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白くて黒い箱--ルポライター唐澤 雫:第一話「走る部品と止まる部品」

※本作はフィクションです。登場する人物、企業、団体、製品、事故はすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。

第一章 止めてもいい場所

第一節 白い壁

 午前五時四十分、送迎車の窓には、まだ夜の色が残っていた。

 唐澤雫は最後列の窓側に座り、新品の安全靴を足元へ揃えた。靴箱を捨てたばかりのゴムの匂いが、暖房の残る車内に浮いている。

 前の席では、灰色のパーカーを着た男が首を折るように眠っていた。通路を挟んだ向かいでは、若い女がコンビニのおにぎりを包装の上から平らに潰し、音を立てないよう少しずつ食べている。全員が今日から同じ工場へ入るらしいが、誰も名乗らなかった。

 雫のスマートフォンに三件の通知が並んでいた。

 家賃の引き落としができなかったという管理会社からの連絡。先週納めた原稿に、取材先の肩書を再確認してほしいという編集者からのメール。三か月前に企画書を送ったテレビ制作会社からは、まだ返信がなかった。

 雫は家賃の通知だけを開き、再引き落としの日付を確かめた。工場から最初の給料が入るより早い。

 画面を伏せ、膝の上の布製バッグへ戻す。

 今回の契約は三か月だった。時給に交替勤務手当を足せば、原稿を二本書くより確実な金になる。少なくとも、売れるかどうか分からない企画書よりは確実だった。

 取材のために働く。

 働かなければ暮らせないから取材ができる。

 どちらが先かは、もう考えないことにしていた。

 送迎車が国道を離れ、幅の広い産業道路へ入った。窓の外に物流倉庫や製造工場が続く。トラックの荷台が街灯を反射し、交差点のたびに白い光を横切らせた。

 運転手が右の方向指示器を出した。

 眠っていた男が目を開ける。

 道路の先に、大きな白い壁が現れた。

 高さよりも、横幅があった。窓は少なく、壁面の継ぎ目がどこまでも同じ間隔で並んでいる。正面には濃紺の文字で、東央モビリティ部品株式会社 三河第二工場、と記されていた。

 その下に、さらに大きな文字があった。

 品質は信頼。

 安全はすべてに優先する。

 送迎車は警備所の前で速度を落とした。雫は白い壁を見上げたまま、社員証を受け取る前から、その標語の順番を覚えた。

 品質が先で、安全が後だった。

 ただの文章上の並びかもしれない。

 送迎車が構内へ入る。手入れされた植え込みの間に、白線で区切られた歩道が延びていた。守衛が車内を確認し、運転手へ頭を下げる。道路脇には速度制限を示す標識が立ち、横断歩道の手前に一時停止線が引かれている。

 車を降りると、五月の朝の冷気が頬に触れた。

 雫は布製バッグを肩に掛け、安全靴の箱を抱えた。ほかの派遣社員と一列になって正面玄関へ向かう。玄関脇の掲示板には、無事故継続日数が赤い数字で表示されていた。

 二百八十七日。

 その下に、地域の河川敷を清掃する社員たちの写真が貼られている。揃いの帽子をかぶった子どもたちが、完成した部品を覗き込む工場見学の写真もあった。

 自動扉が開く。

 油の匂いはしなかった。

 床は淡い灰色に磨かれ、受付のカウンターには白い花が飾られていた。壁際には社員食堂の週間献立、資格取得支援、健康相談、正社員登用試験の案内が並んでいる。

 雫は無意識に、天井の隅を見た。染みはない。壁にも傷はほとんどない。

 明るく、清潔だった。

 拍子抜けした自分を、雫はすぐに認めた。

 汚れていれば書きやすいと思っていた。

 受付の社員が、雫たちを三つの列へ分けた。

「正社員採用の方はこちらです。期間従業員の方は中央。派遣社員の方は右側へお願いします」

 雫は右へ動いた。

 呼び方も態度も変わらない。書類と社員証の種類が違うだけだった。

 正社員の列には青い縁の社員証が渡された。中央の列は緑。雫の手元へ来たものには、黄色い縁取りがあった。

 顔写真の下に、唐澤雫と印字されている。

 所属欄には、派遣会社の名前。

 工場の社員と同じ白い上着を着れば、遠目には区別がつかない。それでも胸元を見れば、何者かは分かるようになっている。

「紛失した場合は、すぐに担当者へ連絡してください。入退場、食堂の精算、ロッカーの解錠に使います」

 受付の社員は黄色い社員証を両手で渡した。

 雫も両手で受け取った。

 研修室には二人掛けの机が十列並んでいた。壁の前に投影用のスクリーンがあり、その横に、切断された作業用手袋や潰れた保護眼鏡が展示されていた。

 教育担当の男は、四十代半ばほどだった。白い作業服の胸元に青い社員証を付け、挨拶をしたあと、自分の左手を持ち上げた。

「最初に、私の失敗を見てもらいます」

 小指の付け根から手首へ向かって、白い線が延びていた。

「若いころ、設備を止めずに部品を直そうとして、ここを切りました。大したことはないと思っていたんですが、神経まで傷つけていましてね。今も寒い日は痺れます」

 男は傷を隠さず、机の間を歩いた。

「皆さんには、設備を止める権限があります。正社員か、期間従業員か、派遣社員かは関係ありません。異常を感じたら呼出しを押してください。重大な危険なら、非常停止を使ってください」

 スクリーンに、黄色と赤の表示灯が映る。

「一個の製品より、皆さんの指一本の方が大事です。迷ったら止めてください。止めたことで処分されることはありません」

 雫は机の上へ手を置いた。

 工場内には、会社の許可を受けたもの以外の筆記具を持ち込めない。スマートフォンもロッカーへ入れる。聞いたことは、帰るまで覚えておかなければならなかった。

 一個の製品より、指一本。

 頭の中で二度繰り返した。

 教育担当者は保護具の説明へ移った。安全靴、保護眼鏡、手袋。どれもサイズ確認を受け、使用前の点検方法まで教えられた。

 昼休みには社員食堂へ案内された。

 定食は三百八十円だった。鯖の味噌煮、小松菜の和え物、味噌汁。ご飯は大盛りにしても値段が変わらない。

 雫は窓際の席で食べた。

 向かいのテーブルでは、青い社員証の男と黄色い社員証の女が、同じテレビを見ながら笑っている。食器返却口では、緑の社員証を付けた若者が、年上の正社員に先を譲られていた。

 目につくほどの侮蔑も、分かりやすい分断もなかった。

 それを残念に思う自分がいる。

 雫は箸を止め、味噌汁を飲んだ。

 鯖は温かかった。

 午後の研修を終え、ロッカーで私服へ着替える。新品の安全靴には、まだ埃すら付いていなかった。

 送迎車の出発まで十分あった。

 雫は工場の門を出て、歩道脇の低いコンクリート壁へ腰を下ろした。布製バッグから黒いノートを取り出す。

 白い壁に午後の光が当たっていた。朝よりも平らに見える。

 ノートの最初の行へ書いた。

 一個の製品より、指一本。

 その下へ続けた。

 本当なら、書くことはない。

 ペン先を止めた。

 ほんの数秒考えてから、その一文を横線で消した。

 線の下に文字は残った。

 送迎車が近づいてくる。雫はノートを閉じた。

 白い工場は、何も隠しているようには見えなかった。

 だからといって、何もないとは限らない。

 雫は立ち上がり、黒いノートをバッグの底へ入れた。


第二節 五十四・二秒

 翌日の模擬訓練では、ラインは何度止めても困らなかった。

 雫は机ほどの大きさの訓練設備の前に立ち、プラスチック製の部品を治具へ置いた。バーコードを読み取り、二本のボルトを電動工具で締める。締付けが完了すると、正面の表示が緑へ変わった。

「次は、異常が起きた想定です」

 訓練担当者が、部品をわざと斜めに置く。

「無理に進めず、黄色を押してください」

 雫は腰の高さにある黄色いボタンを押した。

 頭上の表示灯が点滅する。

 数秒後、表示が赤へ変わり、模擬ラインが止まった。

 誰も振り向かない。遅れを気にする者もいない。

「もう一度やりましょう」

 雫は三度、異常呼出しを押した。

 三度とも、訓練担当者は同じ声で褒めた。

 最後に、赤い非常停止索の使い方を教わった。腰より少し高い位置に張られた索を、雫は片手で引いた。

 動かない。

「思い切って引いてください。軽く触っただけでは作動しません」

 両手で掴み、体重をかける。

 硬い感触のあと、索が手前へ外れた。警報が鳴り、設備の電源が落ちた。

「一度作動させると、確認が終わるまで復旧できません。ですが、人が挟まれたときに復旧時間を考える必要はありません」

 訓練担当者が索を元へ戻す。

 雫は赤い塗装の剥げた部分を見た。

 誰かが何度も引いた跡だった。

 三日目の朝、雫は組立一課のP3ラインへ連れていかれた。

 白い通路を抜け、防音扉を開ける。

 音が身体へ入ってきた。

 何か一つが大きく鳴っているのではない。電動工具の短い作動音、金属部品の触れ合う音、搬送装置の回転音、完了を知らせる電子音が、別々の場所から絶えず届いた。

 床にも振動があった。

 安全靴の底から細かく伝わり、足を止めていても、身体だけが前へ押されているように感じた。

「唐澤さん」

 呼ばれて振り向く。

 白い作業帽の下に、短く切った髪が見えた。女性は雫より十歳ほど年上に見える。社員証の縁は青だった。

「P3の班長、三宅です。体調が悪くなったら、我慢しないで言ってください。トイレも、急なら黄色を押していいです」

「はい」

「無理に覚えなくていいので、今日は見てください。分からないまま進めるのが一番困ります」

 三宅沙織は早口だったが、聞き取りやすかった。声を張るのは、周囲の音に負けないためらしい。

 ライン脇の表示板には、目標数と実績数が並んでいた。その下に、標準サイクルと記されている。

 五十四・二秒。

「一台分が、それで次へ進みます」

 沙織が表示を指した。

「唐澤さんは工程八。配線クリップ三か所と、コネクター一か所。配線が金属の下へ噛んでいないかも見ます。最初は真壁が後ろに付きます」

「五十四秒で全部ですか」

「慣れれば余ります」

 答えたのは、隣にいた男だった。

 細身で、白い作業服の袖を手首まできちんと留めている。社員証の縁は青。

「真壁です。俺が遅れたところへ入ります。最初はこっちだけ見てください」

 真壁拓也は空の治具を使い、配線の位置を示した。

「ここ、ここ、ここ。三か所。コネクターは奥まで入ると音がします。音が聞こえなくても、爪が戻っていれば入っています」

 雫は指で順番をなぞった。

 沙織が前の工程へ顔を向ける。

「深谷、ちょっと止めて」

「はい」

 吊り下げ式の工具を持っていた若い男が、作業を終えてこちらへ来た。

 社員証の縁は緑だった。

「工程七の深谷です。唐澤さんの前です」

 深谷航平は帽子の下で軽く頭を下げた。二十代半ばに見える。口元に、笑っていなくても少し上がって見える癖があった。

「俺のところで緑が二つ点いたら、そっちへ行きます。来なかったら、俺が何かやらかしてます」

「やらかす前提で教えない」

 沙織が言う。

「いや、そういう意味じゃなくて」

「分かってる。戻って」

 航平は笑い、元の工程へ戻った。

 空のラインが動き出した。

 金属レールが治具に載り、航平の前へ運ばれる。航平は天井から吊られた電動工具を引き下ろし、一本目のボルトへ当てた。

 低い回転音。

 緑。

 二本目。

 緑。

 航平が完了ボタンを押す。

 製品が雫の前へ来た。

「一か所目」

 真壁の声に合わせ、雫は配線クリップを押した。

「二。三。コネクター。噛み込み」

 製品が次へ動く。

「今ので二十秒くらいです」

「余りますね」

「止まってればね」

 真壁は次の製品を見た。

「動いてると、人間は遅くなります」

 午前八時四十分、本番のラインが動き始めた。

 最初の製品が雫の前へ来る。

 一か所目。

 二か所目。

 三か所目。

 コネクター。

 配線の噛み込み。

 手順どおりに終わった。

 思ったより早い。

 二台目も終わる。

 三台目で、二つ目のクリップが見つからなかった。

 配線を目で追う。指で触る。金属部品の陰に黒いクリップがある。

 押し込む。

 その間に、次の製品が背後へ近づいている。

「前へ流してください」

 真壁の声。

 雫は確認を終えた製品を送り、次を受け取る。

 コネクターを押す。

 入らない。

 角度を変える。

 指が滑る。

 真壁の手が横から入り、コネクターを一度抜いた。

「配線が引っ張ってます。ここを先に緩める」

 真壁が押し込む。爪が戻った。

 次の製品。

 雫は息を整える暇を失った。

 クリップ、コネクター、配線。順番を覚えていたはずなのに、一つつまずくと、すべてが別の場所へ移ったように見える。

 手袋の内側に汗が溜まる。

 電子音が鳴る。

 次が来る。

 今度は一つ目のクリップを押した感触が弱い。

 もう一度押す。

 次が来る。

「唐澤さん、今のは入ってます。進めて」

 沙織の声が飛んだ。

 雫は完了ボタンを押した。

 次の製品が来る。

 前の確認が本当に正しかったのか、確かめることはできない。

 流したものは後ろへ戻らない。

 頭の上で黄色い表示灯が点いた。

 真壁が押したらしい。

「一回止めます」

 真壁が雫の工程へ入り、溜まった作業を片付けた。

 ライン自体は止まらなかった。真壁が二人分の動きをする間に、雫は水を飲み、手袋の中で指を開いた。

「すみません」

「謝らなくていいです。最初からできるなら、俺いらないんで」

 真壁は製品から目を離さずに言った。

 再び雫が入る。

 航平の工程から、締付け完了の電子音が二度聞こえた。

 製品が来る。

 一か所目。

 二か所目。

 三か所目。

 コネクター。

 配線。

 完了。

 次の製品が、わずかに遅れて来た。

 雫は、その一秒でコネクターを押し込んだ。

 次も、少しだけ間があった。

 前を見ると、航平が工具の表示を念入りに確認している。締付けに異常はない。確認するふりをして、完了ボタンを遅らせているように見えた。

 雫は一つのクリップを押し終えた。

 航平がボタンを押す。

 次の製品が来る。

 昼休憩に入ったとき、雫は手を洗う洗面台で航平を捕まえた。

「さっき、遅くしてくれました?」

 航平は泡の付いた手で水栓を止めた。

「何がですか」

「一秒くらい」

「ああ」

 航平は笑った。

「最初は全員遅れます。俺も前に、後ろの人に流してましたから」

「流してた?」

「自分の遅れをです。誰かが一秒くれたら、その一秒で戻せることもあるんで」

 洗面台の列が進まない。後ろに並んでいた作業者が、空いている隣へ移った。

「深谷さん、期間従業員ですよね」

 雫は緑の社員証を見た。

「そうです。去年の十二月から」

「長くいるように見えました」

「半年もやれば、身体が勝手に動きますよ」

「ここで正社員に?」

「いや、俺は金を貯めてるだけです」

 航平は手を乾燥機へ入れた。温風の音に、続きの言葉が消える。

「何のために?」

 雫が聞き返すと、航平は温風の止まった手を作業服で拭くふりをした。

「まだ、貯まってないんで」

 食堂へ向かう人の流れが太くなる。

 航平は雫へ先を譲り、自分は列の後ろへ回った。

「唐澤さん、定食なら奥の列の方が早いです。麺の方は混みます」

「詳しいですね」

「そういうのだけは」

 航平は自動販売機で紙コップのコーヒーを買った。

 休憩終了の五分前、立ったまま飲み切る。

 ベルが鳴る。

 紙コップを潰して捨て、航平は先に作業場へ戻った。

 五十四・二秒の中へ、人が順番に入っていった。


第三節 止めてもいい

 翌朝、航平の頭上に黄色い灯が点いた。

 午前九時を少し過ぎたころだった。

 雫の前には、配線確認を終えた製品が一台あった。次が来ない。

 振り向くと、航平が右手の工具を持ったまま動きを止めている。工具はボルトへ当てられ、締付け結果を示す表示は緑だった。

 それでも航平は完了ボタンを押さなかった。

 吊り下げられた工具を持ち直し、ボルトから離そうとする。工具の先端が引っかかっているように見えた。

 黄色い灯が点滅する。

 真壁は三つ先の工程で、別の作業者の代わりに入っていた。

 航平がもう一度工具を引く。

 外れた。

 頭上の灯は黄色のままだった。

 航平が完了ボタンへ手を伸ばすより早く、表示が赤へ変わった。

 搬送装置の音が止まる。

 雫の前にあった製品が、数センチ動いて静止した。

 後ろの工程から聞こえていた電動工具の音が減り、少し遅れて検査装置も止まった。すべてが同時に静かになるわけではない。音が一枚ずつ剥がれ、最後に換気装置の低い唸りだけが残った。

 向かい側のラインは動いている。

 そちらの作業者が何人か顔を上げた。

 航平は外れた工具を上へ戻し、赤い表示灯を見ていた。

 真壁が走ってくる。

「どうした?」

「抜けにくくて」

「締付けは?」

「二本とも緑です」

 真壁が工具を受け取り、空の状態で作動させた。回転音に異常はない。

 ボルトの締付け履歴を端末で確認する。

「記録も入ってる。工具、もう一回」

 航平が工具を下ろし、試験用のボルトへ当てる。

 正常に動いた。

 沙織がラインの中央から来た。歩きながら頭上の表示板を見る。

「何秒?」

「四十六です」

 真壁が答えた。

「工具が抜けにくかったそうです。今は再現なし。締付け正常」

 沙織は工具のワイヤーと先端を見た。

「深谷、手は大丈夫?」

「大丈夫です」

「挟んでない?」

「触ってないです」

「ならいい。押して正解」

 航平は口を開いた。

「すみません」

「謝らなくていい」

 沙織は即座に返した。

「次も同じなら呼んで。無理に外そうとしないで」

「はい」

 真壁が赤い表示を解除する。

 始動を知らせる警報音が鳴った。

 雫は停止していた製品から手を離した。動き始める前に、クリップをもう一度確かめる。

 搬送が再開した。

 航平から次の製品が来る。

 一か所目。

 二か所目。

 三か所目。

 コネクター。

 ラインは何事もなかったように五十四・二秒を取り戻した。

 表示板では、目標数と実績数の差が一つ増えていた。

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