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エッセイ / 配慮は一方通行では続かない。「それぞれの事情」

配慮の時代に、配慮する人は誰ですか

「配慮」という言葉を、毎日のように耳にするようになった。
相手を傷つけないこと。
一人ひとりの事情を理解すること。
とても大切なことだと思う。

私自身、介護をしているので、「見えない事情」があることはよく分かる。
母は高齢になり、昨日できたことが今日はできない。
電子レンジの使い方を忘れる日がある。
同じ話を何度も繰り返す日もある。
以前なら、「さっきも聞いたよ」と言ってしまっていたかもしれない。
でも今は、「今日はそういう日なんだ」と受け止めるようになった。
それが、私なりの配慮だ。

一方で、社会全体を見渡すと、配慮が求められる場面はどんどん増えている。
学校では、一人ひとりに合わせた支援が当たり前になってきた。
席の位置を工夫したり、別室で試験を受けたり、声かけの仕方を変えたり。
子どもたちが安心して学べるように、多くの先生が工夫を重ねている。

私は、それ自体はとても良いことだと思う。
ただ、その先生たちはどうだろう。
授業をして、テストを作って、保護者対応をして、部活動を見て、会議に出て、書類を書いて……。
そこへ、一人ひとりに合わせた配慮も求められる。
先生だからできて当たり前。
そんな空気が、どこかにないだろうか。

介護も似ている。
「親なんだから面倒を見て当たり前。」
そう言われれば、その通りなのかもしれない。
でも、介護をする人にも生活がある。
仕事もある。
体調が悪い日もある。
誰にも弱音を吐けない日だってある。
配慮は必要だ。
それを否定するつもりはまったくない。
けれど、配慮とは一方通行では続かない。
支えられる人だけではなく、支える人にも配慮がなければ、いつか誰かが倒れてしまう。

最近の出来事を見ていても、私はそんなことを考えた。
誰が正しかったのか。
誰が悪かったのか。
それは当事者にしか分からない。

だから私は、その結論を急ぐよりも、この出来事が投げかけた問いのほうを考えたい。
私たちは、配慮を受ける人には敏感になった。
では、配慮をする人には、十分目を向けられているだろうか。

先生も、介護をする人も、接客をする人も、子育てをする親も、みんな誰かを支えながら生きている。
そして、その人たちもまた、一人の人間だ。
疲れる日もある。
失敗する日もある。
心が折れそうになる日もある。

配慮とは、特別扱いをすることではない。
「この人にも事情があるかもしれない。」
そう想像することだと思う。

支えられる人にも。
支える人にも。
その想像力が広がったとき、「配慮」という言葉は、ようやく本当の意味を持つのではないだろうか。


#創作大賞2026 #エッセイ部門

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