白くて黒い箱--ルポライター唐澤 雫:第四話「機械にできない」
※本作はフィクションです。登場する人物・団体・施設・企業名等はすべて架空であり、実在のものとは関係ありません。
第一章 誰にでもできる仕事
第一節 夜の甘い匂い
工場の外まで、パンの匂いがしていた。
六月三日、午後八時十五分。
タクシーを降りた唐澤雫は、門の前で一度立ち止まった。
焼けた小麦と砂糖の甘い匂いが、夜の湿った空気へ流れ出している。道路を挟んだ向かいには低い倉庫が並び、その奥を東北自動車道の照明が白く横切っていた。
出荷口へ大型トラックが一台入っていく。
荷台に描かれた青い文字が、工場の照明を受けて浮かんだ。
彩央デイリーフーズ株式会社・岩槻工場。
コンビニエンスストアや量販店へ、パン、サンドイッチ、弁当を納めている。建物の二階にある製パン工程は、昼夜を通して動いていた。
外から嗅げば、菓子店の裏口に似ている。
夜間受付の扉を開けると、甘い匂いより先に、秒針の音が聞こえた。
壁に掛けられた時計の下へ、入場手順が並んでいる。
受付。
体調確認。
持込品申告。
装飾品確認。
毛髪除去。
手洗い。
消毒。
一つ終えるたび、時刻と担当者名が端末へ記録された。
「体温、三十六・四度です」
受付担当者が画面へ入力する。
雫は紫色の入場証を受け取った。
透明なカードケースの中に、唐澤雫、取材研修者、と印字されている。
会社も、雫が何者で、何を書くために来たのかを知っている。
今回の取材テーマは、人手不足を補い、作業者の負担を軽くする食品工場の自動化だった。
白衣へ着替え、髪を帽子の中へ収める。マスクを着け、粘着ローラーを肩から裾まで掛けた。
手洗い場では、正面の画面に残り時間が表示された。
掌。
手の甲。
指の間。
親指。
爪の周り。
手首。
三十秒が終わるまで、次の扉は開かない。
甘い匂いのする工場は、誰かの空腹に合わせて動いているわけではなかった。
時刻、温度、重量、数量。
人間の都合より、数字の方が先に決められている。
「唐澤さんですね」
更衣区域の出口で待っていた藤城孝枝が、雫へ軽く頭を下げた。
四十八歳。製パン二課の課長。
青い名札の上に、役職を示す細い銀色の線が入っている。
「夜勤の取材は初日ですので、今日はライン全体をご覧ください。画像検査と発酵調整を中心に」
「設備導入後、不良率がかなり下がったと聞きました」
「ええ。数字だけなら、かなり成果が出ています」
孝枝は歩きながら答えた。
含みのある言い方には聞こえなかった。
数字を使って成果を説明するのが、管理者の仕事なのだろうと雫は受け取った。
二階へ上がると、匂いが変わった。
焼きたての甘さに、イーストの酸味と洗浄剤の匂いが混じる。
透明な壁の向こうで、白衣姿の作業者が機械の間を行き来していた。成形機のローラーが回り、搬送チェーンが低い音を立てている。

午後八時三十分。
C直の夜礼が始まった。
「B-3ライン、ふんわりミルクロール、予定七千六百個」
夜勤班長が読み上げる。
「強力粉、二八〇六ロット。イースト、二八一四ロット。前直から設備異常なし。外気温高め。発酵室入口側、湿度上昇に注意」
作業者が復唱する。
「画像検査、前直の要確認率〇・八パーセント。黒点判定のしきい値変更なし。自動調整端末、倉持さん」
「はい」
返事をしたのは、列の前方に立つ若い女性だった。
倉持碧。二十三歳。
青い名札を付け、胸元に小さな操作端末を提げている。
「発酵後確認、佐川さん。成形補助、寺尾さん」
「はい」
列の後ろから、小さな声がした。
寺尾文子は六十一歳だった。
ほかの作業者と同じ白衣、同じ帽子、同じマスク。
名札は白。
役職を示す線も、資格を示す印もない。
夜礼が終わると、碧は自動調整端末へ向かい、班長は製造記録を開いた。
文子は成形機の横へ立ち、搬送ベルトの幅を目で確かめている。
「倉持さんが、新しい設備の主操作担当です」
孝枝が雫へ説明した。
「入社二年目ですが、端末操作も記録も正確です」
「寺尾さんは?」
「長い人なので、分からないことがあれば、みんな聞きます」
「教育担当ですか」
「正式には班長が担当です」
孝枝は次の工程を指した。
「あちらが分割機。その先が丸め、中間休止、成形です」
文子の前を、若い作業者が通った。
「寺尾さん、これ、間隔大丈夫ですか」
文子は流れてくる生地を二つ見てから答えた。
「いまは大丈夫。後ろが詰まったら呼んで」
「分かりました」
若い作業者は、それだけ聞いて戻っていった。
誰も文子を教育担当とは呼ばない。
誰もが文子へ聞きに来る。
午後九時。
大型ミキサーから出された生地が、分割工程へ送られた。
白く、丸みのない塊が、一定の重さへ切り分けられる。
四十九・二グラム。
丸め機を通ると、表面へ薄い張りが生まれる。
七分ほど休まされたあと、生地はローラーで延ばされ、短いロール状へ巻かれた。
まだパンの匂いはしない。
柔らかい小麦の塊が、同じ間隔で搬送ベルトへ並んでいく。
文子はその脇に立ち、一つずつを凝視しているわけではなかった。
流れ全体を見ながら、ときどき端の一個へ指を添える。
向きを直す。
隣との間を少し空ける。
巻終わりが上を向いたものを裏返す。
成形された生地は、一定の速さで最終発酵機へ吸い込まれていった。
一つのパンが柔らかく膨らむまでに、工場では数秒の遅れも、次の工程へ渡されていた。
第二節 疲れない目
焼成後のロールパンは、冷却用の長いコンベヤーを回りながら包装可能な温度まで下げられた。
午後十一時三十八分。
最初の製品が、焼成後画像検査設備FORM-EYEへ入る。
機械の入口には、黒い箱型のカメラが上部と左右に取り付けられていた。
パンが一個通過するたび、画面に輪郭線が現れる。
長さ。
幅。
高さ。
焼き色。
表面の裂け。
巻終わりの位置。
黒点。
数字と枠が次々に切り替わる。
一分間に、百八十個。
雫が一つを見終える前に、画面には次のパンが映っていた。
「速いですね」
「速さだけなら、人は勝てません」
隣に立っていた山科隼人が答えた。
生産技術課の主任補佐。
三十一歳。
この画像検査設備と、発酵自動調整設備の導入責任者だった。
パンの一つに黄色い枠が付く。
表面の中央に、黒い点が見えた。
判定は要確認。
搬送路の分岐が動き、そのパンだけが横の受け口へ送られる。
碧が取り上げ、白い照明の下で確認した。
黒い点を指先で軽く触る。
「焦げ粉です」
「異物ではない?」
「はい。表面に焼き付いた生地です」
碧は端末で良品へ戻した。
パンは確認済み品用のトレーへ置かれる。
「機械が全部決めるわけではないんですね」
雫が尋ねた。
「迷ったものを出してくれます」
碧はパンを裏返した。
「最後は、触って確かめます」
「以前は、全部を人が見ていたんですか」
「二人で」
孝枝が答えた。
「一人が上と左右。一人が底面と巻終わり。流れ続けるので、交替しないと目がもちません」
画像検査機の横には、導入前の作業写真が貼られていた。
二人の作業者が、コンベヤーを挟んで立っている。白い照明の下へ顔を近づけ、流れてくるパンを見ていた。
「夜明け前が一番厳しかったです」
孝枝が言う。
「目が乾く。焼き色の境目が見えにくくなる。人によって判断も少しずつ違う」
「見落としがあった?」
「出荷前の抜取りで見つかったことはあります。重大な異物ではありません。形状不良や焦げ粉です」
「画像検査にしてからは」
「同じ条件で見続けます」
FORM-EYEは次のパンを撮影した。
高さ不足。
赤い枠。
空気の音がして、パンが排除箱へ落ちた。

その次は合格。
さらに次も合格。
機械は、何個続いても目を細めなかった。
「画像検査だけではありません」
隼人はラインの奥を指した。
以前、焼成後の天板を作業者が手で移していた場所に、自動搬送機が設置されている。
「天板一枚で十キロ近くあります。熱も残る。腰を痛めた人も、腕を軽くやけどした人もいました」
「いまは機械が運ぶ」
「はい」
「人の仕事をなくすためではなく?」
雫が聞くと、隼人は搬送機の動きを見た。
「人にやらせなくていい負担をなくすためです」
答えに迷いはなかった。
「夜勤は人が足りません。だから自動化が必要なのも事実です。でも、人が足りないから、残った人へ重いものを持たせ続けるのは違うと思っています」
搬送機が天板を持ち上げ、洗浄側へ送る。
作業者は手を添えず、位置を確認しているだけだった。
「導入前、目視担当だった一人は、いま箱詰め工程です」
「人員削減ではない?」
「現時点では配置転換です」
「現時点では」
雫が繰り返すと、隼人は少し考えた。
「設備投資をした以上、生産性は求められます。将来も同じ人数とは言えません」
取り繕わない言葉だった。
機械を入れれば、作業が減る。
減った作業へ人を残し続ける理由は弱くなる。
負担を軽くすることと、必要な人数を減らすことは、同じ設備の中で両立していた。
「数字をお見せします」
隼人はタブレットを開いた。
導入前と正式稼働後の不良率が並んでいる。
設備導入前 四・六二パーセント
正式稼働後 一・三一パーセント
「三分の一以下」
雫は画面を見た。
「はい」
「画像検査で、不良を見つけやすくなったからですか」
「それだけではありません。発酵前の画像計測と条件調整で、形状不良そのものも減っています」
「機械だけで、ここまで?」
「画像検査、発酵調整、成形条件の見直し、現場の運用改善。全部を含めた結果です」
隼人は「機械だけ」とは言わなかった。
それでも、画面の上部には設備導入効果と書かれている。
「誰が条件を変えるんですか」
「基本はFERM-ASSISTが補正案を出します。操作は倉持さんや班長です」
「熟練者の判断は?」
「設備へ移している途中です」
FORM-EYEが黒点のあるパンを要確認へ送る。
碧が取り上げ、今度は焦げ粉を落とさず、不良品の受け箱へ入れた。
「これは?」
「焦げが深いです。食べられますが、商品としては出しません」
雫は受け箱の中を見た。
形の崩れたパン。
高さの足りないパン。
焼き色の濃いパン。
どれも食べられないものには見えない。
同じ商品として並べられないものだけが、機械によって流れから外されていた。
画面の数字が更新される。
合格。
合格。
要確認。
合格。
疲れない目が、工場の夜を少し軽くしているように雫には見えた。
第三節 生地が急いでいる
六月五日の夜は、工場へ入った時点から空気が重かった。
昼間に降った雨が上がり、外気の湿度が高い。
製造区域は空調管理されているが、原料や人の出入りが増える時間帯には、入口付近の湿度がわずかに動く。
午後十時三十五分。
B-3ラインの端末には、異常を示す色はなかった。
生地温度、二十七・一度。
発酵室温度、三十六・〇度。
湿度、七五パーセント。
分割重量、基準内。
ミキサー電流値、基準内。
FERM-ASSISTの提案は、標準発酵四十四分。
「この条件で確定します」
碧が画面へ触れようとした。
「待って」
文子が言った。
大きな声ではなかった。
碧の指が画面の手前で止まる。
文子は成形機から出てきた生地を一つ取り、掌へ載せた。
衛生手袋をした人差し指で、表面を軽く押す。
丸いくぼみができ、すぐに戻った。

文子は隣の生地にも触れる。
さらにその次。
巻終わりを下へ向け、表面を斜めから見る。
「今日は生地が少し急いでる」
碧が端末を見た。
「温度は正常です」
「温度はね」
「発酵室も標準です」
「うん」
「どこが急いでるんですか」
文子は答えず、碧へ生地を渡した。
「押してみて」
碧が人差し指で押す。
生地が戻る。
「戻ります」
「どう戻った?」
「すぐに」
「そこだけ?」
碧がもう一度押した。
「そこだけ、って」
「指の跡は戻ってる。でも周りが一緒に動いてない」
雫も横から見たが、違いは分からなかった。
白い生地に、小さなくぼみができて消える。
それだけだった。
「昨日の生地と違うんですか」
碧が聞く。
「昨日より、表が早い」
「表?」
「乾き始めてる。中はもう動いてる」
文子は搬送ベルトを指した。
「間隔も少し狭い」
成形された生地同士の距離は、雫には同じに見えた。
文子は数個を追い、前方の成形担当者へ声を掛けた。
「押し込み、少し強くなってない?」
担当者が機械の設定を確認する。
「設定は同じです」
「手で入れるとき」
担当者は、自分の動きを一度再現した。
「急いでるかもしれません」
「少しだけ弱くして」
「はい」
文子は碧へ戻る。
「湿度は上げないで」
「機械は標準です」
「時間を二分短くして。間隔を少し空ける」
「四十二分?」
「そう」
碧は隼人を見た。
この夜は、自動調整の検証のために隼人も立ち会っていた。
「FERM-ASSISTは四十四分です」
碧が言う。
「表面温度も標準範囲です」
隼人が文子へ尋ねた。
「時間を短くする理由を、もう少し教えてください」
「このまま四十四分入れたら、後ろが広がる」
「表面が乾き始めているなら、湿度を上げる方が」
「湿度を上げたら、表は楽になるよ」
「では」
「中も進む」
文子は発酵機へ入っていく生地を見た。
「前の工程が少し詰まったから、出てきたばかりでも中は待ってる。そこで湿度を上げたら、後ろが膨らみすぎる」
「前工程の停止は二分四十秒です」
「その二分があるでしょう」
「搬送再開後に間隔を戻しています」
「戻り切ってない」
隼人はライン履歴を開いた。
成形機の直前で、材料補充のため短い停止があった。
端末には通常範囲の小停止として残っている。
「二分短縮で検証しましょう」
隼人が言った。
「搬送間隔も一段階広げる。湿度は変更なし」
碧が操作する。
発酵時間 四十四分→四十二分
湿度 変更なし
搬送速度 マイナス一パーセント
「確定します」
端末に操作者名が表示された。
倉持 碧
文子の名前は出なかった。
四十二分後。
発酵を終えた生地がオーブンへ入る。
焼成、冷却を経て、最初のパンがFORM-EYEへ流れた。
高さ、規格内。
幅、規格内。
表面裂け、なし。
続くパンも合格した。
不良率は、その時間帯の通常値より低かった。
隼人はタブレットへ数値を記録する。
「二分短縮が効いています」
碧は文子へ近づいた。
「どうして二分だったんですか」
「三分だと足りない」
「何が足りない?」
「膨らみが」
「一分では?」
「まだ進む」
「それは、見れば分かるんですか」
「焼けたあとならね」
「焼く前に分かったから、二分にしたんですよね」
文子は手元を流れる次の生地へ触れた。
「前に三分短くして、詰まったことがあるから」
「いつですか」
「何年も前」
「記録は」
「あるんじゃない。形状不良で」
「原因も?」
「そのときは、私が下手だった、で終わった」
文子は一つの生地の向きを直した。
「失敗した数が多いだけだよ」
休憩時間、雫は文子と同じテーブルへ座った。
午前零時を過ぎていた。
休憩室の自動販売機の音に、遠くの搬送機の振動が重なる。
「誰かに教わったんですか」
雫が尋ねた。
「最初はね」
文子は紙パックの茶を飲んだ。
「温度を見る。乾かさない。発酵を進めすぎない。巻終わりを下へする。そういうことは教わった」
「今日のような判断は?」
「失敗して覚えた」
「生地が急いでいる、というのは、文子さんだけの言葉ですか」
「ほかの人は言わないね」
「どういう状態か、言葉にできますか」
文子は少し考えた。
「先へ行きたがってるのに、外だけ置いていかれてる」
「それを数値にすると?」
「分からない」
「表面温度や湿度では」
「同じ数字でも違う日があるから」
「粉の違い?」
「粉もある。室温も、前が止まった時間も、成形の人が急いでるかも」
「それを全部見ている」
「全部なんて見てないよ」
「では」
「気になったものを見る」
「気になるかどうかは」
「前と違うから」
「前とは、いつの前ですか」
文子が笑った。
「それが分かれば、紙に書けるね」
休憩終了の放送が流れた。
文子は立ち上がると、右膝を伸ばすように一度足を動かした。
製造区域へ戻り、また生地へ触れる。
その夜の製造記録には、生地温度も、発酵時間も、湿度も残った。
四十四分を四十二分へ変更したことも記録された。
誰が最初に二分と言ったのかは、どこにも残らなかった。
第四節 操作した人
六月十日。
雫は品質記録用端末で、過去一週間の発酵条件変更履歴を見せてもらった。
発酵時間、プラス一分。
湿度、プラス二パーセント。
搬送速度、マイナス一パーセント。
発酵時間、マイナス二分。
変更理由には、
自動提案採用
現場判断
製品状態確認
のいずれかが選ばれている。
操作者欄には、倉持碧の名前が多かった。
「一週間で十二回変更しています」
雫が言うと、碧は画面を覗き込んだ。
「それくらいだと思います」
「全部、倉持さんが決めたんですか」
「操作したのは私です」
「判断したのも?」
碧は返事をしなかった。
ちょうどそのとき、FERM-ASSISTの画面に補正案が出た。
表面温度低下傾向
発酵時間 プラス二分推奨
「来ました」
碧が言う。
生地温度は二十六・八度。
規格内。
発酵室の温度と湿度にも異常はない。
文子が成形後の生地へ触れた。
一個。
二個。
三個目は持ち上げず、搬送ベルトの上で表面を軽く押す。
「今日は足さない」
「機械は二分追加です」
「前が遅れてただけ」
「表面温度が低いです」
「中はもう起きてる」
「どうしてですか」
「匂いが出てる」
碧はマスクの内側で息を吸った。
「分かりません」
「近くじゃなくて、流れてきたとき」
文子はベルトの上流を指した。
「あと、戻りが鈍い」
「前は速いと短くしたんですよね」
「今日は鈍いけど、遅れてるんじゃない」
「鈍いのに?」
「柔らかくなってる」
碧の眉が寄る。
「同じ言葉で、違う意味に聞こえます」
「違うからね」
文子は生地の側面を見せた。
「表面が冷たいだけ。中は待ってた。ここで時間を足したら、焼いたあと幅が出る」
「前工程の停止は?」
「三分十二秒」
碧が履歴を確認する。
「ミキサー待ちではなく、成形機の清掃です」
「その間、生地は休んでる」
「FERM-ASSISTには停止時間が入っています」
「入ってても、二分足すって言ってるでしょう」
碧は隼人を呼んだ。
隼人が画面と生地を確認する。
「文子さんは標準維持ですか」
「そう」
「湿度も?」
「変えない」
「検証として、自動提案を不採用にします」
隼人が言った。
碧が画面へ触れる。
自動提案 不採用
発酵時間 四十四分
湿度 七五パーセント
確認ボタンを押す。
操作者 倉持 碧
雫は画面の名前を見た。
「いまの判断は、倉持さんの判断ですか」
碧が振り返る。
「操作したのは私です」
「決めたのは?」
「寺尾さんです」
「記録では、倉持さんが自動提案を不採用にしたことになっています」
「そうですね」
「寺尾さんの名前は残らない」
「操作端末へ入る資格がないので」
「資格がない?」
「端末操作認定です。寺尾さんは持っていません」
文子は、すでに次の生地を見ていた。
「判断する人に、操作資格がない」
雫が言う。
「操作する仕事と、生地を見る仕事は別です」
碧が答えた。
「会社の記録では、どう分かれていますか」
「成形補助と端末操作」
「判断はどちらに入りますか」
碧は答えられなかった。
焼き上がったパンは、予測どおり幅の規格内へ収まった。
FORM-EYEの排除数も増えなかった。
雫は変更履歴へ戻る。
「この十二回のうち、寺尾さんの判断は何回ですか」
「覚えていません」
「ほとんどですか」
「たぶん」
「機械の提案を採用した回は?」
「それもあります」
「倉持さんが一人で決めたことは」
碧は画面を指で送った。
「設定を戻したり、過去記録と同じ条件にしたりはします」
「生地を見て、発酵時間を決めることは?」
「まだできません」
「機械操作はできる」
「できます」
「数値も読める」
「はい」
「でも、数値が正常なときに変えるかどうかは」
「寺尾さんに聞きます」
碧は言い終えると、自分の社員番号が並ぶ履歴を見た。
「これだと、私が全部決めてるみたいですね」
「そう見えます」
「私が勝手に名前を入れたわけではありません」
「分かっています」
「操作した人を残す記録だから」
「判断した人を残す記録ではない」
「はい」
夜勤班長が通り掛かり、二人の画面を見た。
「何かありましたか」
「変更履歴の確認です」
雫が答える。
「寺尾さんの判断は、どこへ記録されますか」
「寺尾さんが端末操作をすることはありません」
「操作ではなく、判断です」
班長は少し考えた。
「引継ぎが必要なら、日報へ書きます」
「日報に名前も?」
「重要な異常なら」
「通常の補正は」
「通常作業です」
「通常作業なら、誰の仕事ですか」
班長は碧と文子を交互に見た。
「班全体の仕事です」
間違いではなかった。
ラインは一人で動かしていない。
ミキサー担当。
分割担当。
成形担当。
発酵担当。
焼成担当。
画像検査。
誰か一人だけの成果ではない。
その説明の中へ入ると、文子の判断は班全体の仕事になり、端末の上では碧の操作になった。
午前一時過ぎ。
FORM-EYEの排除箱へ、幅の広いパンが一つ落ちた。
雫は取り上げたパンを見た。
「これが悪い形になった原因は分かりますか」
碧が画像検査の画面を開く。
判定 幅超過
焼き色 適合
表面裂け なし
巻終わり位置 適合
「幅が広いことは分かります」
「なぜ広くなったかは」
「ここには出ません」
「発酵しすぎた?」
「可能性はあります」
「成形で押しすぎた?」
「それもあります」
「生地が柔らかかった?」
「それも」
答えが増えるほど、原因は遠くなった。
「寺尾さんなら分かりますか」
「見てもらいます」
碧が文子を呼んだ。
文子はパンを両手で割らず、底面と側面を見た。
「これは成形」
「発酵ではない?」
「巻きが緩い。横へ逃げた」
「焼いたあとでも分かるんですか」
「一個ならね」
「同じのが続いたら?」
「成形の人へ言う」
「機械には?」
「機械は、これを外してくれたでしょう」
文子はパンを不良品箱へ戻した。
「それで十分な仕事もあるよ」
FORM-EYEは、悪い形になったパンを見つけていた。
文子は、悪い形になる前の生地を見ていた。
画像検査の画面には結果が残る。
発酵端末には変更した条件が残る。
文子が何を見て、なぜ変えたのかは、どちらにも入らない。
「寺尾さんが休みなら、誰に聞くんですか」
雫が碧へ尋ねた。
「班長か、山科さんです」
「二人ともいなければ」
「過去の製造記録を見ます」
「それでも迷ったら?」
碧はFERM-ASSISTの画面を見た。
「機械の提案を採用します」
「それで同じ品質になりますか」
「悪いものは、画像検査で弾かれます」
雫が聞いたこととは、少し違う答えだった。
不良品を出荷しないこと。
不良品を作らないこと。
二つは同じではない。
機械が弾かなかったパンだけを見れば、ラインは安定していた。
その安定が、誰の判断を通ったあとに作られたものかは、製造記録からは読めなかった。
第五節 四・六二から一・三一
六月十一日、午後八時四十五分。
山科隼人は、製パン二課の小会議室でノートパソコンを開いた。
壁の向こうから、まだ焼成前の機械音が伝わってくる。会議室の机には、設備メーカーのロゴが入った薄いファイルと、五月三十一日の月次運営会議で使われた資料が置かれていた。
「これが正式稼働後の効果報告です」
隼人が画面を雫の方へ向ける。
最初のページには、導入した二つの設備が並んでいた。
発酵前画像計測・自動調整設備、FERM-ASSIST。
焼成後画像検査設備、FORM-EYE。
その下に、大きな数字が置かれている。
設備導入前 不良率四・六二パーセント
正式稼働後 不良率一・三一パーセント

矢印は右下へ向かっていた。
雫は資料を一枚めくった。
導入前、二十四夜。
総製造数、十八万四千三百二十個。
包装前不良数、八千五百十五個。
正式稼働後、四十二夜。
総製造数、三十二万二千五百六十個。
包装前不良数、四千二百二十五個。
どの数字にも、計算上の不自然さはない。
「かなり下がっていますね」
「はい」
「原因別では?」
隼人が次のページを表示した。
形状不良。
焼き色不良。
表面裂け。
焦げ粉などの異物候補。
すべての項目で数字が下がっている。
「画像検査で不良を多く見つけるようになったなら、不良率は上がることもありますよね」
「導入初期は上がりました」
隼人は試験運転期間のグラフを示した。
「それまで人が良品としていたものを、機械が要確認へ送るようになったので。ただ、しきい値を調整したあとは、発生する不良自体が減りました」
「発酵調整の効果ですか」
「成形条件の安定化もあります。搬送間隔、成形圧力、発酵時間、湿度。記録が残るので、前日の条件を再現しやすくなりました」
資料の次のページには、作業負担の変化が書かれていた。
目視検査担当、二名から一名。
要確認品のみ人が判定。
天板運搬、手作業から自動搬送。
発酵条件、手書き記録から自動保存。
雫は、作業者への聞き取り欄を読んだ。
目の疲れが減った。
コンベヤーを見続ける時間が短くなった。
重い天板を持ち上げなくてよくなった。
夜明け前でも判定が変わらないので安心できる。
「設備を入れてよかったと答えた人が多いんですね」
「全員ではありませんが、負担軽減は実感してもらえています」
「不満は?」
「アラームが増えた。設定項目が多い。要確認品を戻す操作が面倒。最初は、機械に見張られているみたいだという声もありました」
「いまは」
「止められるより、弾いてくれた方が楽だという人が多いです」
隼人は資料の隅へ目を落とした。
「機械にできる仕事は、機械へ渡した方がいいと思っています」
その言葉は、前の夜に聞いたときと変わらなかった。
雫は次のページを開いた。
プロジェクト体制図。
生産技術課。
製パン二課。
品質保証室。
設備メーカー。
名前が十人ほど並んでいる。
山科隼人。
藤城孝枝。
倉持碧。
夜勤班長。
寺尾文子の名前はなかった。
「寺尾さんは、試験運転のときから協力していますよね」
「はい」
「どこに入っていますか」
隼人は体制図を見た。
「正式なプロジェクトメンバーには入っていません」
「なぜですか」
「会議参加者と、設備導入業務を担当した社員で構成したので」
「寺尾さんは社員ではないから?」
「パート従業員ですから、という意味ではありません。現場確認は通常業務の中でお願いしていました」
「しきい値の修正にも関わった」
「関わっています」
「発酵条件の調整にも」
「はい」
「その結果が、一・三一パーセントに含まれている」
隼人はすぐには答えなかった。
「含まれていないとは言えません」
「資料には、自動化による安定化とあります」
「設備だけによる、とまでは書いていません」
「現場の運用改善を含む」
「はい」
「その運用改善をした人の名前は」
「個人名ではなく、製造部門の成果としてまとめています」
雫はページを戻した。
不良率四・六二パーセント。
矢印。
一・三一パーセント。
数字は嘘をついていない。
ただ、数字が誰の夜を含んでいるかまでは書いていなかった。
「月次運営会議では、どんな説明を?」
「ほぼ、この資料どおりです」
「本社から質問は」
「他工場へ展開できるか。どこまで同じ設備で対応できるか。人員配置を見直せるか」
「人を減らせるか、ですか」
「直接には、夜勤の必要人員を一名減らせるかと聞かれました」
「何と答えました?」
「現時点では難しい、と藤城課長が」
「理由は」
「製品切替えと異常対応に人が要ります。設備が止まったときの復旧要員も必要です」
「寺尾さんが必要だから、とは」
「言っていません」
「必要ではない?」
隼人は机の上で指を組んだ。
「寺尾さんがいると安定します」
「いると、ではなく」
「必要だと認めたら、寺尾さんがいなければ動かせない工場になります」
「実際には?」
「動かせます」
「同じ不良率で?」
「そこは、勤務者別に比較していません」
「なぜですか」
「製造データと勤怠データを結びつける集計ではないからです」
答えは簡潔だった。
誰か一人の勤務日と不良率を重ねる分析は、設備導入効果の報告項目に入っていなかった。
「若手作業者でも安定運転可能」
雫は資料に書かれた一文を指した。
「倉持さんは、条件変更の多くを寺尾さんへ確認しています」
「操作は単独でできます」
「操作ではなく、判断です」
「判断を設備へ移している途中です」
「移し終わっていない」
「はい」
「それでも、若手作業者でも安定運転可能と報告した」
「試験期間中、倉持さんが主操作を担当しました」
「寺尾さんが横にいる状態で」
隼人の顔から、設備を説明していたときの軽さが消えた。
「唐澤さんは、報告書が間違っていると考えていますか」
「まだ分かりません」
「数字は確認できます」
「数字の作り方を見ています」
隼人は資料を閉じなかった。
雫がどこまで見るかを待っているようだった。
「山科さんは、寺尾さんの仕事を評価していないわけではない」
「しているつもりです」
「だから、機械へ移したい」
「寺尾さんが休めるようにしたいんです」
隼人は初めて、強い声を出した。
「寺尾さんがいなければ不安だからと、六十一歳の人をずっと夜勤へ置く方がいいんですか。寺尾さんの判断を、寺尾さん一人の中に残す方が敬意ですか」
「そうは言っていません」
「僕は、あの人から仕事を奪いたいわけじゃない。あの人がいなくなった瞬間に消える状態を変えたいんです」
「そのために、何をしていますか」
「画像と温度のデータを集めています。文子さんの判断も聞いています」
「文子さん?」
雫が聞き返すと、隼人は一度口を閉じた。
工場では、ほとんどの人が寺尾さんと呼んでいた。
「以前から、そう呼んでいるんですか」
「現場では、たまに」
「親しい?」
「設備の試験で、かなり話しました」
「報告書には名前がない」
「それとこれは」
隼人は続けず、視線を落とした。
設備へ移すために聞いた判断は、設備開発の資料になった。
資料を作った人の名前は残った。
判断を渡した人は、正式な担当者ではないため外れた。
それを隼人一人の悪意で説明することはできなかった。
プロジェクトの会議は日中に行われる。
文子は夜勤契約だった。
参加させるには、勤務時間を変えるか、別の時間を付けなければならない。
通常業務の中で尋ねれば、早い。
隼人は記録を取り、設備メーカーへ渡す。
文子は生地へ戻る。
「この資料、寺尾さんは見ましたか」
「全体版は見ていないと思います」
「不良率が下がったことは?」
「朝礼でも共有しています」
「寺尾さんの仕事がどう扱われたかは」
「そこまで説明していません」
午後十時過ぎ。
文子は休憩室の端で、温かい茶を飲んでいた。
雫は許可を得て、成果報告資料の印刷物を机へ置いた。
「四・六二から一・三一」
文子は眼鏡を掛け、数字を見た。
「減ったね」
「設備が入って、楽になりましたか」
「検査の人は楽になったと思うよ」
「寺尾さんは」
「天板を運ばなくていいのは楽」
「発酵の判断は」
「前より数字が出るようになった」
「数字が出れば、判断しやすい?」
「分かることは増えた」
「分からないことは」
「前と同じ」
文子は資料のページをめくった。
プロジェクト体制図まで来ても、表情を変えなかった。
「寺尾さんの名前がありません」
「ないね」
「試験運転から協力していますよね」
「聞かれたことには答えた」
「しきい値も変えた」
「私だけじゃないよ」
「発酵条件も」
「山科さんが数字にしてた」
「この成果に、寺尾さんの仕事が入っています」
文子は紙から目を上げた。
「私の夜も入ってるでしょうね」
「名前がないことについて、どう思いますか」
「載せてほしいって言ったことがないから」
「なら、載せなくていい?」
「そういう話じゃないよ」
文子は資料を揃え、雫へ返した。
「誰かの名前を載せれば、その人だけでパンを作ったことになるでしょう」
「では、製造部門全体の成果でいい」
「会社はそう書いてるんじゃないの」
「設備導入効果と書いています」
「設備も働いたよ」
「寺尾さんも」
「私も働いた」
「同じ扱いですか」
文子は眼鏡を外した。
「同じかどうかを、いままで決めたことがないんでしょう」
休憩終了の放送が流れた。
文子は立ち上がり、資料を雫の前へ残した。
「減ったパンの数は、本当なんでしょう」
「はい」
「なら、そこは書けばいい」
「寺尾さんの仕事は」
「私は、これから仕事だから」
文子は休憩室を出た。
雫は体制図をもう一度開いた。
機械の名前。
導入担当者。
設備メーカー。
操作担当者。
パンが悪くならなかった理由より、悪いパンが何個減ったかが大きく書かれていた。
第六節 最後の契約
六月十二日、午後七時三十五分。
文子は夜勤の始まる一時間以上前に、工場へ来ていた。
白衣へ着替える前の文子は、紺色の薄い上着と、黒いズボンを着ていた。右手には小さな布製のバッグを持っている。
孝枝が、労務担当者と一緒に小会議室で待っていた。
雫は面談へ同席しなかった。
取材者がいる前で雇用条件を告げれば、文子が言いたいことを言えなくなる。孝枝がそう判断した。
雫は製造区域の見学通路で待った。
午後八時五分。
会議室の扉が開いた。
先に労務担当者が出てくる。
そのあとに文子が出た。
手には白い封筒があった。
孝枝が少し遅れて続く。
「寺尾さん」
雫が呼ぶと、文子は足を止めた。
「取材で話すかどうかは、寺尾さんが決めてください」
「そうだね」
「今日は、やめておきますか」
「着替えてからなら」
文子は更衣室へ向かった。
階段を二段上ったところで、右手を手すりへ置く。
休むほどではない。
しかし、若い作業者なら触れずに上る高さだった。
文子は一度右膝を伸ばし、そのまま階段を上った。
午後八時二十分。
休憩室の隅に、雫と文子は向かい合って座った。
文子は白い封筒から三枚の紙を出した。
「九月末までが、いまの契約」
文子が指で日付を示す。
「次の半年は更新する方向。でも、その次を最後にするかもしれないって」
「契約終了ですか」
「まだ決定じゃない」
「理由は」
「夜勤の負担。年齢。機械が入ったあとの人員配置」
「日勤への変更は」
「空きがあれば考えるって」
「寺尾さんは、夜勤を続けたいですか」
文子はすぐには答えなかった。
「ずっとは無理でしょうね」
右手で膝の上をさする。
「朝帰ると、階段がきつい日がある。指も、冬は曲がりにくくなる」
「辞めたくない?」
「辞めるのと、要らなくなるのは違うでしょう」
文子は契約書を封筒へ戻した。
「夜がきついから、昼へ移る。身体が動かなくなったから辞める。それなら分かる」
「機械があるから、必要ないと言われるのは」
「そこまでは言われてない」
「でも、理由に入っている」
「入ってるね」
「納得できますか」
「何に納得するの」
「契約を最後にする可能性です」
「会社が決めることでしょう」
「寺尾さんは何も求めない?」
文子は雫を見た。
「唐澤さんは、私に怒ってほしい?」
「そうではありません」
「怒れば書きやすいでしょう」
「怒っていないなら、怒っているとは書きません」
「怒ってないわけじゃないよ」
文子は白衣の袖口を整えた。
「ただ、六十一歳の人間を、必要だからって夜中に置き続けるのも変でしょう」
「必要だから残すだけでは、解決ではない」
「そう」
「では、何が問題ですか」
「それを、まだ言われてない」
「何をですか」
「私がいなくなる前に、会社が何をするのか」
夜礼開始の放送が鳴った。
文子は封筒をバッグへ入れた。
「今日は生地を見ないと」
立ち上がった文子の足取りは、階段のときより軽かった。
製造区域へ入れば、身体が仕事の速さへ合わせる。
午後九時十分。
成形機から出た生地の一部に、巻終わりのずれが出た。
文子が担当者へ声を掛け、投入時の角度を変えさせる。
碧が端末を確認する。
「発酵条件は変更なしですか」
「まだいい」
「まだ、というのは」
「次の十個を見て」
文子は後続の生地を追った。
五個。
十個。
十五個。
「戻ったから、そのまま」
「分かりました」
碧は端末に触れなかった。
変更しない判断は、履歴に残らない。
午後十一時。
雫は孝枝を小会議室で取材した。
「寺尾さんの契約を終える方向ですか」
「決定ではありません」
「次回更新のあと」
「可能性を早めに伝えました」
「自動化が理由ですか」
「理由の一つです」
「ほかは」
「深夜勤務の負担。本人の年齢。人員配置。正社員への技能移行」
「寺尾さんが必要なら、契約を続ければいいのでは」
孝枝は疲れた顔で椅子へ座った。
「必要だから辞められない工場も、正しいとは思っていません」
「本人が続けたいと言っても?」
「体調を崩してからでは遅いです」
「日勤へ移せば」
「日勤の短時間枠は、すでに希望者がいます。寺尾さんだけを優先すれば、別の人へ説明が必要になります」
「技能を評価して配置する方法は」
「技能職の区分は正社員が中心です」
「パートにはない」
「技能手当はありません。班長補助や教育担当の手当はあります」
「寺尾さんは教育担当ではない」
「正式には」
「実際には倉持さんを教えている」
「それは分かっています」
「なぜ正式にしなかったんですか」
孝枝は机の端に置かれた製造予定表を見た。
「班長が教育担当だからです」
「班長だけでは教えられないことを、寺尾さんが教えている」
「そうですね」
「それでも役割を変えなかった」
「変えるには、申請が要ります」
「しなかった」
「必要性を、そこまで明確に整理していませんでした」
言い訳には聞こえなかった。
むしろ、問題が起きるまで整理しなかった管理者の言葉だった。
「寺尾さんへ感謝していますか」
「しています」
「感謝と契約は別ですか」
「別です」
「感謝と手当も」
「別です」
「なら、感謝は何を変えましたか」
孝枝は答えなかった。
会議室の外を、洗浄用具を載せた台車が通る。
車輪の一つが小さく鳴いていた。
「会社は、寺尾さんを排除したいわけではありません」
孝枝が言った。
「それは分かります」
「夜勤の負担も本当に心配しています」
「それも分かります」
「なら」
「寺尾さんが辞めることと、寺尾さんの仕事を簡単な補助として扱うことは、同じではありません」
孝枝は唇を結んだ。
「配置表を見せてもらえますか」
孝枝が端末を開く。
B-3ライン。
ミキシング。
分割。
成形。
発酵。
焼成。
画像検査。
包装。
文子の欄には、
成形補助・包装応援
と書かれている。
「技能の記載は」
「ありません」
「教育担当の記載も」
「ありません」
「機械化後、この工程はどう評価されていますか」
「経験の浅い作業者でも配置可能です」
「誰にでもできる」
「その言い方はしていません」
「意味は同じですか」
「標準手順どおりに行えば、特定の熟練者へ依存せず運転できる、という意味です」
「まだ依存している部分は」
「減らしている途中です」
製造区域へ戻ると、文子が包装工程へ応援に入っていた。
個包装されたパンを箱へ並べる。
製品名。
消費期限。
製造所記号。
印字を確認してから、一定数を箱へ入れる。
この作業なら、短い教育で多くの人ができる。
文子は速かったが、速さ以外に特別な動きは見えない。
休憩に入った文子へ、雫は配置表のことを話した。
「成形補助と包装応援になっています」
「そうでしょうね」
「技能については書かれていません」
「書く欄がないんじゃない」
「機械化後は、経験の浅い人でも配置できる工程と評価されています」
「そうしたいんでしょう」
「悪いことではない?」
「誰にでもできるようにするのは、悪くないよ」
「なら、なぜ怒っているんですか」
文子は紙コップの水を飲んだ。
「まだ誰にでもできないところを、ないことにしてるから」
「文子さんが辞める前に、その部分を機械や若い人へ移したい」
「移せばいい」
「協力しますか」
「頼まれたらね」
「これまでにも、山科さんへ教えてきた」
「聞かれたから答えた」
「倉持さんにも」
「同じ夜にいるから」
「正式に頼まれたら」
文子は空になった紙コップをつぶさず、机へ置いた。
「どう頼まれるかでしょう」
休憩を終え、文子は成形工程へ戻った。
契約が最後になるかもしれない夜も、いつもどおり生地へ触れた。
端末には発酵温度が残った。
湿度が残った。
搬送速度が残った。
文子の名前は残らなかった。
第七節 技能継承シート
六月十五日、午後八時二十分。
夜礼の始まる十分前、孝枝は文子へ一枚の紙を渡した。
上部に、太い文字で題名が印刷されている。
B-3ライン熟練技能継承シート
その下に、記入欄が並んでいた。
生地状態の見分け方。
発酵時間を延長する条件。
発酵時間を短縮する条件。
湿度を変更する条件。
形状不良の予兆。
新人が注意すべき点。
異常時の対応。
A4用紙一枚。
最も大きな欄でも、六行しかなかった。
「こちらを、お願いしたいんです」
孝枝が言った。
文子は紙の表と裏を見た。
裏は白紙だった。
「いつまでですか」
「一か月後を目安に」
「いつ書くんですか」
「通常勤務の中で、手が空いたときに少しずつ」
「手が空く時間、ありますか」
「ラインが安定している時間に」
「そこに立ってるのも仕事ですけど」
「分かっています。無理に今日からとは言いません」
「書く時間は決まってない」
「状況を見ながら」
「手当は?」
孝枝の返事が一拍遅れた。
「通常業務の一部としてお願いするものです」
「仕事ですか」
「業務上の引継ぎです」
「なら、時間をください」
「残業をお願いするつもりはありません」
「残業じゃなく、仕事の時間」
「製造を止めるわけにはいかないので、二十分ずつでも」
「その二十分、誰がここを見るんですか」
孝枝は成形工程へ目を向けた。
「班長か、倉持さんへ引き継ぎます」
「倉持さんは端末があるでしょう」
「調整します」
「決まってから頼んでください」
文子は用紙を受け取った。
折らずに、休憩室の机へ置いた。
夜礼が始まる。
文子は紙を残したまま製造区域へ入った。
午後十時。
B-3ラインは大きな変動なく動いていた。
生地温度、二十七・〇度。
発酵室温度、三十六度。
湿度七四パーセント。
FERM-ASSISTは標準条件を提案している。
文子は生地へ触れ、変更なしと伝えた。
碧が端末を確定する。
午前零時前。
休憩室へ戻った碧が、机の上の技能継承シートを見つけた。
「寺尾さん、これ、作るんですか」
「頼まれた」
「見てもいいですか」
「どうぞ」
碧は紙を手に取った。
「生地状態の見分け方」
欄を指でなぞる。
「これがあれば、寺尾さんが休みでも確認できますね」
文子は茶のふたを開けた。
「そうなるといいね」
「一緒に作ってもいいですか」
「何を」
「私が質問して、寺尾さんが答えて。それを私が書きます」
「書かない」
碧の手が止まった。
「え?」
「私は、いまは書かない」
「どうしてですか」
「頼まれ方が違うから」
「でも、引継ぎですよね」
「そうだね」
「寺尾さんが辞めたあと、私たちが困ります」
「困るでしょうね」
「教えたくないんですか」
文子は茶のふたを机へ置いた。
「あなたへ渡したくないんじゃない」
声が少し強くなる。
隣のテーブルにいた作業者が顔を上げた。
「会社が、あなたへ教える時間まで、なかったことにしようとしてるの」
「なかったこと?」
「いままでだって、教えてきたでしょう」
「はい」
「その時間は、私が勝手に世話を焼いた時間になってる」
「仕事中ですよ」
「仕事中でも、私の仕事は成形補助。あなたの教育は班長の仕事」
「でも、寺尾さんに聞けって」
「みんな言うね」
「なら、仕事じゃないんですか」
「その名前がないって言ってるの」
碧は技能継承シートへ目を落とした。
「私は、どうすれば」
「あなたは悪くない」
「でも、これがなければ困ります」
「だから、仕事として頼んでって言ってる」
「孝枝課長は、業務だと言いました」
「業務なら、時間を決めて、誰が教えるか決めて、教える人の分を払うでしょう」
碧は紙を机へ戻した。
「私は、お金がないと教えてもらえないんですか」
「そう聞こえた?」
「少し」
文子はしばらく黙った。
「あなたに払えって言ってるんじゃないよ」
「分かっています」
「分かってない顔してる」
「分かろうとしています」
碧の声も硬くなった。
「寺尾さんがいなくなったら、端末を使うのは私です。夜中に分からなくなっても、誰も代わってくれません」
「だから教える」
「でも書かない」
「今の頼み方ではね」
「その違いが、私にはまだ分かりません」
休憩終了の放送が流れた。
文子が立ち上がる。
「その違いも、教える仕事に入るんじゃない」
文子は休憩室を出た。
碧は技能継承シートを机へ置いたまま、数秒遅れて立ち上がった。
雫は用紙を手に取った。
生地状態の見分け方。
六行。
文子が先ほど触れた生地を思い出す。
温度は正常。
湿度も正常。
表面の乾き。
指を押し戻す速さ。
周囲の動き。
匂い。
前工程の停止時間。
搬送間隔。
成形担当者の手の強さ。
六行で書けるようには思えなかった。
午前零時十五分。
文子が成形工程から、小さな生地を一つ持ってきた。
廃棄予定の確認用サンプルだった。
「触ってみる?」
雫へ差し出す。
雫は手袋を替え、生地を受け取った。
柔らかい。
冷たくはない。
指で押すと、ゆっくり戻る。
「どうですか」
「柔らかいです」
「それだけ?」
「少し、湿っています」
「表はね」
「中は違う?」
「割れば分かるけど、製造中に毎回割れないでしょう」
文子は生地を受け取り、表面へ指を置いた。
「ここは乾き始めてる」
雫には、先ほど湿っていると感じた。
「乾いているんですか」
「全体じゃない。ローラーに当たった側」
「発酵時間は」
「このままなら標準」
「乾いていても」
「中は遅いから」
「湿度を上げる?」
「上げない」
「なぜ」
「上げたら表は戻るけど、中が追いつく前に柔らかくなりすぎる」
「なら、どうしますか」
「成形の人に、押し込みを弱くしてもらう」
「発酵条件ではなく」
「前で直せるなら、前で直す」
「それをシートへ書けば」
「どこに?」
文子が用紙を指した。
発酵時間を延長する条件。
短縮する条件。
湿度を変更する条件。
「どの欄ですか」
雫は答えられなかった。
「全部書けばいいのでは」
「全部、同じ順番で起きるわけじゃないよ」
「条件を組み合わせて」
「組み合わせが何通りあると思う」
「分かりません」
「私も数えたことない」
「では、手順書にはできない?」
「できないとは言ってない」
「どうすれば」
「一緒に見て、一緒に失敗して、言葉にする」
「時間が掛かる」
「十八年よりは短いでしょう」
文子は技能継承シートを机へ戻した。
孝枝が休憩室へ入ってくる。
「寺尾さん、少しよろしいですか」
「この紙のこと?」
「はい」
「書かないとは言ってません」
「倉持さんから、拒否されたと」
「今の頼み方では書かないって言いました」
「業務上、必要な引継ぎです」
「なら、業務にしてください」
「通常業務の中でお願いしています」
「私の通常業務は何ですか」
「成形補助です」
「教育担当は」
「班長です」
「この紙を書くのは」
「寺尾さんです」
「どうして?」
「寺尾さんしか分からないことがあるからです」
「私しか分からない仕事なら、その仕事の名前を付けてください」
「技能継承です」
「紙の名前じゃなくて、私の仕事の名前」
孝枝は黙った。
「寺尾さんの判断がなくなると、現場が困ります」
「困る仕事なら、仕事として頼んでください」
「仕事として頼んでいます」
「時間も、役割も、手当もない」
「手当については、私だけでは」
「なら、決められる人へ聞いてください」
「提出期限があります」
「誰が決めた期限ですか」
「本社の標準化計画です」
「本社の人は、これを六行で書けると思ってるんですか」
文子の声は大きくなかった。
孝枝の声も上がらない。
二人とも、相手を負かそうとはしていなかった。
だから、間にあるものだけがはっきりした。
「寺尾さんは、十八年間、通常業務として生地を見てきたんですよね」
孝枝が言った。
「そうです」
「なら、その判断も通常業務の一部です」
「十八年、通常業務の一部だったなら、どうして今まで名前がなかったんですか」
孝枝の口が止まった。
文子は用紙を机へ置いた。
破らない。
折らない。
持ち帰らない。

「書かないとは言ってません」
もう一度言う。
「今の頼み方では書きません」
孝枝は用紙を回収しなかった。
「分かりました。確認します」
「何を?」
「時間と、役割と、手当を」
「全部通らないなら」
「通らないことも含めて、説明します」
文子は小さく頷いた。
孝枝が休憩室を出る。
碧は入口近くで話を聞いていた。
「寺尾さん」
「何」
「私は、一緒に作りたいです」
「うん」
「お金が決まらなくても」
「あなたの仕事の時間でやるならね」
「私にも教育の時間が必要ってことですか」
「教わる方の時間も、余り時間じゃないでしょう」
碧は技能継承シートを見た。
「私、端末の仕事があります」
「だから決めてもらうんだよ」
「誰に」
「決める仕事の人に」
文子は製造区域へ戻った。
雫は黒いノートを開いた。
会社は、熟練者から技術だけを抜き取ろうとしている。
契約終了前に、無料で。
そう書けば、記事の輪郭は早く作れた。
しかし、孝枝は文子を追い出したいわけではない。
隼人は文子を楽にしたいと考えている。
碧は文子の技能を奪いたいのではなく、自分が夜勤を任されるために覚えたい。
文子も、教えることを拒んでいない。
拒んでいるのは、教える時間が、誰の仕事にもならないことだった。
雫は一度書いた言葉を線で消した。
技能を奪う会社
その下へ書き直す。
技能を残すのに、技能を持つ人の名前が要らないのか。
夜勤が終わるまで、技能継承シートの白い欄は一文字も埋まらなかった。
三日後、文子は工場を休んだ。
機械は一度も故障しなかった。それでも、いつもの数字だけが戻らなかった。
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