【エッセイ】名前を呼ぶたび、夜が静かになる。──僕が旅先で「地名」を愛する理由
知らない街で一番心細いのは、自分がどこにいるか分からない瞬間だ。 でも僕は、その街の名前をひとつ覚えるだけで、不思議と救われる。 これは、地図には載っていない「街と仲良くなる」ための、僕なりの儀式。
名前を呼ぶたび、夜が静かになる。
──僕が旅先で「地名」を愛する理由
旅先で迷子になるのは、道が複雑だからじゃない。 「ここがどこか」を、自分の中で言葉にできないとき、人は急に不安になるのだと思う。
僕は意識しないうちにノマドという生き方を選んで、一年の多くを知らない街で過ごしている。 地図アプリはあるし、言葉だって最低限は通じる。 それでも、ふとした瞬間に心だけが置いていかれるような、頼りない夜がある。
そんなとき、僕がすがるのは意外と原始的なものだ。 その土地の「名前」である。
以前、あるヨーロッパの友人に言われたことがある。 「日本の地名って、すごく綺麗でロマンチックですね」
日本人の僕からすれば、地名なんてただの記号で、ただの住所だ。 最初はピンとこなかったけれど、彼女は漢字をひとつひとつ指さしながらこう言った。
「たとえば、CHIBA(千葉)。千の葉っぱでしょう?」
“千”は、数え切れないほどの豊かさ。 “葉”は、風に揺れて、光を透かす緑。
「フランス語の感覚で言えば、まるで『ミルフィーユ(千枚の葉)』みたい。甘くて、層が重なっていて、美しいわ」
そう笑う彼女を見て、ハッとした。 ただの記号だったはずの「千葉」が、急にやわらかく、色彩を帯びて動き出した気がした。
「AKIHABARA(秋葉原)」だってそうだ。 秋、葉、原。 漢字をほどいて並べるだけで、乾いた風や、足元でカサカサと鳴る落ち葉の気配が立ち上がる。 僕らはそこにネオンや電子音の記憶を重ねてしまうけれど、言葉そのものは、もっと静かで、ずっと古い風景を抱きしめている。
地名は、街が自分を紹介するときの「名刺」なのだと思う。 しかも日本の名刺は、文字ではなく“風景”で自己紹介をしてくる。
だから僕は、初めての土地に立つと考えるようになった。 この街は今、どんな景色として僕に名乗っているんだろう、と。
今、僕が暮らしているのはキルギスのビシュケクだ。 住んでいる通りの名前は、「オロズベコワ通り」という。
最初は、ただのカタカナの羅列にしか見えなかった。 けれど、滞在登録の書類に書き、タクシーで行き先を告げ、デリバリーの配達員に場所を説明するうちに、少しずつその音が身体に馴染んでくる。
オロズベコワ。
そう口に出すと、この街の朝の冷たい空気や、並木の影、遠くに見える天山山脈の稜線までが、セットになって浮かぶようになる。
面白いことに、この「オロズベコワ」は、もともとは「オロズベコフ」という男性の名前だ。 それが「通り(ウーリッツァ)」という女性名詞に繋がるとき、まるで彼女をエスコートするかのように語尾が変化し、やわらかな女性的な響きへと姿を変える。
男性の名前が、街という大きな身体に合わせて、ほんの少し姿を変える。 堅苦しい理屈を抜きにすれば、僕には街がドレスに着替えてくれたように思えた。
その変化が、異国で暮らす僕の緊張した心を、思いがけず撫でてくれる。
海外の地名は、領主の名前だったり、川の向こうだったり、極めて合理的なものが多い。 それはそれで、強くて現実的で美しい。
でも、日本の地名や名前には、「こうあってほしい」という祈りのような願いが、少しだけ多めに縫い込まれている気がする。
人の名前も同じだ。 日本では、名前をつけるとき、意味を考えすぎるほど考える。 漢字、響き、画数、姓との並び。 「どんな意味?」と聞かれれば、一言では終わらない物語が出てくる。
海外のように「流行りの映画の主人公からとったよ」という軽やかさを、少し羨ましいと思うこともあるけれど。 それでも僕は、この日本の「込めすぎる癖」が嫌いじゃない。
不器用で、心配性で、たぶん優しい。
名前は、意味でできているんじゃない。 誰かに呼ばれることで、その人の体温になり、街の景色に溶けていくのだと思う。
どこにいるか分からない心細い夜ほど、僕は静かに街の名前を呼ぶ。 「オロズベコワ」 そう呼ぶだけで、よそよそしかった街が、ふっと僕の味方になってくれる気がするのは……さすがに考えすぎか。
今、世界の富裕層や賢明なノマドたちの間では、不動産を持たず、移動するクルーズ船を「終の住処」や「オフィス」にする選択が広がり始めています。1月27日火曜日掲載のNOMAD weekly No.12 はかつてクルーズ船勤務を経験した私の視点から、この「海上の経済圏」への入り方を徹底解説します。

1月28日水曜日から5日に渡って掲載する短編小説はサスペンス「洋上のモラトリアム」を予定してます。

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現在、キルギス共和国に住んでます。キルギスでは幼稚園が圧倒的に不足しています。いただいたチップは幼稚園の設立の為に使わせていただきます。