白くて黒い箱--ルポライター唐澤 雫:第二話「AIと人の手作業」
※本作はフィクションです。登場する人物、企業、団体、製品、AIシステム、工場、品質異常および各種数値はすべて架空であり、実在のものとは関係ありません。
第一章 AIが見る前の手
第一節 映らない場所
通勤バスの窓へ、雫の顔と山の稜線が重なっていた。
九月最初の月曜日、午前五時五十二分。
安曇野の田畑には薄い霧が残り、その向こうから朝の光が広がり始めている。山は近くにあるはずなのに、輪郭の下半分が白く曖昧になっていた。
唐澤雫は膝の上の布製バッグを押さえた。
中には、財布とスマートフォン、着替え、それから黒いノートが入っている。
ノートは工場へ持ち込めない。正面玄関を通ったあと、私物ロッカーへ置いていくことになる。
それでも持ってきた。
最初のページを、部屋を出る前に開いていた。
危険を見たら、取材より先に止める。
三河の工場を出た日に書いた文字だった。
線で囲んだ跡が少し滲んでいる。あの日の雫は、二度と同じことをしないための決まりを書いたつもりだった。
決まりを書いたから守れるとは限らない。
それを知っているから、朝ごとに読むことにした。
バスが左へ曲がる。
道路脇の防風林が切れ、白い建物が見えた。
北辰光学デバイス安曇野第二工場。
三河第二工場のような巨大な壁ではなかった。低い製造棟が横へ長く延び、細い窓が等間隔に並んでいる。屋根の向こうに山の上半分が見え、建物が景色を遮るというより、山の下へ薄く置かれているようだった。
正面には会社名のほかに、
見えない精度を、確かな品質へ
と書かれていた。
雫はその文を声に出さず読んだ。
今回の雇用主は派遣会社ではない。
北辰光学デバイスとの二か月契約。品質検査と手直し作業の補助。時給ではなく日給月給で、交替勤務手当が付く。
応募書類の職歴欄には、製造業での勤務経験と、フリーライターとして活動していることを書いた。
嘘は書いていない。
この工場で見聞きしたものを、記事にする可能性があることまでは書かなかった。
前より正直になったとも言える。
前と同じことを、言い方だけ変えたとも言えた。
バスが玄関前で止まる。
乗っていた十五人ほどが順番に降りた。
朝の空気は冷たく、少し湿っていた。遠くで大型車が走る音がしたが、工場の敷地内は静かだった。
雫はバッグを肩へ掛け、白い建物へ向かった。
受付で氏名を告げる。
顔写真入りの社員証を渡された。
縁は橙色だった。
「契約社員の方は橙です。正社員は青、期間従業員は緑。入退場と食堂精算に使います」
受付の女性は社員証を両手で差し出した。
雫も両手で受け取る。
唐澤雫。
製造二課。
契約期限は十月末。
期限が社員証の裏へ印字されていた。
更衣室では、髪をすべて帽子の中へ入れるよう指導された。
白い作業服へ着替え、粘着ローラーを上から下へ掛ける。胸、腕、背中、腰、脚。終わると、別の作業者が肩のあたりを確認した。
「ここ、一本あります」
帽子の下から出ていた髪を指摘される。
雫は鏡を見ながら入れ直した。
次に手洗い。
爪の間。
指の付け根。
手首。
乾燥させたあと、薄い手袋を着ける。
製造室へ入る前に、エアシャワーを通った。
扉が閉まる。
四方から強い空気が吹きつけ、作業服が身体へ張りついた。帽子が浮かないよう両手で押さえる。
十五秒後、反対側の扉が開いた。
音が変わった。

静かな工場だと思った。
金属部品工場で聞いた工具音も、搬送機の重い衝突音もない。作業者の声も小さい。
その代わり、小さな音が途切れなかった。
空気を吸い込む細い音。
樹脂トレーが搬送台へ触れる音。
機械の中で何かが切り替わる短い作動音。
検査を終えたときの電子音。
離れた場所では低いファンが回り続けている。
一つずつなら気にならない音が、製造室全体へ薄く重なっていた。
廊下の両側は透明な壁で区切られている。
白い作業服を着た人々が、手のひらに収まるほどの黒い部品を扱っていた。別の区画では、青い光が一瞬ずつ点き、機械の扉が開閉している。
「新規の方はこちらです」
青い社員証を付けた男が、会議スペースの前で手を挙げた。
瀬戸口達也と名乗った。
四十代半ば。短く整えた髪に白いものが少し混じっている。作業服の袖を肘まで捲らず、手首まで留めていた。
「製造二課長の瀬戸口です。皆さんには車載カメラ用の光学モジュールを作ってもらいます」
雫を含め、新しく入った契約社員は六人いた。
壁のモニターに、完成した製品が映る。
掌より小さい黒い箱だった。中央に丸いレンズがあり、後ろから基板とコネクターが出ている。
「最終的には車の前方カメラに使われます。皆さんが車内から直接触るものではありませんが、正しく組まれていなければ、カメラが正しい方向を見ません」
瀬戸口は製造工程を簡単に説明した。
ハウジングへ基板を取り付ける。
レンズを置く。
機械で光軸を合わせる。
接着剤で固定する。
外観と性能を検査する。
梱包する。
画面が切り替わり、検査装置の写真が出た。
「当工場では昨年度から、外観検査へ画像認識AIを本格導入しています。従来は人がモニターを見て判断していましたが、現在は九十六パーセント前後を自動判定しています」
次の画面には数字が並んでいた。
顧客流出不良ゼロ。
検査工数三割減。
自動判定率九六・二パーセント。
「外観検査員は従来比で三割減りました。ただ、これは人を不要にしたということではありません。人は機械にできない判断、手直し、改善へ集中するようになっています」
瀬戸口の話し方には、製品説明会のような華やかさはなかった。
数字を強く言い立てることもない。
実際に起きた変更を、責任者として説明しているだけに聞こえた。
説明を終えると、新規作業者は各担当へ引き渡された。
雫の前へ、小柄な女性が来た。
白い帽子の下から、耳の前に短い髪が少し出ている。マスクをしていても、目元の皺で年齢が分かった。
「唐澤さん?」
「はい」
「柴崎です。二か月、私のところに付いてもらいます」
社員証の縁は青かった。
柴崎美津子。
役職欄には何もない。
雫は先ほどの資料を手にしたままだった。
美津子が紙面を見る。
「検査員、三割減ったって?」
「はい」
「減ったんじゃないよ」
美津子は歩き出した。
雫も隣へ並ぶ。
「映らない場所へ動いただけ」
「映らない場所?」
「そのうち分かる」
美津子は足を止めずに答えた。
製造室の中央へ近づくと、透明なカバーで囲まれた装置が並んでいた。
トレーに載った黒いハウジングが、一台ずつ装置の中へ送られる。その先で小さなレンズが置かれ、別の機械へ渡されていく。
「唐澤さんは最初、レンズの手置き。慣れたら検査前の手直しもやってもらう」
「AIの前ですか」
「そう」
「AIが検査するなら、手直しは検査のあとじゃないんですか」
美津子は雫を一度見た。
「見つけてもらうために、わざわざ汚れたまま出すの?」
「それは……」
「汚れは先に取る。接着剤が出てたら先に直す。置き方が悪ければ座り直す。機械に見せるのは、そのあと」
美津子は作業台から透明なケースを一つ取った。
中には黒い筒状の部品が並んでいる。
一つを雫の掌へ載せる。
冷たくはなかった。
外周は黒い樹脂で、中央のガラスが天井の光を丸く映している。
「これがレンズバレル」
雫は指先だけで持った。
片手に収まる。
落とせば簡単に壊れそうだった。
「一日千台以上、この工場から出る」
「これを全部、誰かが手で置くんですか」
「L2はね」
美津子が自分の社員証を指で軽く押さえた。
「二か月なら、手が覚えたころに終わるね」
「覚えられますか」
「手は覚える」
美津子は雫の掌からレンズを取った。
「頭が信じるまでが長いけど」
透明なケースへ戻されたレンズは、隣のものと区別がつかなくなった。
ここから先は
¥ 500
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!
