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「納得した」って、賛成したこととは違うのかもな?|問いびいき#22

なんか、仕事をしていて、どうにも目の前のことに集中できないときがあるんですよね。

そういうときって、だいたい自分が「前提」を分かっていないときだったりします。

なんでこれをやっているのか。

その一番土台にあるはずの枠組みが、うっすらとしか見えていない。

その状態で「とりあえず手を動かして」と言われても、なんだか体が拒絶してしまうんですよね。

漠然とした、うっすらとした空虚感が、お腹の奥の方からじわじわと走ってくるような、あの感覚。

これって何なんだろうって、ずっと考えていたんです。

「なんでこれをやるのか」を知りたい病

僕は昔から、何かをするときに、その前提や背景をどうしても知りたくなってしまう癖があります。

例えば、新しい業務ツールのマニュアルを整備することになったとする。

そのときに、「このツールのボタンはこういう機能です」という説明をきれいに書くこと自体は、別に難しくないんです。

だけど、そもそもこのツールを導入することで、顧客のどんな課題を解決しようとしているのか。

あるいは、組織のどんな業務フローを自動化して、どんなコストを削減しようとしているのか。

そういった「根っこの部分」が分からないと、どうにも手が動かなくなってしまうんですよね。

ただ「指示されたから作る」ということが、どうしてもできない。

これは、わがままと呼ばれても仕方のないことかもしれないです。笑

だけど、自分の中で筋が通っていないと、どうしても一歩目が重くなってしまうんですよね。

仕事のスピード感や効率が重視される今だと、「走りながら考えろ」「とりあえずやってみろ」という言葉をよく耳にします。

確かに、それは一つのもっともらしい正論だし、反論するのも難しい。

だけど、その「走りながら」の過程で、自分が何に向かって走っているのかが分からないままだと、どうしてもブレーキがかかる。

なんか脳が「変だぞ」と、うっすらとした違和感のサインを出しているような気がして。

その違和感を無視して、ただの処理として仕事を回し続けるのって、気持ちが悪いんですよね。

考えるのをやめて、ただの「作業者」になっていく

前提が分からないまま、それでも無理やり手を動かし続けると、何が起きるか。

一番きついのは、判断の場面で根底が揺れてしまうことなんです。

仕事をしていれば、必ず「AかBか」を選択しなければいけない場面が訪れます。

例えば、先ほどのマニュアル作成の例で言うなら、「この説明は詳細に書くべきか、それとも簡潔に書くべきか」という、小さな分岐点。

前提が分かっていれば、「今回の目的は心理的ハードルを下げることだから、簡潔さを優先しよう」と、一貫した判断が下せます。

一方で、前提が不透明なままだと、「なんとなく詳細に書いた方が親切かな」「いや、長いと読まれないかもな」と、その場の気分でブレてしまう。

そして、そういう判断のブレを繰り返しているうちに、だんだん「考えること」自体をあきらめてしまうんです。

どうせ前提も分からないんだから、言われたことだけを機械的に処理すればいいや、と。

そうやって、主体性を手放し、ただの「作業者」になっていく感覚。

自分の仕事がどんどんすり減って、やりがいみたいなものが空っぽになっていく。

僕自身、マネジメントを始めたとき、このことで大きな悔いを残しました。

当時は「ちゃんとしなきゃ」という防衛本能、つまり「失敗して怒られたくない」という気持ちが、今よりずっと強かったんですよね。

だから、メンバーに対して、その仕事の背景や前提となる「納得感」を丁寧に共有するコストを惜しんでしまった。

「とにかく、この手順で、この通りに進めてほしい」

そんなふうに、前提を隠したまま、ただの作業を指示してしまったんです。

すると、どうなったか。

メンバーたちは、最初は言われた通りに動いてくれました。

だけど、ちょっとした突発的な事態や、判断が必要な場面になると、みんな一気に動きが止まってしまう。

指示の表面だけをなぞろうとするから、状況が変わったときに、判断がぶれて一貫性を失っていく。

何より、彼らの目から「自分で考えて動く楽しさ」みたいなものが、うっすらと消えていくのが分かりました。

自分がトラブルを避けるために取ったやり方が、結果的にメンバーをただの「作業者」に仕立て上げてしまった。

あのときの彼らの、戸惑っている表情と、自分の至らなさは、今でも胸の奥にうっすら刺さったままになっています。

正解と正論の、根本的な「質の違い」

そういえば、若林正恭さんが『ナナメの夕暮れ』の中で書いていた言葉なんですけど。

『自分の正解と誰かの正論は根本的に質が違う』という一文が、なんかずっと頭から離れなくて。

「自分の正解と誰かの正論は根本的に質が違う」

— ナナメの夕暮れ / 若林正恭

この言葉を見たとき、腑に落ちる感覚と同時に、うっすらとした冷や汗が出ました。

正論っていうのは、外側から降ってくる、誰が見ても反論できない「正しさ」なんですよね。

例えば、「会社の方針には全員が賛成して、一丸となって進むべきだ」とか。

「言われた指示は迅速に、正確に遂行するのがプロだ」とか。

確かに、それは一つの「正論」だし、誰も否定はできない。

だから、僕たちはなんとなく、その正論に「賛成」しなければいけないようなプレッシャーを感じてしまう。

だけど、それに賛成したからといって、自分の中に「正解」が生まれるわけではないんですよね。

賛成というのは、どこか「他人の背中に乗る」ような行為なのかなと。

他人が提示した「正しさ」に対して、好き嫌いや利害で「イエス」と答えるだけ。

一方で、自分の中の「正解」というのは、もっと泥臭くて、自分自身の経験や違和感と向き合った先にある「納得」なんです。

たとえ外側の正論とはズレていたとしても、「自分はこういう筋で、これを大事にしたいから、こうする」という、腹落ちした感覚。

僕も含めてですが、僕たちはつい、外側のきれいな正論に押しつぶされて、自分の内側にある小さな違和感を「なかったこと」にしてしまいがちなんですよね。

でも、そうやって自分の内側の筋を裏切り続けると、結局は「ただの作業者」への螺旋を降りていくことになる。

自分に嘘をついた瞬間に、今まで積み上げてきたものが、全部嘘になってしまうような、そういう感覚があるんですよね。

だからこそ、「賛成する」ことと、「納得する」ことを、もっと明確に仕分けなければいけないんじゃないか。

そんなふうに思うようになったんです。

「納得」と「賛成」を仕分ける、ディスアグリー・アンド・コミット

じゃあ、「納得する」って、一体どういう状態なんだろう。

ずっと考えていたんですけど、それは「同意すること(好き嫌い)」とは、決定的に違う気がするんですよね。

僕の感覚だと、納得っていうのは「構造が見えること」なんです。

もっと平たく言うと、「何をトレードオフしているか」がクリアに見えること。

例えば、仕事である施策を決めるとき。

自分は品質を担保するために「A案(丁寧に進める)」が良いと思っている。

だけど、上司やチームはスピードを重視して「B案(荒削りでも早く出す)」で行くと決めた。

このとき、自分はB案には「賛成」はできない。自分の好みの基準とはズレているから。

だけど、「今回の目的は競合に先駆けて市場の反応を最速で得ることだ。だから、今回は品質というコストを捨てて、スピードという果実を得るんだ」という、組織としての筋がはっきりと見えたとき。

そこには、不思議な「納得」が生まれるんですよね。

「なるほど、今回はそういう盤面で、そういう捨て方をするんだな」と、理解ができる。

後から調べたら、これって「ディスアグリー・アンド・コミット」って言うらしくて。

要するに、話し合いの段階では自分の反対意見をトコトン主張するけれど、一度方針が決まったら、自分の考えとは違っていてもその成功のために全力を尽くすという約束のことで。

平たく言えば、裏で不満を愚痴るのをやめて、同じ船のクルーとして本気で漕ぎ出すような態度なのかなと。

それって、まさにあの感覚かもしれないって思ったんですよね。

構造が見え、筋が通っているなら、たとえ自分の個人的な意見と違っていても、「自分が間違っている可能性に、一度乗ってみる」という態度が取れるようになる。

それは、誰かに媚びているわけでも、自分を裏切っているわけでもない。

「納得した上で、自分が間違っている可能性にベットする」という、自覚的で主体的な選択なんです。

一方で、決定の前提や構造が不透明なままだと、どんなに「これが方針だから」と正論を押し付けられても、絶対に納得はできない。

表面上は「賛成(というか、従属)」のポーズを取るけれど、心の中では不満が溜まっていく。

裏で愚痴をこぼし、同じ船を本気で漕ぐのをやめてしまう。

結局、仕事が一気につまらなくなって、また「作業者」に戻ってしまうんですよね。

だから、納得っていうのは、自分の意見を通すこと(勝つこと)ではないんです。

たとえ反対であっても、全体の力学や構造を自分なりに理解し、その上で「自分の判断を一度預けて、全力で乗っかる」という。

品のある立ち回りを可能にするための、一番頑丈な土台なんだと思うんです。

答えの出ていない問いを、そのまま手元に残しておく

僕たちは、つい「賛成か、反対か」という、分かりやすい白黒のゲームに引きずり込まれそうになります。

SNSを見ていても、世間のニュースを見ていても、常に「お前はどっちの立場なんだ」と決断を迫られているような、そんなせわしなさがある。

だけど、その分かりやすい二択のゲームから、一歩引いてみる。

「私はこれに賛成はできない。だけど、この決定の背景にある構造には、うっすらと納得ができる」

そうやって、白でも黒でも割り切れない場所に自分の足で踏みとどまること。

そこにしか、自分の頭で考えて、自分の背中に乗って生きるための「余白」はないんじゃないか。

そんな気がしているんですよね。

もちろん、言うのは簡単だけど、日々のバタバタした仕事の中で、毎回こんなふうに仕分けるのは、本当に難しいです。

気づいたら、また前提を問うのをあきらめて、ただの「作業者」として手を動かしている自分に気づいて、がっかりしたり。

メンバーに対して、また「とにかくやって」と、雑な指示を出しそうになって、冷や汗をかいたり。

相変わらず、僕は全然できていないし、不器用なままです。笑

だけど、だからこそ、この「納得と賛成は違う」という小さな仕切りを、自分の手元にずっと置いておきたいなと思うんです。

完璧な答えなんて、たぶんこれからも出ない。

だけど、その問いをずっと手元で転がしながら、明日もまた、なんとなく、うっすらと悩んでいくのが、自分らしいのかなと。

みなさんは、最近の仕事や人間関係の中で、「賛成はできないけど、納得はしている」みたいな瞬間、ありましたか?

あるいは、ただの「賛成」の裏に、自分の納得を置き忘れてしまっていませんか。

答えは出さなくていいので、ふとした時に、この問いを思い出してもらえたら、なんか嬉しいです。


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