【連載1/5】エストリルの庭師は二度、土を掘る 第1話|沈黙の戒律
ポルトガル、エストリル。かつてスパイたちが暗躍したこの海辺の街には、今も語られない「沈黙」が眠っている。 海沿いの古いヴィラを守る庭師の男。彼は父の教えに従い、持ち主に会わず、家に入らず、何も見ないふりをして生きてきた。 だが、バラの根元の土が妙に重い日――その沈黙は破られることになる。
【読書用BGM】 物語の世界観に合わせ、ポルトガルの哀愁(サウダージ)を帯びたギターの旋律を生成しました。 エストリルの湿った潮風と、不穏な空気を感じながらお読みください。
エストリルの庭師は二度、土を掘る
第1話|沈黙の戒律
海は、共犯者の顔をしている。
潮の匂いは日によって違うのに、大西洋はこの町の前では変わらないふりをする。波は堤防に白い泡を置き、何事もなかったように引いていく。規則正しい往復だ。規則は人間を落ち着かせる。だから人は規則を作り、規則に守られていると思い込み、いつの間にか規則に縛られる。
朝のエストリル旧市街は湿っている。石畳の目地に霧が残り、白壁は塩で粉を吹き、青い鎧戸は風に削られて淡い。 かつて戦争の時代、この海辺は中立国の縁(ふち)だった。追われた人間、国を失った王族、二つの顔を持つスパイたちが、何事もなかった顔でカジノの椅子に座り、カードを切り、煙草を吸った。 彼らは知っていたのだ。波の音がかき消してくれるなら、そこで交わされる殺意もまた、なかったことになるのだと。
その沈黙の延長線上に、海沿いの古いヴィラがある。 僕の職場だ。
「おはよう、庭師さん。今日もバラの機嫌は悪そう?」
声の主は家政婦のローザだ。小柄なポルトガル人の女で、年齢は五十を過ぎているが、足音だけは少女のように軽い。 僕は剪定鋏(せんていばさみ)の手入れを止めずに答える。
「悪くないさ。ただ、少し栄養が行き過ぎてる」
「あら、いいことじゃない。肥料を変えたの?」
「……いや。何も変えてない」
僕は嘘をついた。庭師は土の重さで嘘を嗅ぐが、時には土のために嘘をつく。 バラの葉の色が濃すぎる。緑というより、黒に近い深緑。茎は太く、棘は鋭利に尖っている。まるで何かの滋養を、根の先から貪るように吸い上げている姿だ。
僕の仕事はこの庭を「維持」することだ。 芝を均し、枝を切り、花を咲かせ、枯れ葉を集める。所有者――僕らが「ご主人」と呼ぶ男――は、年に一度か二度しか現れない。 この家には奇妙なルールがある。
一つ。ご主人の滞在中、使用人は敷地に入ってはならない。 二つ。家の内部、特に地下室に関しては一切の関与を禁ずる。 三つ。現状維持を最優先とする。
マン島の弁護士から届くメールには、いつもその言葉が刻印のように記されている。 『現状維持を最優先。』 変化を嫌うのは、守るべきものがあるからか、あるいは隠すべき傷があるからか。
「ねえ、聞いて。地下の換気扇、また変な音がするの」
ローザが眉をひそめて言った。彼女はこの家の掃除に誇りを持っている。「気づく人がいる家は、まだ死んでない」というのが彼女の口癖だ。
「変な音?」
「ええ。重たいの。何か、錆びた鉄を引きずるような……。ご主人が来る前に直しておいた方がいいかしら」
「よせ」僕は短く言った。「契約書を忘れたか。地下には触れるな」
「でも、ご主人は綺麗好きなのよ。埃一つだって許さないわ」
ローザは不満げに肩をすくめ、屋敷の中へと消えていった。 彼女は知らない。この家の「綺麗好き」が、単なる清潔癖ではないことを。汚れを拭き取るのではなく、汚れそのものを「なかったこと」にする種類の執着であることを。
僕はバラの根元にしゃがみ込んだ。 「イングリッシュ・ガーデン」の区画。特に真紅の花をつける一角だ。 やはり土がおかしい。踏んだ時の反発が柔らかすぎる。空気が混ざっているのではない。土の粒子そのものが、何か別の有機物と混ざり合って粘り気を帯びている。
僕は移植ごてを握り、慎重に土を掘り返した。 表土から十センチ。黒土の中に、異質な白さが混じっていた。 小石ではない。貝殻でもない。 指先でつまみ上げ、陽の光にかざす。
奥歯だ。
人間の、大人の奥歯。詰め物をした跡がある。まだ新しい。土に分解されきっていないということは、埋められてから一年も経っていない。 背筋に冷たいものが走る。海風のせいではない。 この庭のバラが赤い理由。それが「品種」のせいだけではないことを、この歯が雄弁に語っていた。
僕はその歯をポケットに入れた。警察には行かない。行ってどうする? 「庭から歯が出ました」と言えば、翌日には僕が庭の一部になるだけだ。 父は言っていた。「黙って生きろ。それがこの庭で生き残る条件だ」と。 父もまた、この庭の庭師だった。そして、今の僕と同じように、何かを掘り当て、黙り込み、そして死んでいった。
その日の午後、マン島の弁護士からメールが届いた。
『本日深夜、オーナー到着。滞在期間は三日間。 庭師及び家政婦は、直ちに敷地外へ退去すること。 追伸:現状維持を最優先とされたし。』
文面はいつも通りだ。だが、今回は違和感があった。「直ちに」という言葉の強さ。そして、予定よりも早すぎる到着。 僕は道具を片付け、門を出た。 ローザはまだ家の中にいた。「最後にもう一度だけ、玄関ホールを磨いておくわ」と言って聞かなかった。
「ローザ、早く戻るんだ」
電話をかけたが、彼女は出ない。掃除に没頭すると着信音など耳に入らない女だ。 日は落ちていた。 エストリルの街に夜霧が満ち始める。カジノのネオンが遠くで滲み、亡霊の灯火のように揺れている。
僕は帰らなかった。 父の言いつけを破り、僕はヴィラの裏手の崖――松林の陰に身を潜めた。ここなら、屋敷の入り口が見える。 なぜそんなことをしたのか。 ポケットの中の「歯」が、熱を帯びている気がしたからだ。この歯の持ち主は、どうやって庭に来て、どうやって土に還ったのか。
午後九時。 静寂を切り裂いて、車のヘッドライトが霧を貫いた。 一台ではない。三台。 すべて黒塗りの大型セダンだ。エンジンの音すら殺してあるかのように、滑るようにして門を抜け、車寄せに止まる。
降りてきたのは、仕立ての良いスーツを着た男たちだ。 中央の車から、一人の初老の男が降りる。白髪。背筋が伸びている。彼が「ご主人」だ。遠目にも、その冷徹な輪郭が見て取れる。 彼は海を見ない。庭も見ない。ただ懐中時計を確認し、指先で小さく合図を送った。
部下たちが、後続の車のトランクを開ける。 そこから引きずり出されたものを見て、僕は息を止めた。
細長い、黒い袋。 絨毯ではない。ゴルフバッグでもない。 中身が詰まっている。重く、ぐにゃりと折れ曲がる、人間サイズの袋。 男たちはそれを二人掛かりで抱え上げ、まるで汚れた洗濯物でも扱うかのように、屋敷の裏口へと運んでいく。
その裏口は、地下室へと続いている。 ローザが「変な音がする」と言っていた、あの地下室へ。
袋の大きさは、大人の男ひとり分に見えた。 だが、僕の目は見逃さなかった。 袋の底が、わずかに濡れていることを。そして、それが地面に擦れたとき、黒い雫が点々と石畳に残ったことを。
ご主人は、その雫をハンカチで拭う真似すらせず、屋敷の中へと消えた。 ドアが閉まる重たい音が、夜の空気を震わせた。
僕は松林の陰で、震える指で煙草を取り出し、そしてやめた。火を見られれば終わりだ。 現状維持。 弁護士の言葉が、呪いのように脳内で再生される。
彼らが維持しようとしているのは、庭の美しさではない。 この庭の下にある「空き」だ。 死体を飲み込み、バラに変えるための、空白だ。
その時だった。 屋敷の二階、家政婦が掃除をしていたはずの部屋の窓で、カーテンが激しく揺れた。 そして、すぐに閉ざされた。 ローザ。 彼女はまだ、中にいる。
(第2話へ続く)
【次回予告】第2話|血を吸うバラ
深夜のヴィラに飲み込まれたローザ。翌朝、門の前に残されていたのは、彼女の空のバケツだけだった。主人公は、父の遺した古い園芸日誌の中に、ナチスの時代から続く「埋葬地図」を発見する。バラの棘が守っているのは、過去の亡霊か、それとも現代の生贄か。
執筆の裏側やエストリルの写真はNOMAD weeklyでも公開しています。
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