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鳥取の雪に、黄色いバラは平和を咲かせる――平和とは、汚れのない世界ではなく、誰かが汚れを引き受けた朝だった

鳥取・米子の朝、ごみ収集車に乗る若き二代目社長と、東京へ逃げたい作業員の少女は、スナック街の裏で泥にまみれた黄色いバラの蕾を見つける。花言葉は「平和」――それは、綺麗な世界ではなく、誰かが不浄を引き受けて守っている朝の名前だった。

本作はフィクションです。
登場する人物・出来事・場所はすべて創作であり、実在のものとは関係ありません。


第一章 灰色の朝と黄色い蕾

 午前四時十五分。

 米子の空は、まだ夜の底に沈んでいた。

 日本海から吹きつける風が、臨海工業地帯のフェンスを鳴らしている。古い鉄骨に吊られた看板が、風に押されるたび、ぎい、ぎい、と錆びた音を立てた。看板には、かすれかけた青い文字で「剣環境開発」とある。

 事務所の窓だけが、白く曇っていた。

 剣久遠は、作業員用の更衣室で一人、防寒ドカジャンの袖に腕を通した。業務用洗剤の匂いがした。その奥に、どれだけ洗っても落ちない生ごみの酸っぱい臭いが残っている。冬場はまだましだと古参は言う。夏の厨房ごみは、袋の口を縛っていても呼吸をしているみたいに膨らみ、少し触れただけで汁を吐く。

 久遠は袖口を鼻に近づけ、すぐに離した。

 慣れているつもりでも、朝一番の身体には堪える。

 ロッカーの扉の内側に、小さな鏡が貼られている。曇った銀色の中に、二十八歳の自分がいた。短く刈った髪。寝不足で少し落ちた頬。目元には、ここ数年で刻まれた細い皺がある。社長になってから増えたものだ。父が亡くなった時には、もっと柔らかい顔をしていたはずだった。

 ロッカーを閉める前に、久遠は軍手の束を取り出した。左の親指の付け根に、小さな穴が開いているものを弾く。穴は命取りになる。割れた瓶、錆びた釘、注射針、刃物。家庭ごみの袋は、見た目よりよほど嘘をつく。

 更衣室を出ると、廊下の突き当たりに社長室のドアがあった。

 父が使っていた部屋だ。

 いまも机だけはそのままにしてある。大きすぎる革張りの椅子。壁に掛けられた鳥取県西部の地図。取引先の名刺がぎっしり詰まった古いカードケース。父が死んだ後、久遠は社長室の鍵を受け取った。だが、朝、その椅子に座ったことは一度もない。

 椅子に座れば、自分が父の代わりになったことを認めなければならない。

 久遠はいつものように、ドアの前を通り過ぎた。

 二号車の運転席なら、まだ息がしやすい。

 事務所の奥では、石油ストーブが赤い芯を震わせていた。やかんの口から、細い湯気が上がっている。机の上には、その日の回収ルート表と、前日に電話で入った臨時回収のメモが置かれていた。

「大篠津、先に回りますか」

 低い声がした。

 秋目恋彩が、壁際の長椅子に腰かけ、安全靴の紐を結んでいた。二十三歳。細い肩に、紺色の作業服が少し余っている。前髪は長く、目元に影を落としていた。片耳には、いつものワイヤレスイヤホンが差し込まれている。音楽を聴いているわけではない。話しかけられたくない時の壁だ。

「月曜の朝だからな。飲食店街から潰す」

「スナックの裏、先週から袋の口が甘い店があります。汁、出ます」

「覚えとく」

「二号車、昨日の戻りで回転板が少し重かったです。グリス切れか、油圧が弱いかもしれません」

 恋彩は顔を上げずに言った。

 久遠は、机の上の点検表に目を落とした。確かに昨日の最終欄に、恋彩の字で「プレス時、初動鈍い」とある。小さな字だった。余白の端に、逃げるように書かれている。だが、彼女の字で書かれた注意はよく当たる。

「中川さんに戻ってから見てもらう。今日は無理をさせない」

「ゴミは無理を聞いてくれません」

 恋彩は淡々と返し、立ち上がった。

 言い方は冷たいが、反抗ではない。事実を言っているだけだ。久遠は、その乾いた言葉に何度も救われてきた。彼女は人付き合いが苦手で、昼休みも誰かの輪に入ることはない。作業後の雑談もほとんどしない。それでも回収現場に出れば、誰よりも正確に動く。袋の重さ、臭い、音、置かれ方。そういう小さな違和感に、彼女はよく気づいた。

「出よう」

 久遠が言うと、恋彩はヘルメットを抱えて先に外へ出た。

 駐車場には、四トンのパッカー車が二台並んでいる。暗闇の中で、青い車体は黒く見えた。ライトを点けると、冷たい霧の粒が白く浮かぶ。久遠は二号車の運転席に乗り込み、キーを回した。

 ディーゼルエンジンが重く唸る。

 振動が座席の下から背骨へ伝わってきた。助手席のドアが開き、恋彩が滑り込む。彼女は持っていたルート表を膝に置き、ペンのキャップを歯で外した。

「行くぞ」

「はい」

 久遠はクラッチを踏み込み、ギアを入れた。

 二号車は、冷えた敷地をゆっくり出ていく。バックミラーに、事務所の明かりが小さく揺れた。社長室の窓は暗いままだった。

 国道へ出ると、日本海からの風が車体を横から叩いた。右手に海がある。まだ見えない。黒い気配だけが、低くうねっている。左手には、大山があるはずだった。けれど、厚い雲に隠れ、稜線の影すら分からない。

 車内には、エンジン音とワイパーの乾いた擦過音だけがあった。

「秋目」

「はい」

「貯金、どうだ」

 恋彩はペンを持つ手を止めなかった。

「あと三十八万です」

「前より減ったな」

「臨時回収が増えましたから。残業代、助かってます」

「助かるって顔じゃない」

「助かってます」

 それきり黙る。

 久遠は、ハンドルを握ったまま前を見ていた。鳥取を出たい。誰も自分を知らない場所へ行きたい。恋彩は以前、そう言った。地元の高校を出た後、人間関係で躓き、一年ほど部屋にこもったことがある。噂は狭い町を走る。会ったこともない人間が、彼女の過去を知った顔で話す。

 中川が彼女を現場に連れてきたのは、一年前だった。

「人間よりゴミの方がましです。ルールがあるから」

 初日に彼女はそう言った。

 その言葉を冗談にする者もいた。だが、恋彩は笑わなかった。今も笑わない。

「東京に行って、何をするんだ」

 久遠は訊いた。

 恋彩は少しだけ窓の外を見た。街灯が、濡れた舗装を黄色く照らしている。

「清掃管理の仕事を探します。ビルメンテナンスの資格も取りたいです」

「清掃か。ここでごみを回収して、東京でも汚れ仕事か」

「汚れ仕事じゃなくて、整える仕事です」

「同じじゃないのか」

「たぶん、同じです」

 恋彩は、そこで初めて少しだけ口元を動かした。笑ったのかどうか、分からないほど小さかった。

「誰かが帰った後の部屋を、元に戻す仕事がしたいんです。話さなくても、床が綺麗なら仕事をしたことが分かる。そういう方が楽です」

「ここでも、それはできるだろ」

「ここは、人の声が残りすぎます」

 久遠は、それ以上訊かなかった。

 自分はここから逃げる必要のなかった人間だ。逃げたいと言う人間に、残る理由を説けるほど偉くない。

 二号車は、大篠津の飲食店街へ入った。夜の名残が、まだ路地の隅にへばりついている。錆びた看板、消えかけたネオン、シャッターの前に積まれたビールケース。週末の後の月曜朝は、街が吐いたものを回収する時間だった。

「一軒目、止めます」

「了解」

 久遠は車を寄せ、サイドブレーキを引いた。

 車外に出た瞬間、冷気と一緒に臭いが来た。発酵した酒、腐りかけたレモン、揚げ油、湿った紙、煙草の吸い殻。夏ほど強烈ではない。だが冬の臭いは重い。空気に溶けず、地面の近くに溜まっている。

 集積所の金網の中には、半透明の袋が山になっていた。袋の底に茶色い液体が溜まっている。カラスが二羽、金網の上で首を傾げていた。

「店名、確認します」

 恋彩はルート表に目を落とし、袋に貼られたシールを確認した。

「三軒分、混じってます。奥の黒袋、契約外です」

「またか」

「置いていきますか」

 久遠は黒袋を見た。口は固く縛られている。重さはありそうだった。

「今日は持っていく。放っておくとカラスが破る」

「前にも同じこと言って、あとで中川さんに怒られてました」

「分かってる」

 久遠は黒袋を掴んだ。予想より重い。中で硬いものが動いた。金属同士が擦れるような、かすかな音。

 恋彩が顔を上げた。

「音、しました」

「鍋か缶だろ」

「厨房ごみなら、缶は分けるはずです」

「あとで見る。まず契約分を積む」

 恋彩は少しだけ眉を寄せたが、反論しなかった。

 二人は作業に入った。久遠が袋を持ち上げ、恋彩が投入口の位置を見て受ける。雪はまだ降っていなかったが、夜露で袋は冷たく濡れていた。手袋の上からでも水気が染みる。

 生ごみの袋は重い。水分を含んでいる。見た目の倍、腰にくる。久遠は一袋ずつ膝を使って持ち上げ、投入口へ放り込んだ。袋が鉄板に当たり、鈍い音を立てる。

「プレス」

「入れます」

 恋彩が車体側面のレバーを操作する。

 ギギギ、と油圧が鳴った。回転板がゆっくり動き、投入口のごみを車体の奥へ押し込んでいく。袋が潰れ、何かが裂けた。次の瞬間、茶色い汁が細い線になって跳ねた。

「っ」

 久遠は顔を逸らしたが、袖口にかかった。酸っぱい臭いが鼻に刺さる。恋彩の頬にも一滴飛んだ。彼女は作業の手を止めず、手袋の甲で拭った。

 カラスが鳴いた。

 最後の袋を積み終えた時、恋彩がふと足を止めた。

 スナックの裏口の脇。割れたコンクリートの植木鉢が、壁にもたれて転がっていた。土は半分こぼれ、吸い殻と小さな空き缶が刺さっている。その中から、細い茎が一本だけ伸びていた。

 茎の先に、小さな黄色い蕾があった。

 まだ固い。花弁は閉じたまま、北風に震えている。周囲の泥と灰色の壁のせいで、その黄色だけが妙に浮いて見えた。綺麗というより、場違いだった。

「黄色いバラ」

 恋彩が呟いた。

「バラなのか」

「たぶん。痩せてますけど」

「こんなところで育つんだな」

 久遠は手袋についた汁を見た。黄色い蕾は、その汚れた手の先にあった。触れようとは思わなかった。触ったら折れそうだった。

「黄色いバラの花言葉、知ってますか」

「知らない。花より袋の口の縛り方の方が大事だ」

「平和です」

 恋彩は蕾を見たまま言った。

 久遠は路地を見回した。生ごみ、酒瓶、吸い殻、カラス、濡れたコンクリート。平和という言葉が似合うものは、どこにもなかった。

「ここでか」

「ここだから、じゃないですか」

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