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「実現することのなかったすべてのアイデアに捧ぐ」 7️⃣

パソコンがハードディスクを認識しなくなった。
画面は真っ黒。頭は真っ白。
あああああああ。
データが全部消えた。
写真、動画、画像、メモ、文書、アドレス帳……

特に惜しいものは三つある。

一つは、犬の写真。
ぬいぐるみで遊ぶ姿、雪の中を駆ける姿、眠る姿。
餌を食べ、水を飲む。裏庭の藪蘭に頭を突っ込む。仰向けになって腹を撫でろとせがむ――そんな日々の記録が消えた。
残念だ。
でも、犬は生きている。また撮ればいい。

もう一つは、親父に捧げた詩。
これは堪えた。
本当に美しい詩だった。
英会話のコーチを雇って助言を受けながら、得意じゃない英語で書いた。完成するのに三年かかった。
誰に見せても恥ずかしくない、わたしの唯一の作品だった。
それが消えた。

不思議なことに、自分で書いたのに半分も思い出せない。
残った断片——かつて生きていたフレーズが、バラバラになった途端、単なる言葉に還ってしまった。
無理に思い出そうとすると、なぜか気分が悪くなる。完成形だけが理想として残り、そこに届かない苦しみだけが現実にとして、今ここにある。
つらい。
英詩は他にも結構書いていたのだが、全部一緒に消えた。

そしてもう一つは、楽曲だ。
小説をやめ、音楽に軸を移すと宣言してから二ヶ月、わたしはそれだけに集中してきた。その成果であり証明でもあった曲が、跡形もなく消えた。
やり切れない。本当に。

わたしの人生は、いつもこんな調子だ。
うまくいきかけると、決まって邪魔が入る――そんな気がする。
これまで同じようなことが何度もあった……気がする。
いや、分かっている。思い過ごしに違いない。
理解しているが、どうしても飲み込めない。
致し方ない。「納得する」ための頭が、真っ白なのだ。

作った曲は全部で十一。
City Popが四つ、R&Bが二つ、フォークが一つ、演歌が一つ、ムード歌謡が一つ、インストが二つ。
そのうち七曲は昔の曲の作り直しで、残りは書き下ろしだ。
歌はスタジオで録った。
あとは順番に発表していくだけ――その準備を整えているところだった。

それが全部消えた。
努力が水の泡になった。

あは、あはは……もっと笑え。
あははは、あはははははは。

わたしは何年か前、ヤフオクで八千円で落札したChromebookを引っ張り出した。久々に電源を入れてみると、すんなり立ち上がった。
ブログサービスにアクセスする。鬱屈した思いを書き殴って、スッキリしようと思ったのだ。
だが、いざブログを開くと、どうでもよくなってしまった
下書きに残った出来損ないの小説と、失った貴重なデータをトレードできたら、どんなにいいだろう――
まあ、そんなことを考えたって仕方ない。仕方がないのだ。
せっかくブログを開いたので、日記をつけた。公開はしない。
これは案外いいアイデアかもしれない。
パソコンがクラッシュしても、テキストは残る。
画像も音声も貼り付けられる。
いわば、クラウドストレージの代わりだ。
本来、公開を前提として作られたブログサービスの下書きに、公開しない日記を残す。
ちょっと面白い。


3/27(金)
テレビでフィギィアスケートの世界選手権を見ていたら、エストニアの選手がショートプログラムの音楽にプリンスの「Kiss」を選んでいた。
ちょっとびっくりした。


翌日、土曜日。
わたしは朝一番にAppleに電話をかけ、状況を説明した。
ハードディスクを回復する方法を教えてもらい、その指示どおりに作業を始める。

Command + Rで起動。
ディスクユーティリティを開き、確認と修復。First Aid。
macOSの再インストール。
だが、繰り返すうちに、ついにディスクそのものが表示されなくなった。
Command + Option + Rで起動。
十回に一回ほどの確率で、かろうじてディスクを認識する。
そのたびに、同じ手順をなぞる。
確認。修復。First Aid。再インストール。
——だめだ。
起動するたび、画面に「?」マークのフォルダが出@&$&¥★〇◆♀……

夕方。
力尽きて、仰向けに倒れ込んだ。
携帯が鳴る。ショートメッセージだ。
送り主は、東京にいた頃、勤めていた会社でアルバイトをしていた大学生。——いや、今はもう立派な社会人だ。
最後に会ったのは、五、六年前になる。

【お久しぶりです ご無沙汰しております】
【おす。久しぶり。元気?】
【お陰様で元気でやっております 突然なんですけど、むかし連れて行ってもらった渋谷の台湾料理屋の名前を教えて下さい】
【ピンイン https://oishii***.com/uso800/dontclickthis/0123456789/】
【ありがとうございます!】
【俺も質問していい?】
【どうぞ😄】
【パソコンがハードディスクを認識せんようになってしもたんやけど、 外付けのHDDで動かすんて簡単? ちなみに5、6年前に買ったiMac】
【僕はやったことないんですけど、 HDDじゃなくてSSDを使うのが一般的だと思います】
【SSDってなに?】
【詳しいことは知らないんですが、HDDの速いやつです😀 起動ディスクとして使うなら、SSD一択だと思いますよ】
【そうなんや.…..じゃあSSDってのを買ってやってみるわ。】
【電器屋で聞くのがいいと思います パソコンの型番と年式を伝えて、状況を説明したら、 適当なのを薦めてくれるはずです おそらく1TBで充分だと思います】
【なるほど。じゃあ電器屋に相談するわ。ありがとう。助かった。】
【なんも助けてないです😼】
【たしかに】
【😅.…..】
【冗談。電器屋に相談すべきやということに確信が持てた】
【どういたしまして😎】
【🤔】
【東京に来るときは連絡ください 予定空けます!】
【了解。連絡するわ。ありがとー】
【こちらこそありがとうございました🙇】

やり取りを終えるなり、ブログサービスにアクセスし、日記をつけて寝た。


3/28(土)
おとといリリースされた、cheのEP「Fully Loaded」を聴いた。
アートワークがまさかのTrevor Brownで、ひっくり返りそうになった。
Trevor Brownって、まだ日本に住んでんのかな……

cheはTrevor BrownをCrystal Castles経由で知ったのだろうか。それともTumblrやPinterestで知ったのだろうか。

歳も歳だし、こういう病んだモノにはあまり触れたくない。もたれるのだ。関西のノイズシーンにも興味はない。
でも、アトランタ出身の19歳のラッパーであるcheが、大阪のインディーレーベルが92年にリリースしたカセット「Garbage Sandwich」に直接アクセスしていたとしたら……
そんな、ほとんどありえない妄想を巡らせるのは楽しい。

まあ、「Trevor Brown → 関西ハードコア → Chiptune → Trap / Rage」という文化のねじれも充分面白いけど。

それにしても、Crystal CastlesのEPのジャケットはいただけない。タイポグラフィが野暮で、アートを台無しにしている。ダサくしてどうする。
余計なレイアウトを施さないcheのデザインチームは「分かっとる」。

che "Fully Loaded" 2026
Crystal Castles "Alice Practice EP" 2006
V.A. "Garbage Sandwich" 1992

翌日、日曜日。
わたしは電器屋へ行った。
店は郊外のショッピングセンターの中にある。
わざわざ地下鉄とバスを乗り継いで遠方まで出かけたのは、店のポイントが貯まっていたからだ。
だが、無駄足だった。ポイントの有効期限が切れていたのだ。
またもや、小さな不幸。
――もっとも、不幸はそれだけでは終わらなかった。

売り場で事情を説明した。
パソコンがハードディスクを認識しなくなり、SSDを買いに来たこと。
機種は2019年製iMac Retina、接続ポートはType-C、容量は1TB欲しい――。
ちゃんと伝えたのに、店員はSSDに加えて、なぜかUSB Type-Aケーブルを勧めてきた。
おかしいなと思い、念のため聞き返す。「これ、いるんですか?」
店員はきっぱり言った。「これがないと接続でけへんのですわ」
そんなはずはない。
だが、パソコンに詳しいわけでもない自分は、店員の言葉を信じるしかなかった。ケーブルも買う。
家に帰って確かめると、やっぱり要らなかった。
SSDはそのままポートにすんなり挿さった。
あの野郎、要らねえものを売りつけやがって……

返品しに行くのも億劫だ。店は遠い。ケーブルは1,470円。
交通費を考えれば足が出るし、時間も無駄になる。不幸がまた一つ増えるだけだ。くそ。

orz電機 ファミリーパーク店

TEL 000-123-4567
ご来店誠に有難う御座います。デジタル会員募集中!

《領収書》

022471011316  SSD 1TB
¥19,560

022471112716  USBケーブル
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ポイント値引き 0P
税込計 ¥23,133 (内消費税 ¥2,103)

現金  ¥23,133
お預り ¥23,135
お釣り ¥   2

《お客様ポイント情報》

前回累計ポイント数 0P
値引きポイント数  0P
今回ポイント数   0P
累計ポイント数   0P

実は小さな不幸は、パソコンのハードディスクが逝く前にも起きていた。
その数日前に、歌を録っていたレコーダーを壊してしまったのだ。なぜか別の機器のケーブルを挿し込んで、ポートを潰してしまった。
急いでいたわけでもないのに、どうしてあんなことをしたのだろう……
分からない。
頭のOSも再インストールしたほうがいいかもしれない。
とにかく、レコーダーは使い物にならなくなった。
弱り目に祟り目に、祟り目だ。
はぁ〜あ。

パソコンを復旧する気力は湧いてこなかった。
日記をつけて、寝る。


3/29(日)
おかんが辰巳ゆうとのコンサートを観に、大阪へ出かけた。
夜、飯のときにテレビをつけたら、水谷豊と宇崎竜童が共演していた。
トークとライブ演奏。
水谷豊は「上を向いて歩こう」をカバーしていた。
レゲエにアレンジして。
口に運んでいた里芋の煮っ転がしを、食卓に落としてしまった。
水谷豊、レゲエ好きやったん……?
金、土、日と続けて日記をつけた。
これで晴れて三日坊主だ。やった。


翌日、月曜日。
仕事から帰ってすぐ、買ってきたSSDでパソコンを復旧する。何度も失敗したが、なんとかなった。

その翌日、火曜日。
帰ってすぐ電源を入れる。
画面には「?」マークのフォルダ。くそ。
やり直す。なんとかする。不安定だ。

そして、水曜日。
わたしは「スナック愛」に行った。
パソコンの不具合で、かなりストレスが溜まっていた。
こんなときは、飲むに限る。
半年前に兄貴と一度行っただけの店だ。一人で行くのは少し緊張した。
でも、ママが自分の小説を読んでくれているという話を聞いていたので、会える楽しみが勝った。

開店時間は七時。
ちょうどに行くのも何なので、七時半に店を訪ねた。
扉を開けると、厨房の中のママと、カウンター席の七十歳くらいの客が同時にこちらを見た。
「ハイ。いらっしゃいませ〜」
と言ったのは老人だ。
「なんであんたが挨拶すんねん」とママがツッコむ。
記憶の中のイメージより、ママはずっと若く、三十代半ばから四十代前半といった印象だった。

「一人です。いいですか?」
「どうぞどうぞ」

答えたのは、またもや老人だった。
「あんたはしばらく黙っとき」とママが窘める。

「すんませんねー。この人ちょっとおかしいんですよ。相手にせんといて下さい。さあ、どこでも好きなとこへ掛けて下さい。上着は……」
「ここへ掛けたらいいですか?」

背後の壁に打ち込まれた鉄製のフックにハンガーが掛かっていた。

「はい。そこへお願いします。預かってちゃんとしたらええねんけど……」
「ガサツな女ですんません」と茶々を入れる老人。

ママは一つため息をつき、睨む。
「ええ加減にしいや。……まあまあ、お座り下さい」

店の広さは七坪ほど。
厨房を囲むようにL字型のカウンターがあり、短い辺に二席、長い辺に三席、入口付近には二人掛けのテーブルがある。
合計で七席。小さなバーだ。

       [Entrance]  
+------------- -+
|   2P Table    |
| ( .    . )  |
|               |
|   .    .    |
| +---------+   |
| |         | . |
| |         |   |
| | Kitchen | . |
| |         |   |
| |         | . |
| +---------+   |
+------------- -+
       [Restroom]

老人は短い辺の端に腰を下ろしていた。わたしは長い辺の端に座る。
近くで見るママは、
人の顔を近くでまじまじと見るのは憚られたので、ぱっと見た印象だが――

思ったより背が低く、色白で、
目が細く、下ぶくれで、
おっぱいが大きかった。
いい匂いがした。
すきっ歯だった。
こうした特徴はすべて、彼女の魅力になっていた。
なんかエロかった。
身も蓋もない表現だが、そう思ったのだ。

「お客さん、ウチの店に来やはんの初めてでしたっけ?」
今度こそ、ママがそう言った。

「半年ほど前に兄貴と寄せて貰うたんです」
「へえ。お兄さんと……」

ママは黒目を天井に泳がせ、唇をかすかに噛んだ。
誰のことか思案しているようだ。

「兄貴は最近ここへ来たそうです。たしか同窓会の帰りに……」
「あ、わかった! 散髪屋さんや」
「そうです。それがウチの兄貴です」
「思い出したわ〜。顔、よう似てはりますよね」
「そう言われます」
「そっかぁ、散髪屋さんの弟さんか。ほんであれや、弟さんは小説家や」
「ちゃいますよ。趣味で書いてるだけです」
「趣味でもなんでも小説書いてはんにゃから、小説家に違いないですやん。わたし、読んだんですよ。弟さんの小説」
「兄貴から聞きました……あ、そや。先にゆうとかなあかん。僕、スナックのシステムをよう分かってないんです」
「ははは」
「……ええ歳して何ゆうとんねんちゅー話ですよね?」
「いや。そうゆうこっちゃないんです。ウチ、スナックやめたんですよ」
「え…..」
「今はバーなんです。業態変更して」
「へえ、そやったんですね。それはそれは……。そうゆうたら、天井から吊ったカラオケ用のモニターが無くなってますね」
「あれが問題やったんです」

「上の階の住人が文句ゆうてきよってん」と老人が口を挟む。
ママはこくりと頷いた。

「おそらく転居してきやはった人やと思う」
「どなり込んで来たんですか?」
「ううん。連絡してくんのは管理会社。まあ、おかげですっきりしたわ」
「前向きですね」
「人生、諦めが肝心です。いやね、ちょうど、週末に入ってくれてた女の子が辞めることが決まってて、代わりを探さんならん状況やったんですよ。そやし、まあタイミング的には『ええかな〜』と……」
「ええことあれへん。ボクはその住人のせいで、愛ちゃんと『銀恋』、デュエットでけんようになった」

老人がそう言うと、ママは白い歯をこぼした。

「わたしは楽になった。歌うん苦手やし、ストレスやってん。……あ、弟さん、なに飲まはります?」
「そうですね。ウィスキー貰えますか」
「銘柄は?」

スナック時代の名残だろう。この規模のバーにしては多すぎる量のボトルが棚に並んでいる。
札がかかっているもの、白いマジックで名前を書いたもの、ステッカーをベタベタ貼ったもの。半分以上焼酎だが、ウィスキーもそこそこある。

「ほな、ジャックダニエルをロックで」
「かしこまりました」

ママは棚からボトルを取り、俯いて作り始めた。

「小説、書きはるんですか?」と老人が言った。

「ええ、まあ。もうやめたんですけどね……」

からん、と金属的な響きがした。
氷がグラスに落ちたのだ。

「あ……ごめんなさい」

これまでのやり取りを考えれば、老人が「なにしてんにゃな〜」とでも言いそうな場面だ。
だが、言わなかった。緊迫した空気を察したのだろう。

「全然、気にせんといて下さいよ」
「いや、ごめんなさい。ちょっとびっくりしてしもうて……」
「びっくりって?」
「……小説書くのん、やめたんですか?」

ママはなんだか哀しそうな目をしていた。
わたしは思わず視線を逸らし、テーブルの上に目を落とす。

「はい……。やめたんです」
「なんで?」
「才能ないから」
「……」

ママは明らかに納得していない様子だ。
俯いてウィスキーに戻る。
ママの気持ちを代弁するように、老人が訊ねてきた。

「差し出がましいようですが、あなたは、どの才能が足らんと思わはったんですか? いろいろありまっしゃろ。たとえば、創造力――あ、クリエイティヴのほうのね、それから、発想力、洞察力、観察力、文章力……」
「全部です」
「全部……?」
「はい。根本的な話をすると、頭の出来の問題です。アホやから、難しいことがわからへんのです」
「難しいことって?」
「たとえば哲学とか。ちゃんとした内容のある小説を書くためには――抽象思考ゆうんですか――あれがでけんとあかんなと思うたんです。短いのんを百編書いて、やっとわかりました。この頭では小説は無理や、と……」

「お待たせしました」
ウィスキーが出て来た。
ママの声からは、元気が失われていた。

わたしは自分の発言を悔やんだ。
図らずも……ではあった。しかし、結果的には、有名作家の重大な告白のようになってしまった。
こういうところでは口を慎むべきだ。余計なことを言うものじゃない。これは飲み屋のルールだ。
それをよく知っているはずなのに、つい口走って、場の空気を変にしてしまった。
わたしは小説をやめた。だが、それがどうしたというのだ?
酒も出てこないうちに自分の問題を俎上に載せるなんて、新参者のくせに主役気取りかよ。
逃げ出したかった……

わたしを救ったのは老人だった。
「小説書くのに、哲学、要るかなあ? もちろん、分かっとったらそれなりにええことはあるでしょう。たとえば、世界観に深みが出たり、キャラクターの葛藤が真に迫ったり……。せやけど、哲学はあくまで補助ツールであって、小説を書くための必須条件やないと思いまっせ。……あ、申し遅れました。ボクはつかさといいます」

ママが茶々を入れる。
「グラビアアイドルみたいな名前でしょ?」
老人はママに向かって「アホ」と言い放ち、わたしに向き直った。

「司は苗字です。ここに来るお客さんはボクのことを『ノリ』とか、『ノリオ』とかゆうて呼びます」
「『ノリオ」さんですね……。わたしは――」

「弟さんや」と、ママが言った。
「『弟さん』て呼ぶわけにはいかんやろ」と老人が返す。
「ええねん」
ママが許可した。
老人は、またわたしを見た。

「『弟さん』で、ええんですか?」
「え、ええ……。弟で結構です」
「言わされてない?」
「いや。弟で大丈夫です」
「はぁ……。ほな、弟さんて呼ばして貰いますよ?」
「ええ。そう呼んで下さい」
「あの、弟さん。ボクは小説のことはようわからんけど、これだけははっきり言えます。アホには小説百編、書けまへんで。それだけは間違いない」

「やんな? そうやんな?」
ママの声には、すっかり元気が戻っていた。
まさに我が意を得たりといった様子で、得意満面の笑みを浮かべている。
わたしは老人に手を合わせたかった。
ようやく、ウィスキーに口をつける。

「なあなあ、弟さん――」とママが言う。
「ノリさんな、こう見えて法科出てんねんで」
「おぉ、すごい」

「やめ、やめ」
ノリオさんが慌てて口を挟んだ。
ママは意地悪そうに笑っている。

「大学で法律、勉強したんちゃうん?」
「大昔のこっちゃ。それに、大学ゆうたかて、夜学やさかいな」
「でも卒業したんやろ?」
「したけど、人に言わんでええ」
「言うてもええやん」
「あかんにゃ。大学から釘刺されてんねん。『うっとこの学校出た、言うなよ。学校の評判落ちる』ゆうてな」
「またアホなことゆうてるわ」
「せや。弟さんの小説、あいつに読ましたらええやん」
「あいつって、センセイ?」
「ああ」
「センセイにはもう読ましたで」

ママはわたしに向き直った。

「弟さん。うっとこのお客さんにね、中学校で国語教えてる先生がいやはんねん。わたし、その人に弟さんの小説、勧めて読ましてん」
「え」
「あの、バロウズのパロディとか、絵文字使うて書いたやつとか」
「あんなもん、読まさはったんですか?」
「絶賛してたで」
「ウソや」
「ほんまほんま。センセイ、今日あたり来るんちゃうやろか」

その時、店の扉が開いた。

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