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答えのない時代に、答えを持っていない自分の愛しかた

「僕は答えを持っていない」
そんな考え方が、いつしか当たり前になっていた。
これは「考えを持っていない」という意味ではなく、「人生において唯一解はない」という意味で。

けれど同時に、この「答えを持っていない」という曖昧な状態が、とても不健康に働く可能性があることも最近わかってきた。ちょっと体調を崩してしまえば、「答えを持っていない=不正解」という、自己否定に陥りがちになってしまう。

僕は答えを持っていない。
けれどずっと、探し続けている。

自分を表すとすれば、この状態がきっと正しい。そして、ない答えを探し続けるというのは本当に体力のいることで。
だから最近思うのは、いままで生きてきた自分の過程を、一旦答えとしておいて、それをそのまま、正解だよと包んであげることが必要なんじゃないだろうかと。それが、自分を愛するということなんじゃないかと。自分のいままでの過程を認めてあげて、少しだけ眺めてみる。そうすることで、また新たな答えを探しにいける。30代になったいま、そんなことが必要なんじゃないかと思うようになった。

ちなみにこの「僕は答えを持っていない」という考えに至ったのは、振り返ってみると中学時代に読んだ小説『ぼくは勉強ができない』が原体験のような気がしている。
中2か、中3のころに初めて読んで、高1の頃の読書感想文をこの小説で書いたのを覚えている。感想文のなかで僕は「やむを得ない殺人というのもあるのだろうか」みたいなことを書いて、それに対して先生が「人を殺すことは絶対にいけません。なぜならいけないことだからです」と赤ペンを入れていたことが、いまでも記憶に残っている。
僕の感想文(800〜1000文字くらいだったかな)の中の一部分に、なぜこうも反応するのだろう?それは僕だって殺人を肯定はしない。けれど、世の中に多くある事件をひとくくりにはできないし、その動機について知りたい、考えたいと思って真面目に文章を書いていたのに、なんだかそれを否定された気がした。(しかも記憶違いでなければ、先生からのコメントはそれだけだったから、よけいに。)

小説『ぼくは勉強ができない』自体も、なにかと考えさせられる内容なのだけど、この読書感想文事件も相まって、10代の頃から「人生において唯一解はない」という考えが身についたのだと思う。

そこから転じて「僕は答えを持っていない」となったのは、唯一解がないからと、「自分らしく生きるにはどうしたらいいか」みたいなことをずっと追い求めていったあまり、気がつけば新卒で入った会社を5ヶ月で辞めて、そのまま限界集落に移住するという、かなり少数派な人生になっていたからで。
僕は僕自身の人生をどう生きたらいいのか、それこそ命を懸けて考え、動いている。けれどそれは僕の人生への答えであって、他の人にとって答えになるかはわからない。ヒントになることはあるかもしれないけれど、考えを押し付けたいとは思わない。だからなかなか、自分のいままでの過程を、認めてあげられずにいたのかもしれない。

いまでも、僕は答えを持っていないと思う。
けれど、ここまで来た過程は間違いではないし、ひとつの正解なんだと思う。それでいい。
そうやって、少しずつ包んであげる時間が必要なんだ。

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