映画評:女性の活躍を喜ぶオッサンはキモいのか?
最近改めて思ったけど、声に出しては言えない賛否両論になりそうな話。
「映画で女性の活躍を喜ぶオッサンはキモいか?」の問いについて私なりの意見を、ブルーギルや哲学や心理学の話を交えて解説していく。
映画好きのオッサンたちの気分を害しそうな内容だし、映画好きのオッサンである私自身もブーメランを喰らいまくる内容ではあるけど、こんな意見も大事だと思ったので書いていく。
「女性が活躍する映画を褒めるおじさん」のキモさについて
結論から言おう。キモい。
私もオッサンなので時々はそのキモさを噛み締め自覚してみるが、やはりキモい。
映画で「女性キャラの〇〇がカッコ良かった、美しかった!」と書くのはまだセーフだと思う。それは個人の感想であり、具体的なキャラクターに対する反応だからだ。
でも「女性キャラクターが活躍しているこの作品がたくさんの人に勇気を与える!」みたいな言説は割とキモい。
オッサンが「映画で女性たちが活躍するのを応援している!」と言ったり書いたりすることからは違和感が臭う。冷静に一歩引いてみると、女性にすり寄っている挙動が丸見えだ。
それはメスに擬態するブルーギル
動物行動学に面白い事例がある。ブルーギルという魚のオスには、正面から戦って縄張りを勝ち取る「正規オス」と、メスに擬態して正規オスの縄張りに入り込み、こっそり繁殖のチャンスを得る「スニーカーオス」がいる。
かなりキツい言い方になるが「女性の活躍を応援するおじさんレビュワー」とこのスニーカーオスとには通底するものがある。フェミニズムの語彙を使って女性の味方ポジションを取ることで、「安全な男」として認識されようとする。攻撃ではなく擬態による接近戦略。
本人に自覚がないケースも多いが、やっていることは古典的なモテの変奏だ。
別にネットで映画レビューしているオッサンたちが意識的に誰かにモテようとしているわけではないとは思うが、無意識の内にそんなポジションをとっているのでは? いいねも貰える。私も自分で文章を書いていて、よくうちあたい(心当たり)をする。
心理学ではこれに近い概念として「美徳シグナリング(virtue signalling)」がある。道徳的に正しい立場を表明すること自体が目的化し、実際の行動や思考の深度とは切り離された「正しさの演技」になる現象だ。
「女性の活躍を応援します」と言うおじさんのいくらかは、映画の中の女性キャラクターの具体的な判断や行動よりも「女性が活躍している」というカテゴリのほうを褒めている。キャラクター個人よりもカテゴリに重点を置いてしまっている。それはつまり、本当の意味で相手を見てない(だからモテないのかもしれないぞ)。
ちなみに最近ディズニー・ピクサーが多様性・DEIコンテンツから距離を置くと発表したが、これも同じ構造。マイノリティ女性の主人公に唯一無二の個性を与えるよりも、マイノリティ女性のカテゴリに重きを置いてキャラを作る本末転倒が起こり、コンテンツが微妙になってしまった反動だろう。
「味方の顔をした消費」という構造
ここからはなぜ褒めているのにダメなのかを徹底的に書いていく。
理由は、個人を見ずにカテゴリで括って褒めることと、個人を見ずにカテゴリで貶めることが構造的に同じだからだ。「女だから活躍してて偉い」は、裏返せば「女なのに」の変奏といえる。どちらも個人をカテゴリに還元してしまっている。
サルトルは「まなざし(le regard)」という概念で、他者を見る行為が本質的に相手を「モノ」として固定する暴力を含むと論じた。
映画レビューで「女性キャラが活躍していて素晴らしい」と書くとき、書き手のまなざしは女性キャラクターを「活躍する女性」という役割に固定している。その固定自体が、キャラクターが本来持っている複雑さを削ぎ落とす安易な消費行為になっている。
「女性が活躍する映画がもっと増えてほしい!」的な結論で終わるレビューでは、実は少し暴力的だ。キャラクターの固有性でなく「女性の活躍」という抽象的なスローガンに物語を回収させてしまっているからだ。
本人は褒めているつもりでも、往々にしてキャラの複雑さを捨象することにつながってしまう。
「当事者じゃない人間」の発言は必要、だが
確かに、何事においても当事者以外が当事者の権利を発信することは大事だ。男性が女性の権利について声を上げること、マジョリティがマイノリティの声を増幅すること。それで救われる人もいるし、歴史的に見ても、当事者だけでは届かなかった声が、外部の味方によって社会に届いた事例は無数にある。
しかし同時に、その発話行為の中に自分の欲望が混入していることを自覚しなければフェアではない。私も含めてだが、「味方をする自分」に酔っていないか?「女性の活躍を褒める男」というポジションが、ソーシャルメディアで「いいね!」を稼ぐための通貨になっていないか。
フロイトが「反動形成」と呼んだメカニズムがある。抑圧された欲望が、正反対の行動として表面に出る現象だ。女性への性的な関心や支配欲を内心に持っている人間が、それを意識に上らせたくないがために、過剰なまでに「女性の味方」を演じる。本人は本気で味方のつもりだが、エネルギーの源泉が抑圧された欲望である限り、微かな違和感がつきまとう。
レビューを読んでいて「なんかキモい…」と感じるとき、読み手はその反動形成の気配を嗅ぎ取っているのだと思う。
矛盾を抱えたまま書け、そして生きろ
じゃあおじさんは黙ってろという話かというと、そうではない。
必要なのは、自分のキモさを誠実に文章に残すことだ。「この映画の女性キャラに感動した。ただし、俺がこれを書いている動機の何割かは、彼女がかっこいい女だからであって、その視線自体がすでに消費かもしれない」。こんな一行があるかないかで、文章の誠実さは決定的に変わる。
そこまで直接的に書かなくても、自分の加害性のカードをやんわりと開示するのが本当のフェアネスではないだろうか。
矛盾を解消するのではなく、矛盾を抱えたまま発話する。
味方づらする文章より、「味方したい気持ちはやまやまだし、味方をすることはするが、自分の動機の数%は不純である」。そんな躊躇いと葛藤が香る文章の方が誠実だ。
何より、女性の味方のふりをして男性目線の価値観を植え付けてしまう言説を避けられる。
仄かな加害性の自覚がない言説は、長期的な目線で見ると女性が女性らしく生きていくのを妨げるだろう(はい。この文章もちょっとキモいですね)。
おじさんたちよ、あなたも私も女性キャラを消費するキモい人間だということを忘れずに、その矛盾をしっかり言葉に反映する誠実さを持とう。せめてブルーギルよりは自覚的でありたいものだ。
