富山の稜線に、ルドベキアは正義を抱く――正義とは、裁くことではなく、救う価値を失ったように見える命にも手を伸ばすことだった
剱岳への無謀な生配信に挑む若き冒険家と、それを止めようとする山岳警備隊員・新藤栄作。ルドベキアの黒い芯が示す「正義」は、誰かを裁くことではなく、救う価値を失ったように見える命にも手を伸ばすことだった。
※本作はフィクションです。登山・山岳救助・配信活動などの描写は物語上の演出を含みます。実際の登山判断や安全管理の参考にはせず、登山時は必ず公式情報・専門家の助言・現地の指導に従ってください。
本作はフィクションです。
登場する人物・出来事・場所はすべて創作であり、実在のものとは関係ありません。
第一章 群青の不協和音
包丁の刃先が、ススダケの節に吸い込まれた。
トン、と乾いた音が、夕方の台所に小さく跳ねる。切り口から、青い土の匂いが立った。水気を含んだ笹の若芽は、皮を剥くと指先に薄い渋みを残す。新藤栄作はその感触を嫌わなかった。むしろ、山から持ち帰ったものが、まだ自分の手の中で生きているようで、少し安心する。
鍋の湯が白く濁り始めていた。
新藤は眼鏡のブリッジを押し上げ、菜箸で一本をつまみ上げる。根元の硬さを爪で確かめ、まだ少し早いと判断して湯の中へ戻した。台所の窓は半分だけ開けてある。外から湿った風が入り、味噌とサバ缶の脂の匂いに、庭土の匂いが混じった。
「お父さん、また山菜?」
居間から娘の紬の声がした。
中学一年生になった紬は、畳の上に寝転がり、片肘をついてスマートフォンをいじっている。制服のスカートから伸びた足をぶらぶらさせ、声だけは一人前に大人びていた。
「また、じゃない。今しか食べられん」
「この間はワラビだったじゃん」
「ワラビはワラビ。ススダケはススダケだ」
「山菜って、全部お父さんの中では別物なんだね」
「お前だって、アイスの味が違えば別物だと言うだろう」
「それは違うよ。アイスは全部おいしいもん」
紬が画面から目を離さずに言う。新藤は小さく笑い、鍋の火を弱めた。
ススダケ。こちらではそう呼ぶが、正確にはチシマザサの若芽だ。山の雪解けが遅い年ほど、奥まった斜面に良いものが出る。柔らかいものほど短く、太いものほど根元に土を噛んでいる。皮を剥くのに手間がかかり、アク抜きにも加減がいる。雑に扱えば、せっかくの香りが死ぬ。急いでも、良い味にはならない。
山と同じだ、と新藤はいつも思う。
人間が急いでいるからといって、山は道を空けてくれない。人間が正しいと思っていても、雨は降る。風は吹く。石は落ちる。助けたい相手がそこにいても、一歩の判断を誤れば、助けに行った者まで帰ってこられなくなる。
「奈緒子、味見してくれ」
新藤が声をかけると、洗濯物を畳んでいた妻の奈緒子が立ち上がった。四十歳を過ぎても、台所に並ぶと新藤より少し小柄なその肩つきには、長年この家の空気を整えてきた人の落ち着きがある。
奈緒子は差し出された小皿に口をつけ、少しだけ目を細めた。
「うん。いい。サバの脂がちゃんと味噌に馴染んでる」
「少し甘いか」
「これくらいが紬にはいいんじゃない?」
「私はもう子どもじゃないんですけど」
居間から紬が口を挟む。
「じゃあ、苦みのある根元を多めに入れてやろう」
「やっぱり子どもでいい」
奈緒子が笑った。
その笑い声を聞きながら、新藤は勝手口の向こうを見た。狭い庭の片隅に、黄色い花が群れている。数年前、どこからか種が飛んできた。最初は二、三本だったものが、翌年には十本を超え、今では物干し竿の下の土を半分ほど占めている。
ルドベキア。
夏の光を集めたような黄色い花弁。だが、その中心だけは濃く暗い。黒に近い褐色の芯が、まるでこちらを見返しているようだった。
「その花、抜かないの?」
紬がいつの間にか台所の入り口に立っていた。
「庭、占領されてきてるよ」
「強い花だからな」
「雑草?」
「花だ」
「お母さん、あれ何て花だっけ」
「ルドベキア。お父さんが去年、珍しく花言葉まで調べてたじゃない」
「ああ」
新藤はススダケをざるに上げ、水気を切った。
「正義、だったかな」
「へえ。正義って、もっと白い花っぽいのに」
「そうだな」
新藤は、庭の黄色を見た。
正義。
その言葉を、彼は仕事の中で何度も耳にしてきた。警察官として。山岳警備隊員として。助ける側として。時には、止める側として。
だが、正義というものは、白い布のように清潔な顔ばかりしてはいない。時には泥にまみれる。時には誰かに恨まれる。時には「なぜ助けられなかった」と、夜中に自分の胸を叩き続ける。
鍋に味噌を溶く。サバ缶を崩しすぎないように加え、ススダケを戻す。台所に、山と海の匂いが同時に立った。
「できたぞ」
新藤が声をかけると、紬は「味見だけ」と言いながら椀を取りに来た。奈緒子が食卓に箸を並べる。庭ではルドベキアが夕日に照らされて揺れていた。黄色い花弁の真ん中に、黒い芯を抱えたまま。
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