男が甘えたくなる女の正体は、「安心」だと思う
男を沼らせるテクニック、なんてものが、巷にはたくさん出ている。
私もそれなりに、これまで付き合ってきた人を沼らせてきたと思う。
多少遠くても、毎日私に会うために通い詰めてくる。
LINEを返さないでいると、追撃が来る。
なんでもない日にプレゼントを渡してくる。
そういうことが、何人かの相手に繰り返し起きた。
当時の私は、それを愛されている証拠だと思っていた。
もし今、少しそっけない彼氏や好きな人を、こんなふうに沼らせたいと思っているなら、この記事は読む意味があると思う。
ただ、最後まで読む頃には、あなたが欲しかったものと少し違って見えるかもしれない。
自然体でいられる相手になる
人が深く惹かれるきっかけは、派手な駆け引きじゃない。
この人の前では、自然体でいていい。
ちゃんとしていなくても大丈夫。
弱いままでも、かっこ悪くても、嫌われない。
そう思えることだと思う。
弱いところを見せても、笑わない。
かっこ悪い話をしても、引かない。
相手の言葉を途中で奪わず、まずそのまま受け取る。
それだけで、人は驚くほど心を開く。
実際、私はこれまで何人もの男性が泣くところを見てきた。
本当はこういうことがつらかったんだとか、
安心できる場所がないんだとか、
そういう言葉を、やっとこぼせたみたいに泣く人を、
男友達だった人も含めて何人か見てきた。
弱さを見せられる場所が少ない人は多い。
とくに男性は、友達同士でも職場でも、
「しっかりしていなきゃいけない」
空気の中にいることが多い。
だからこそ、この人の前では無理に強くなくていい、と思えると、
一気に心を預けたくなるのだと思う。
「可愛いね」がほどくもの
「彼女に甘えたい」と思っている人は、思っている以上に多い。
でも、それを口に出せる人は少ない。
だから、こっちから場所を作る。
胸に頭を寄せさせて、髪を撫でる。
「よしよし」と言う。
そういうこともしてきた。
でも私の中でいちばん大きいのは、
「可愛いね」という言葉だ。
もちろん、かっこいいとか、
こういうところが素敵だよ、
という言葉もちゃんと伝える。
でも「可愛いね」は少し違う。
何か失敗した時。
相手が、自分でかっこ悪いと思っていそうな時。
あるいは、ただご飯を食べて幸せそうにしている時。
そういう瞬間に私はよく、「可愛いね」と言う。
子ども扱いしたいわけじゃない。
男として見ていないわけでもない。
かっこよさとは別のところで、あなたの存在そのものが愛おしい、
ということを伝えたいのだと思う。
最初は照れる人が多い。
「それって、男として見られてないってこと?」
「かっこよくないってこと?」
と、少し気にする人もいる。
でも、そうじゃない。
かっこよさはかっこよさとしてちゃんとある。
そのうえで、ふっと力が抜けた瞬間や、無防備な表情や、
ちょっとした不器用さまで含めて愛おしいのだと、
少しずつ伝えていく。
そうすると、だんだん慣れていく。
最初は戸惑っていた人が、
その言葉をうれしそうに受け取るようになっていく。
意外かもしれないけど、これが効く。
実際、今の彼は身体も大きくて包容力があって、
これまでも甘えられることは多かったらしい。
でも、女の子に甘えるのは私が初めてだと言っていた。
思い返せば、これまで関わってきた人たちも、
みんな少し驚いたような顔をしていた。
こんなの初めて、みたいな反応をすることが多かった。
「可愛いね」は、私にとってかなり魔法の言葉だ。
夜のことを、曖昧にしない
性の話は避けられがちだ。
でも、ここを曖昧にすると、関係の深さには限界が来る。
私がやってきたことは、すごくシンプルだと思う。
自分から「したい」と言う。
「これが気持ちよかった」と伝える。
「こんなこともしてみたい」と提案する。
ただ、これは別に、いつも堂々としていられるという話じゃない。
言うのは普通に恥ずかしい。
自分から欲を口にするのは、今でも少し照れる。
でも、その恥ずかしさごと渡すことも大事なんだと思う。
言いよどむことも、目を逸らすことも、声が少し小さくなることも、全部ひっくるめて、その場の熱になる。
平然と正解だけを言うことより、恥ずかしがりながらでもちゃんと言葉にするほうが、ずっと親密だ。
それに、夜のことを言葉にするのは、ただ欲望を伝えるためだけじゃない。
安心して触れ合うためでもある。
痛みや違和感があるなら、ちゃんと言う。
ただ「それ嫌」だけで終わらせるんじゃなくて、
こうすると少し痛いみたい、 こっちの触り方のほうが気持ちいいかも、
そういうふうに、なるべく提案の形で渡す。
クレームより、提案に寄せる。
相手を責めるためじゃなくて、二人で気持ちよくなるために話す。
それだけで空気はずいぶん変わる。
正解探しの空気は、お互いの身体をこわばらせる。
でも、「もっとよくしてあげたい。だから一緒に作ろう」という空気なら、少しずつほどけていく。
どうしたら気持ちいいかなんて、結局いろいろ試してみないとわからないのだから。
テクニックがあるかどうかより、 この人を気持ちよくさせたい、
この人が好き、 その気持ちがちゃんと伝わることの方がずっと大事だった。
その気持ちがあれば、ぎこちなくても愛おしい。
逆に、どんなにうまくても、義務感や惰性でしていると相手には伝わってしまう。
夜のことを言葉にするのは、いやらしさより、安心のほうに近い。
曖昧なままにしない。
気持ちよかったことも、してほしいことも、嫌なことも、ゃんと渡す。
それも、相手を安心させるやり方のひとつだと思う。
信じるほうへ、関係を寄せる
もうひとつ、最近とくに大事だと思っていることがある。
「信じてるよ」と、言葉にして伝えること。
支配しすぎない。
干渉しすぎない。
でも、頼るし、信じる。
あなたのことをコントロールしたいわけじゃない。
でも、あなたのことを信じている。
この距離感を保てると、相手は自分から近づいてくる。
束縛でつなぎとめるんじゃなくて、安心でつながっている関係。
深くなる関係は、たいていこっちだ。
人を惹きつけるのは、刺激より安心だ
ここまで、恋愛の手の内みたいに書いてきた。
相手の弱さを受け止めること。
「可愛いね」と伝えること。
夜のことを曖昧にしないこと。
信じてるよ、と言葉にすること。
どれも一見すると、相手を惹きつけるための技に見えるかもしれない。
でも、私がやってきたことの本質は、たぶんずっと同じだ。
この人の前では、ちゃんとしていなくてもいい。
強がらなくてもいい。
弱いままでも、かっこ悪くても、嫌われない。
そう思える空気をつくること。
人は、刺激だけでは長くは惹かれない。
少なくとも、深くは預けられない。
何度も思い出してしまう相手になるのは、
興奮させる人より、安心させる人なんだと思う。
ここまで読んで、 ああ結局この話は「安心」の話なんだな、
と気づいた人もいるかもしれない。
そしてここから書くのは、もうひとつの本音だ。
私は最初から、それを愛として使えていたわけじゃない。
でもこれは、最初から愛ではなかった
ここからが本題だ。
正直に言う。
私がこれを身につけたのは、愛し方を知っていたからじゃない。
生き延びるためだった。
幼い頃から、母の機嫌を読んでいた。
怒らせないように。
見捨てられないように。
相手が何を求めているのかを察して、先回りして差し出していた。
それが私の生存戦略だった。
人に好かれる方法を、本で読んで研究した。
相手が心地よくなる表情、相槌、距離感を、必死に練習した。
「この人なら受け入れてくれる」と思わせる力は、才能じゃない。
生き延びるために、必死で身につけたスキルだった。
だから、過去の恋愛では、この力は「相手をつなぎとめるための道具」だった。
見てほしくて、安心を差し出していた
昔の私は、ずっと誰かに自分を見てほしかった。
愛されたかった。
必要とされたかった。
ここにいていいと思いたかった。
だから相手に安心を与えた。
甘えられる場所を作った。
弱さを受け止めた。
夜のことも言葉にした。
でも、それは純粋な愛情だけではなかった。
対価がほしかった。
相手に安心を渡す代わりに、私も居場所がほしかった。
見捨てないでほしかった。
必要としてほしかった。
沼らせていたのは、愛していたからじゃない。
見捨てられるのが怖かったからだ。
読ませない、試さない
そんな私が、今いちばん気をつけていることがある。
安心を渡すって、優しくすることや甘えさせることばかりみたいに見えるかもしれない。
でも実際には、しないようにしていることも同じくらい大事だ。
まず、「察して」をしない。
これは高校生の頃から、かなり意識してやめていた。
少女マンガで、すれ違ってばかりの主人公たちを見て、
「いや、話し合えよ」と思ったのがきっかけだった気がする。
その時ふと、私はやれているか、と思った。
思ったことや感じたことをちゃんと自分の口で渡さないまま、
相手にわかってもらおうとしていないか、と。
それ以来、してほしいこと、嫌だったこと、うれしかったことは、
できるだけ言葉にするようにしてきた。
人は、わからないものが苦手だ。
「察して」はその最たるものだと思う。
わからないまま試されることほど、しんどいものはない。
だから私は、少なくとも自分が差し出す側になる時には、
できるだけわかりやすくいたいと思っている。
それから、自分の機嫌は自分で責任を持つ。
寂しい、不安、疲れた、腹が立つ。
そういう感情はもちろんある。
でも、それをそのまま相手の宿題にはしない。
まず自分で把握して、必要なぶんだけ言葉にする。
不安を煽ってつなぎとめることもしない。
……と言いながら、昔の私に覚えがないわけじゃない。
返信が遅いと苦しくなる。
本当は不安だと言えばいいのに、素直に言えない。
だから少し拗ねる。黙る。
距離を取る。
突き放すようなことを言って、相手が追ってくるかどうかを見てしまう。
本当に好きなら、追ってくるはず。
本当に大事なら、わかってくれるはず。
そうやって、愛情を測ろうとしていた。
でも今思えば、あれは計算高い駆け引きというより、不安の処理だった。
私は、自分のことを愛していなかった。
だから、他者が自分を愛してくれることも信じられなかった。
苦しい。
見捨てられるかもしれない。
ちゃんと好きでいてもらえているのかわからない。
その気持ちを、自分の中で抱えきれなくて、
関係の中にそのまま流していただけだったのだと思う。
不安はある。
今だって、まったく無くなったわけじゃない。
でも、だからこそ今は、不安を相手への試し行動に変えないことを大事にしている。
不安なら、不安だと言う。
寂しいなら、寂しいと言う。
嫌だったなら、嫌だったと伝える。
読心を求めない。
相手の反応で自分の価値を測らない。
安心は、相手に読ませないことでもあるのだと、ようやくわかってきた。
奪わない、支配しない
もうひとつ大事なのは、相手の自由を敵にしないことだ。
ひとりの時間。
趣味の時間。
友達と過ごす時間。
そういうものを、「私より大事なんだ」と受け取らないこと。
その人にはその人の時間がある、という前提の上で、
それでも近づいてこられる関係のほうが、ずっと強い。
それから、NOをちゃんと安心の一部として扱う。
相手が断れること。
私も断れること。
それがあるから、YESがちゃんと信じられる。
断ったら壊れる関係じゃなくて、断っても残る関係。
私はそういうものを、安心と呼びたい。
最後に、相手を変えようとしすぎないこと。
安心を渡すことと、相手を都合よく育てることは違う。
この人はこういう人なんだな、とまず見る。
そのうえで、必要なことだけ話し合う。
コントロールしない。
でも、放置でもない。
その間にあるものが、信頼なんだと思う。
昔の私は、相手を失わないために、つい関係を握りたくなっていた。
不安だから、確かめたくなった。
揺さぶりたくなった。
思い通りでいてほしくなった。
でも今ほしいのは、そういう関係じゃない。
自由があっても壊れないこと。
断れても壊れないこと。
わかり合えない瞬間があっても、話し直せること。
安心って、優しいことだけじゃない。
相手を支配しないことでもあるのだと思う。
同じことをしているのに、意味は変わった
今の彼に対してやっていることは、表面的には昔とあまり変わらない。
甘えさせる。
安心させる。
夜のことも言葉にする。
信じてると伝える。
でも、意味はまったく違う。
昔は、相手を離れさせないためにやっていた。
今は、この人を幸せにしたくてやっている。
昔は、自分の居場所を確保するための手段だった。
今は、二人の居場所を一緒に作るための行動になっている。
やっていることが似ていても、動機が変わると、こんなにも違う。
自分を満たせるようになって、やっと
いちばん大きかった変化は、ここだと思う。
今まではずっと、誰かに自分を見てほしかった。
愛されたかった。 必要とされたかった。
でも今は、少しずつ、自分で自分を満たせるようになってきた。
自分が何を食べたいのか。
どんな生活が心地いいのか。
何が嫌で、何が好きなのか。
どう暮らしたいのか。
そういうことを、自分で自分にちゃんと聞けるようになってきた。
前は、自分が空っぽのまま、返す力のない人ばかりを選んで、せっせと愛を注いでいた。
私だって本当は満たされたかった。
安心したかった。 見ていてほしかった。
でも、その欲求と行動がつながっていなかった。
満たされたいのに、満たしてくれない相手にばかり与えていた。
今思えば、それは愛というより、自分の傷をどうにかしようとする必死さだったのだと思う。
多くの人は、恋愛の中で、親からもらえなかったものを求めてしまう。
安心して甘えたかった。
見捨てないでほしかった。
自分のままで愛されたかった。
私もそうだった。
でも、恋人は親じゃない。
恋人との関係の中で傷が少し癒えることはあっても、親の代わりにはならない。
親にもらえなかったものを、誰かひとりから完璧な形で受け取ろうとすると、その関係は苦しくなる。
だからこそ、自分を理想に近い形で愛してあげられるのは、まず自分なんだと思う。
今は、与えた時点で私自身がもう満たされている。
返ってくるかどうかを待たなくても、渡した時点で自分の中があたたかくなっていた。
相手のほっとした顔や、緩んだ表情を見た瞬間に、私も満たされていた。
そこが、すごく大きい。
はじめて、目の前の人を幸せにしたいという気持ちで、純粋に与えられるようになった。
ここが、私の中でいちばん大きな変化だった。
沼じゃなくて、安心を渡したい
だから、もしこの記事を読んで、「沼らせテクニック」として使おうとしている人がいたら、ひとつだけ言いたい。
テクニックとして使えば、一時的には効く。
相手は依存してくるかもしれない。
でも、それは「沼」であって、「愛」じゃない。
あなたという存在から、居場所や安心や満足を引き出そうとする男なんて、あなたが沼らせてまで惹きつける価値はない。
その力を、まずはあなた自身のために使ってほしい。
あなたが食べたいと思うものを食べること。
心地よく暮らせるように部屋を整えること。
疲れた日にちゃんと休むこと。
嫌なものを嫌だと認めること。
人を惹きつけるために磨いてきた感受性や気配りを、まずは自分を生かすために使ってほしい。
あなたの欲しい形で、あなたを愛せるのは、あなただけだから。
沼らせるんじゃなくて、安心を渡す。
ようやく、誰かのためにがんばって与えるのではなく、自然体で湧いてくる愛に少しずつ変わってきた。
そうやって誰かのそばにいたいと思えることが、今の私にとってはいちばん愛に近い。
生存戦略だったものが、少しずつ、愛し方に変わっていく。
私は今、その途中にいる。
それが今の、私の愛し方なんだと思う。
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