だ。
Tシャツを買うのも、「応援の証」ではなく、「このバンドのデザインやセンスが好きだから」だ。
だから、新作のアルバムが微妙かなと思えばレコードは買わないし、デザインが気に入らなければTシャツも買わない。
僕は「素晴らしい音楽」や「心を動かされる演奏」、「かっこいいデザイン」にお金を払っているのだ。
だから、同じ行動をしていても、「推し活をしている」という感覚にならないのかもしれない。
好きなものにお金を払う。
それは消費というより、感謝に近い。
「こんなにも良い表現を生み出してくれてありがとう。」
その気持ちの延長線上に、ライブがあり、Tシャツがあり、レコードがある。
「推し活」という言葉に感じていた違和感の正体はここにあるのかもしれない。
僕は誰かを“推している”というより、その人が生み出した表現に心を動かされている。
そして、その価値に対してただ正直でいたい。
