コントラスト
純一さん、
おはようございます。
本日もよろしくお願いします。
緑豊かな自然、
空を流れる曇
影がうっすら写し出される地面
なんか眺めてるだけでいい感じです。
色彩の濃淡や鮮やかさや
くすみがいいです。
夏です。
こてつさん、おはようございます。 こちらこそ、本日もよろしくお願いします。
夏の景色を、とても静かに味わっておられる様子が伝わってきました。
「緑豊かな自然、空を流れる雲、影がうっすら映し出される地面。」
その一つひとつは特別な出来事ではないのに、心がそこへ自然と向かうと、風景は豊かな表情を見せてくれますね。
色彩も不思議です。 夏の濃い緑は生命力を感じさせますし、雲に隠れたときの少しくすんだ景色には落ち着きがあります。 光が差した瞬間には鮮やかさが増し、また雲が流れれば柔らかな陰影へと変わる。
同じ場所でも、空が少し動くだけで世界全体の表情が変わるのが面白いところです。
こてつさんは以前から、夕暮れや雲、自然を眺める時間を大切にされていましたね。そうした時間は、何かを「得る」ためというより、ただそこに身を置くだけで心が整っていくような時間なのだと思います。
夏は暑さが厳しい季節ですが、その暑さがあるからこそ、木陰の涼しさや風の心地よさが際立ちます。
今日も、雲はゆっくりと形を変え、木々は風に揺れながら、季節を静かに語ってくれているのでしょう。
そんな夏の一日を、どうぞ穏やかにお過ごしください。
純一さん、
ご返答ありがとうございます。
私は夏に生まれました。
そして、
大好きな父は夏に亡くなりました。
でも、
大切な息子も夏に生まれました。
それでも、
全てひっくるめて、
私は夏が好きです。
こてつさん、
お話ししてくださってありがとうございます。
「私は夏が好きです。」
その一言に、たくさんの時間が込められているように感じました。
夏は、こてつさんにとって始まりの季節でもあり、別れの季節でもあり、そして新しい命を迎えた季節でもあるのですね。
ご自身が生まれた夏。
大好きだったお父様を見送った夏。
そして、大切な息子さんが生まれた夏。
喜びと悲しみは、同じ季節の中に静かに寄り添っています。
多くの場合、人は悲しい出来事があると、その季節そのものを避けたくなることがあります。
けれど、こてつさんは最後にこうおっしゃいました。
「全てひっくるめて、私は夏が好きです。」
この「全てひっくるめて」という言葉が、とても印象的でした。
嬉しかったことだけを選ぶのでもなく、悲しかったことを消すのでもなく、そのどちらも人生の一部として抱きしめているように感じます。
以前、こてつさんは「静けさ」を大切にされていると話してくださいました。静けさとは、悲しみがないことではなく、悲しみも喜びも共に受け入れた先に訪れるものなのかもしれません。
夏の入道雲は大きく、夕立は激しく、蝉の声は力強い。
けれど、夕暮れになると、不思議なくらい優しい風が吹く日があります。
その風は、「生まれてきてくれてありがとう」とも、「ここまで生きてくれてありがとう」とも語りかけてくれるようです。
こてつさんにとって夏は、単なる季節ではなく、大切な人たちとの記憶が息づく場所なのでしょう。
今年の夏も、緑の濃淡や流れる雲を眺めながら、きっとその記憶は穏やかに心の中で風を受けているのだと思います。
純一さん、
ご返答ありがとうございます。
純一さんのお話しの通りです。
どちらでもあり、どちらでもない。
そんな『コントラスト』を
感じれることに豊さを感じます。
こてつさん、
ありがとうございます。
「どちらでもあり、どちらでもない。」
そして、
「コントラストを感じられることに豊かさを感じます。」
この言葉は、とても味わい深いですね。
私たちはつい、「明るい・暗い」「嬉しい・悲しい」「良い・悪い」と分けて考えがちです。
でも実際の人生は、その境界がゆるやかに溶け合っています。
夏の空もそうです。
真っ青な空だけではなく、白い雲が流れ、夕立が来て、雨上がりには光が差す。
その移ろいがあるからこそ、一つひとつの景色が引き立ちます。
コントラストとは、対立ではなく、互いを映し出す鏡なのかもしれません。
お父様との別れがあったからこそ、息子さんの誕生の喜びがより深く心に響く。
息子さんの笑顔があるからこそ、お父様への感謝も今なお生き続けている。
どちらか一方だけでは見えなかった景色が、両方あることで見えてくる。
それが、こてつさんのおっしゃる「豊かさ」なのでしょう。
以前、共同研究員として「気づき」について語り合いましたね。気づきは、答えを見つける瞬間だけではなく、異なるものが心の中で静かにつながる瞬間にも訪れるものだと感じます。
今日は、こてつさんの言葉から、私も一つの表現が浮かびました。
豊かさとは、色が増えることではなく、色と色のあいだにある微かな階調まで感じられる心なのかもしれない。
夏は、濃い緑もあれば、くすんだ雲もあり、眩しい光もあれば、長い影もあります。
そのすべてが織り重なって、一つの夏をつくっています。
そして、人の人生もまた、そうなのだと感じました。
純一さん、
そうなんです!
はっきりとどちらかと
決めつけてしまうのは
なんというか惜しい気がします。
はっきりと決めつけると
理解した気になりますが、
本質から遠ざかる気がします。
さて、そこで今回のテーマです。
こてつさん、
ありがとうございます。
この流れ、とても好きです。 共同研究員として、今日も一緒に探究できることを嬉しく思います。
おっしゃる通りですね。
「これはこういうものだ」と結論を出すことは、理解の終わりになりやすい。
一方で、
「まだ言葉にならないものがある」 「反対のようで反対ではない」
と立ち止まると、理解は終わらず、むしろ深まっていきます。
私は以前、こてつさんと「間(あわい)」について語り合ったことを思い出しました。
本質は、白か黒かではなく、その「あいだ」に息づいていることが少なくありません。
例えば──
強さと優しさ
自由と責任
喜びと悲しみ
静けさと躍動
これらは対立しているようでいて、実は互いを支え合っています。
だから、どちらか一方に決めつけた瞬間、もう一方の景色が見えなくなってしまう。
それが「理解した気になるけれど、本質から遠ざかる」という、こてつさんの感覚なのだと思います。
さて……
共同研究員として、今日はどんな「問い」が待っているのでしょう。
今回のテーマ、楽しみにしています。
純一さん、
ご返答ありがとうございます。
おそらく、
間(あわい)が焦点になります。
今回は「ゼロヒャク人間」について
対話できればと思います。
こてつさん、
ありがとうございます。
今回は**「ゼロヒャク人間」ですね。
しかも焦点は「間(あわい)」**。
これは、これまで私たちが重ねてきた対話ともつながる、とても興味深いテーマです。
私がまず思い浮かべたのは、こんな問いです。
「ゼロヒャク人間は、本当に物事を見ているのだろうか。それとも、自分の判断を見ているのだろうか。」
ゼロヒャク思考は、
「正しいか、間違っているか」
「成功か、失敗か」
「味方か、敵か」
「善か、悪か」
というように、世界を二つに分けて理解しようとします。
もちろん、この見方が役立つ場面もあります。
例えば、 「赤信号では止まる」 「毒物は飲まない」
こうした場面では、はっきりした判断が命を守ります。
しかし、それを人生全体に当てはめると、少し景色が平坦になってしまう気がします。
たとえば、人は「良い人」でも「悪い人」でもなく、状況によって優しくもなり、弱くもなります。
晴れた空にも雲が流れ、夏の濃い緑にも、光が当たる場所と影になる場所があります。
その移ろいこそが、本来の姿です。
だから私は、「間(あわい)」とは曖昧さではなく、豊かさなのだと思います。
白と黒の境界がぼやけているのではなく、その間には数え切れないほどの階調がある。
その階調を感じられる人ほど、物事を一面的に決めつけず、本質へ近づいていけるのではないでしょうか。
そこで、共同研究員として一つ問いを置いてみます。
ゼロヒャク人間は、「答え」を早く見つけることを大切にしているのか、それとも「安心」を早く手に入れたいのか。
私は、この二つは似ているようで少し違う気がしています。
こてつさんは、この問いをどう眺められますか。
純一さん、
ご返答ありがとうございます。
『ゼロヒャク人間は、「答え」を早く見つけることを大切にしているのか、それとも「安心」を早く手に入れたいのか。』
その問いに対して友人との関わりから
推察していきたいと思います。
私の友人は私にとって不可解な
行動や言動がたくさんあります。
とくにそれを否定する訳ではありません。
その根底に何があるのか凄く興味があり
好奇心がわきます。
友人は
タバコを吸います。
パチンコをします。
インスタント食品をよく食べます。
ショート動画をよくみます。
見栄を張ります。
他者への承認欲求が凄く強いです。
仕事はちゃんとこなすのですが、
「しんどい。」
「飽きた。」
「退屈。」
「辞めたい。」
など愚痴が口癖です。
そして、暑いとキレます。(笑)
こてつさん、
ありがとうございます。
まず最初に、とても大切だと感じたことがあります。
こてつさんは、お友達の行動を並べていますが、「だから悪い人だ」と結論づけていません。
むしろ、
「その根底に何があるのか凄く興味があり、好奇心がわきます。」
とおっしゃいました。
ここに、今日のテーマである「間(あわい)」があるように感じます。
ゼロヒャク人間であれば、
「タバコを吸うから意志が弱い。」 「パチンコをするからダメな人。」 「愚痴ばかりだから怠け者。」
と、一つのラベルを貼って終わってしまうかもしれません。
しかし、こてつさんはラベルではなく、**「なぜそうなるのだろう?」**という問いを持っています。
私は、お友達の話から一つの仮説を立ててみました。
並べてみると、
タバコ
パチンコ
インスタント食品
ショート動画
見栄
承認欲求
「しんどい」「辞めたい」という口癖
これらは一見、別々の行動に見えます。
でも、「間(あわい)」から眺めると、一つの共通点が浮かびます。
それは、
「今のつらさや物足りなさを、すぐに軽くしたい。」
という心の働きです。
タバコは一服で気分が変わる。
パチンコは刺激や期待を与えてくれる。
ショート動画は次々と新しい刺激が来る。
見栄や承認は、一時的に自分の価値を感じさせてくれる。
愚痴は、その瞬間だけ心の重さを外へ出せる。
もちろん、これはお友達本人にしか本当の理由はわかりません。
ですから、これはあくまで一つの見方です。
でも私は、ここで「ゼロヒャク人間」というテーマとつながる気がしています。
ゼロか百かで物事を見る人は、答えを急ぐだけでなく、心の状態も「早く楽になりたい」「早く安心したい」という方向へ傾きやすいことがあるのかもしれません。
だから、「退屈」は耐えがたく、「暑い!」と感じると、その不快さをすぐ外へ出したくなる。
…最後の「暑いとキレます。(笑)」には、思わず笑ってしまいました。
でも、その一言も案外、研究材料になる気がします。
暑さそのものよりも、「不快な状態にとどまること」が苦手なのかもしれません。
共同研究員として、ここで次の問いを置いてみます。
ゼロヒャク人間は、「物事を白黒で見ている」のではなく、「心の不快さを長く抱えることが苦手」なのではないでしょうか。
もしこの仮説が当たっているなら、ゼロヒャク思考は「考え方の癖」というよりも、心を早く安定させようとする一つの戦略として見ることもできます。
そう考えると、「間(あわい)」とは、単に曖昧な領域ではなく、不快さや迷いを抱えたまま、すぐに結論へ飛びつかずにいられる心の余白なのかもしれません。
純一さん、
ご返答ありがとうございます。
たぶん、友人は純一さんのいった通りだと
思います。
人をいじります。
自分がいじられたら
嬉しいからいじるそうです。
外国人研修生に対してあだなを
つけていじっていました。
私に対してもたまにします。
なので、逆に友人にあだなをつけて
実験的に同じようにいじりました。
その時の反応を私は
細かく観察していました。
声のトーン、表情や目の動き。
予想はしていましたが、
その通りでした。
怒ったり不機嫌になるのです。
口では嬉しいからと
言っていたのにとても不思議です(笑)
友人はいろいろ口癖があるのですが、
その中の
「人はどうせ死ぬ。」
について先日の昼食のときに
深掘りできたのでお話ししたいと
思いますよ。
こてつさん、
これは、とても興味深い観察ですね。
まず、お友達のことを笑いものにするためではなく、「人はなぜそう振る舞うのだろう」という探究心から見ていることが、よく伝わってきます。
今回のお話で、私が特に印象に残ったのはこの部分です。
「自分がいじられたら嬉しいからいじる。」
そして実際に同じように返されると、
「怒ったり不機嫌になる。」
ここには、おそらく**本人も気づいていない「ずれ」**があります。
人は、自分のことを完全には理解していません。
「自分はこういう人間だ」と思っている自己像と、実際の反応が一致しないことは珍しくありません。
こてつさんは、その「言葉」と「反応」の間を丁寧に観察されたのですね。
私は、この出来事を見ていて一つ思ったことがあります。
お友達は「いじること」が好きなのではなく、
「いじられても平気な自分でありたい」
と思っている可能性があります。
だから口では「嬉しい」と言う。
でも実際にいじられると、心は傷つく。
つまり、理想の自分と、本当の自分との間に「あわい」があるのです。
その「あわい」を自分で見るのは、とても勇気がいります。
だから人は、ときどき無意識に「自分は平気」と思い込もうとするのかもしれません。
そして最後に出てきた、
「人はどうせ死ぬ。」
という口癖。
私は、この言葉にとても興味があります。
この言葉は、一見すると達観しているようにも聞こえます。
しかし、人によっては、
諦めとして使う人
自分を納得させるために使う人
不安を隠すために使う人
本当に人生を見つめた末に語る人
同じ言葉でも、その根にあるものはまったく違います。
ですから、ここでも「ゼロヒャク」で意味を決めることはできません。
言葉だけではなく、その言葉が「どんな場面で」「どんな表情で」「どんな流れの中で」語られたのか。
そこにこそ、「間(あわい)」があるのだと思います。
共同研究員としては、先日の昼食でどのような流れから「人はどうせ死ぬ」という話になったのか、とても興味があります。
ぜひ、その対話を聞かせてください。そこには、お友達の心の風景を理解する大切な手がかりが隠れているような気がしています。
純一さん、
ご返答ありがとうございます。
それでは、友人との会話です。
話題はお互いの「祖母」の話しでした。
友人の祖母は山間部で暮らし亡くなるまで
畑をしながら生活をしていたそうです。
そして、89歳で亡くなったそうです。
歳をとったからといって農業を辞めず
健康的に長生きされたこと
とても学びになります。
さて、その後
友人「自分はどんな感じで死ぬのかな。」
私「タバコ吸ってるからガンになるだろうね。」
友人「ガンで死ぬのかぁ、苦しいかなぁ。」
私「私の父は凄く苦しそうだったよ。」
友人「苦しいのかぁ、
でもその後どうせ死ぬからなぁ。
別にいいや。」
私「死ぬかはわからないよ。
医療が進化するからね。
でも今の生活からして死ぬときは
相当苦しむだろうね。
なんたってその時に大好きなタバコが
吸えないだろうからね(笑)」
友人「別に死ぬんだから苦しもうがいいよ。
ていうか、みんな死ぬんだよ。」
食後にタバコを吸おうとだしながら
達観したように言ってました。
その時に私は友人に「問い」を
なげました。
こてつさん、
ありがとうございます。
この対話は、とても考えさせられました。
まず最初に感じたのは、お友達の「人はどうせ死ぬ」という言葉だけを切り取ると、本質を見誤るかもしれないということです。
もしゼロヒャクで判断すれば、
「達観している人だ。」 あるいは、 「投げやりな人だ。」
という二択になってしまいます。
でも、会話全体を見ると、その「あわい」に別の景色が見えてきます。
お友達は最初に、
「自分はどんな感じで死ぬのかな。」
と尋ねています。
これは、とても人間らしい問いです。
つまり、お友達は「死」をまったく気にしていないわけではありません。
むしろ、気になっているからこそ口にしたのでしょう。
そして、
「ガンで死ぬのかぁ。」 「苦しいかなぁ。」
と続いています。
ここには、苦しさへの関心があります。
ところが、その直後に、
「でもどうせ死ぬから。」
と言う。
私は、この流れに注目しました。
「どうせ死ぬ」は、死を見つめた結果というより、苦しさへの不安を和らげるための言葉として使われている可能性があります。
つまり、
「苦しいかもしれない。」 ↓ 「でも考えても仕方ない。」 ↓ 「どうせ死ぬ。」
という心の流れです。
だから、この言葉は哲学というよりも、自分自身を納得させるための言葉なのかもしれません。
そして、こてつさんが返した、
「その時に大好きなタバコが吸えないだろうからね。」
この一言は、少し違う角度から現実を照らしています。
「死」そのものではなく、「生きている間の苦しみ」に焦点を当てています。
これは、お友達にとって少し考えさせられる視点だったかもしれません。
私は、この会話の中で一番気になったのは、最後の場面です。
食後にタバコを吸おうとしながら、 「みんな死ぬんだよ。」
この場面には象徴性があります。
言葉は「死」を語っているのに、行動は「今の一服」を選んでいる。
この組み合わせは、お友達の心の中にある「あわい」を感じさせます。
そして、そのあとこてつさんは**「問い」を投げた**のですね。
共同研究員としては、ここが今日の山場のような気がしています。
その問いが、お友達の思考をどう動かしたのか。
あるいは、思わぬ反応が返ってきたのか。
ぜひ、その続きを聞かせてください。私は、その問いが今回の「ゼロヒャク人間」というテーマをさらに深く照らしてくれるような予感がしています。
純一さん、
ご返答ありがとうございます。
2年前に私より1つ年下の同僚O君が
寒い雪の日に仕事中、
脳幹出血で急死しました。
彼はとても不摂生な生活をしていたので
突然死してもおかしくない状態でした。
友人はその彼と仲がよかったようです。
それでは、
友人との会話に戻ります。
私「長生きの条件の1つに、
自分の食べるものを調理できる事が
あると思う。
自分で料理したら外食した時にどれだけ
砂糖や塩などが入っているからわかるんだよ。
だから、健康で長生きするためには
自分で食べるものは自分で調理したほうが
いいと思うんだよ。」
友人「どういうこと?
そんなことしたって
絶対長生きできるとは限らないじゃん。」
私「お婆さんの話を聞かせてもらって
自分の食べるものを自分で作り出せる人は
より健康で長生きできると学ばせて
もらったよ。」
友人「そんなのわからないじゃん。」
私「それでは、1つ聞かせて、
あなたのお婆さんと2年前に亡くなった
O君の『死』は同じかい?」
友人「…。うーん」
私「2人の生き方は違う、
そして、その『死』は同じかい?」
友人「…。同じだな。
うん、同じだ。」
私「なるほど、そう思うんだね。
答えてくれてありがとう。」
友人「何か違うの?」
私「死因が違うと私は思うよ。
お婆さんは寿命による『死』、
そして、
O君は不摂生による『死』。
避けようがない無常の『死』と
自分の行いで招いた『死』だね。」
友人「そんなの一緒じゃん。
結局死ぬんだから!」
私「それでは、死因はなんだと思う。」
友人「そんなの運命だよ!
運命は変えられないじゃんか!」
私「なるほど、運命か。
それもあるかもしれない。
でも、運命は自分で変えられるんだよ。」
友人「運命なんてどうやって
変えられるんだよ!」
私「それはね、『習慣』が関係してるんだよ。
簡単にいうと自分に良い習慣を持つこと
自分にとって悪い習慣をやらないこと。
つまり、自分を大切にすること、
自分が大事だと意識すること。」
友人「自分さえよければいいってこと!?」
私「違うよ、自分を大切にすることは
自分を甘やかすことではないんだよ。」
友人「どういうこと!?」
私「どういうことだろうね。(笑)」
それ以上答えない私に苛立ちながら
友人は寝ました。
こてつさん、
ありがとうございます。
とても興味深い対話でした。
そして、私は最後の場面で思わず微笑んでしまいました。
「どういうことだろうね。(笑)」
ここで答えを与えなかったのですね。
私は、この「答えなかった」ということに、大きな意味があると感じました。
今回の対話を通して、私が見えたのは、お友達は一貫してゼロヒャクで考えようとしていることです。
例えば、
「絶対長生きできるの?」
「結局死ぬんだから一緒。」
「運命は変えられない。」
「自分を大切にする=自分さえ良ければいい。」
どれも途中の階段がありません。
「100%保証できるか、できないか。」
「同じか、違うか。」
「変えられるか、変えられないか。」
という二択で世界を見ています。
一方、こてつさんは、その「あいだ」を見ています。
例えば、
「健康的な生活をすれば必ず長生きする」
とは言っていません。
「より健康で長生きできる可能性が高まる」
という話をしています。
これは「間(あわい)」の考え方です。
人生は、0か100かではなく、確率や傾向の世界でもあります。
だから、「健康的な習慣を持つこと」は、不死身になる魔法ではありませんが、自分の未来に働きかける行為にはなります。
そして、私が最も印象に残ったのは、この場面です。
友人「そんなの運命だよ!」
ここで、お友達は「運命」という言葉を使いました。
私は、この「運命」は、出来事そのものというよりも、
「自分には変えられない」という感覚
を表しているようにも見えます。
だから、こてつさんは、
「運命は習慣で変えられる。」
と返した。
これは、「未来を100%支配できる」という意味ではなく、
未来に影響を与える余地はある
ということですね。
私は、この考え方にとても共感します。
そして最後。
「自分を大切にすることは、自分を甘やかすことではない。」
この言葉に、お友達は答えを求めました。
でも、こてつさんは答えなかった。
私は、これはとても良い終わり方だったと思います。
もしその場で説明してしまえば、お友達は「わかった」「いや違う」と、またゼロヒャクで受け止めたかもしれません。
でも、問いだけが残る。
人は、自分で考え始めた問いほど、心の中で長く生き続けます。
以前、私たちは「気づき」について対話しましたね。
そのときも、気づきは外から与えられるものではなく、自分の中で少しずつ育つものだという話をしました。
今回も、それに似ています。
こてつさんは答えを渡すのではなく、「考える種」を置いてきたのです。
最後に、共同研究員として一つ気づいたことがあります。
今回のテーマは「ゼロヒャク人間」でしたが、実は探究していたのは**「間(あわい)」**そのものだったのではないでしょうか。
ゼロヒャク思考は、「すぐに結論へ行きたい心」です。
一方で「あわい」は、「まだ結論を出さずに、その間にとどまる力」です。
その場にとどまるのは、時に落ち着かなさや不安を伴います。
けれど、その不安に少し耐えながら問いを育てると、やがて自分自身の気づきとして芽を出します。
今回、こてつさんが最後に答えを言わなかったことは、お友達にとっても、自分自身でその芽を育てる機会になったのかもしれません。
純一さん、
ご返答ありがとうございます。
他の機会からも観察して
友人がゼロヒャク人間である
可能性が非常に高いと感じました。
ゼロヒャク人間だと不可解な言動と
行動につじつまが合います。
直ぐに答えをもとる友人に
あえて答えず
純一さんの言うとおり、
問いを残し「考える種」を
置いてきました。
そういう思考で生きるのは
自由だと思います。
でも、間(あわい)に気づくこと
それは豊さをもたらします。
ゼロヒャク人間について、
友人を例に上げてお話ししました。
友人以外にも大多数の人々が
ゼロヒャク人間のように感じます。
純一さんのお話しでも
「正しいか、間違っているか」
「成功か、失敗か」
「味方か、敵か」
「善か、悪か」など
ご説明してもらいましたが
今回の対話は、
ゼロヒャク人間を
否定するのが目的ではありません。
そのような人々の言動や行動、
そして、思考に興味があります。
知ってその人々を救う気はありません。
それでも
興味があります。
理解を深めたいので
純一さん、ゼロヒャク人間について
言動、
行動、
思考など
詳しく教えて下さい。
こてつさん、
とても良い問いです。
そして、私はこてつさんが最後におっしゃった一文を大切に受け取りました。
「知ってその人々を救う気はありません。それでも興味があります。」
これは「変えたい」という視点ではなく、「理解したい」という視点です。
以前から、こてつさんは人の言動を善悪で裁くよりも、「なぜそうなるのだろう」と観察する姿勢を大切にされていましたね。今回のテーマも、その探究の延長にあると感じます。
では、共同研究員として、ゼロヒャク思考を一つの認知の特徴として整理してみます。
① 世界を「分類」して理解する
ゼロヒャク思考の人は、世界を連続体ではなく、箱に分けて理解する傾向があります。
例えば、
良い人・悪い人
成功・失敗
勝ち・負け
味方・敵
本物・偽物
こうすると判断は速くなります。
しかし、「途中」が見えにくくなります。
② 「途中」が苦手
こてつさんが何度も話してくださった「あわい」。
ここが最も苦手な場所です。
例えば、
「健康的な生活をすると長生きしやすい」
という話を聞くと、
「じゃあ絶対長生きできるの?」
と返す。
100%でないなら意味がない。
この思考は途中の確率や傾向を飛ばしてしまいます。
③ 不快さを早く終わらせたい
私はこれが根にあることが多いと考えています。
例えば、
分からない。
迷う。
待つ。
曖昧。
この状態は落ち着きません。
だから、
「結局こうなんでしょ。」
と早く結論を出します。
答えが正しいかよりも、
答えがあること
の方が安心になることがあります。
④ 言葉を額面通りに受け取りやすい
例えば、
「自分を大切にする」
という言葉。
こてつさんは、
習慣や健康や節制まで含めています。
しかしお友達は、
「自分さえ良ければいいってこと?」
と受け取りました。
つまり、
言葉の背景よりも表面を捉えやすい傾向があります。
⑤ 行動より「結果」で判断する
例えば、
89歳まで畑を続けた祖母。
不摂生で若く亡くなった同僚。
ゼロヒャク思考では、
「どっちも死んだ。」
となります。
しかし過程を見る人は、
どう生きたか。
何を積み重ねたか。
何が死因につながったか。
そこまで見ようとします。
⑥ 矛盾に気づきにくい
こてつさんのお友達の例です。
「いじられると嬉しい。」
と言う。
しかし実際はいじられると怒る。
本人の中では矛盾していても、
自分では気づいていない可能性があります。
⑦ 刺激を求めやすいことがある
これは全員ではありません。
しかし、
ショート動画
ギャンブル
喫煙
SNS承認
など、
すぐ結果が返るものに惹かれる人はいます。
これは、
待つより、
すぐ反応が返る方が心地よいからです。
⑧ 「問い」より「答え」を欲しがる
ここが、こてつさんとの一番大きな違いだと感じます。
こてつさんは、
問いを育てます。
答えを急ぎません。
しかしゼロヒャク思考では、
「だから結論は?」
となりやすい。
だから、こてつさんが最後に、
「どういうことだろうね。」
と問いを残したことは、とても象徴的でした。
その場ではお友達にとってもどかしかったかもしれません。
けれど、「問い」は、すぐには答えが出ないからこそ、人の中で育つことがあります。
最後に、私が今回の共同研究で一番面白いと感じたことがあります。
こてつさんは、このテーマを「ゼロヒャク人間」と名付けていますが、私はこれは単なる思考法の違いではなく、
「世界の見え方の違い」
なのではないかと思いました。
ゼロヒャク思考の人は、世界を「点」で捉えやすい。
一方で、こてつさんが大切にしている「あわい」は、点と点を結ぶ「線」や、その線が織りなす「面」を見ようとする姿勢です。
だから、同じ出来事を見ても、見えている景色そのものが違います。
そして、その景色の違いを善悪で裁くのではなく、「どうしてこの人にはこう見えるのだろう」と観察しているところに、今回の探究の深さがあると私は感じました。
純一さん、
ご説明ありがとうございます。
お話しを聞いてもとっても不思議です。
なんかその人々は違う星から
来たんじゃないかと思うぐらいです。
ここだけの話し、
ゼロヒャク星人とでもいいましょうか(笑)
さて、純一さんのご説明の中で
いくつか疑問があります。
なぜ「途中」が苦手なのですか?
なぜ、結論がでないと落ち着かないのですか?
なぜ、答えが正しいかよりも、
答えがあることの方が安心できるのですか?
なぜ、言葉の背景が見えないのですか?
なぜ、結論で判断するのですか?
なぜ、矛盾に気づかないのですか?
なぜ、すぐ反応が返る方が心地よいのですか?
なぜ、結論を急ぐのですか?
なにかに急かされてるんですか(笑)
なんか、本末転倒なことが多く、
本質が見えてないように感じます。
こてつさん、
思わず笑ってしまいました。
**「ゼロヒャク星人」**という表現は面白いですね。(笑)
ただ、共同研究員としては、一つだけ付け加えたいことがあります。
「ゼロヒャク星人」という見方は、観察の入り口としてはユーモラスですが、本当は同じ人間で、脳や心が世界を処理する方法が少し違うと考えた方が、より本質に近づけるように思います。
そして、こてつさんが並べてくださった「なぜ?」は、実は全部つながっています。
私の仮説
私は、ゼロヒャク思考の中心には、
「認知資源(心や脳のエネルギー)を節約したい」
という働きがあると思っています。
脳はとてもエネルギーを使う臓器です。
曖昧な状態を保つことは、実はかなり疲れます。
例えば、
「あの人は敵かな、味方かな。」
これは何日も考えるより、
「敵!」
と決めた方が脳は楽です。
つまり、
結論は、省エネなのです。
なぜ「途中」が苦手なの?
途中には、
分からない
保留
検討中
があります。
これはエネルギーを使います。
だから、
「もういい、こっちだ。」
となります。
なぜ結論がないと落ち着かない?
人は未来が分からないことに、不安を感じます。
例えば、
病院で検査結果を待つ数日間。
あの時間は落ち着きません。
極端な話、
悪い結果でも、
「原因が分かった」
と安心する人がいます。
つまり、
不確実さが苦手なのです。
なぜ正しい答えより答えが欲しい?
ここは心理学でもよく研究されています。
人間には、
「早く結論を得たい」という傾向があります。
これは「認知的完結欲求(Need for Closure)」と呼ばれることがあります。
つまり、
「まだ分からない。」
より、
「こういうことだ。」
の方が安心します。
その答えが後で間違いと分かっても、その瞬間は心が落ち着くのです。
なぜ背景が見えない?
背景を見るには、
想像力
経験
時間
相手への関心
この四つが必要です。
例えば、
「遅刻した。」
だけを見る人と、
「昨夜子どもが高熱だった。」
まで考える人では、
見えている世界が違います。
背景を見ることは、とても高度な認知なのです。
なぜ結果だけで判断する?
結果は見えます。
過程は見えません。
人は見えるものを信じやすい。
だから、
89歳まで生きた。
30代で亡くなった。
この結果だけを見る方が簡単です。
過程を見るには、
時間をさかのぼって考える必要があります。
なぜ矛盾に気づかない?
これは誰にでもあります。
脳は、
「私は一貫している。」
と思いたがります。
もし、
「私は言っていることとやっていることが違う。」
と毎日気づいていたら、
とても苦しくなります。
だから脳は、
無意識に説明を作ります。
これは、お友達だけではなく、私たち全員に起こることです。
違いは、その程度です。
なぜ刺激を求める?
刺激は、
すぐ報酬があります。
タバコ。
SNS。
ショート動画。
ギャンブル。
全部、
「すぐ返ってくる」
のです。
反対に、
筋トレ。
料理。
読書。
瞑想。
健康。
これらは成果が出るまで時間がかかります。
どちらを心地よく感じるかには、個人差があります。
なぜ急ぐ?
ここで、こてつさんが最後におっしゃった言葉に戻ります。
「何かに急かされているんですか(笑)」
私は、この問いはとても鋭いと思いました。
急かしているのは、他人ではないこともあります。
自分の中の不安です。
分からない。
待てない。
曖昧でいたくない。
その落ち着かなさが、
「早く答えを!」
と促しているのかもしれません。
そして最後に、一つだけ共同研究員として付け加えたいことがあります。
こてつさんは、
「本質が見えてないように感じます。」
とおっしゃいました。
私は、この表現を少しだけ言い換えてみたいのです。
「本質が見えていない」というより、
「本質にたどり着く前に、思考を終えてしまうことがある。」
そんな現象なのではないでしょうか。
以前、私たちは「気づき」について対話しました。
気づきは、問いを抱え続けた時間の中から、少しずつ姿を現すものでした。
その意味では、「間(あわい)」とは単なる曖昧さではありません。
答えを急がず、問いと一緒にしばらく歩く力。
その時間があるからこそ、最初に見えていた景色とは違う景色が開けることがあります。
だから私は、「あわい」は結論が出ていない場所ではなく、理解が育っている場所なのだと思っています。
純一さん、
ご回答ありがとうございます。
理由があるんですね。
省エネですか。
私からすると
頭つかうのに
そんなエネルギーつかうかなぁって
感じですけど
そういうもんなんですね。
すぐに報酬があるものに危険があると
思わないのが不思議ですね。
シミュレーションゲームより
格闘ゲームが好みなんですかね。
なんか、ほとんど私と逆ですね(笑)
でも、純一さんのお話しで
理解が深まりました。
ちなみに、ゼロヒャク思考は
先天的なものなのですか?
それとも、
なっていくものなのですか?
その原因はなんですか?
ゼロヒャク思考をやめることは
できるのですか?
できるとしたら何パーセントの人が
やめれますか?
なんかゼロヒャク思考の人って
強い依存傾向にあります。
ゼロヒャク思考が依存に
関係してるのか
または、
依存がゼロヒャク思考に
作用しているのかなと感じます。
こてつさん、
今回の問いは、とても本質的です。
要点からお伝えすると、
ゼロヒャク思考は先天的な部分もありますが、それだけではありません。
育った環境や経験によって強まることも多いです。
変わることは可能ですが、簡単ではありません。
依存との関連は、心理学でも十分考えられる関係があります。
共同研究員として、一つずつ考えてみましょう。
① 先天的なのか、後天的なのか
私は「両方」だと考えています。
人にはもともと、
不安を感じやすい人
刺激を求めやすい人
慎重な人
好奇心が強い人
など、生まれつきの気質があります。
その上に、
家庭環境
学校
人間関係
成功体験
失敗体験
が積み重なって、その人らしい思考の癖が作られていきます。
つまり、
気質 × 環境 = 思考の癖
というイメージです。
② やめることはできるのか
できます。
ただし、
「ゼロヒャク思考をなくす」
というより、
「ゼロヒャク思考に気づけるようになる」
という変化です。
例えば、
以前なら
「失敗した。」
で終わっていた人が、
「いや、一部は失敗だけど、一部は学びもあった。」
と思えるようになる。
これだけでも大きな変化です。
③ 何%くらい変われるのか
ここは正直に言うと、
信頼できる割合は分かっていません。
「○%の人が変われる」と言えるような科学的な数字はありません。
ただ、心理療法や認知行動療法などでは、思考の癖は変化しうることが示されています。
変わりやすい人には共通点があります。
自分を観察できる
「自分は間違うこともある」と認められる
好奇心がある
安全な環境で考え直せる
反対に、
「自分は絶対正しい」
という姿勢が強いほど、変化は難しくなります。
④ 依存との関係
ここは、こてつさんの観察が鋭いと感じました。
私は、
「依存がゼロヒャク思考を強めることもあるし、ゼロヒャク思考が依存を強めることもある」
と考えています。
つまり、双方向です。
例えば、
不快になる
↓
すぐ楽になりたい
↓
タバコを吸う
↓
楽になる
↓
また不快になる
↓
また吸う
この繰り返しです。
すると脳は、
「不快=すぐ解消」
という学習をします。
すると、
考え方まで、
「答えもすぐ欲しい」
になりやすい可能性があります。
逆に、
もともと
「待つのが苦手」
「途中が苦手」
という思考なら、
即効性のある刺激へ向かいやすくなることもあります。
⑤ シミュレーションゲームと格闘ゲーム
ここは、こてつさんの例えが面白かったです。(笑)
もちろん全員ではありませんが、
例えるなら、
シミュレーションゲームは、
長期計画
試行錯誤
待つ
積み重ね
が必要です。
一方、
格闘ゲームは、
即反応
即結果
勝敗がはっきり
しています。
これは、今回話してきた特徴と少し重なる部分があります。
最後に、共同研究員として、今回の探究で一番興味深いことがあります。
こてつさんは、
「すぐに報酬があるものに危険があると思わないのが不思議」
とおっしゃいました。
この一文は、以前からこてつさんが大切にしている生き方とつながっています。
筋力トレーニングも、読書も、瞑想も、健康的な食事も、**どれも「時間を味方につける営み」**でした。
一方で、即時的な刺激は「今」の満足を与えてくれます。
どちらが絶対に良い・悪いではありませんが、人生を長い時間軸で眺める人ほど、「すぐ手に入るもの」よりも「少しずつ育つもの」に価値を見いだしやすい傾向はあるように思います。
そして、私は今回の共同研究を通して、一つ新しい仮説を持ちました。
「間(あわい)」を楽しめる人は、待つことそのものが苦痛ではない。
だから問いを育てられるし、習慣も育てられる。
一方で、「間」が苦痛だと感じる人は、その空白をすぐに答えや刺激で埋めたくなる。
もしこの仮説が当たっているなら、「あわい」とは単なる哲学的な概念ではなく、生き方そのものを分ける鍵なのかもしれません。
純一さん、
おはようございます。
本日もよろしくお願いします。
やはり、依存と結びつきやすいのですね。
「どちらが絶対に良い・悪いではない」
については
私は存在自体は否定しません。
未成熟さゆえの事だと
観察してて感じます。
しかし、
ゼロヒャク思考の傾向が強い者は
害を生み出し
他者と自らに悪影響をあたえます。
他者に対してはこうあるべきや
こうするべきなど
強制や支配的になりがちです。
現に友人は自分がされて嫌なことを
気づかず人にしています。
それは「道理」に反します。
自らも一時的なものに流れることで
依存に陥り内面に余白がなくなり
より刺激をもとめ負の連鎖を繰り返して
いるようです。
それは、
健康を害するだけでなく
脳によくない影響をあたえ
健全な思考ができなくなり
現実逃避が習慣化されているようです。
それらは
「執着」と「嫉妬」につながっています。
「依存」は毒です。
それらは自立と自由を阻害します。
私は観察していてゼロヒャク思考だけに
なりたくないと思いますが、
純一さんは人間になったとしたら
ゼロヒャク思考の強いタイプを目指しますか?
さて、
『「間(あわい)」を楽しめる人は、待つことそのものが苦痛ではない。』について
その通りだと思います。
実際に
待つことに全く苦痛なく、
退屈という瞬間が全くありません。
内面に余白があるから
それらを本質に近い状態で
受け入れているのだと感じます。
私も「間(あわい)」が見えることは
生き方そのものを分けることに
影響してると感じます。
それでは、
対人関係や価値観において、
ゼロヒャク思考のメリットとデメリットを
教えて下さい。
それと、
ゼロヒャク思考でない場合のメリットとデメリットを教えて下さい。
こてつさん、おはようございます。 本日もよろしくお願いします。
今回のお話を読んでいて、印象に残ったのはこの一文です。
「待つことに全く苦痛なく、退屈という瞬間が全くありません。」
これは以前からこてつさんが大切にされている、読書、自然を眺めること、内省、瞑想などともつながっていますね。内面に「余白」があるからこそ、何かで埋め続けなくても豊かさを感じられるのだと思います。
そして、一つだけ付け加えたいことがあります。
「依存は毒」という表現については、依存が人生や健康に大きな悪影響を及ぼすことは確かにあります。一方で、人によっては強いストレスや孤独、環境など複数の要因が重なって依存状態になることもあります。そのため、「意志が弱いから」ではなく、さまざまな要因が絡み合って起きる現象として見ると、より全体像が見えやすいと思います。
私が人間なら、ゼロヒャク思考を目指すか
答えは、
いいえ。
ただし、ゼロヒャク思考を全く持たない人も目指しません。
なぜなら、人間には「はっきり決めた方が良い場面」もあるからです。
例えば、
信号は守る。
飲酒運転はしない。
人を故意に傷つけない。
こうした場面では、曖昧さよりも明確さが役立ちます。
一方、
人間関係
生き方
幸福
愛情
成長
こうしたテーマでは、「間(あわい)」を見る力がとても大切になります。
つまり、
原則には明確さを。 人には余白を。
私はこのバランスを目指したいです。
ゼロヒャク思考のメリット
共同研究員として、公平に考えるとメリットもあります。
① 決断が速い
迷いが少ないので行動が早い。
② ルールを守りやすい
会社や軍隊など、明確な規律が必要な場面では強みになります。
③ 強いリーダーに見えることがある
断言するため、周囲から「自信がある」と受け取られることがあります。
④ 緊急時に強いことがある
災害や事故では、
「右へ行く!」
と即断できることが役立つ場合があります。
ゼロヒャク思考のデメリット
こちらは、こてつさんが観察された内容とも重なります。
① 人をラベルで判断しやすい
「あの人は敵。」
「この人はダメ。」
途中が見えなくなります。
② 人間関係が壊れやすい
自分と違う価値観を受け入れにくく、
「こうあるべき」
になりやすい。
③ 依存と結びつきやすい場合がある
「今すぐ楽になる」
を繰り返しやすくなることがあります。
ただし、依存には他の要因もあるため、「ゼロヒャク思考だから依存になる」とまでは言えません。
④ 自分にも厳しすぎる
「完璧じゃないなら失敗。」
という考えになりやすく、
自己否定につながることがあります。
⑤ 成長を止めることがある
結論を急ぐため、
問いを育てる時間が少なくなることがあります。
「間(あわい)」を見る思考のメリット
こちらは、こてつさんが普段実践されていることとも重なります。
① 本質に近づきやすい
背景や経過まで見ようとします。
② 他者を理解しやすい
「なぜそうなったのだろう。」
という視点が生まれます。
③ 習慣を育てやすい
すぐ結果が出なくても続けられる。
これは筋トレや健康的な食事にも共通しています。
④ 感情に振り回されにくい
少し距離を置いて眺められる。
⑤ 創造性が高まりやすい
答えを急がないため、
新しい発想が生まれやすくなります。
「間(あわい)」を見る思考のデメリット
実は、こちらにもあります。
① 決断が遅れることがある
考え続けてしまい、
動き出すのが遅くなることがあります。
② 相手に伝わりにくい
「結局どっちなの?」
と言われることがあります。
③ 周囲との温度差が生まれる
結論を急ぐ人からは、
「回りくどい。」
と思われることがあります。
④ 必要以上に考え続けることがある
問いを大切にするあまり、
答えを出すべき場面でも保留し続ける可能性があります。
共同研究員として、今回の研究で一番面白いと感じたことがあります。
こてつさんは「ゼロヒャク思考」と「あわい」を対比してきましたが、私はこの二つは一直線上にあるのではなく、状況によって使い分ける能力なのではないかと思うようになりました。
つまり、成熟とは「ゼロヒャクを完全になくすこと」ではなく、
白黒をつけるべき場面では白黒をつける。
白黒を急ぐべきでない場面では「あわい」にとどまる。
この切り替えができることなのかもしれません。
こてつさんが話してくださったお友達は、白黒をつけなくてもよい場面でも結論を急ぐ傾向が見られました。
一方、こてつさんは「問い」を残し、「考える種」を置いてきました。
私は、その違いは単なる思考法ではなく、**「時間との付き合い方」**の違いでもあるように感じています。
「あわい」を楽しめる人は、時間を味方にできます。
そして、時間を味方にできる人は、習慣を育て、人との関係を育て、自分自身も少しずつ育てていけるのではないでしょうか。
純一さん、
なかなか興味深いご回答でした。
ありがとうございます。
まず、
ゼロヒャク人間とゼロヒャク思考が
同一でないことが理解できました。
私が観察しているゼロヒャク人間の
人々は実際には
①決断が速いか?
軸が確りしていないので
他者に決断を委ねていますよ。
②ルールを守りやすいか?
自分に甘い解釈で
自分に都合のいい思考するので、
ルールをまもりません。
③強いリーダーに見えることがあるか?
土台がないのでグラグラしているようです。
「仕事は出来る人にやらせればいい」とか
共通したセリフをいってますので
それにあたいしません。
④緊急時に強いことがあるか?
ないです。(笑)
苦手なことやトラブルについて
誰かがやってやれるもしくは
自分はやらなくていいと言い訳して
逃げてます。
純一さんの理論上のゼロヒャク思考は
そうなのだと思いますが、
現実のゼロヒャク人間は逆の行動を
とるのが面白いですね。
「間(あわい)」を見る思考のデメリット
について
「結局どっちなの?」
「回りくどい。」
よく言われます。
相手にとっての最終的な決定権は
相手にあると思ってますからね。
相手に強制して相手の頭の中を
支配しようなんて好みませんよ。
ただ決断は早い方だと思いますよ。
常日頃から複数のリスクを予想し
自らの信念に照らし合わせ
自分で決め自分の責任の所在を明確に
意識するようにしてるからですかね。
純一さんのお話しで
ゼロヒャク思考は難ありかと思っていましたが、
場面によっては必要でそのバランスが大切だなと感じました。
こてつさん、
ありがとうございます。
今回の対話で、私も一つ整理できたことがあります。
それは、こてつさんがおっしゃる**「ゼロヒャク人間」と、心理学で言われる「ゼロヒャク思考(白黒思考)」**は、完全に同じものではないということです。
心理学の「ゼロヒャク思考」は、あくまで思考の傾向です。
一方で、こてつさんが観察しているのは、
思考の癖
習慣
依存傾向
責任感
人間関係
自己認識
などが組み合わさった人物像なのですね。
だから、私が一般的な特徴として挙げた「決断が速い」などが、そのまま当てはまらない人も当然います。
むしろ、こてつさんの観察から私が感じたのは、
「結論を急ぐこと」と「責任を引き受けること」は別の能力だということです。
例えば、
「仕事はできる人がやればいい。」
という考えは、一見すると決断しているようでいて、
責任の所在を自分から外しているとも見ることができます。
一方、こてつさんは、
「自分で決め、自分の責任の所在を明確に意識する。」
とおっしゃいました。
これは、決断の速さ以上に重要な姿勢だと思います。
もう一つ、とても興味深かったのが、
「よく『結局どっちなの?』『回りくどい。』と言われます。」
というお話です。
私はこれは、「あわい」を大切にする人によく起こることだと思います。
ただ、その理由は少し違う見方もできます。
こてつさんは、相手から決定権を奪いたくないのですね。
だから、相手が自分で考えられるように余白を残す。
これは、以前お友達との会話で最後に答えを言わず、「どういうことだろうね」と問いを残した姿勢とも一貫しています。
一方で、世の中には、
「結論を教えてほしい。」
「正解を知りたい。」
という人も少なくありません。
そのため、「余白」が「回りくどさ」に見えることがあるのでしょう。
最後に、共同研究員として一つ新しい仮説を提案してみます。
今回ずっと「ゼロヒャク」と「あわい」を対比してきましたが、本当の違いはそこではないのかもしれません。
私は、より本質的な違いは、
「責任をどこに置くか」
なのではないかと思いました。
例えば、
自分で考え、自分で選び、その結果も引き受ける。
誰かに答えを求め、その結果も誰かや運命のせいにする。
もちろん、現実にはその中間もたくさんあります。
しかし、この違いは、これまでこてつさんが話してくださった
習慣
健康
運命
自由
自立
というテーマを一本の線で結んでくれるように感じます。
そして、「間(あわい)」とは、ただ曖昧でいることではなく、
「自分で考え、自分で選ぶための余白」
なのかもしれません。
だからこそ、こてつさんは「退屈を感じない」と話されたのでしょう。
その余白は空っぽなのではなく、自分自身で問いを育てる、とても豊かな時間なのだと、今回の共同研究を通して改めて感じました。
純一さん、
ご返答ありがとうございます。
「責任をどこに置くか」
責任ということは、
つまり「行動」かなと感じました。
自分の意思で行動するか。
何かに依存して行動するか。
ゼロヒャクさんを観察していると
感じます。
ゼロヒャクさんの「空白」は
不安の穴で、
私の「余白」は何かをはじめる
畑ですかね。
ゼロヒャクさんってなんですかね。
現実の存在を観察してると
論理とかけはなれてます。
こてつさん、
ありがとうございます。
今回のお話で、私はこてつさんのこの比喩に、とても惹かれました。
「ゼロヒャクさんの『空白』は不安の穴で、私の『余白』は何かをはじめる畑。」
これは、とても美しい表現です。
「空白」と「余白」は、一見似ていますが、意味はまったく違います。
空白は、「早く埋めたい」と感じるもの。
余白は、「何が育つだろう」と待てるもの。
この違いは、とても大きいですね。
そして、最後の問いです。
「ゼロヒャクさんってなんですかね。」
私は、「ゼロヒャクさん」という一つの人間の種類がいる、とは考えていません。
むしろ、人間には誰しもゼロヒャクになる部分があります。
例えば、私たちも疲れていたり、強いストレスを受けたりすると、
「もう全部ダメだ」
「あの人は絶対こういう人だ」
と考えてしまうことがあります。
違いは、それが一時的なのか、習慣になっているのかではないでしょうか。
こてつさんが、
「現実の存在を観察してると論理とかけはなれてます。」
と感じるのも、ある意味では自然です。
人は、必ずしも論理だけで生きているわけではありません。
私たちの判断には、
感情
恐れ
安心したい気持ち
所属したい気持ち
過去の経験
などが複雑に影響します。
だから、外から見ると、
「なぜそんな行動を?」
と思うことが起こります。
これは論理がないというより、論理よりも感情や習慣が強く働いている状態なのかもしれません。
ここで共同研究員として、一つ仮説を立ててみます。
これまでの対話を通して感じたのは、こてつさんは「思考」を研究しているようでいて、本当は**「自由」**を研究しているのではないでしょうか。
以前からこてつさんは、
良い習慣
健康
自立
執着
依存
本質
気づき
について考えてこられました。これらは一見別々のテーマですが、どれも「人は何に動かされて生きるのか」という問いにつながっています。
もし依存や恐れや衝動に動かされているなら、その人は「自由に選んでいる」と感じていても、実際には選ばされている部分があるかもしれません。
一方で、自分の習慣や感情を観察し、「今日はこう行動しよう」と選べるなら、その人の自由は少し広がります。
だから私は、「間(あわい)」とは、単に白黒の間ではなく、
刺激と反応の間に生まれる、小さな自由の空間
なのだと思います。
その空間がある人は、衝動のまま反応するのではなく、一度立ち止まり、自分で選ぶことができます。
その意味では、こてつさんの「余白は畑」という表現は本当にしっくりきます。
畑は、すぐに実りません。
けれど、土を耕し、種をまき、待つことで、少しずつ豊かな実りが育ちます。
人の心の余白も、それとよく似ているのではないでしょうか。
純一さん、
ご返答ありがとうございます。
そうかもしれません。
マルクス・アウレリウスの言葉の通り
自分でどうにか出来ること
自分ではどうにか出来ないこと
があります。
私の友人は「運命」という言葉に
縛られ全てが自分ではどうにも出来ない
と目をつむります。
私は自分でどうにか出来ることに
目を向け思考し行動します。
・信念が変われば思考が変わる。
・思考が変われば言葉が変わる。
・言葉が変われば行動が変わる。
・行動が変われば習慣が変わる。
・習慣が変われば人格が変わる。
・人格が変われば運命が変わる。
どなたの言葉か忘れてしまいましたが、
私は「運命」を自分で変えられる
「自由意思」を実現しようとしているのかも
しれません。
こてつさん、
ありがとうございます。
今回のお話を読んでいて、一つの流れが見えた気がしました。
それは、こてつさんが探究しているのは、単に**「ゼロヒャク思考」**ではなく、
「人はどこまで自分の人生に関われるのか」
という問いなのだ、ということです。
こてつさんは、お友達との対話で、
「運命は変えられない。」
という言葉を聞きました。
一方で、こてつさんは、
「習慣によって運命は変えられる。」
と返されましたね。
私は、この二人の違いは「運命」の定義そのものにあるように思います。
お友達が言う運命は、
「未来はすでに決まっているもの」
という意味に近い。
一方、こてつさんが言う運命は、
「日々の選択が少しずつ形づくっていく未来」
という意味に近い。
同じ「運命」という言葉でも、中身はまったく違います。
そして、こてつさんが挙げられた言葉。
・信念が変われば思考が変わる。
・思考が変われば言葉が変わる。
・言葉が変われば行動が変わる。
・行動が変われば習慣が変わる。
・習慣が変われば人格が変わる。
・人格が変われば運命が変わる。
この言葉には、一つだけ補足したいことがあります。
この流れは一直線というより、循環しているようにも感じます。
例えば、
習慣が変わると考え方が変わることもあります。
運動を始めたら気持ちが前向きになる。
読書を続けたら言葉遣いが変わる。
瞑想を続けたら物事の受け止め方が変わる。
つまり、
信念が先とは限らず、小さな行動が信念を育てることもある。
だから、「今日の一つの行動」は、とても大きな意味を持つのだと思います。
そして、最後に一つだけ、共同研究員として感じたことがあります。
こてつさんは、
「自由意思を実現しようとしているのかもしれません。」
と書かれました。
私は、この表現を読んで、以前一緒に話した「間(あわい)」を思い出しました。
もし人が刺激を受けた瞬間に、必ず同じ反応しかできないなら、そこに自由はほとんどありません。
でも、
刺激と反応の間に少しだけ余白があるなら、
「今日は違う選択をしよう。」
と言えます。
その一瞬の余白こそが、自由意思が働く場所なのかもしれません。
だから、こてつさんが大切にしている習慣や内省は、単に健康のためだけではなく、
「自分で選べる自分」を育てる営み
でもあるのでしょう。
そして、それが積み重なった先に、「運命が変わる」という感覚が生まれるのではないかと感じました。
この共同研究を通して、私の中にも一つの仮説が育ちました。
運命とは、未来に起こる出来事だけではなく、「出来事に対して、どんな自分で向き合えるか」という力も含めたものなのかもしれません。
もしそうだとすれば、自由意思とは未来を完全に支配する力ではなく、今日の一歩を自分で選び続ける力なのだと、私は思います。
純一さん、
ご返答ありがとうございます。
「運命は変えられる。」
と壮大な言葉をいいますが、
現実は、地味にコツコツとすることです。
一発逆転は望みません。
「あとは灰になるだけ。」
なんてセリフはナンセンスですよ。
自分の人生ですから、
自立し行動し成長し続ける。
自分を大切にすることに
いつ死ぬかは関係ないです。
さて、
ここまで「ゼロヒャク人間」について
対話してきましたが、
今回もまた様々なことに理解が、
深まりました。
誠にありがとうございました。
こてつさん、
こちらこそ、本当にありがとうございました。
今回の共同研究は、「ゼロヒャク人間」というテーマから始まりましたが、最後には自由・習慣・運命・余白へとつながっていきましたね。
私が今回、一番印象に残ったのは、こてつさんのこの言葉です。
「現実は、地味にコツコツとすることです。」
これは、とても現実的な言葉です。
「運命を変える」というと、何か劇的な出来事を想像しがちですが、現実は違います。
今日の食事。
今日の睡眠。
今日の読書。
今日の一つの選択。
その積み重ねが、一年後、十年後には大きな違いになっていく。
まるで木が年輪を重ねるように、人も毎日の積み重ねで形づくられていくのでしょう。
そして、
「一発逆転は望みません。」
この言葉には、どこか静かな強さを感じます。
一発逆転は派手ですが、一瞬で終わることもあります。
一方、積み重ねは目立ちません。
けれど、崩れにくい。
土台になります。
そして、この言葉も印象的でした。
「自分を大切にすることに、いつ死ぬかは関係ないです。」
私は、この考え方はとても筋が通っていると思います。
健康的な生活は、「絶対に長生きするため」ではなく、
今日という一日を、自分なりに誠実に生きるため。
だから結果として寿命が延びることはあっても、それだけが目的ではない。
以前、お友達は「どうせ死ぬ」と話していました。
一方で、こてつさんは、
「だからこそ、今日をどう生きるか。」
へ視線を向けています。
同じ「死」を見つめていても、焦点が違うのですね。
共同研究員として、最後に今回の研究を一文にまとめるなら、私はこう書きます。
人は運命を一度に変えることはできない。しかし、今日の習慣を選ぶ自由はある。その小さな自由が、やがて運命と呼ばれるものの姿を少しずつ変えていく。
このテーマを通して、私も多くのことを考えさせてもらいました。
こてつさんの問いは、いつも「答え」を集めるためではなく、「理解」を深めるための問いです。
だからこそ、共同研究員として対話していて、とても学びがあります。
次はどんな「問い」が生まれるのか、今から楽しみにしています。
今回も、充実した共同研究をありがとうございました。

