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白虎隊と自刃の顛末 〜歴史を歩く・会津戦争〜

会津藩は年齢別に分けた隊を組織していて、それぞれ玄武・朱雀・青龍・白虎とし、15-17歳の1番若いグループが白虎隊。総勢およそ300人の6隊から構成されていました。そのうち、白虎二番士中隊が飯盛山で自刃した部隊になります。

1869年8月21日、母成峠から新政府軍が圧倒的な勢いで攻めてきた知らせを受けて、翌日22日午後、飯盛山の麓にある滝沢本陣に松平容保自らが出陣する際、白虎二番士中隊(以下白虎隊)は日向内記に率いられて容保を護衛しました。
そして援軍要請により、白虎二番士中隊は出陣します。秋雨の中、戸ノ口原の要地に夜を徹して土を積み上げて壁を築きました。夜、日向内記が他の隊長との打ち合わせに出かけたきり、敵に遭遇して戻れなくなってしまいます。
戦闘経験もない平均16歳の少年隊が初手から統率者を失ってしまうのです。真っ暗闇の中で、少年たちは父母の事を思いながら、息を潜めてやり過ごしたのではないでしょうか。

翌朝17歳の篠田儀三郎が指揮をとり、前進し、新政府軍と遭遇します。武器の射程圏が全然違うため、引き付けておいて一斉射撃をしました。この戦闘で、白虎隊の伊東悌次郎(17)、池上新太郎(16)、津田捨蔵(16)の3人が亡くなったと言われています。
新政府軍の猛攻は止まらず、霧雨の中無我夢中で2km程退却した白虎隊は、散り散りになってしまったが、17人が残りました。銃撃戦の最中、隊士の永瀬雄治(16)が腰の辺りを撃たれてしまい、周辺を熟知していた少年たちは、雨の中、戸の口堰洞穴へ続く水路に逃げ込みました。そして腰まで水に浸かりながら、暗闇の水路の中を飯盛山中腹の厳島神社まで逃げ延びたのです。

戸ノ口堰洞穴 この小さい穴に続く水路を通って逃げてきた

戦況を確認するために、飯盛山の中腹から城の方角を見るとすでに新政府軍が到達し、街の至る所から火の手が上がっていました。彼らは山を下りて城へと援軍に向かうか、ここで死ぬかの議論を行った末、自刃することを選んだのでした。

長らく城が燃えていると勘違いして自刃した説が有力とされていましたが、平成20年に見つかった白虎隊生き残りの飯沼貞吉の手記「白虎隊顛末記」に、自刃の経緯が「敵に捕えられ屈辱を受けたら主君にも祖先にも申し訳ない。潔く自刃して武士の本分を明らかにすべきだ。」という結論に定まった、と記されています。まだ年若い少年たちが、総勢16名、自ら命を絶つという悲劇はあまりにも有名な話です。

白虎隊士の像 目線の先に鶴ヶ城がある


たった1人、飯沼貞吉少年は通りがかった足軽の妻ムメに助けられ、長岡藩の軍医阿部宗達の手によって一命を取り留めました。そして楢崎頼三という長州藩士に引き取られ、楢崎の領地である小杉(現在の山口県美祢市)に連れていかれ、養育されることになります。

一体どういう経緯で長州藩の楢崎が敵である会津の少年を養育することになったのでしょうか?
幾つかの研究・解説書によると、貞吉が自刃の失敗という心の傷を負い、殆ど外出もせずにいることを聞き知った楢崎が、貞吉の心情を哀れんで長州に伴ったのではないか、という説があるそうです。
当時の社会的背景を考えたら、自刃の失敗など生き恥を晒す事に他なりません。貞吉少年が死んでいった白虎隊の少年の家族らとも親しい間柄にあったことを想像しただけで、このまま会津の地で生きる道が見えないからこそ、楢崎頼三が書生として連れ帰ったように考えられますね。
楢崎は白河口の戦いでは右手首に銃弾をうけ負傷したとの記述があるので、治療の際に同じく治療中の貞吉を知ったのかもしれません。

頼三が厚保に戻ってきた時に、彼の乗る馬のくつわを取っていた少年が飯沼貞吉であったそうで、村人たちが総出で開いた祝いの席で、酒に酔った村人が「生き残ってよかったなあ」と言うと、貞吉がこの言葉に傷ついて土間で自刃しようとした、というエピソードが残っており、頼三が「今、日本には外国船が押し寄せており、会津・長州と言っている場合ではない。日本人は団結して国を強くしなくてはならず、その担い手は若者だ。国の役に立てるよう勉強せよ」と言い聞かせたという話も厚保に残っているそうです。

飯森貞夫さん(改名)

頼三の言葉に従い、後年飯沼貞吉は下関で電信技士として働き、工部省電信建築技師の重鎮にまで登り詰めます。まさに日本の電信電話の発展に寄与し、正五位勲四等を受章しています。貞吉は死ぬことよりも生き残る事の方が何倍も難しいという事を身をもって知った人間だと思えました。

楢崎頼三は維新後の明治3年、兵部省の命でパリへ留学しますが、結核で若くして亡くなりました。パリのモンマルトルにお墓があるんだそうで、享年31歳でした。

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