富士の五合目に、ムラサキツメクサは踏まれて咲く――勤勉とは、誰かの命を奇跡に預けないための、退屈な祈りだった
富士山五合目で山小屋を営む川村良平は、入山料と規制が整ってもなお消えない無謀登山に、静かな危機感を抱いていた。軽薄な動画配信者、過激な活動家、自己責任を説く編集者、親子登山を広める男――それぞれの正しさが嵐の富士で剥がれた時、命をつなぐのは誰にも見えない「勤勉」だった。
本作はフィクションです。
登場する人物・出来事・場所はすべて創作であり、実在のものとは関係ありません。
第一章 五合目に火花が散る
1 赤詰小屋の朝
富士スバルライン五合目。標高二三〇五メートル。
朝の光は、いつも人間より早く山へ着く。
まだ観光バスのエンジン音も少なく、売店のシャッターが半分しか上がっていない時刻、川村良平は山小屋『赤詰小屋』の前で、ほうきを動かしていた。
掃いても、掃いても、小石はなくならない。
火山の山だ。昨日きれいにした場所にも、夜の風が砂礫を運んでくる。登山靴の底に挟まっていた小石が玄関先に落ちる。観光客が写真を撮るために踏み込んだ脇道から、土が流れてくる。誰も気にしない。気にしないから、良平が拾う。
腰を曲げ、指先で小石をつまむ。
空のペットボトルを拾う。
濡れて乾いた紙くずを、火ばさみで挟む。
落とし物箱に、片方だけの手袋を入れる。
もう十年になる。
十年続けても、山小屋の朝は少しも派手にならない。昨日と同じ場所に砂が溜まり、昨日と同じようにロープがゆるみ、昨日と同じように誰かが「ちょっとだけだから」と立入禁止の札の向こうへ足を出す。
良平は、ほうきを止めた。
小屋の脇、踏み固められた土の端に、赤紫の丸い花がいくつか咲いている。ムラサキツメクサだった。富士山に元からあった花ではない。山麓から運ばれてきた土にでも、種が紛れていたのだろう。毎年、同じ場所に、遠慮がちに頭を出す。
踏まれても咲く花だと、去年、泊まり客の老人が教えてくれた。
別名はアカツメクサ。
花言葉は、勤勉。
良平は花言葉など信じていない。だが、その花のまわりだけは、ほうきの角度を少し変える。強い花だからといって、踏んでいい理由にはならない。
「また咲きましたね」
背後から声がした。
振り返ると、山小屋の軒下に、萩原四葉が立っていた。黒い登山パンツに薄手のフリース、首から下げた小型レコーダー。登山雑誌『そこに山があるから・・・』の編集者だ。二十七歳。若いが、山を知らないわけではない。日本百名山を三十近く登っていると聞いた。昨夜から赤詰小屋に泊まり込み、富士山の入山規制と遭難問題について取材している。
「雑草だよ」
良平は言った。
「雑草にしては、ずいぶん丁寧に掃いてます」
「邪魔じゃないものまで邪魔者扱いすると、人間の方が雑になる」
四葉は少し笑ったが、すぐに目を細めて五合目の方を見た。
観光バスが一台、また一台と入ってくる。扉が開くたび、原色のウィンドブレーカー、スニーカー、キャリーケース、小型三脚、自撮り棒、首から提げたスマートフォンが吐き出される。まだ午前だというのに、五合目はもう祭りの準備を始めていた。
昔は、ここから先が境界だったのだろうと良平は思う。
俗世と山。
観光と修行。
遊びと覚悟。
今は、その境界にゲートがあり、係員が立ち、四千円の通行料が徴収される。午後二時から翌朝三時までは登山道の通行が制限される。登山者数にも上限がある。軽装の者には声がかかる。以前に比べれば、弾丸登山は減った。夜中に五合目へ来て、そのまま眠らず頂上を目指すような無謀な人間も、目に見えて少なくなった。
それでも、遭難はなくならない。
人間は、禁止されたことは減らす。
だが、勘違いまでは簡単に減らせない。
「川村さん」
四葉がレコーダーを持ち上げた。
「少しだけ、今のうちに聞いてもいいですか」
「掃きながらでいいなら」
「もちろんです」
良平はほうきを動かした。四葉は一歩横に並び、靴底を見てから、ムラサキツメクサを踏まない位置に立った。その癖だけで、彼女が山をまったく知らない人間ではないことは分かる。
「入山料が正式に四千円になり、ゲートでの確認も強化されました。川村さんは、この制度をどう見ていますか」
「必要だとは思う」
「賛成ですか」
「山が静かになるなら、賛成だ」
「では、全面的に評価している?」
「全面的って言葉は便利だな。山じゃ、そういう言葉から先に滑る」
四葉の指が、レコーダーの側面を撫でた。
「では、不安もある?」
「ある」
「どんな?」
良平は壊れたヘッドライトを落とし物箱から取り出した。黒い樹脂部分が割れ、ベルトには乾いた泥がこびりついている。
「金を払ったから安全だと思う人間がいる。ゲートを通れたから大丈夫だと思う人間がいる。新品の靴を買ったから登れると思う人間もいる」
良平はヘッドライトを箱に戻した。
「四千円は、命の前払いじゃない」
四葉は黙って書き留めた。
「山を守るための費用、ですね」
「それも半分だ。もう半分は、人間が自分に言い聞かせるためのものだと思ってる」
「何をですか」
「ただでは入れない場所に来ているんだと」
良平は腰を伸ばした。
五合目の端で、若い男がゲートの係員に食い下がっている。足元はスニーカー、肩には薄いリュック。横にいる恋人らしい女は、寒そうに腕を組んでいた。
「どうしてダメなんですか。俺たち、ちゃんとお金払うって言ってるじゃないですか」
係員の声は聞こえない。だが、説明している身振りで分かる。装備がない。時間も遅い。天候が不安定。今日はやめてほしい。
男は不満そうに首を振った。
「よくあるんですか」
四葉が聞いた。
「毎日ある」
「毎日?」
「毎日だ」
良平はほうきを壁に立てかけた。
「登山者は一日ごとに入れ替わる。でも、こっちは毎日同じことを言う。雨具はあるか。ライトはあるか。水は足りるか。足元を見ろ。雲を見ろ。無理なら帰れ。ほとんど説教だよ」
「嫌われませんか」
「嫌われる」
「それでも言う?」
「言って嫌われる方が、黙って死なれるよりずっといい」
その答えに、四葉は一瞬だけペンを止めた。
何かを思い出した顔だった。だが彼女はそれを隠すように、質問を続けた。
「私は、救助費用は全額自己負担にすべきだと思っています」
良平は彼女を見た。
「強い言葉だな」
「無謀な登山者を救うために、救助隊員が危険に晒される。警察も消防も、山小屋も、救護所も、みんな負担を強いられる。なのに、助けられた側は『いい経験になりました』と笑って帰る。それはおかしいです」
「おかしいな」
「なら」
「でも、人間はおかしいから遭難する」
四葉の目が鋭くなった。
「それを許すんですか」
「許す、許さないの話じゃない。死にかけている人間を前にして、請求書の話から始められるかってことだ」
「助けてから請求すればいい」
「そういう話なら、俺より行政に聞いた方がいい」
「川村さん個人は、どう思っていますか」
良平は答えなかった。
代わりに、小屋の脇に置いてある古い木箱を開けた。中には、持ち主の戻らなかった物や、戻っても受け取りに来なかった物が詰め込まれている。泥だらけの手袋、安物のカッパ、裂けたザックカバー、片方だけの靴紐、折れたストック。
「ここにあるものは、たいてい持ち主より先に帰ってくる」
四葉は箱の中を見下ろした。
良平はその横顔を見た。彼女の顔に浮かんでいたのは、軽蔑ではなかった。怒りでもない。もっと硬く、古いものだった。昔ぶつけた骨が、雨の日に疼くような表情。
四葉は蓋を閉めた。
「……私は、救助する側が壊れるのを見たことがあります」
彼女は低く言った。
「取材でした。無謀な登山者を助けに入った救助隊員が、足を壊して、もう山を歩けなくなった。その人はそれでも、『助かってよかった』と言っていた。でも、助けられた側はSNSで、すごい経験をした、自分は運が強い、って笑っていました」
良平は何も言わなかった。
「だから私は、甘さが嫌いです」
「甘さと救助は違う」
「分かっています」
「分かってない顔だ」
四葉は良平を睨んだ。
「川村さんは、いつもそんな言い方をするんですか」
「する。丁寧に言っても、山じゃ間に合わないことがある」
ちょうどその時、赤詰小屋の前で、小さな男の子の声がした。
「パパ、ここから富士山なの?」
良平と四葉は、同時にそちらを見た。
2 帰る練習
男の子は、小学校低学年くらいだった。
青いレインジャケットの前をきちんと閉め、少し大きめのザックを背負っている。新しい装備ではあるが、靴紐はきれいに結ばれ、ズボンの裾も邪魔にならないよう整えられていた。
その隣に立つ男を見て、良平はすぐに気づいた。
「岸尾さん」
男が顔を上げた。
「川村さん。お久しぶりです」
岸尾広大。三十三歳。アルペン系アパレル会社に勤めながら、低山登山や親子登山の発信を続けているアマチュア登山家だ。派手な冒険家ではない。SNSに上がる写真も、頂上で拳を突き上げるものより、靴紐の結び方や、子どもの休憩の取り方、撤退の判断基準をまとめたものが多い。
何年か前、北アルプスの厳しい状況で、判断の遅れた登山者を下山させたことがある。その時の記録を、良平は読んだことがあった。自分の功績を語る文章ではなかった。なぜその判断が必要だったのか、何が遅れれば死に近づくのか、淡々と書いていた。
淡々とした人間は、山では信用できる。
「今日は仕事か」
「いえ、休みです。息子に富士山を見せたくて」
岸尾は男の子の肩に手を置いた。
「陽太です」
「こんにちは」
陽太は緊張した顔で頭を下げた。
「こんにちは。靴、見せてみろ」
良平が言うと、陽太は驚いたように父を見た。岸尾が頷く。陽太は片足を少し前に出した。
「いい結び方だ」
良平が言うと、陽太の顔が少し明るくなった。
「パパが、ほどける前に見るんだって」
「いいパパだ」
岸尾が苦笑した。
「褒められると不安になりますね」
「褒めたのは靴紐だ」
四葉が横から口を挟んだ。
「萩原四葉です。『そこに山があるから・・・』で編集をしています。岸尾さんのSNS、拝見しています。低山の発信、評判いいですよね」
「ありがとうございます。地味な投稿ばかりですが」
「そこがいいんです。最近は、難しい山に挑戦するより、親子で安全に歩ける山を紹介する投稿の方が、読者に必要だと思っています」
岸尾は少しだけ困ったように笑った。
「必要と、売れる、は別ですけどね」
その一言に、四葉が目を上げた。
岸尾は視線をゲートの方へ向けた。列が伸び始めている。係員が一人一人の装備を確認し、案内をしている。登山者の中には真剣に聞く者もいれば、面倒くさそうにスマホを見ながら相槌を打つ者もいた。
「僕の会社は、毎年新しいウェアを作ります。軽い、暖かい、濡れない、動きやすい。全部大切です。装備で助かる命はあります」
岸尾は続けた。
「でも、装備を買っただけで山に勝てるような広告は、少し怖い。着るものは命を守るけど、判断の代わりにはならないから」
良平は黙って頷いた。
岸尾は息子のザックの胸ベルトを直した。
「今日は六合目までです。天気がよくても、そこまで。上までは行きません」
「えっ」
陽太が不満そうな声を出した。
「頂上行かないの?」
「行かない」
「じゃあ、何しに来たの?」
「帰る練習」
「帰る練習?」
「山で一番大事なのは、帰ることだから」
陽太は納得していない顔だった。
「頂上まで行く人がすごいんじゃないの?」
「すごい人もいる。でも、すごくなくても帰れる人の方が、山では強い」
陽太は唇を尖らせた。
「なんか、つまんない」
「そうだな」
岸尾は笑った。
「山で命を守ることは、たいていつまらないんだよ」
その言葉に、良平はムラサキツメクサを見た。
踏まれた土に根を張り、少しずつ土を肥やす。花は丸くて愛らしいが、その働きは地味だ。誰もその根を褒めない。誰もその土を覗かない。それでも、花は毎年同じ場所に出てくる。
良平は岸尾に聞いた。
「雲、どう見る」
岸尾は空を見上げた。
富士山の上部はまだ見えている。青空もある。観光客の写真には、十分すぎるほど美しい日だ。だが、山頂付近に薄い白がまとわりついていた。西の空から、湿った雲が流れてきている。
「少し嫌です」
「だろうな」
「気象予報士の友人から朝に連絡がありました。午後は上空で寒気が入るかもしれないと。局地的に崩れる可能性があるそうです」
「五合目の天気だけ見てると、分からない日だ」
「はい」
四葉が空を見た。
「予報では曇り程度でしたけど」
良平は言った。
「予報は見る。でも、空も見る。靴紐と同じだ」
陽太が小さく父の袖を引いた。
「パパ、雲って怖いの?」
「怖い雲もある」
「どうやって分かるの?」
「すぐには分からない。だから、いつも見る」
岸尾はしゃがみ、息子と目の高さを合わせた。
「一回見て終わりじゃない。歩きながら、何回も見る。それが山の約束」
良平は、その親子のやり取りを聞きながら、十年前の声を思い出していた。
――大丈夫です。すぐ戻ります。
その若者は、笑っていた。薄いパーカーで、軽い靴で、コンビニの袋をぶら下げていた。良平は止めた。だが、強くは止めなかった。あの頃はまだ、言えば分かると思っていた。人間は、自分の命に関わることなら、最後には真面目になると思っていた。
若者は戻らなかった。
翌朝、知らせを聞いた時、良平の手にはほうきがあった。
それから良平は、「大丈夫」を信用しなくなった。
赤詰小屋の前に、騒がしい音楽が近づいてきた。
観光地のざわめきとは違う。わざと周囲の視線を集めるための音だった。
良平は顔をしかめた。
3 数字を見る男
「はいどうもー、慎之助でーす!」
声の主は、まだゲートの手前にいた。
自撮り棒を掲げ、派手なカモフラージュ柄のジャケットを着た若い男が、カメラに向かって笑っている。その後ろには、カメラを構えたスタッフが一人。さらに少し離れて、マネージャーらしき細身の男がスマホで誰かと連絡を取っていた。
「今日はついに来ました、日本一の山、富士山! いやあ、空気が薄い。まだ五合目ですけど、すでに薄い。俺の財布くらい薄い!」
近くにいた観光客が笑った。何人かはスマホを向ける。慎之助はそれを見逃さず、さらに声を張った。
「今回はね、富士山の今をガチで体験します。入山料四千円、ゲート確認あり、装備確認あり。果たして慎之助は、日本一厳しくなった富士山で、どこまで攻められるのか!」
良平はその姿を見ながら、顔ではなく足元を見た。
靴は登山靴だった。高価なものだ。雨具もある。防寒着もザックに入っている。ヘッドライトも見せている。ゲートを通るための条件は満たしている。
だが、靴の甲に薄い紙タグの跡が残っていた。雨具の折り目が不自然にきれいだった。ザックは新品特有の硬さを残している。
持っている。
だが、使った匂いがない。
良平は慎之助の前に出た。
「君」
慎之助は、カメラを止めずに振り返った。
「おっ、現地の方ですか。こんにちは。映って大丈夫ですか?」
「映すな」
「あ、厳しい。いいですね、山のリアル」
慎之助はカメラへ向けて眉を上げた。
「装備を見せろ」
「ゲートの人に見せますよ」
「その前に見せろ」
「怖いなあ。俺、ちゃんと調べてきましたよ。雨具、ライト、防寒、飲み物、全部あります。ほら」
慎之助はザックを開けて見せた。たしかに入っている。だが、取り出す手つきが雑だった。どこに何が入っているか、体で覚えていない。
「新品だな」
「新品じゃダメなんですか?」
「ダメじゃない。使ったことのない装備は、持ってないのと半分同じだ」
慎之助の笑顔が、わずかに固まった。
「なるほど。名言いただきました」
「冗談にするな」
「冗談じゃないですって。俺、真面目に登りますよ。仕事ですから」
「仕事なら、なおさら真面目に下りろ」
慎之助は一瞬だけ黙った。
その時、彼のスマホが震えた。画面に通知が浮かぶ。良平の位置からは文面までは見えない。だが、慎之助の視線が一瞬だけ暗くなったのは分かった。
マネージャーが近づき、小声で言った。
「慎、時間押してる。ゲート混む前に入ろう」
「分かってる」
「上で一発撮れれば十分だから。タイトルはまだ伏せてる」
「分かってるって」
慎之助は笑顔を作り直した。
「おじさん、心配ありがとうございます。でも俺、こう見えてけっこう体力あるんで」
「体力の話じゃない」
「じゃあ何の話?」
「山は、お前の数字を見てくれない」
慎之助の目が細くなった。
「数字?」
「画面ばかり見てるだろ」
慎之助は、今度は笑わなかった。
代わりに、声だけを明るくした。
「いやあ、現地の方、厳しい! でもそういう声も含めて、今日は富士山のリアルをお届けします!」
彼はカメラに手を振り、ゲートの方へ向かった。
その背中を見ながら、四葉が低い声で言った。
「最悪ですね」
「よくいる」
「よくいてほしくないです」
四葉はノートを開き、早い字で何かを書いた。
「無謀系動画。炎上前提。登山文化への侮辱」
「そのまま書くのか」
「書きます」
「書くなら、あいつが笑ってる理由も書け」
四葉が顔を上げた。
「あれは笑ってるんじゃない。追われてる顔だ」
「同情するんですか」
「同情はしない。見るだけだ」
その時、五合目の広場の反対側から、別の声が上がった。
「富士山を料金所にするな!」
横断幕が広げられた。
白い布に、赤い文字。
――公共の自然を私物化するな。
――ゲート撤去。
――入山料反対。
良平は、目を閉じたくなった。
4 横断幕の女
坪井水希は、遠くからでも目立つ女だった。
四十二歳。長い黒髪を後ろで束ね、登山用とは言いがたい麻のジャケットを羽織っている。足元だけは一応トレッキングシューズだったが、履き慣れている様子はない。背筋を伸ばし、横断幕の端を片手で持ち、もう片方の手で拡声器を握っていた。
「富士山は、誰かの所有物ではありません。自然は、行政と観光資本が管理する商品ではありません。四千円を払った者だけが歩ける山など、本来の山ではありません」
周囲の観光客が足を止める。
興味本位で動画を撮る者もいる。
迷惑そうに避けて通る者もいる。
ゲートの係員は困った顔で近づくが、水希は退かない。
良平は小さく息を吐いた。
「知り合いですか」
四葉が聞いた。
「何度か来てる」
「活動家?」
「本人は、市民運動家と言っている」
水希は良平に気づくと、まっすぐ歩いてきた。横断幕の端を持っていた若い男女が慌てて後を追う。
「川村さん」
「坪井さん」
「今日も、山の門番ですか」
「今日も、山小屋の主人だ」
「同じことです」
「違う」
水希は良平の足元を見た。ムラサキツメクサがある。彼女はその手前で立ち止まった。踏まなかった。その一つの動作で、良平は少しだけ苛立ちを抑えた。
「入山料が上がり、ゲートができ、人の数を行政が決める。次は何ですか。山に入る服装も、歩き方も、思想も、全部管理するんですか」
「思想はどうでもいい。靴と雨具は見たい」
「そうやって、現場の安全という言葉で、管理を正当化する」
「そうやって、管理という言葉で、現場の仕事を全部まとめて悪者にする」
水希の目が光った。
「あなたたちは、富士山を守ると言いながら、結局は富士山を売っている。山小屋も、登山雑誌も、アウトドアブランドも、動画配信者も、行政も。みんな、それぞれの言葉で富士山を商品にしている」
その場の空気が、少し固まった。
四葉のペンが止まった。
岸尾の表情が動かなかった。
慎之助は、少し離れた場所でその言葉を聞き、面白そうにカメラを向けた。
良平は水希を見返した。
「正しいことを言った気分か」
「間違っていますか」
「半分は合ってる」
水希の眉が動いた。
「合ってるんですか」
「ああ。俺たちは山を使ってる。雑誌も使う。ブランドも使う。動画も使う。デモも使う。あんたも、その横断幕の背景に富士山があるからここへ来た」
水希の顔が強張った。
「私は、自然を守るために来ています」
「守るって言葉も、使い方を間違えれば刃物だ」
「あなたに言われたくありません」
「俺も、あんたに言われたくない」
水希は声を落とした。
「私は、子どもの頃から見てきました。自然を守ると言いながら、森を削り、道を作り、施設を建て、最後には『地域振興』という言葉で拍手する人たちを。お金を取れば、人はもっと大事にする? 違う。お金を払えば、消費する権利を得たと勘違いするだけです」
それは、演説の声ではなかった。
一瞬だけ、水希の中の古い怒りが見えた。生まれつき持っていたものではなく、長い時間をかけて固まった怒りだ。実家が富裕層で、働かずに活動できるという噂は良平も聞いている。だが、裕福であることと、怒りが偽物であることは同じではない。
面倒な人間ほど、たいてい本気だ。
本気だから、面倒なのだ。
慎之助が近づいてきた。
「すみませーん。今の、めっちゃいい感じなんで、もう一回お願いします。『富士山を消費するな』のとこ、カメラ目線で」
水希は振り返った。
「あなたみたいな人が、一番富士山を消費しているのよ」
「うわ、刺さる。活動家さん、切れ味いいですね」
「ふざけないで」
「ふざけてないですよ。こっちも仕事なんで」
「仕事なら何をしてもいいと思っているの?」
「思ってないです。でも、伸びないと終わるんで」
慎之助の声から、一瞬だけ軽さが消えた。
だがすぐに、彼はまた笑った。
「まあでも、今日の動画は伸びそうです。入山料反対活動家と、山小屋の頑固親父と、自己責任論の編集者と、低山推奨パパ。キャラ濃いなあ」
四葉が冷たく言った。
「人をキャラで見るの、やめた方がいいですよ」
「編集者さんがそれ言います?」
慎之助の返しに、四葉の顔がこわばった。
「あなたのような動画で、誰かが真似をしたらどうするんですか」
「真似しないでくださいってテロップ入れます」
「その一行で責任を果たしたつもりですか」
「じゃあ、どうしたらいいんですか。何もしないで、真面目な登山講座でも撮ればいい? 誰が見るんですか、それ」
岸尾が静かに口を開いた。
「見る人はいます」
慎之助は岸尾を見た。
「あなたは?」
「岸尾です。低山の発信をしています」
「ああ、知ってます。親子登山の人ですよね。いいですよね、平和で。うちのチャンネルでやったら、数字半分になりますけど」
「数字は命を運んでくれません」
「名言多いな、今日」
慎之助は笑ったが、今度はどこか苛立っていた。
「じゃあ聞きますけど、正しいことだけやって食べていけます? 安全な動画だけ出して、会社もスタッフも食わせられます? こっちは一本コケたら終わるんですよ」
「終わるのは、仕事ですか」
岸尾が聞いた。
「え?」
「命ではなく?」
慎之助は言葉に詰まった。
その沈黙を破ったのは、陽太だった。
「パパ、あの人、山に怒られるの?」
子どもの声は、思ったより遠くまで届いた。
慎之助のスタッフが笑いをこらえた。水希の横断幕を持つ若者も、少し顔を背けた。慎之助は、カメラを下ろした。
「……怒られないように、ちゃんと登るよ」
陽太は父の後ろに隠れた。
良平は空を見た。
青が、少し濁っていた。
5 空を見る者
午前の終わり頃、五合目の空気はまだ明るかった。
観光客は売店で土産を買い、登山者は列を作り、係員は声を張って案内を続けている。標高二三〇五メートルの広場は、人間に都合のいい高さだった。山の厳しさを感じるには十分で、死の気配を想像するにはまだ足りない。
良平は、何度も空を見た。
雲は山頂付近に貼りつくように増えている。風はまだ強くない。だが、湿ってきていた。肌に触れる空気が、朝とは違う。軽くない。濡れた布を薄く掛けられたような重さがあった。
岸尾も同じ方角を見ていた。
「早めに動きます」
「六合目までか」
「はい。でも、場合によっては途中で引き返します」
「陽太くん、納得するか」
「しませんね」
「いい教育だ」
岸尾は苦笑した。
「山に嫌われますかね」
「山は好き嫌いを言わない。ただ、雑な人間から順に落とす」
その時、慎之助がゲートを通過した。
係員に装備を見せ、説明を受け、わざとらしく敬礼する。観光客の何人かが笑う。カメラは回っている。水希はその様子を見て、眉をひそめた。
「彼を通すんですか」
水希が良平に言った。
「条件は満たしてる」
「危険なのは明らかでしょう」
「だから声はかけた」
「止めないんですか」
「俺は警察じゃない」
「都合のいい時だけ管理を主張して、都合の悪い時は権限がないと言うんですね」
良平は水希を見た。
「それが現場だ。何でもできるわけじゃない。だから毎日、同じことを言う」
水希は横断幕を握り直した。
「私は、彼を止めます」
「やめろ」
「危険だから止めるんでしょう」
「止め方にも準備がいる。山の上で揉めるな」
「彼を放置する方が危険です」
「坪井さん」
「あなたが止められないなら、私が止める」
水希は横断幕を若者に預け、慎之助の後を追うようにゲートの方へ歩いた。
良平は舌打ちした。
四葉が近づく。
「彼女、本当に行くんですか」
「行くなと言った人間ほど、行く」
「追いますか」
「今は小屋を空けられない」
良平はゲート付近の職員に声をかけ、状況を伝えた。係員は頷き、無線で連絡を回す。水希は登山者として最低限の確認を受け、険しい顔で上へ向かった。
四葉がノートを握りしめる。
「無茶苦茶です」
「ああ」
「誰も人の話を聞かない」
「山に来る人間は、たいてい自分の声を聞きに来てる」
良平はそう言ってから、自分にも刺さる言葉だと思った。
自分はどうだ。
十年前の後悔の声を、今も聞いているだけではないのか。
陽太と岸尾が、出発の準備を終えていた。
「川村さん、行ってきます」
「雲を見ろ」
「はい」
「早めに戻れ」
「もちろん」
陽太が良平を見た。
「おじさん、頂上行かなくても怒らない?」
「怒らない」
「じゃあ、途中で帰っても負けじゃない?」
「負けじゃない」
「じゃあ、パパは負けじゃない?」
「お前のパパは、たぶん勝つより帰るのが上手い」
陽太は少し考えてから、頷いた。
「じゃあ、僕も帰るの上手くなる」
「それがいい」
岸尾は良平に軽く頭を下げ、息子と登山道へ向かった。歩き出してすぐ、陽太の靴紐をもう一度見ている。出発前に結んだばかりだ。それでも見る。良平は、その姿を見て少しだけ安心した。
一方で、慎之助の後ろ姿は、すでに落ち着きがなかった。
ゲートを過ぎてしばらく行った場所で、彼は一度立ち止まり、カメラに向かって話し始めている。スタッフが汗を拭きながら追いつく。マネージャーは下に残ったらしい。慎之助は何度もスマホを確認していた。
山では、見ている方向がそのまま命に出る。
空を見る者。
足元を見る者。
人を見る者。
画面を見る者。
良平は小屋へ戻った。
風が、また湿った。
6 脱いだ装備
昼を過ぎると、五合目の人波はさらに増えた。
赤詰小屋では、宿泊予定の客が荷物を置き、日帰りの観光客が水を買い、外国人の家族連れがトイレの場所を尋ねた。良平は同じ説明を何度も繰り返した。四葉はその横で、時折手伝いながら取材を続けた。
午後一時前、岸尾からメッセージが入った。
――六合目手前。陽太が疲れてきたので、ここで休憩後、引き返します。上部、雲増えています。
良平は短く返信した。
――正解。ゆっくり戻れ。
その数分後、登山道を下ってきた若い男女が、小屋の前で声を上げた。
「上で、変な撮影してる人がいました」
良平は顔を上げた。
「どの辺だ」
「六合目を少し過ぎたあたりです。男の人が、雨具脱いで、薄いシャツで……『装備を脱いだら富士山はどこまで許してくれるのか』とか言ってました」
四葉が息を呑んだ。
「慎之助……」
「女性の人が怒ってました。危ないからやめろって」
「坪井さんか」
良平は奥の無線機へ向かった。
五合目の管理関係者に連絡を入れ、状況を伝える。上部の係員からも、目撃情報が入っていた。慎之助は、ゲート通過時には装備を持っていたが、途中で脱ぎ、スタッフに荷物を持たせて撮影しているらしい。水希がそれを止めようとして、口論になっている。
良平は唇を噛んだ。
四葉が言った。
「止めに行くべきです」
「今行っても追いつく頃には場所が変わる」
「でも」
「連絡は回した。上で声をかけてもらう」
「それで聞く人間ですか」
良平は答えなかった。
山では、判断が遅いと死ぬ。
だが、早すぎる判断も別の危険を連れてくる。
今すぐ小屋を空けるべきか。
他の客を守るべきか。
上の係員に任せるべきか。
自分が動くべきか。
誰も正解を札に書いて渡してはくれない。
窓の外で、ムラサキツメクサが風に揺れていた。先ほどまで陽に照らされていた花が、今は影の中にある。
「川村さん」
四葉の声が硬くなった。
「空が」
良平は外へ出た。
山頂方面の雲が、白から鉛色へ変わり始めていた。遠くの空が鈍く光る。雷鳴はまだ聞こえない。だが、風が下から吹き上げるように変わっている。
岸尾から次のメッセージが来た。
――下山開始。風が冷えました。慎之助さんらしき撮影者と坪井さん、こちらより上へ移動。口論継続。声かけしましたが、慎之助さんは撮影継続。坪井さんは追っています。
良平はすぐに返信した。
――陽太くん連れて下りろ。絶対に追うな。
返事はすぐ来た。
――了解。
良平は奥へ入り、レスキューザックを引き出した。
中身を確認する。
エマージェンシーシート。
予備の手袋。
止血用パッド。
固定具。
ヘッドライト。
予備電池。
ロープ。
小型の保温ボトル。
糖分補給用のジェル。
十年、何度も確認してきた中身だ。どこに何があるか、目を閉じても分かる。
四葉が見ていた。
「行くんですか」
「まだ行かない」
「まだ?」
「嵐の前に小屋を固める。客を入れる。窓を閉める。外のものを飛ばされないようにする。行くなら、そのあとだ」
「上の二人は」
「生きてるうちは、待たせる。小屋の客を危険にしてまで飛び出すのは、救助じゃなくて自己満足だ」
四葉は黙った。
良平は指示を出した。
宿泊客を中へ入れる。
外のベンチを固定する。
看板を倒しておく。
窓の補強板を出す。
ストーブの確認。
湯を沸かす。
毛布を玄関近くへ積む。
作業に追われるうちに、五合目の空気が一段冷えた。
観光客の笑い声が消えた。
代わりに、誰かの「寒い」という声が聞こえた。
良平は、もう一度空を見た。
山は、返事をしない。
7 雷鳴
最初の雷鳴は、遠かった。
それでも、赤詰小屋の中にいた全員が顔を上げた。山で聞く雷は、街の雷とは違う。空のどこかで鳴るのではない。岩の中から響いてくるように聞こえる。
次の雷鳴は、近かった。
窓ガラスが小さく震えた。
宿泊客の一人が、思わず声を漏らした。
「大丈夫なんですか」
四葉が反射的に答えようとして、言葉を詰まらせた。
良平が言った。
「小屋の中にいる限り、落ち着いてください。窓から離れて。濡れた上着は脱いで、体を冷やさないように。トイレに行く時も、一人で外へ出ないでください」
口調は穏やかではなかったが、迷いはなかった。迷いのない声は、人を少しだけ静かにする。
雨が来た。
最初は、大粒の雨が数えるほど。
次に、屋根を叩く音。
その次には、音が一つに繋がった。
外が白く煙る。
五合目の広場を歩いていた観光客が、売店や小屋へ駆け込む。安いビニールカッパが風にめくれ、傘が裏返り、誰かの帽子が転がっていった。雨は縦に降っていなかった。斜めに、時には下から吹き上げるように叩きつけている。
無線が鳴った。
『こちら六合目付近……聞こえますか。下山者から情報。上部で薄着の撮影者と女性が口論。天候急変。視界悪化。落雷注意』
良平は無線を取った。
「赤詰小屋、川村。位置は」
『正確には不明。七合目下か、それより上に動いた可能性あり。撮影者のスタッフが一人、下山中との情報』
「スタッフの状態は」
『混乱。荷物を一部放棄。慎之助という名前を叫んでいたとのこと』
四葉の顔から血の気が引いた。
良平は無線を置き、玄関へ向かった。
「萩原さん」
「はい」
「無線を見てくれ。連絡が来たら、全部メモしろ。時刻、場所、誰が何を言ったか。分からないことは分からないと書け」
「私が?」
「できるだろ」
「できます」
「なら、やれ」
四葉は頷いた。
その時、扉が乱暴に開いた。
岸尾だった。全身ずぶ濡れで、片腕に陽太を抱えるようにしている。陽太の顔は青ざめていたが、泣いてはいなかった。
「戻りました」
「よし。怪我は」
「ありません。少し冷えています」
「奥へ。濡れたものを脱がせろ」
岸尾は頷き、陽太のザックを下ろした。
「パパ、あの人たちは?」
陽太が震える声で聞いた。
「まだ上だ」
「帰れる?」
岸尾はすぐには答えなかった。
良平が代わりに言った。
「帰らせる」
陽太は良平を見た。
「おじさんが?」
「俺だけじゃない」
良平はレスキューザックを背負った。
四葉が立ち上がった。
「待ってください」
「何だ」
「今、行くんですか」
「行く」
「でも、雷が」
「分かってる」
「視界も悪い。落石もある。二次遭難の危険があります」
「分かってる」
「なら、なぜ」
四葉の声が荒くなった。
「あんな人たちのために、どうして命をかけるんですか。慎之助は自分で危険を選んだ。坪井さんも止められたのに追った。自業自得です。放置しろとは言いません。でも、あなたが死ぬ必要はないでしょう」
小屋の中が静かになった。
雨音だけが、屋根を叩いている。
良平は、四葉を見た。
「萩原さん」
「はい」
「俺は、あいつらを許しに行くんじゃない」
四葉は息を止めた。
「死なせないために行く」
「同じことです」
「違う」
良平は手袋をはめた。
「許すかどうかは、生きて帰ってから決める。怒るのも、請求するのも、記事にするのも、生きてからだ。死んだら、全部そこで終わる」
「でも」
「それに」
良平は少しだけ声を低くした。
「山で死なせると、山のせいにされる」
四葉は顔を上げた。
「人間の馬鹿を、山の怖さにして終わらせるな。俺はそれが嫌いだ」
岸尾が奥から戻ってきた。陽太には毛布が巻かれている。
「川村さん」
「息子さんを見てろ」
「はい」
岸尾は頷いた。だが、その目は良平のザックを見ていた。
「六合目までなら、僕も出られます」
「まだ出るな」
「でも」
「父親が先だ」
岸尾は口を閉じた。
良平は言った。
「必要になったら呼ぶ。その時、動けるようにしておけ」
「分かりました」
「陽太くんの前で、かっこつけるなよ」
岸尾は小さく笑った。
「それは難しいですね」
「難しいことほど、慎重にやれ」
良平は玄関の扉へ手をかけた。
その時、無線がひどく乱れた音を立てた。
『……こちら……七合目……下山者より……滑落……撮影者……女性……』
四葉が無線に飛びついた。
「赤詰小屋です。もう一度お願いします。滑落ですか。場所は。負傷者は何名ですか」
返ってきたのは、雨とノイズの混じった声だった。
『……男一名、負傷の可能性。女性一名、同行。詳細不明……スタッフ一名、下山中……かなり混乱……』
良平は目を閉じた。
慎之助。
水希。
馬鹿だ、と心の中で言った。
どうしようもない馬鹿だ。
山を見なかった馬鹿。
人の話を聞かなかった馬鹿。
自分の正しさと数字しか見なかった馬鹿。
それでも、まだ生きているかもしれない。
良平は扉を開けた。
8 境界の外へ
雨は、扉の外で壁になっていた。
顔に当たる水滴が痛い。風は五合目の広場を横切り、雨具のフードをめくろうとする。観光客の声はもう遠い。すぐ近くにいるはずの人間の輪郭も、白い雨に溶けている。
良平は一歩出て、すぐに足元を確かめた。
小屋の脇のムラサキツメクサが、雨に叩かれていた。丸い花は重く垂れ、茎は地面に近いところまで曲がっている。それでも、根元は抜けていない。
良平は、その花を踏まないように半歩だけ避けた。
背後から、四葉の声がした。
「川村さん」
振り返らずに、良平は言った。
「無線を離すな」
「はい」
「岸尾さんが動く時は、記録しろ。誰が、何時に、どこへ向かったか」
「はい」
「客に不安を撒くな。分からないことを断定するな」
「はい」
少し間があった。
「川村さん」
「何だ」
「……帰ってきてください」
良平はようやく振り返った。
四葉の顔には、自己責任論者の硬さはなかった。ただ、一人の人間が、別の人間を見送る顔だった。
「帰るために行くんだ」
良平はそう言い、雨の中へ歩き出した。
五合目のゲートは、さっきまで人間たちが権利や料金や自由を語っていた場所だった。今は、雨に濡れた金属の柵が、ただ冷たく光っているだけだ。係員が良平に気づき、無言で頷いた。
「上、悪いです」
「知ってる」
「気をつけてください」
「気をつけるために、毎日ここにいる」
良平はゲートの向こうへ足を入れた。
そこから先は、さきほどまでと同じ富士山ではなかった。
道は黒く濡れ、火山礫は足元で流れ、雨水が細い川になって下ってくる。視界は数十メートルもない。観光地の音は背中へ消え、代わりに雨と風と、自分の呼吸だけが近くなる。
一歩。
足裏で石を読む。
一歩。
ストックを刺し、体重を預ける。
一歩。
風の向きを見る。
十年前の若者の声が、雨の奥から聞こえた気がした。
――大丈夫です。すぐ戻ります。
良平は歯を食いしばった。
「大丈夫なんて言うな」
声は雨に消えた。
彼は歩き続けた。
山は何も答えない。
富士山は、怒りもしない。
許しもしない。
ただ、そこにある。
その沈黙の中で、人間だけが勝手に理由を持ち込み、勝手に正しさを叫び、勝手に数字を追い、勝手に境界を越える。
だから誰かが、毎朝同じ場所を掃く。
誰かが、同じロープを結び直す。
誰かが、同じ言葉を嫌われながら繰り返す。
良平は、雨に煙る登山道を見上げた。
慎之助の笑い声はもう聞こえない。
水希の横断幕も見えない。
四葉のレコーダーも、岸尾の親子の足音も、すべて背後に置いてきた。
ここから先にあるのは、山と、濡れた石と、まだ助かるかもしれない二つの命だけだった。
良平はフードの縁を押さえ、もう一歩、上へ踏み出した。
雨はさらに強くなった。
第二章 雨は誰も選ばない
1 濡れた石の上
雨は、すぐに良平の輪郭を奪った。
五合目の小屋を出て、まだ十分も経っていない。それなのに、背中にある赤詰小屋の灯りは、もう濁った白い幕の向こうに消えかけていた。風が山肌を斜めに駆け上がり、雨粒を小石のように顔へ叩きつける。雨具のフードを深く被っていても、頬に当たる水は冷たく、耳の奥まで音が入り込んでくる。
良平は急がなかった。
急げば、滑る。
滑れば、止まらない。
富士山の石は、乾いている時には軽い音を立てて靴底を受ける。だが雨を含むと、途端に性質を変える。足を置いた瞬間、踏み固められたと思っていた砂礫が下へ逃げる。石が回る。泥が靴底の溝を埋める。
一歩ごとに、良平は靴の角度を変えた。
踵から入らない。
つま先だけに乗らない。
足裏全体で、石の面を探る。
ストックを突く。
体重を乗せる。
半歩進む。
風を見る。
雨を見る。
次の石を見る。
派手なことは何もない。
ただ、落ちないための作業が続いていく。
登山道はすでに細い川のようだった。流れてくる水の中に、火山礫が混じっている。足元を横切る小さな流れが、数分後には膝を取るほどの筋になることもある。山では、変化は突然やってくるのではない。小さな変化に気づかなかった者にだけ、突然に見える。
良平はそれを知っていた。
知っているから、毎朝、石を拾う。
知っているから、緩んだロープを見る。
知っているから、同じ注意を繰り返す。
誰も見ていない場所で、同じことをする。
それが山に対する唯一の礼儀だった。
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