その男、御曹司につき 第3話
帰宅ラッシュで渋滞した道を20分ほど走り、連れて行かれたのは、市内では指折りの老舗ホテルだった。泊まったことはないが、地元のテレビ番組では何度か見たことがある。
洗練されたラグジュアリーな空間は、テレビで見たときの何十倍も、建物も調度品もキラキラと輝いて見えた。
遼一のペースに合わせて速足でロビーを突っ切り、エントランスの手前にあるエレベーターホールからガラス張りのエレベーターで最上階まで上がる。入り口に立っていたギャルソンは遼一を見るなり深々と頭を下げ、名前も聞かずに案内してくれた。
暖色系の控えめな照明の店内も一面がガラス張りで、パノラマの夜景が拡がっていた。通されたのは一番奥の個室だった。
「ワインでいいか?お前も少しは飲めるだろ?」
「飲めるけど、弱いから、俺は味見程度でいいかな……」
遼一は少し不満げな顔をしたが、傍に控えていたウエイターに目配せする。優雅な手つきで、二人分のグラスに赤ワインが注がれた。俺のはグラスの3分の1くらい。
嫌いじゃないけど、外で飲むといつも途中で記憶を失くして起きたら鈴木さんの家なので、今日は絶対に最初の一杯だけにしておけと鈴木さんから口を酸っぱくして言われている。
最初に、アミューズブッシュという、居酒屋で言うところのお通しのようなものが出てきて、続いて運ばれてきた前菜は、『フォアグラのポワレでございます』とウェイターが説明してくれた。
「4年ぶりの再会を祝して」
ワイングラスを軽く掲げ、バランスのいい、整った顔が口元に笑みをはく。こんな台詞を、こんな大人びた顔で言うようになるなんて。俺が女の子なら勘違いしてしまったかもしれない。気恥ずかしさからまともに見つめ返すことができず、視線を手元のグラスへと落とす。
ひとくち含んだワインは、舌触りのいいまろやかな味だった。芳醇な果実の香りが一気に口内に広がる。ワインってこんなに飲みやすいのか……。
「口に合うなら、遠慮せずもっと飲んだらいい」
美味しいけど、カーっと身体が熱くなる感覚はビール以上だから、アルコール度数はそれなりに高そうに思える。
「すごく美味しくて飲みやすいけど、酔いそうだし、あとはお水で大丈夫だよ」
婉曲に断ると、ナイフとフォークを持ち上げかけていた向かいの手が、宙で止まった。
「あの男……、鈴木さんと宅飲みしたりしてるんだろ?だったら、多少は飲めるんじゃないか?」
「まぁ、鈴木さん相手だと、つい気が緩んで飲みすぎてしまうけど……。今日は鈴木さんがいないし、酔って遼一に迷惑かけたくないから……」
「それは……、あの男になら迷惑かけてもいいと思ってるってことか?」
遼一の目の色が変わった気配を察し、俺は自身の軽口を後悔した。普通に考えたら、お酒を飲んで目上の人に迷惑をかけるなんて、社会人としてありえない。遼一にも軽蔑されたのだろう。
「そ、そうだよね……。社会人としては、駄目だよね……。俺、長男で今まであまり人に甘えたことがなかったから……。鈴木さん、面倒見がいいから、つい弟気分で甘えてしまって……」
遼一が、持っていたナイフとフォークをテーブルの上に戻した。
「いつも、ただ酒を飲むだけか? それ以外のことも何かするのか?」
何故そんなことを訊かれるのかと不可解に思ったが、その真剣な眼差しを前にして、嘘をつくわけにもいかない。
「いつも酒盛りを始める前に、ちょっとした運動はしてるけど……」
「はあ?運動だと⁉」
遼一が急に大きな声を出したもんだから、近くに立っていたウェイターが、ビクッと身体を硬直させた。なんだ?なんか俺、おかしいこと言ったか?
「それはどんな運動だ?」
「どんな運動って……」
実は三十二歳にして未だ独身の鈴木さんは、生粋のアイドルオタクだ。だからいつも鈴木さんちに行くと、アイドルのコンサートの映像を見ながら、オタ芸ってやつを一緒に練習させられる。
「かなりマニアックな運動なんで……、なかなか口では説明しにくくて……」
探るような目で俺をじっと見ていた遼一が、意を決したように口を開く。
「それは……、服を着てする運動か?」
「え?そんなの当たり前じゃないか」
むしろ服を着ないでする運動ってなんだよ。乾布摩擦か?
「……服を着てるんなら……いい……」
話の流れがよくわからないけど、どうやら遼一は納得してくれたようだった。少しホッとした顔で食事を始めた彼に倣い、俺もナイフとフォークを手に取った。
遼一が勧めてくるワインを結局は断りきれずに、前菜のあと、スープ、魚料理と続き、肉料理である和牛ヒレ肉のパイの包み焼きが来る頃には、俺はいい感じにふわふわで楽しい気分になっていた。
「薫……、俺はずっと前から、お前に訊きたいことがあったんだ」
それまでの、互いの仕事の話やら同級生の話をしていたときとは異なるやけに重々しい口ぶりで、遼一が切り出した。どこか悲哀を感じさせる眼差しが、じっと俺を見つめている。
「訊きたいこと?」
ただならぬ気配を感じつつも、アルコールの所為で、深刻さに欠けた、間延びした声になってしまう。
「どうして……、約束を破ったんだ?」
「やくそく?」
「卒業式の日に……交わした約束だ」
アルコールで回転の遅い頭でも、「卒業式の約束」と言われて、何のことかはすぐに思い出せた。思い出せたというより、忘れられなかったと言ったほうが正しいかもしれない。ただ、その前の遼一の質問については、言われている意味がよくわからなかった。
「卒業式の日、携帯電話を買ったら、一番に俺に連絡をくれると言ったよな?どうして一度も連絡をくれなかったんだ?」
高校時代、クラスで携帯電話を持っていないのは、俺を含めて数人だった。家には固定電話を引いていたけど、電話代がかかるし周りに家族もいるから、何か用事があるときしか電話はできない。パソコンもないから、当時はメールアドレスも持っていなかった。
だから卒業式の日、4月から東京の大学に行く予定の遼一と約束を交わした。大学に入ってバイトをして、念願の携帯電話を買ったら、一番に遼一に電話をすると。
「俺、約束破ってないよ。電話したよ?初めて携帯電話を買ったとき、一番に遼一に」
俺の一挙一動を観察するようだった鋭い眼差しが、虚を衝かれたように軽く見開かれる。
「電話したって……、いつの話だ?いつ電話したんだ?」
「大学2年の冬だよ。遼一がラグビーの大学選手権で優勝しただろ?あの日の夕方に、お祝い兼ねて電話したんだ」
本当はあの日は、東京まで行き、ラグビーの決勝戦を現地のスタジアムで観戦していた。優勝の興奮冷めやらぬその日に電話したのは、当日は無理でも、翌日か翌々日でもいいから、少しだけでも会ってもらえないかと秘かに期待したからだった。時間を作ってもらえるのなら、それまで東京見物をしながらネットカフェにでも泊まる予定だった。
でも、ただでさえ友達の多いやつだから、大学に入って更に交友関係が拡がり、俺のことはもう友達の枠から外してしまっているかもしれない。その覚悟もしていたから、携帯電話が一度繋がらなかっただけで早々に諦めてしまった。
「なっ……、大学2年の冬って……、何で携帯一つ買うのに、そんなに時間かかんだよ!大学生になったらバイトして携帯買うって言われたら、4月か5月にはとっくに買ってるって思うのが普通だろ!何で2年近くかかって、しかも優勝した日に電話してくんだよ⁉」
遼一の顔と声には、怒りが垣間見える。何でちゃんと約束を守った俺が怒られなきゃいけないんだと思ったら、俺も無性に腹が立ってきた。
「遼一は大学の授業料がいくらかかるか知ってるか?年間五十万以上かかるんだぞ!それを奨学金とバイト代で賄って、教科書代とか、レポート書くのにパソコンもいるし、そういうのに使ってたら、なかなか携帯を買う余裕がなかったんだよ」
高校時代は進学校で学校からバイトを禁じられていたし、小遣いだけで携帯を持つ余裕はなかった。大学生になって、入学金は積み立てていた学資保険で母が払ってくれた。一つ下に弟と、その二つ下に妹もいたから、それ以上の負担はなるべくかけたくなくて、授業料や教材費は何とか自分でやりくりして、どうしても足りないときだけ母に助けてもらっていた。携帯電話を持てば、月々の通信量だってかかる。それも含めてようやく金銭的に余裕ができたのが、大学2年の冬だったのだ。
遼一が一瞬、ばつの悪そうな顔をする。だがすぐに膨れっ面に戻り、納得がいかない様子で口を開いた。
「でも……、彼女と旅行に行く金は……、あったんだろ?」
「彼女と旅行って……、いったい何の話だ?」
「大学一年の夏……、彼女と旅行に行ってたんじゃなかったのか?」
「大学1年の夏」と言われて思い出すことは、一つしかない。大学1年の夏、遼一は岡山に帰省していた。それを俺が知ったのは、遼一が東京に戻ってだいぶ経った、夏休み明けのことだった。同じ大学に通っていた遼一の元カノが、たまたま一緒だった般教の講義のあと話しかけてきて、夏休みに遼一に呼び出されてデートしたことを自慢げに教えてくれたのだ。
卒業式の日、『携帯電話を買ったら、一番に遼一に連絡をする』と俺が約束したかわりに、遼一も俺に言ってくれた。『岡山に帰るときは必ず薫に会いに行くから』と。だから彼女の自慢話を聞いて、1年間だけクラスメイトだった男友達より元カノを優先するのは当然だとは思いつつも、男の友情なんてそんなもんかと少し寂しい気分にもなった。携帯を持たなくても遼一の番号は知っていたから、連絡しようと思えば自宅の電話から定期的に連絡をすることはできた。それをしなかったのは、夏休みのその出来事がしこりのように心に引っかかっていたからだった。
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