【エッセイ】タキシードの結び目と、とびきり上質な「下心」
映画『007』に憧れてタキシードに袖を通すものの、蝶ネクタイひとつ満足に結べない。そんな男たちが、パートナーである女性の「手すり」になることに喜びを見出す瞬間のお話。パーティの夜、不器用な男たちが抱く「上質な下心」について綴りました。
タキシードの結び目と、とびきり上質な「下心」
いきなりですが、パーティの招待状に「ブラックタイ(正装)」という文字を見つけたとき、男たちが何を考えているかご存知でしょうか?
海外で仕事をしていると、普段はブルーカラーとして働く僕の元にも、時折そんな不釣り合いな招待状が舞い込むことがあるのです。
ジェームズ・ボンドのような、危険で色気のある夜を想像している? いいえ、違います。
答えはもっと情けなくて、必死なものです。 「やばい、またYouTubeを見なきゃ」 これです。
鏡の前のジェームズ・ボンド
映画『007 カジノ・ロワイヤル』を見て育った世代の男には、妙なこだわりがあります。 「蝶ネクタイは、自分で結んでこそ美学だ」と。
最初から形ができているクリップ式のネクタイなんて、負けだと思っているのです。 夜の終わりに、そのタイをほどいて首にダラリとかけて帰る。その姿こそが男のロマンだ、と信じ込んでいる。
でも、現実は甘くありません。
鏡の前に立つ。スマホで動画を開く。 画面の中のモデルと同じように、必死に指を動かす。
……できない。 歪む。なぜか縦になる。 何度やっても、結び目がぐちゃっとした「残念な何か」にしかならない。
ほどく。結ぶ。また、ほどく。 鏡の前で、小さな敗北を積み重ねる時間。
ねえ、笑わないで聞いてくれますか? パーティ会場に現れた男性が、どんなに涼しい顔をしてシャンパングラスを傾けていても、その裏側ではスマホと鏡を往復する、こんな惨めなダンスが繰り広げられているんです。
私は「手すり」になりたい
それでも、同伴の女性がいる夜は救われます。 もし僕のネクタイが少し歪んでいても、隣にドレスアップした女性がいれば、それだけで「絵」になってしまうから不思議です。
ここで、不意に思うことがあります。 女性のピンヒールって、本当に大変そうですよね。
石畳の多いヨーロッパの道なら尚更です。 会場へ向かう道すがら、女性がふっと僕の腕に手を回してくる瞬間がある。
若い頃の僕は、その温もりを「恋の予感?」なんて勘違いして、愚かにも心臓を騒がせていました。 でも、今は分かります。 あれは、安全装置なんです。
僕は今、彼女にとっての「手すり」になっている。 転ばないための、安定した、都合の良い手すり。
そう気づいたとき、僕は少しも嫌な気分にはなりませんでした。 むしろ、**「手すり上等」**と思ったんです。
だって、体重を預けられるくらいには信頼されているわけでしょう? 不安定な足元を支える、頑丈な背景になれるなら、男として悪くない役回りです。
「上質な下心」の正体
海外のパーティ、特にヨーロッパの夜は残酷なほどクールです。 アジア人の僕が一生懸命マナーやプロトコールを守っても、誰も褒めてはくれません。「ありがとう」なんて言葉は野暮ったくて、そこには存在しない。
やって当たり前。エスコートできて当たり前。
そんな冷ややかな空気の中で、ふと鏡越しやショーウィンドウに映る自分たちを見る瞬間があります。
完璧にドレスアップしたパートナー。 その横で、下手くそなりに一生懸命蝶ネクタイを結んで、背筋を伸ばしている自分。
「あれ、俺たち、ちょっとイケてるかも?」
そう思ってしまう。 これ、たぶん**「下心」**なんです。
でも、いかがわしい意味じゃありません。 自分をその場の空気に合わせたい。あなたを一番きれいに見せる背景でありたい。 そしてあわよくば、そんな自分を「いい男」だと思われたい。
相手を立てることで、自分も主役の気分を味わいたい。 そういう、とびきり「上質な下心」です。
ほどけたタイの魔法
結局のところ、僕はジェームズ・ボンドにはなれません。
今日も蝶ネクタイは少し歪んでいるし、立ち振る舞いだってどこかぎこちない。 不器用で、必死で、たぶん、滑稽で。
それでも、ボンドになれないまま、ボンドの真似事をしている夜も悪くないな、と思うようになりました。
美学とは、完璧にできることじゃなくて、何度失敗しても「そうありたい」と願う姿勢のことなのかもしれません。
だから今夜も、僕はため息をつきながらYouTubeを開きます。
夜の終わりに、「お疲れ様」と言いながら、このタイをほどく一瞬のためだけに。 その瞬間だけは、僕も映画の中にいられる気がするのです。
Satoshi

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