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鶴ヶ城籠城戦 〜歴史を歩く・会津戦争〜

鶴ヶ城/ 会津若松
会津戦争は最終決戦は鶴ヶ城籠城戦でありました。実に33日間もの籠城でした。

21日に母成峠を破られ、23日にはもう会津若松市内になだれこんだ新政府軍。
主力が守っていたのは別の場所で、虚をつかれる形での進軍なので、このスピード感では全く準備する時間はなかったのがわかります。鶴ヶ城籠城は最後の手段の愚策でしかないので、そんなことは計画していなかった、ということなのでしょうか。

市内は大変なパニック状態になっていました。
籠城の準備をしていなかったので、急遽、米など兵糧が運び込まれたものの、人夫がたりず、運搬できたのはごくわずか。全重臣が城に招集され、大混乱になりました。
家に火を放って自決する者、戦うために城に向かう者、中でも病人は自刃した者やお堀へ身を投げる者など、地獄絵図の様相だった模様。

主力部隊は白河口、日光口、越後口に出ていたため、最初城内には100人ほどしか銃を撃てるものはいなかったようです。 幸にして敵軍も急ぎ攻めてきたため、城内の手薄なことは知らず、討ち入っては来ませんでした。ですが、4ポンド砲の射撃はあり、吹き飛ばされる人も多くいました。

お城の中には民間人や女子供もたくさん避難しました。いざという時は避難できない者は自刃する事になっていた家も多かったようで、城に駆けつけた者たちは、自分の屋敷で戦えない年寄りや子供を殺してから来た者もたくさんいたそうです。通りには命を落とした人たくさん倒れていて、血がぬらぬらと流れてくる。駆けつけた城では砲弾が打ち込まれて、体の一部を吹っ飛ばされる人たち。

▲の所までが新政府軍のこられた場所。駆けつけた主要人物の家。


また、お城の裏側に位置する天神口では60歳以上の隠居組が刀と槍で新式の銃を持つ精兵と戦いました。命を顧みずに引きつけた敵に突進するという方法で、まさに忠魂のみで敵を退却させました。60代70代の老兵といえど、命を捨てる事に躊躇がない姿勢に敵も諦めざるを得なかったようです。
そしてこの天神口から25日には白川口で戦っていた内藤助右衛門率いる精鋭1000が入城し、日光口で戦っていた山川大蔵も入城して、籠城戦の構えを作ることができました。

最終的に約3000の兵、婦女子・老人を入れると5000が籠城することになります。


鶴ヶ城の籠城戦は兵法で言うなら愚策中の愚策。援軍もないし兵糧もない。
どのみち最後は敗北しかなかったのではないでしょうか…
それでもこの道へ追い込まれてしまった会津藩は先読みができなかった、、とも取れるし、目まぐるしく変わる時勢について行かれなかったようにも思えます。

会津藩には十五ヶ条というものがあって、礼儀作法など、守るべき掟が厳しく決められていました。先祖の保科正之が1668年に作った御家訓でしたが、真面目な人たちはこれを指針に生きていたことが裏目に出てしまった、とも取れます。
200年の間に全く違う世界になっていた、それが幕末だったのでしょう。  <続く>

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